「物に魂が宿る」という考え方は、

 

少し不思議に聞こえるかもしれません。


でも案外それは、

 

私たちが物に向けている気持ちを、

 

そう呼んでいるだけなのかもしれない。

たとえば、子どもの頃からそばにあったぬいぐるみや、

 

祖父母から譲り受けた家具。


形としてはただの“物”なのに、

 

なぜか簡単には手放せない。


それは、その物と過ごした時間や、

 

そこにいた人の笑顔や声まで、

 

一緒にしまい込まれている気がするからだと思。

職人さんが丁寧に作った道具や、

 

誰かが長く大切に使っている物にも、

 

不思議と温かさを感じることがあります。

 

きっと、そこには

 

「使い捨てじゃない時間」が染み込んでいるから。


そう思うと、「魂」という言葉も、

 

あながち大げさではないのかも。

もちろん、すべての物が優しい思い出ばかりを

 

抱えているわけではありません。


見るだけで少し胸がざわつく物や、

 

触れたくない過去を思い出させる物もあります。


それもまた、その物が“何かを背負っている”証なのかもしれない。

私たちが物を通して、

 

人や時間とつながっていたいと思う気持ち。


目には見えないけれど、

 

確かにそこにある「小さな温度」のようなもの。


そんな感性を持てるのは、ちょっと得した気分になる、

 

人間らしい特権かもしれません。

ただ、あまりに物を擬人化しすぎて


「魂があるから捨てられない!」と全肯定してしまうと、


家の中が「魂の満員電車」状態になってしまうのが困りものです。

もし夜中に、クローゼットの奥から


「最近、出番が少ないんじゃない?」なんて
 

ボヤき声が聞こえてきたら……。


それは魂が宿りすぎたのかもしれない。

そのときは、泣かないふりをして丁寧にお礼を伝えて、
 

静かに「卒業」させてあげる勇気も、
 

たぶん大人の優しさなのかもしれません。

あなたにも、
 

なぜか手放せない、おしゃべりな「相棒」はいますか。

 

「手放す」という行為は、

 

人生における一つの“デトックス”のようなものかもしれない。
 

私たちはつい、

 

何かを得ることこそが幸せへの近道だと信じて、

 

知識や人脈、ポイント、クーポン、

 

いつか使うかもしれないお得情報まで、

 

両手いっぱいに握りしめてしまいがちです。

でも、パンパンに詰まった冷蔵庫に

 

新しい食材が入らないように、

 

心も「満杯」の状態では、

 

新しいチャンスが入り込む隙間がなくなってしまう気がします。

この法則の面白いところは、

 

「あきらめる」のではなく、

 

「忘れる」という軽やかさにあるところ。
 

必死に「当たれ!」と念じている間は、

 

脳内が期待という重たい家具で埋め尽くされ、

 

運は玄関で靴を脱げずに立ち往生している状態です。
 

ところが、ふと「ま、いいか」とスマホを置き

 

別のことに夢中になった瞬間。


閉めっぱなしだった心の窓が少し開いて、

 

思いがけない出来事が、するりと入り込んでくる。

 

そんなこと、たしかにありますよね。
 

と、ここまで語っておいて、正直に言うと。


実は「無駄な情報は入れない!」と決めたそばから、

 

通販サイトの「あなたへのおすすめ」を眺め、

 

買う予定もない便利グッズのレビューを熟読して、

 

気づけば一時間が経っていました、

 

と、いう事もありました。


情報を手放そうと必死になるあまり、

 

今度は「いかに効率よく手放すか」

 

というノウハウを検索し始める始末。

これでは、部屋の荷物を減らそうとして、

 

新しい収納ボックスを大量に

 

買い込んでいるようなものかもしれません。

結局のところ、人生という部屋を心地よく保つ秘訣は、
 

つい見続けてしまうSNSのノイズも、
 

「いつか役立つはず」と溜め込んだ未読のタブも、


「正しく処理しなきゃ」と力まず、

 

ふっと手の力を抜いてみることなのだと思います。

両手を空けておけば、


レジで小銭がちょうどよく返ってきたり、


期限ギリギリのクーポンを思い出して使えたり、


そんな小さなラッキーを、

 

明日の私が笑顔で受け取れるかもしれません

 

世の中を変えようと一歩踏み出す人は、

 

よく「あら探し」という名の洗礼を受けるのをみます。

 

叩く側の人たちが抱えているのは、

 

きっと「今の生活や自分自身が脅かされるかもしれない」という、

 

震えるほどピュアな恐怖心があるのだと思います。

 

変化という正体不明のモンスターから身を守るために、

 

必死に相手の「靴下の穴」を見つけては

 

「ほら見ろ、あいつはダメだ!」と安心を得る。

 

これも人間らしい防衛本能なのかもしれません。

 

一方で、変えようとする人だって、

 

決してサイボーグではないはず。

 

心の中ではガタガタ震えながら、

 

通帳の残高と睨めっこしたり、

 

孤独に枕を濡らしたりしているかもしれません。

 

それでも進めるのは、恐怖がないからではなく、

 

その恐怖を「抱っこ」したまま

 

歩く覚悟を決めたからなのでしょう。

 

ここで一つ、自戒を込めておきます。

 

私自身、新しい挑戦を前にすると

 

「今日は仏滅だから」とか

 

「お腹の調子が微妙だから」と、

 

もっともらしい理由を見つけては、

 

こたつの引力に負け続けてきた過去があります。

 

結局、私たちはみんな「怖がり」

 

という同じ船に乗っている乗組員かもしれません。
 

それでも、ときどき誰かの小さな一歩が、

 

船の進む向きをほんの数ミリだけ変えてくれる気もします。

 

誰かの勇気をあら探しで消すよりも、

 

「あ、あの人も震えながら歩いてるな」と

 

眺めるくらいの心の余裕を持ちたいものです。

 

まあ、そんなことを偉そうに語っている私の最大の恐怖は、

 

今のこの投稿が誰にも読まれず、

 

静かにインターネットの深海に

 

沈んでいくことなんですけどね。笑

 




 

 

願いは、強く思えば叶うという人と、

 

忘れた頃に叶うという人がいる。
 

でも人間はだいたい、

 

叶った話だけを厳選して語る生き物のようだ。

 

叶わなかった願いは脳内のゴミ箱へ直行し、

 

たまたま当たった一件だけを「伏線回収」と呼び直す。

 

棚から落ちたぼた餅も、

 

「運命」と命名した瞬間に急に文学になる。

「願いはポケットに入れておくくらいがいい」なんて言うけれど、

 

そのポケット、たいてい洗濯機に放り込まれる。

 

気づけば文字はにじみ、

 

「たぶんこんなこと書いてあった気がする」という勘だけで

 

人生を操作する羽目になる。
 

よく考えるとこれ、精密機械を勘でいじるホラーだ。

 

本当は「平穏」と書いてあったのに、

 

「波乱」と読み間違えて自ら荒波に突っ込んでいる可能性だってありうる。

もっとも、この洗濯機フィルターこそが最強説もある。
 

生々しすぎる願いはそのままだと重すぎて扱えない。
 

一度ふやかして、にじませて、

 

「だいたいこんな感じ」にしてからでないと、

 

人生というシステムは受け取ってくれないのかもしれない。
 

私たちは無意識に、願いを洗濯し続けているのだ。

ちなみに「早寝早起き」は、願いというよりログインボーナス。
 

できた日は「10ポイント獲得」、

 

できなかった日は「本日は未ログイン」。
 

いや、昼に起きた日は「メンテナンス延長」と考えるのが妥当かもしれない。
 

「ユーザーの体調調整のため、ログイン時刻を12時に変更しました」
 

完全に自己申告制だが。

その通知はきっと神様の受信トレイに届いているはずだが、
 

「この人、基本操作まだ覚えてないよ」
 

という報告は、たぶん未読スルーされている。
 

でもそれは見捨てられているのではなく、
 

「いいよいいよ、そのままでも進むから」という究極の放置プレイ。
 

神様は課金も徳も求めない、超ホワイト運営なのかもしれない。

結局、「壮大な夢」よりも、
 

スヌーズを押すか起きるかという0と1の攻防こそが人生の本編だ。
 

もっとも「あと5分……」という人間的な揺らぎは、
 

神様のシステム上では
 

「エラー:不明な数値」として処理されている気もするが。

そう考えると、私は今日も立派にログインしている。
 

チュートリアルを何年やっているかはさておき、
 

もしかするとこの基本操作こそが最高難易度のエンドコンテンツで、
 

私たちは知らぬ間に、
 

めちゃくちゃ難しいゲームをプレイしているのかもしれない。

どうやらこの人生、思ったより長編らしい。

 

「お金では買えないものもある」という言葉は、

 

たしかに正しいと思う。

 

友情とか、信頼とか、思い出とか。

 

クレジットカードで一括払いできたら、

 

逆にちょっと引く。

 

でもこの言葉を口にできるのは、

 

だいたいの物はもう買えている余裕ある人たちなのかもしれない。

 

家賃の支払い期限が迫っているときに

 

「心の豊かさが大事」と言われても、

 

とりあえず振込先を教えてほしい。

深夜、私の考え事を中断させるコンビニのあんまんも、

 

結局はお金がないと買えない。

 

しかも2026年現在、あの「100円ちょっと」の気軽さは、

 

もう記憶の彼方だ。「数百円」という現実は、

 

手軽な幸せですら、じわじわ重みを増している証拠かもしれない。

さらに言えば、友情も思い出も実は月額課金制だ。

 

飲み代、交通費、スマホのストレージ代。

 

思い出は金で買えないが、

 

保存場所の使用料を払わないと過去が消える。

 

もはや記憶ですらクラウド管理。

 

ロマンより容量が優先される時代である。

とはいえ、私もいつか余裕ができたら、

 

この言葉をうっかり語り出す気がしている。

 

その頃の私は悟ったのではなく、

 

支払いに追われていた頃の胃痛をきれいに

 

忘れているだけかもしれない。

 

人間は、都合の悪い記憶から順に上書き保存する生き物だ。

ちなみに、タイパ全盛の世の中で、

 

わざわざ深夜にあんまんを買いに行く時間は、

 

実は金で買えない贅沢なのかもしれない。

 

効率を捨てて湯気に負けに行く行為そのものが、

 

すでに余裕の証拠だ。

深夜のレジ前で、

 

人類の哲学はだいたい湯気に負ける。