紫陽花や壁のくづれをしぶく雨 同子規
一昨日から昨日の朝にかけ久しぶりに梅雨を思わせる雨が降った。
体調がすぐれれば近場の奈良か京に紫陽花を観に行きたいと思っていたのだが結局叶わず気が付けば週と一緒に雨も明けていた。
富士山を登るにあたり普通の人達は静岡側から上がって山頂を目指す。
たまに山梨側から登ろうとする天邪鬼な人間もいる。
本来は私自身も天邪鬼であるから山梨側からのクチであろうと思うのだが…
私は幼少時より常に数字、高さだけを求める父親に反発し早くに家を出た。
周囲に言わせれば「自分から買った苦労じゃないか」と言われて返す言葉はないのだが私にはこのまま家に在すれば心や精神が破壊されてしまうと思えるほどの危機感があった。
もっとも不惑も越えた頃からたまに、あのまま家に居て父親の言う通り望むままに勉強に励み望んでいた道を歩んでいたらば後の私の人生はどうなっていたであろうかと思い考えることが少なからずあった。
勿論、男として「たら」「れば」は使ってはならぬ、言ってはならぬ言葉とは分かりつつ人生の妙として考えるだけなのだが…
謹厳実直をもう一つ厳しくした家庭で仮に精神が保ったらばそれなりの人生は開けていたのだろうか。
梅雨の雨のように果てしなく続く父親の叱責の中にまともな自我ができたであろうか。
優秀な姉や弟と常に比較され萎縮してまともな社会人になれなかったように思う。
鳥栖の叔父の元に佐賀大学にでも進んでいたら私は政治の世界へ進んだであろうか。
母は私に決して高さを求めなかった。
私も曲がりなりにも社会人になってから母は何かの折、「私も小学生の時から電車に乗って教育大附属まで通い帰宅すれば母の横に兄と並んで座らされ勉強させられるのが嫌で仕方なかったのですよ」と
母は私が物心付いた頃には毎日のように本ばかり読んでいたので勉強家でやはり教育者の血筋だと思ってはいたが成績にそう拘らなかったのは自身の経験からだったのだろう。
生涯に渡り母が敬慕した東京の叔父-私にとっては大叔父にあたり私が生を受けた頃はもう亡くなっていたが、母はその東京の叔父が好きでならなかったのだろう。
私が物心ついた頃からその東京の叔父の話はよく聞かされた。
その叔父は別に旧帝大を出たわけでもなく東京外大を出て貿易会社を興したのだが母はその叔父を慕い過ぎて私にまで外大を勧めた。
父親のように不可能なことを言っているのではないが勉強嫌いで成績の決して良くない私にとってはやはり容易ではなかったろう。
ただ母は高さは求めなかったが男としての在り方にはうるさかった。
決して怒るではないが幼少時から何かにつけ言い聞かされ知らず知らずに身体に擦り込まれたのは間違いない。
立ち居振舞いから所作に至るまで歴史上の人物や母の周囲の人達を上げながら私に諭した。
私の母方の里は九州である。
母によれば佐賀か門司の下級武士であったらしいが定かではない。
ただ明治生まれの祖父母がともに教育者であったことを考えると当時にしては最低限の教育は受けていたのだろう。
祖父母も非常に厳しい人ではあったらしいが母同様に高さだけを求める人ではなかったみたいである。
そのような母に比べ父は高さだけを求める或る意味で節操のない人であった。
この父は現在も生きており昨年初めて見舞い四十年ぶりに会話らしい会話をしたが過去の事は忘れているのか、その後、たまに私が見舞っても好々爺になっているが…
私の学生時代、若かった頃、その後も成績と学歴だけで人を判断する人であった。
そんな父を母は「学歴や家柄しか人様に誇ることが出来ないお父さんのような人間になっちゃ駄目ですよ」と嘲笑まじりに語っていた。
父方の叔母も同様で私がグレ出した中学生の頃から私の事はさも蛇蝎のように嫌っていた。
私の朝日新聞嫌いはその叔母が朝日新聞に長く勤めていたことが遠因になっているのかも知れない。
この年になってみて私はやはり母の子だったんだと改めて誇りに思う。
五十有余年の人生で高さだけの人間が錯覚して真っ坂さまに転げ落ちたのを多く見てきたからで
負け惜しみでもなく高さだけを誇る幅や奥行きのない人間を嫌悪してしまう。
だいたい世間見てみたらいい。
高さだけの主たる人種である役人にしても医者にしても現代の政治家にしても弱いものには、これ以上になく強く、強いものには媚びへつらう、そういう輩に品性や品格を求めるのは無理なことだが同じ日本人として寂しくなる。
家を出て不良として放浪した私には当然ながら何をも持たなかった。
地位も名誉も財産も何の背景も人脈もなく今ある道を行くのではなく、草木を分けながら自身で作りながら道を行かねばならなかった。
富士山の山頂を目指すも静岡側の登山道も山梨側の登山道からも登る何をも持たず自身で獣道という道なき道を歩まねばならなかたが、幸いにして私はそれを不幸とは思わなかった。
餌を三度与えられ朝夕に散歩に連れられる飼犬よりも野生の犬で生きてきた。
決して平坦ではなかった。
いや無茶苦茶な道ではあったが悔いはない。
親に与えられたレールを走っていたら到底会えなかったであろう、近寄りさえ出来なかった人達の知遇を得て引き立てて貰った人生は幸せだったのかも知れぬ。
一昨日から昨日の朝にかけ久しぶりに梅雨を思わせる雨が降った。
体調がすぐれれば近場の奈良か京に紫陽花を観に行きたいと思っていたのだが結局叶わず気が付けば週と一緒に雨も明けていた。
富士山を登るにあたり普通の人達は静岡側から上がって山頂を目指す。
たまに山梨側から登ろうとする天邪鬼な人間もいる。
本来は私自身も天邪鬼であるから山梨側からのクチであろうと思うのだが…
私は幼少時より常に数字、高さだけを求める父親に反発し早くに家を出た。
周囲に言わせれば「自分から買った苦労じゃないか」と言われて返す言葉はないのだが私にはこのまま家に在すれば心や精神が破壊されてしまうと思えるほどの危機感があった。
もっとも不惑も越えた頃からたまに、あのまま家に居て父親の言う通り望むままに勉強に励み望んでいた道を歩んでいたらば後の私の人生はどうなっていたであろうかと思い考えることが少なからずあった。
勿論、男として「たら」「れば」は使ってはならぬ、言ってはならぬ言葉とは分かりつつ人生の妙として考えるだけなのだが…
謹厳実直をもう一つ厳しくした家庭で仮に精神が保ったらばそれなりの人生は開けていたのだろうか。
梅雨の雨のように果てしなく続く父親の叱責の中にまともな自我ができたであろうか。
優秀な姉や弟と常に比較され萎縮してまともな社会人になれなかったように思う。
鳥栖の叔父の元に佐賀大学にでも進んでいたら私は政治の世界へ進んだであろうか。
母は私に決して高さを求めなかった。
私も曲がりなりにも社会人になってから母は何かの折、「私も小学生の時から電車に乗って教育大附属まで通い帰宅すれば母の横に兄と並んで座らされ勉強させられるのが嫌で仕方なかったのですよ」と
母は私が物心付いた頃には毎日のように本ばかり読んでいたので勉強家でやはり教育者の血筋だと思ってはいたが成績にそう拘らなかったのは自身の経験からだったのだろう。
生涯に渡り母が敬慕した東京の叔父-私にとっては大叔父にあたり私が生を受けた頃はもう亡くなっていたが、母はその東京の叔父が好きでならなかったのだろう。
私が物心ついた頃からその東京の叔父の話はよく聞かされた。
その叔父は別に旧帝大を出たわけでもなく東京外大を出て貿易会社を興したのだが母はその叔父を慕い過ぎて私にまで外大を勧めた。
父親のように不可能なことを言っているのではないが勉強嫌いで成績の決して良くない私にとってはやはり容易ではなかったろう。
ただ母は高さは求めなかったが男としての在り方にはうるさかった。
決して怒るではないが幼少時から何かにつけ言い聞かされ知らず知らずに身体に擦り込まれたのは間違いない。
立ち居振舞いから所作に至るまで歴史上の人物や母の周囲の人達を上げながら私に諭した。
私の母方の里は九州である。
母によれば佐賀か門司の下級武士であったらしいが定かではない。
ただ明治生まれの祖父母がともに教育者であったことを考えると当時にしては最低限の教育は受けていたのだろう。
祖父母も非常に厳しい人ではあったらしいが母同様に高さだけを求める人ではなかったみたいである。
そのような母に比べ父は高さだけを求める或る意味で節操のない人であった。
この父は現在も生きており昨年初めて見舞い四十年ぶりに会話らしい会話をしたが過去の事は忘れているのか、その後、たまに私が見舞っても好々爺になっているが…
私の学生時代、若かった頃、その後も成績と学歴だけで人を判断する人であった。
そんな父を母は「学歴や家柄しか人様に誇ることが出来ないお父さんのような人間になっちゃ駄目ですよ」と嘲笑まじりに語っていた。
父方の叔母も同様で私がグレ出した中学生の頃から私の事はさも蛇蝎のように嫌っていた。
私の朝日新聞嫌いはその叔母が朝日新聞に長く勤めていたことが遠因になっているのかも知れない。
この年になってみて私はやはり母の子だったんだと改めて誇りに思う。
五十有余年の人生で高さだけの人間が錯覚して真っ坂さまに転げ落ちたのを多く見てきたからで
負け惜しみでもなく高さだけを誇る幅や奥行きのない人間を嫌悪してしまう。
だいたい世間見てみたらいい。
高さだけの主たる人種である役人にしても医者にしても現代の政治家にしても弱いものには、これ以上になく強く、強いものには媚びへつらう、そういう輩に品性や品格を求めるのは無理なことだが同じ日本人として寂しくなる。
家を出て不良として放浪した私には当然ながら何をも持たなかった。
地位も名誉も財産も何の背景も人脈もなく今ある道を行くのではなく、草木を分けながら自身で作りながら道を行かねばならなかった。
富士山の山頂を目指すも静岡側の登山道も山梨側の登山道からも登る何をも持たず自身で獣道という道なき道を歩まねばならなかたが、幸いにして私はそれを不幸とは思わなかった。
餌を三度与えられ朝夕に散歩に連れられる飼犬よりも野生の犬で生きてきた。
決して平坦ではなかった。
いや無茶苦茶な道ではあったが悔いはない。
親に与えられたレールを走っていたら到底会えなかったであろう、近寄りさえ出来なかった人達の知遇を得て引き立てて貰った人生は幸せだったのかも知れぬ。