紫陽花や壁のくづれをしぶく雨 同子規


一昨日から昨日の朝にかけ久しぶりに梅雨を思わせる雨が降った。


体調がすぐれれば近場の奈良か京に紫陽花を観に行きたいと思っていたのだが結局叶わず気が付けば週と一緒に雨も明けていた。


富士山を登るにあたり普通の人達は静岡側から上がって山頂を目指す。


たまに山梨側から登ろうとする天邪鬼な人間もいる。

本来は私自身も天邪鬼であるから山梨側からのクチであろうと思うのだが…


私は幼少時より常に数字、高さだけを求める父親に反発し早くに家を出た。


周囲に言わせれば「自分から買った苦労じゃないか」と言われて返す言葉はないのだが私にはこのまま家に在すれば心や精神が破壊されてしまうと思えるほどの危機感があった。


もっとも不惑も越えた頃からたまに、あのまま家に居て父親の言う通り望むままに勉強に励み望んでいた道を歩んでいたらば後の私の人生はどうなっていたであろうかと思い考えることが少なからずあった。


勿論、男として「たら」「れば」は使ってはならぬ、言ってはならぬ言葉とは分かりつつ人生の妙として考えるだけなのだが…


謹厳実直をもう一つ厳しくした家庭で仮に精神が保ったらばそれなりの人生は開けていたのだろうか。


梅雨の雨のように果てしなく続く父親の叱責の中にまともな自我ができたであろうか。


優秀な姉や弟と常に比較され萎縮してまともな社会人になれなかったように思う。


鳥栖の叔父の元に佐賀大学にでも進んでいたら私は政治の世界へ進んだであろうか。


母は私に決して高さを求めなかった。


私も曲がりなりにも社会人になってから母は何かの折、「私も小学生の時から電車に乗って教育大附属まで通い帰宅すれば母の横に兄と並んで座らされ勉強させられるのが嫌で仕方なかったのですよ」と


母は私が物心付いた頃には毎日のように本ばかり読んでいたので勉強家でやはり教育者の血筋だと思ってはいたが成績にそう拘らなかったのは自身の経験からだったのだろう。


生涯に渡り母が敬慕した東京の叔父-私にとっては大叔父にあたり私が生を受けた頃はもう亡くなっていたが、母はその東京の叔父が好きでならなかったのだろう。

私が物心ついた頃からその東京の叔父の話はよく聞かされた。


その叔父は別に旧帝大を出たわけでもなく東京外大を出て貿易会社を興したのだが母はその叔父を慕い過ぎて私にまで外大を勧めた。

父親のように不可能なことを言っているのではないが勉強嫌いで成績の決して良くない私にとってはやはり容易ではなかったろう。


ただ母は高さは求めなかったが男としての在り方にはうるさかった。


決して怒るではないが幼少時から何かにつけ言い聞かされ知らず知らずに身体に擦り込まれたのは間違いない。

立ち居振舞いから所作に至るまで歴史上の人物や母の周囲の人達を上げながら私に諭した。


私の母方の里は九州である。

母によれば佐賀か門司の下級武士であったらしいが定かではない。


ただ明治生まれの祖父母がともに教育者であったことを考えると当時にしては最低限の教育は受けていたのだろう。


祖父母も非常に厳しい人ではあったらしいが母同様に高さだけを求める人ではなかったみたいである。

そのような母に比べ父は高さだけを求める或る意味で節操のない人であった。

この父は現在も生きており昨年初めて見舞い四十年ぶりに会話らしい会話をしたが過去の事は忘れているのか、その後、たまに私が見舞っても好々爺になっているが…


私の学生時代、若かった頃、その後も成績と学歴だけで人を判断する人であった。


そんな父を母は「学歴や家柄しか人様に誇ることが出来ないお父さんのような人間になっちゃ駄目ですよ」と嘲笑まじりに語っていた。

父方の叔母も同様で私がグレ出した中学生の頃から私の事はさも蛇蝎のように嫌っていた。

私の朝日新聞嫌いはその叔母が朝日新聞に長く勤めていたことが遠因になっているのかも知れない。

この年になってみて私はやはり母の子だったんだと改めて誇りに思う。

五十有余年の人生で高さだけの人間が錯覚して真っ坂さまに転げ落ちたのを多く見てきたからで

負け惜しみでもなく高さだけを誇る幅や奥行きのない人間を嫌悪してしまう。



だいたい世間見てみたらいい。


高さだけの主たる人種である役人にしても医者にしても現代の政治家にしても弱いものには、これ以上になく強く、強いものには媚びへつらう、そういう輩に品性や品格を求めるのは無理なことだが同じ日本人として寂しくなる。


家を出て不良として放浪した私には当然ながら何をも持たなかった。


地位も名誉も財産も何の背景も人脈もなく今ある道を行くのではなく、草木を分けながら自身で作りながら道を行かねばならなかった。


富士山の山頂を目指すも静岡側の登山道も山梨側の登山道からも登る何をも持たず自身で獣道という道なき道を歩まねばならなかたが、幸いにして私はそれを不幸とは思わなかった。


餌を三度与えられ朝夕に散歩に連れられる飼犬よりも野生の犬で生きてきた。


決して平坦ではなかった。
いや無茶苦茶な道ではあったが悔いはない。


親に与えられたレールを走っていたら到底会えなかったであろう、近寄りさえ出来なかった人達の知遇を得て引き立てて貰った人生は幸せだったのかも知れぬ。
運命はあめつちに与えられたもので宿命は「さだめ」と私は読み捉えている。



人生を半世紀以上も生きていると色々なものや事が観えてくる。


特に私のように激しく荒い世界を泳いできた人間には運不運、偶然必然、それに運命宿命などが様々な方向形から観えてくる。


私は若い学生時代に母に勧められて先日、亡くなった渡辺淳一さんの「光と影」という初期に書かれた本に少なからず影響を受けた。


その後、二十代半ばを越えた頃、痛ましい日航の墜落事故が起こった。

私はニュートンのようにリンゴが木から落ちて首を傾げるような天才では勿論ないが少し首を捻る事があると或る程度まで追及し調べる習性が物心ついた時からあったように母から聞いたことがある。


愛する家族の待つ大阪へ一日でも早く帰りたくウェイティングでチケットを手に入れ事故に遭った方、浮気の相手に引きづられ搭乗時間に間に合わず事故に巻き込まれなかった人…


いったい彼らに何の違いがあったんだろう。


運、不運と言ってしまえばそれまでなのだが不良という、その運不運が際立って現れ影響を受ける世界に長く身をおけば単にそれだけでは理解する事が出来なくなってしまう。


博打の勝敗は勿論、喧嘩から生死に渡るまで不良の世界には特に顕著に現れる。

博打で朝まで勝ち続ける日もありゃ、借金に借金を重ね張り続けても一向に目の出ない時もある。


仲の良かった人間と何かのはずみで向き合うこととなり徹底的に争わなければならないこともある。



極端なところでは出会い頭の喧嘩でよろめいた時、石にけつまづいて転け打ち所悪く生命を失った人間も少なからずいる。

逆に待ち構えて道具まで用意して、これでもかという迄やっても一月もすりゃ平気の平座でいる野郎もいる。


かくいう私も不良人生の中で二、三度はギリギリのピンチがあった。


その時に悪魔が微笑んでいたら今こうしてブログに書き込むことすら出来ない。


偶然か必然か私は生かされて今を生きている。


二十歳前後、地元隣街の長居の駅前喫茶店 水車で後輩の喧嘩の仲裁に入り席に座る間もなく突然、あいくちで左胸を刺され慌ててトイレに駆け込み上着を脱ぎワイシャツ、シャツを脱いだら前の鏡にまで噴水のごとく血が噴き出た時、初めて死を意識した。


今思い返すと昨日のようだが後始末も厄介だった。


不良同士の喧嘩で後に見舞金を取ることや、諸事で優位に立つためには病院へ行けない。


まだまだ学生不良だったから闇で診てくれる病院や医者も知らなかった。



当時、私の交際していた女性の従姉がちょうど病院の看護婦だったから連絡して飛んで来て貰った。



心臓に至っているかどうかは判らなくとも出血は止めなければならない。


たぶん止血剤だったと思うが縫うこともせず5センチ程の傷の上に山のように塗り込んだ。


それで何とか最終的に血は止まったのだが通常の手当をしなかった、その胸の傷はシャワーや風呂に入ると血が滲み出て痛んだ。


大袈裟でなく二年三年は梅雨の時期になると痛んだ。

その後、何かの折、尋ねられるとキスマークだよ等と嘘ぶいていたがまともに縫合もせず治した傷は醜い傷痕を残した。


その後、ひどい不整脈を患うのはその時の刺され傷が原因ではなかったかとさえ思ってしまう。


その事件の少し前、二十歳前、私は悪友たちと与論島に遊んだ。

七月、まだ学校が休みになる前、少し空いている時期、悪友のKとK、それにKの地元の先輩Mの四人で南港からの船の旅だった。


私達の旅の目的は勿論、女であったが…


与論島に着いても若い私達は意気軒昂だった。

おまけに私達には当時、もう知遇を得ていたSはじめNもFもいたから余計に恐いもの知らずだった。


与論島は出逢いの島で関東の新島に並ぶナンパの場でそれを求めて全国から若い男女が集まった。


期待通り、私達は数日間は出逢いがあり楽しい日々を過ごした。


馬鹿な世間知らずの私はこの世の天国とさえ思った。

砂浜でも夜のディスコでも目が合えば、そのまま一緒に一晩を過ごす。


相手の女連中もそれが目的だけに簡易カップルがアチコチで出来上がる。


好事魔多し…


滞在も後半に入ると与論島と勝手も分かってくる。


昼は百合ヶ浜で泳ぎ一度、宿に帰り食事をとり又、レンタカーで百合ヶ浜のディスコへ行った。


勿論、出逢いを求めてだ。

私達四人はディスコの真ん中で派手に踊り振る舞った。


と私は隣で踊る真っ黒に日焼けした土人のようなアロハ野郎と肩がぶつかった。

睨み付けただけで終わったが又、今度は激しくぶつかった。


舌打ちして席に戻った私はKにこぼした。

短気なKは私を「そんな野郎やっちゃえ」とけしかけた。


酔っていた事もあるが私はアロハ野郎の横に行き耳元で言った。

「兄さん、ちょっと顔貸してくるるかい」


勿論、不良の喧嘩売りである。

そう言うと私は表に向かって歩きだした。


途端に後ろに何かが見えたと思った瞬間、目の前に星がとんだ。


アロハ野郎の連れが後ろからビール瓶で私の頭を思い切りに叩き割ったのだ。


バカーンと鈍い音がすると星が消えた後、真っ赤な血が噴き出した。


不意をつかれ先制攻撃を受けた私はよろめいたが、その私をアロハ野郎の仲間たちが表に引きずり出した。

ディスコの前はすぐに砂浜だが私はアッという間に集まったアロハ野郎の仲間十数人に殴られ蹴られ続けた。


倒れ込んでも容赦なく彼らの暴力は続いた。


そこに悪友のKが止めに入りに来たがアッという間に私同様、袋叩きにあい百合ヶ浜の砂を舐めさせられた。

調子に乗った奴が本気か何か大きい石を抱えてやってきて私達二人の上に振りかざした。


さすがにボス格だったアロハ野郎が止めたが私達に対する暴力は続き終わった頃はボロ雑巾よろしく立ち上がるどころか手足を動かす事も出来なかった。


私とKがやられ続けている間、姿の見えなかったもう一人のKとMがバツ悪そうに現れ私達二人を介抱し車に乗せ宿に戻った。


私とKは高熱を出しズタ袋のようだった。


段々、我に返ってくると身体じゅうが激しく痛む。

この時になると死への危機感からは解放されていたが百合ヶ浜で殴り蹴られて石の塊を持って来られた時はやられたかなと頭に過った。


この時は啖呵も名乗りも出来ない喧嘩を経験し、本島から離れた島独自の怖さを知った。


急遽、沖縄から飛行機で帰ったが身体じゅうがアザで青黒くなったのが戻るまで相当な日数がかかった。


ま、知らぬ所での喧嘩やトラブルは出来るだけ止めた方がいい。


三度目は大組織の跡目争いの時、私は兄貴分Sの関係から当然のようにW派で先に出てきたKもW組長の側近中の側近M商事の理事長をしており組織こそ身は置かないが目立つ存在の私はN、Tの連合の標的にされた恰好だった。


そんな事もツユ知らぬ私は家族と出掛け当時のマンション前で家族を降ろして車を駐車してキーを差し込んだ瞬間、脇腹に違和感を感じた。


見ると三人の男か私を囲み込み一人が私の脇腹に拳銃を突き付けている。

さらに少し離れて四、五人がこちらを見ている。

明らかに相手方の仲間だろう。

私は観念し押し込まれるようにボロのクラウンに乗せられた。


近くの松原インターから高速に乗り生駒の山に連れて行かれた。


車中ではこれ以上にない能書きを聞かされたが私はいたって無反応を装った。


山の中腹の辺りで二台の車は止まり私は自ら降りたった。


相変らず彼奴らの能書きは続いていたが中の数人が私に拳銃を突き付けたまま、掘ってあった穴まで誘導し私を突き落とした。


なるほど、こ奴らは何度となくこの穴を使って誰彼なくクンロクを入れてきたのだろうと…


罵詈雑言をはきながら穴の中の私に土をかぶせていく。

正直、途中、焦りはあったが私の弱い所でもあるが時には強い武器となる生来の開き直りが首を擡げる。


その開き直りのお蔭で早く家を出て絶縁された。

その後も開き直ったために色々あったのだが生来の性格は治らない。

「殺す気か何か知らんが
好きにしたらええがな」と

首だけ地面から出た私の上をもう一台のデカイ四駆が走る。

どうにもならないし死を思った。

私に懐いている長女のA子は悲しむだろうな。

母の顔も浮かんだ。

現実的な近い予定も頭を掠めたがどうしようもない。

何度か頭の上を行ったり来たりした後、又、車から降りて来て
「殺してやろうか?」
「ワレは何様のつもりじゃい…」

その内、一人が私の口に拳銃の銃口を突っ込んだ。


もうなるようにしかならない。

ただ何故か頭の中は至って冷静だった。


「こらK(私の名)、MやK、T関係の人間とも会うなよ。おとなしいしとかんかい。今度こそ殺すぞ」

と捨て台詞を言って最後にもう一度、私の頭の上を車で通り過ぎ行った。


彼奴らの姿が見えなくなって現実に戻り私は声を限りに叫んだ。

まだ寒さの残る季節で穴の中に埋められたまま夜を過ごすほどの根性はない。


頭には帰宅後の長女との約束が浮かび早く愛娘に会いたかった。


彼奴らが帰り道に言ったのか私の叫び声が聞こえたからか阪奈道路からも相当入った空き地に人が来てくれた。


すぐに応援を呼び土を掘り起こしてくれた。


私は連絡先だけを聞くとタクシーの通る阪奈道路の途中までトラックに乗っけて貰い土だらけの服を払い、タクシーで自宅に戻った。

帰る道中、復習心がメラメラと燃え盛って怒りで身体が震えた。

それが私の三度目の死を意識した時であった。

後、前厄の時に買ったばかりのベンツのCLで瓜破のコーナーを140キロで曲がり切れず気が付けば松原の明治橋病院のベッドの中で周りに親友の和男や姉ら近い人間の顔があった。


後で聞くところに拠ると無意識に私は後続の車に助けを求め子達の住む家まで乗せて行って貰ったらしい。

一切の記憶は飛んでないのだが…


しかしその頃の私はまだまだ世の中の観えぬボンクラだった。


周囲の人間に「悪運強いな」などと言われて私自身も単純にそう思っていた。


運、あめつちに生かされている私が「我今何を為すべきか」と自問するようになる迄、それからまだ数年を要した。


生死を彷徨いながら何かに生かされてる。

「お蔭さま」という天の教えを考えもしなかった。


それ故に大きい天罰が下るのだが私のような馬鹿な凡夫には「あめつち」すなわち天の教えなど頭に浮かぶ事もなく、ただただ時を無為に過ごすだけだった。


私のような不良が生かされてる意味、幾度となく生命の危険があったのに度に生かされてきたのは何のためか…


私は元来、神仏を拝んで神仏に頼らずで一つの宗教に固執しない。


家は一応、真宗らしいが早くに追い出された私にはあまり思いはない。

三十も越えた頃、浅くだが大師も最澄も法然も日蓮も読んでみた。


禅も同じく


しかしながら考えてみると、つまるところ、どの宗派宗教も仏陀、お釈迦様なたどり着くではないかと。


世界中の宗教で戦を招いていないのは仏教だけなのだから教えは正しいのだろう。

ただそれと違って西郷の言う天、あめつちとは何か。

大西郷の遺した敬天愛人、これほど簡単にして奥の深い言葉があるだろうか。


これは私心を本当に持たなかった大西郷だから言えたのだろうが、さすがに不惑も少し越えてくると目に見えぬ心の目で観る、科学で決して割り切れぬが必ずあるであろう宇宙の法則、言い換えれば天の法則、あめつちの法則があるように思えてくる。


柳生宗炬は「目にみえるを見、心にみえるを観と言う」の言葉も古人の言う因果応報も「天網恢恢にして齟にして洩らさず」

も全てがあめつちの法則を悟った言の葉のように思える。


やりたい放題したい放題、煩悩の赴くままに生きてきた一不良の為す事は何か。

天命に従うままに
三代目山口組O組大幹部のSは組事に追われながら身体も壊していたので若い私たちを直接、連れて面倒をみてくれたのは当時日本の首領とか言われてた右翼の巨頭笹川良一氏直系のNだった。


兄貴分Sを取り巻く中でこのNは最年少ながら諸事に長けていてSの谷町、スポンサー的な立場であった。

吝嗇家ではあったが若い私には学ばされる事が少なくなかった。


夜に気紛れで大阪を出発、岡山玉野港まで車で走り、そこからフェリーで高松に渡りそのまま金比羅さんに参る事も何回かあった。


私は愚連隊とは云え一応、大学に籍を置いていた二十歳かそこらでNは三十後半だった。


今なら想像を絶するであろうあの金比羅さんの階段を駆け上がったものだ。


さすがにNはゆっくりと後ろを上がっていたが…


長く行っていないが今なら階段を見るだけで目が眩むだろう。


そのNがよく口にしたのが「奉仕の精神」「貯蓄の精神」である。

加えて仕事と金儲けは根本的に違うぞ。
仕事は他人様のために行う無償の行為で金儲けは自分のために金を儲けることと。


その教えだけは若いだけに私の胸に突き刺さり後々、現在の私にも影響を与えている。


バブルの申し子だった私は昭和終わりから始まったバブルに狂奔した後、弾けご多分に洩れず地の底を這っていた。


家族も居れば舎弟や若い衆も居る私は食べさせねばならないという思いだけはしっかりあった。

まして上の愛娘は幼稚園に上がったばかりだった。


綺麗ごとを言っても生きて行かなくてはならない。

私は五代目山口組で一、二の勢いのあったN会の若い衆Tと私自身が過去に填まった博打、本引き賭博を開く事を決心した。


場所は堀内組の近く松原の我堂のマンションの一室にした。


無一文に近かった私は廻銭さえままならず奈良K組の金庫番Mさんからと足らずを同K組のOから借りて開帳した。


胴は回りだが慣れたTに引かせるようにした。


出方も慣れたTの若い衆に頼み私の若い者、佐藤、U、それにNは常駐させたが愚連隊だけにこういう時は何も出来ない。


客は地元松原の商店主に中小企業の社長連中、不動産屋、それに隣の堺からも誰彼が足を運んでくれた。


博打は自分の経験からも廻銭の回し方が勝負だ。


テラ銭は盆が進めば勝手に入ってくる。


廻銭はその人間の甲斐性以上に貸し付けると必ず焦げ付き結果、警察にされたり逃げられたりし、それが摘発の原因となる。


開催の主である私は最初と途中に顔を出すだけである。


ずっと居ては威厳もなくなるし客と親しくなり過ぎ貸し金の回収の時に困るからだ。

それに話は出来ていても万が一の手入れの時に私まで身体を持って行かれる事になるとやくざではなくとも組織としては困るからだ。


ただし近隣のやくざ者が顔を出してくれた時は挨拶の一つもしなければならないし先方が開いた折には義理で顔を出さねばならない。

それに私に付いている若い者たちは私の博打癖の悪さを良く知っていたからだが。

皮肉な事に、その中には負けた金を付けずに逃げていた私を追っていた若い衆の顔もあった。

もっともその頃はそこの親方さえ私に気を遣うようになり立場が逆転し私とまともに話す事も出来なくなっていた。


不良の世界は喧嘩は勿論だがそれが出来るための要素、すなわち若い衆の数と金と縁を持った親なり兄貴が物を言う。

昔から何故、私が正式なヤクザにならないかを良く聞かれるのだが私はそもそもヤクザは好きではなかった。

自由を望んで不良道を歩んできたのに型にはまり事務所当番から四六時中、連絡が取れなければならない。
堅苦しいこの上ない。
これでは会社員の方がマシではないかと思っていた。
それに周囲は一様に信じない、いや信じられないみたいだが実は私の生まれた家、身内はドの付くほど堅い家でありその頃は九州の私を可愛がってくれていた叔父も現役の市長であり私の義兄は大学教授、実の弟も海外の大学で教鞭を取っていた。

祖父母からして教職者で祖父は初めて満洲に渡った日本人教師と聞く。

身内を並べ上げても大会社、大手新聞社、それに教職関係さか居ない。

良く云えば私が一族の悪い血、業を一人で引き受けたんだろう。

家系図に残る我が身内先祖で前科者は一人も居ないらしい。

私は前科三犯、前歴二犯あるが(笑)

それにも何にもまして亡き母の愛があった。

高校三年か出た頃、私がSの今里にあった事務所に入り浸っていた頃、突然、母が一人で現れた事があった。

お嬢さん育ちでヤクザだの不良だの犯罪者は映画の中でしか知らない母が私を案じて事務所まで私を引き取りに来た。

そしてキッパリと私をヤクザにはさせませんとSに言った時、Sも何かを感じ入ってくれたのか個人的な弟としてと特異な待遇となった。

亡くなる少し前、母と二人で食事する機会が多くあったが、その度に「貴男には色々な世界を見せて貰い経験させて貰ったわ」と微笑まれ顔から汗が吹き出た。
そんな経緯があり私はSの死後も親分連中から良い話を頂いたが現在に至るまで組織人にはなったことがない。

勿論、これからもなる事はないだろう。

しかし世間はそんな目では見てくれない。

不良も愚連隊もやくざも一緒くただ。

そんなものと云えばそんな物だが…


早く家を出て母親不幸を繰り返した私にはもう此の世に居ない母に対して出来る孝行はそれぐらいしかないのだから…


母はそう思わせるだけの愛を私にくれた。

デキの悪い異質な不良の私を最後の最期まで公平に愛してくれた。

その母が逝き、その悲しみを紛らすために無軌道に生きた私の人生の「まさか」がやって来る。


男が滅んでいくのは男の焼きもちかこの「まさか」がほとんどである。

男が男として存在するのは本当に難しいものと五十半ばを越え改めて思う。


私は卑しさがあるから事に際して余計に早く決断せねばならない。

損か得かをじっくり考えると私の卑しさが現れて頭の中で戦い出す。

その卑しさを出さぬには直感、直覚で損と感じた方を選ぶようにしている。

信頼出来る人間が一緒に居る時は聞いてみて損を選び取るようにしている。

そうすれば私の心の隅に眠る卑しさが目を醒まさないからだ。


直感、直覚で損を選んだ限りはもう顧みないようにする。

そうでなければ、今度は私の中の「いじましさ」が首を擡げる。


自分の心に得を選んだという思いが残ると後々に苦しくなる。


損を選んでおけばその時はしんどくとも心は爽やかになれる。


自己保身、自身の私を選ぶと必ず後で苦しくなる。


ならば考えずに損を取るようすればどうにか進める。
偉そうに言っている私もまだまだ煩悩も私利私欲もある凡百の身ではあるが。


先般、石原長男が「金目」などと発言し物議を醸し出したが自身で言っていたように品格がないのは無論だが、そのような言葉が出るのは自身の感性や価値観、物差しにそういうものがあるからだろう。


政治家でも財界人でも品も格もない人間も居れば市井に隠れて見事な男伊達もいる。

人は肩書きやレッテルでは決して計れない。

私の同級生の中にも卑しさ、いじましさが滲み出てる人物がいるが、そういう人間、必ず得を選び生きてる人間には五十も過ぎると顔の表情や持つ空気にその卑しさやいじましさが出て周囲を辟易させるものだ。

私は常々、若い連中や後輩に言うのだが全部を損を取れとは言わないが三回、いや五回に一回、損を選び取ると一皮むけて又、男前になるぞと。


人は最期は生まれた時と同様、身体一つで旅立つのだ。

一見、博打と矛盾するよいに思われるが博打を開いたのは私の周囲を食わすためであり、おまけに一般に知られていないが博打のテラは競馬より遥かに低くおまけに弁当から飲物、タバコまで出す。

負けた客にはタクシー代まで出すもので博打の場、鉄火場では金はあくまで道具であり金ではないのだ。


だから賭博から一歩出て現実に戻り首を括る人間などが出るのだが…


いずれにせよ博打でもテラでも家を建てた人間が居ないのだけは確かである。