今年の梅雨はどうも梅雨らしくない。


合間の晴れた日が多いからかな…


今年は色々な意味で見れないかなと思っていた蛍をようやく先の日曜日に観れた。

やっぱ梅雨から初夏にかけては蛍は我が日本の国の情緒そのものだからね。

昨年、知り合いに教えて貰った高槻と茨木、京都亀岡の境界部分の山の谷間が大阪でよく観れるように思うので今年も迷い込みながら山道を走りどうにか辿りつき蛍狩りを楽しめた。


団扇は忘れたけど風情があって良かったな…


谷川の木々の中に仄かに青白い光が輝いて、目を凝らしていると今度はせせらぎの音が聞える。

まだ大阪にもこんな自然が残されていたんだ。

来年も是非来ようと思いながら後ろ髪をひかれるように車に乗り込んだ。


その日の夕、毎週、最近は惰性で見ている「そこまで言って委員会」を見てから着替え家を出た。


ひと月近く前から行きたかったのだが体調も冴えず行けず何か心が重かった。


春、親しいヤクザ者と話している中、私の不良の先輩に当たり地元も近く私はともかく離ればなれになった子達が世話になったりしていたHさんが渡世を引退したと聞いた。

半世紀以上、三代目の田岡親分の時代から山広会長ところで居た人で、それ以前は世に悪名を轟かせた明友会に籍を置いていた或る意味で昭和ヤクザの生き字引でもある。


私の生まれ育った矢田の隣町の針中野に住まれていたので顔は見知っていたが話すようになったのは私が裏方の整理をしていた西成の酒井宝時堂だった。


私のこれも大先輩に当たる加茂田軍団2000人を率いた若頭 飯田時雄が酒井に遊びに来ていて飯田と一和会時代に同門であった二人が話していて私も横に居たのが縁だった。

飯田は当時、完全に引退し浪速区大国町で宝産商なる会社をしていたがバブルも弾け決して景気がいい時代ではなかった。

二人は三代目時代の話を懐かしそうに話していた。

先輩同士が話すのを私は隣で聞いているだけだったが一和会の代紋を飯田が考案したなどという事は知らなかった。


Hさんは当時、ミナミで韓国クラブと麻雀屋をしてた。

針中野からミナミへ行く道中にある酒井宝時堂には良く顔を出していた。


私もだが不良は飯が食えなくともお洒落に金をかける。

もっともその頃はHさんも私も金は回っていたので余計に車や時計には凝った。

私もバブル崩壊で地を這った後ようやく復帰しつつある時だったが、ようやく車も新たにベントレーやロールスを手に入れ時計もバセロンから出ていたカーラなるバブル当時、1億していた時計を腕にはめていた。

時計も人生の潮の流れと同じく寂しがり屋で同じ所に寄ってくる。

私は一本目を知遇ある北浜の不動産屋の社長から買い少しすると又、友人のSから話が来て金色と銀色と二本持つに至った。

今思うと夢のようだが…

後にもう一本、1ランク上のパコダカーラなる時計も手に入れるのだが、その頃が私の二度目の人生の絶頂期だったのかも知れない。

毎夜のようにミナミや新地を徘徊し怖いものもなかった。


まさに下り坂の後の上り坂、その後の「まさか」が忍び寄ってるとも知らず、その生活に麻痺していたように思う。


話が長く取り留めもなくなったがH先輩も当時、そのカーラをはめていた。

それも数少ない大阪で五本六本、日本中合わせても十本か二十本と言われた時計だ。


おまけに堅気の弟さんもはめていた。


人は直感と第一印象で好き嫌いが決まる。

最初に印象の悪い野郎はやはり後々も好きになれない。

よほどの事があれば例外はあるが…


私はこのH先輩に好感を持った。

失礼だが見た目はヤクザそのものだが何か私に響くものがあった。


飯田からの縁もあるのだろうが人見知り激しく狷獪な私は先輩でも目上でも何処の親分でも私から話すことは滅多にない。


値打ちをつけてる訳でもないのだが性分なのだろう。

そんな中で何の障害も意識もなく自然に話せたのがこのH先輩であり、又、近くの浪速区に事務所を構え矢田に縁のあったY氏である。

Y氏ともお茶一杯で何時間も話した事が何度もあり相性もあり私には何でも話してくれていたが八年程前に若くして癌に蝕まれ逝ってしまった。


このYさんが健在なら私のこの七、八年の人生も大きく変わっていたかも知れない。

もっとも、それが良かったのか悪かったのかは判らないが…

Yさんは三代目時代、一斉風靡し全国に名を馳せた菅谷親分の最後の若い衆であったことを誇りにしていた。

その後、収まるところへ収まり当時の名古屋 弘道会 舎弟頭補佐の席にあった。

アクもクセもあるが私には本当に良い人だった。

ガラッパチだったが少年のヤンチャなまま成長したヤクザのようで微笑ましかった。


私の矢田の小中の同級で友人である村岡の親父さんと縁があったようで、そこから矢田には知己も多く私と知り合う前からしょっちゅう矢田に入っていたようだ。

心斎橋 日航ホテルの裏に清水湯という銭湯があり、場所柄、刺青をしていても可で今は無くなったが五年ほど前までは地下にマッサージルームがあり腕のいいマッサージ師が多く居て不良やヤクザたけでなくミナミの商店主も良く来ていた。


そこで同じような時間でマキちゃんや南ちゃんを良く取り合ったもので懐かしい。


私の服や身に着ける物に興味を持つので洋服店や時計屋、宝石屋を紹介した。


日本一と評判のバアゼル宝石も紹介したのだが一人で行って相手にされなかったと憤慨していたのも今は懐かしい。


一般の人には分かりにくいが不良やヤクザでもチンピラや中途半端はいざ知らず、或る程度の親分、組長になるような人物はがらっぱちであろうとヤンチャであろうと情も義も心もあるというのが長くその中で生きた私の結論である。


魅力という経済力や暴力より一番大切な力が無い人間に人は集まらない。

逆に言えば世に知れた、又、名の知れた親分や組長には魅力が必ずある。

H先輩も私が好きなヤクザだった。

数年間に脳梗塞で倒れてからは元気はなかったが私も何かとあり少し御無沙汰していた。

久しぶりに見た顔は元気そうで私にはそれが何よりだった。

子供さんももう立派な大人でシャキッとしている。

そんな子供さん達やお孫さん、それに一番ずっと居る姐が横にいる。


これがH先輩の男の花道ではないだろうか。

ヤクザや不良をしていると途中、自分の足元が見えなくなり、家を出て新しい女と一緒になって入れ揚げるのを多く見てきた。

しかしその末路は本当に哀れだ。

骨さえ引き取り拒否をする姐を少なからず見てきた。
それに比べ皆に囲まれる好々爺になったH先輩は素晴らしい老後と思う。

しかし、そのぶん、姐は勿論、子供さんに至るまで愛と心をいっぱい与えた結果なんだと思う。


子供は親の背中だけでなく在り方を良く観ているものだ。

金銭、経済的だけの面倒見、本当の愛情、それに敏感である。


かくいう私には子供誰一人寄り付かない。


私がそういう生き方をして来たのだろう。

考えさせられる事である。

しかし自身で選び生きてきた道、悔いてはならないと自分に言い聞かせている。

蛍火のように儚い人生、何が是で非か正か邪か私ごとき凡百にはとんと分からないのだが何事も誰に対しても愛や心をいっぱい与えれば通ずるという事である。

奥山の
蛍光の
寂しさは
誰に知らせむ
こともなきぞと 東月詠
関東では相変らずの異常な雨が降っているとの報だが私の住む関西は蒸し暑い、それでいて梅雨を感じさせない微妙な天気だ。


朝からサッカーの日本敗北、予選落ちを観てもっともだなと冷静に観つつも、やはりテンションは下がる。

サッカー後進国とはいえ一勝も出来ないのは…


さすがのビッグマウス本田でさえ心なしかテンションが低い。


また四年後だな。


私はすっぽん料理、いやすっぽん自体が好きではないのだが唯一食べれるすっぼん料理が我が母校、立命館からそう遠くない京都千本の大市だ。


ここは私が一時期、顧問を務めたW組長の横に居たM商事のMさんが好みで

しょっちゅうべんトレーやセンチュリーのリムジンを飛ばして通っていた。

勿論、五代目W組長もお気に入りだった。

私は大学時代に近所の植木屋の社長に連れて貰ったのが最初だが、その頃から、いや生まれてからすっぼんはこの大市でしか食べれない。


京都山科には「北村」もあり人気を博しているが私は大市専門だ。


この店はどうも鍋に隠し味というか何かが隠されているとの噂で余所のすっぼんとは根本的に違う。


この京都の千本という所は前回に書いたステーキの「ゆたか」もあり、他にも鰻の老舗などがあり、その昔、花街として栄えた名残りがある。


もっとも今も花街は残っているようだが昔日の賑わいはない。


私はこの京都の千本のもう少し北側、金閣寺の裏、北区衣笠赤坂町の学生専門の泰和荘なる安下宿に住んでいたのだが

何かの折は河原町、木屋町、そして祇園に出るのだが

千本には又違った趣があった。

大学生の私には少し早く理解らなかったが…


その頃は自分の金などほとんどなく大阪から来た後輩や京都の後輩連中を連れ京産近くの一人千円もあれば食べれる焼肉屋や友人が営業していた一乗寺のくれしまなどでツケで飲んだり食べたりしていた。


もっぱら良い所へ行くのは私みたいな不良に目を掛けて下さった年配の社長連中の財布でだった。


祇園や先斗町のお茶屋もその頃はまだまだ活気があり何度か社会勉強として連れて行って貰ったが

おもしろさは理解らず、退屈を持て余す有様だった。

当時は塚本社長のワコールも四条の寺内も元気いっぱいだったが


服部織物の社長などが毎晩のようにお茶屋で豪遊していた。


貧乏不良学生の私などは朝まで遊び三条にあるイノダでモーニングコーヒーを飲んで下宿に帰るのが常だった。

このイノダのカツサンド、ナポリタン、それに私の大好物のフレンチトーストは美味で今でも思い出すと京都へ向かう。


近くには柊屋や俵屋、それに蕎麦で有名な河道屋がある。


学生時代は敷居も高く泊まれなかったがバブルも近づくと柊屋や俵屋に宿をとり京の夜を楽しんだもの。


柊屋も俵屋も京の情緒や情感、詫び寂びはあるのだが京の懐石料理だけはいかんせん上品すぎてまだ若かった私には物足らず、河道屋の芳香炉を食べに出た。


ちょっと食べれる天麩羅屋もあったな…


少し歩いて三条通りまで出ると鋤焼きで有名な三嶋亭がある。

私が学生の頃もたまにしか行けないが行くと必ずと言っていいほど俳優がいたものだった。

兄弟で正反対、酒が飲めず甘い物の大好きな若山富三郎さんが大の常連で


三代目時代の神戸魚崎のSさんが若山さんに物言いをつけるために京都の繁華街を探し回った際に三嶋亭で見つかったのは後に御二人ともから聞いた。


ふたばの豆大福も美味い。

少し前になるが久しぶりに近くを通ったので少しだけ買ってと思って寄ったら大将が覚えていてくれて後ろに並んでいた人たちを打ち切り残っていた分をすべて持ち帰らせてくれた。


やはり出来たてで持ち帰る前すぐに食べるのが一番美味い。


今はもう無くなったが岡崎の蛸安にも東映関係の連中がよく集まって当時の若手と言っても現在なら大御所のピラニア軍団の拓坊さんなんかが演技について喧嘩腰の議論をしていた。


東映がまだ華やかし頃で二条の鴨川沿いのホテル藤田には田村正和さんらが住んでいてマンション住まいの俳優陣も一階奥のステーキハウス鴨川にきていた。


もっともホテル藤田京都は朝粥が有名なのだが…

駐車場にはピカピカに磨き上げられた田村さんのセンチュリーとあちこちが当て傷でボコボコの勝新太郎さんのジャガースポーツが対照的に停められていた。


三代目の田岡組長が正義団の鳴海清に撃たれた三条駅前のベラミが賑わいオールナイトのサウナや喫茶店が並び昭和の匂いがぷんぷんとした。


京都の祇園、木屋町は会津小鉄の図越会長の長男で五代目会長の実兄になる図越組の頭をしていた京田氏が売り出していた。


気がつけば図越会長も京田氏も消えさっていたが…

私の友人で居酒屋くれしまをしていた京都朝高番長だった青山一郎、二郎の双子の舎弟 司君の地獄道なる暴走族のいまで云うケツモチをしていたのが京田氏だった。

私も大阪から兄貴分のSのキャデラックフリートウッドを借りて京都を走り回ったが西大路から入ると小回りが効かずに往生した。


ホテル藤田の近く木屋町にゆかりという古びた情緒あるスナックのママが東京住吉連合会の重鎮、浜本政吉さんで京都のやくざ者たちが機嫌伺いか良く通っていた。


私は立命館の同級生で唯一仲の良かったSが丹波橋に住んでおり、よく自宅にお邪魔したが丹波橋近くに本にもなった輪違屋があった。

此処は祇園の一力茶屋と同じで一見どころか予約も入れておかなければ行けないが私もこの年をして二回しか行ったことがないが可能なら日本人として是非一度行って味わって欲しい空間だ。

祇園一力の華やかさと違った古都京の独特の空気がある。


隣の滋賀にも松木屋や鴨川があるがやはり近江牛の本場だからだろうか。

松木屋のヘレもなかなかだ。

雄琴のちょっとした温泉旅館に泊まり肉料理を注文しておくと近江牛の美味しいのを食べさせてくれる。

バブルの頃、計画され崩壊した頃に完成し出来上がった京近江という琵琶湖グランドホテルの特別別館が私の大先輩の京都のS会長、Mさん、それに大津のTさんの紹介で使い勝手良く、おまけに特別室の中の特別室が使えることもあり元気な頃は良く行った。


部屋も非常にゆったりしていて琵琶湖に面してベランダに露天風呂があり、部屋風呂にはサウナも付いて、十五畳から二十畳の部屋が続いて二間、離れて一間、麻雀用の掘り炬燵の部屋とありトイレも二つ完備しているので一度入室すれば外に出ることもないので楽だ。

食べ物も魚から肉まで本当に美味しい物を出してくれるので元気と金があれば行っていた。

京都湯の花温泉の炭屋亀峰庵も部屋は狭いが私の気に入りだった。


冬の牡丹鍋が匂いなく大市のすっぼんと同じく私は猪はここでしか食べない。

造りも和風で情緒ある。


秋には地元で採れた松茸の松茸づくしが絶品で最近は作らないようだが十年余り前には必ず出ていた松茸のミルフィーユは最高だと私は思っている。


銀座のロオジェも美味とは思うが有名になり特に何年か前にミシュランに取り上げられてから行く気にもならない。


よく予約の取れない店と呼ばれる店があるが私には理解できない。


それなら私はオータニのトゥールダルジャンに行く。
全然異なるフレンチ、味だが値打ちはある。


それが歴史の重みなんだろうと思う。

なだ万は…

ちょっと癖が強く酒が使われすぎで私には合わない。
帝国やオータニもだが亡き母が好きでお供させられたがどうも…


吉兆も世間で言うほどと私は思っていたが案の定…


ただし嵐山吉兆や花吉兆は風情も追加されるのか嫌いではない。

値段の話をすると厭らしいが少し高い気はする。


それに比べて昔、大阪船場にあった錦戸と料亭は値段の割に満足する料理と雰囲気で誰に紹介しても喜んで貰えた。


北浜の花外楼も母に連れられ行ったがホリデーインに出していて入ると同じ店には思えない料理が出てきた。

久兵衞も本店と迎えの支店、それにオークラ、京王プラザ、大阪の帝国で味が全然違っていて私は本店に行く度にこぼすのだが…


東銀座の井雪なんか本当に美味しいと思うのだが…


かわむらも銀座、やっぱ銀座は衣食ともに洗練されている。

三十半ばになり東京に住まいがあるなら週に一度は銀座を散歩して夕食ぐらい食べて欲しい。


何も高級な店ばかりでもない。

B級でもピンがあるのが銀座だ。


河豚も六本木の味満ん、麻布に進出した山田屋、ふぐ武、赤坂のきた福、めうがなんかあるけど…


あれだけの値段出すなら西宮甲子園の丸安もあるしね。

もっとも丸安なんかは昔、ゼネコンの接待でしか行かなかったが天然のあれだけ大きい河豚を出す所はないな。


すっぽんも東京で連れて行かれるのは赤坂の「さくま」で結構、有名らしいが私は会話だけを楽しむ。

合わないんだろうな。

やっぱ食事は自分の口に合うか合わないかなんだと思う。

魯山人先生のような天才的な味覚や舌を持った人ならいざ知らずだが私ごとき凡百の口には3000円と5000円、5000円と10000円…

3万円までの違いはどうにか分かるけど3万円と5万円の違いになると分からない。


七、八年前に東京の麻布か何処かで大田原か何か特別な10万円のステーキを食べさせられたけど私なら神戸の「あらがわ」でコースを食べる。


一人前の代金で2~3人行けるしね。


しゃぶしゃぶは白金の「はと花」なんか有名だけど私は昔ながらの「黒澤」だな。


でも四年ほど行ってないけどやってるのかな。

政治家連中や古い不良は黒澤が好きだった。


「ノブの店」、かの高倉健さんも褒める人物がしてる店でロバートデニーロなんかも客らしいけど、此処も中山和也氏に勧められて行ったけど私にはね…

芸能人だらけなのが余計に鬱陶しかったな。


何しろ、古い店は別にしてバブル以後の東京に雨後の筍宜しく出来た店はどうも成金趣味で金さえ掛ければってのが観えちゃうと味が半減する。


大阪や京都、地方にもっともっと取り上げられない名店があるだろうし東京の一人勝は経済は認めざるを得ないけど食事までは…


だから私は二週間に一回は玉出の象家に豚玉とエビ玉を食べに行く。


でないと口がただ高い物、高級な物、素材の良さだけを求めるようになるから。

江坂の木田の鴨蕎麦も好きだし凡愚の蕎麦も美味い。

針重のすき焼きもいいけど「北むら」の味もいい。


江戸前に対抗できる黒門の栄寿司も一半もいける。

一半は大将が亡くなって落ちたのは落ちたけど、それでもその辺の寿司屋には負けない。


播磨町の芳寿司も然り、鮪が入らなくなっただけで鮪を食べたきゃ新明石に行けばいい。


そう言いながら外食もままならずの身、早く鱧でも食べに行きたいな。


東住吉の湯里にある割烹 寿司 清水の鱧づくしは私の中では評価が高い。


勿論、寿司も淡路の地ウニから天然トラフグ、本マグロの赤身、トロも美味しいし鮎のしめた寿司も旨い。

でも私は鰺の握りが一番好きで必ず頼む。


お腹が減っている時は最初と最後二度握って貰う。


長く会わない愛娘が河豚の握りと地ウニばかり食べていたのが、その後はクラか商人という回る寿司を食べていると聞く。


私と一緒に暮らす頃はこの上ない美食だった。

それは良くなかったと猛省しているのだが…

美食家だった私の亡き母、それに私の血を引いて何でもいいハンバーガー人種ではないはずだ。


今は甲斐性もないが愛娘が嫁いでしっかり美味しいものを食べれるようになるまで私も自粛せねばと思う。

私なりの節義の通し方なのだが…

でも苦労かけてる周りとはたまに許してよな。


函館の夜景を観て市場の裏の寿司でも食べたいな…

今年こそ函館へ行こう
今日は久しぶりに古い弟分と会った。


例によって別に用件もなくいつも他愛ない話に終始する。


三十年以上も昔の事を語り合える人間が居るのは幸せだ。


お互い年を取り険しさも悪も毒も刺も取れた。


青年時、一番元気な頃、思いきり一緒に不良できた、云わば戦友である。


懐かしくも苦しかった、そして暑かった時代の話が終わると、私のこの「つれづれなるの記」の話に及んだ。

暇な人間だから毎日のように読んでくれているらしい。

そのAが「兄貴は昔から食い道楽なんだから殺伐とした話ばっかじゃなしに、たまに食い物の事なんか書いてもいいんじゃないですか」と


なるほど家をおん出た中高生の頃はお腹を満たすのに精一杯だったが少し余裕が出来た頃から美味い物食いにはなった。


Aの言うようにたまには食について書いてみようと思う。


若い頃は本当に貧乏だった。

今も貧乏は変わらないが…

胸を刺されて住吉長居の水車は毎日のようにナポリタンを食べに行った。

昔ながらの懐かしいナポリタンをむかぼるように食べた。


今は長居の店は亡くなりマスターも亡くなったが子息が隣の西田辺で同名の店をやっていて昔ながらの、そのナポリタンを出してくれるので忘れた頃に行く。


今は懐かしさで食べるのだが…


一般的に不良、特にヤクザは美食家が多い。

明日の生命を保証されているわけではないので、どうしても生活全般が殺那的になる。


明日は明日の風が吹くさで宵越しの金は持たない。

だから昨日大臣、今日乞食を繰り返すことになるのだが習性はなかなか直らない。

そのやくざ連中が誰かを接待する時など今でも私に電話してきて店などを聞くのだから私もまんざらの腹膨らしではないのだろう。


二十歳前後は悪友やその従兄と黒門の太政へ行った。

バブルの遥か前なので河豚はヤクザか不良、それに成金が食べる物だった。


私は酸味の強いこの太政のポン酢は今も冬は自宅用に一升瓶を買い込む。


誰や彼やに連れられたりで一力茶屋や奴茶屋に行くようになるが河豚はポン酢が八割と私は思っているので中々難しい。


コストパフォーマンスで考えれば「あじ平」が手頃に食べさせてくれる。

後輩連中は生野今里の店を言うが私はポン酢が合わず福島の「あじ平」へ忘れた頃に行く。


元気なバブル前後までは河豚を食べるために高速を飛ばし神戸福原新開地にある「現直し」によく行ったものだが、いつの頃からか肝を出してくれなくなった。

この店は三代目山口組直参だった魚崎のSさんがお気に入りで何回か連れて行って貰っている間に行きつけになってしまった。

初めに出される河豚の煮こごりも美味で神戸に行った際は此処で河豚を食べるか北野の端にあった天麩羅屋「お可川」に寄ったもの。

この「お可川」は天麩羅屋というよりは料亭の趣が強く女たちは雰囲気を喜んだ。

雑然とした「現直し」と正反対で今は亡き歌手Sさんなんかもとても気に入っていた。


オークラの食事も部屋も悪くはないが私は北野ホテルを好んだ。

ブレックファーストのスクランブルエッグとパンがお気に入りだ。


神戸と云えば姉夫婦に教えて貰ったステーキの「あらがわ」や餃子の「赤萬」も旨かったな…

「あらがわ」は東京出店も京都の「ゆたか」同様、大成功していると仄聞する。

ただステーキだけに安くはないので今は我慢(笑)

京都の「ゆたか」は京都の首領と呼ばれてたS会長の行きつけで元々は千本にあったが子息は祇園でやっている。


肉をじっくり味わうなら「ゆたか」食べながら遊ぶなら「次郎」と私は決めていたが…

肉は私の地元、矢田にも美味しい店があった。


一年ほど前に閉めたらしいがママからはたまに電話があり昔話に花が咲く。

駅前から西へ五、六分の所で「一龍」という店で何でも美味しいのだが特に年に数回しか入らなかったがヘレが絶品で普通で手に入らないA5の13号以上の肉が出されて、マスターが作ったその肉専用のタレと良く合い絶妙だった。


ロースや塩タンもネギ塩のタレに良く合った。

もう行けないのが残念だ。
芦屋の実業家のH氏など一度連れて行ったら以後、新地で食べず矢田まで来ていた。


隣の中野には「十兵衞」というステーキハウスがありマスターがバイクに跨り本場、松坂で買付け店の地下で熟成させたヘレも美味い。

十兵衞コースは比較的安く都会で食べれば倍は堅いと思われる。

焼き肉は三国の但馬屋もよく行ったがアチコチに出来、今は日航の地下でも食べれるのだがオータニの叙々苑と日航の但馬屋はどうも行く気にならない。


若い頃は播磨町から王寺に行く途中、路地を入った所に「飛龍」なる店があり塩タンに手打ちの冷麺が美味で昨年亡くなった歌手の桑名などは教えると毎日通っていた。


二十歳前後の金の無い頃からよく通ったが数年前に東京西麻布に移転、成功していると聞く。

熱海のスコットも美味しかったし静岡のルセール?だったかも癖になって一時期通ったな。


東京の叙々苑は本店と西麻布店以外はどうもね…


東京はステーキなら神戸の「あらがわ」や京都の「ゆたか」が流行るんだから元々はそう美味い店はないんじゃないかとも思うな。


ただ揚げ物は関西はかなわない。

北野の「お可川」は雰囲気もあって別にしても味だけでは値段の三分の一以下の新宿三越裏の「船橋屋」に勝てないように思う。


私も昔から上京すれば必ず一度は行くのだが安藤組から大阪の酒梅に流れてきてた瀬川さんなんかは戦前から天麩羅は「船橋屋」だったらしい。


並んで私が上京で外せないのが上野ってより御徒町の松坂屋裏の「ぽん多」のとんかつで、とんかつと言っても馬鹿にできない。


低温で長く揚げたとんかつは絶品だ。


親父 安藤の兄弟分だった大日本興行初代だった高橋輝男親分と仲の良かった有名な白洲次郎さんも大のお気に入りだった。


タンシチューなどのアラカルトも充実して五日滞在すれば一度は行く。


江戸前の寿司も美味い。


こう言っては何だが関西もネタでは負けていないのだが手の加え方や技に違いがあるように思う。


先日、安倍首相がオバマ大統領を接待した数寄屋橋「次郎」も昔、爺さんの時は旨かったと思うのは私だけだろうか。


この十数年は私はオバマ大統領が部屋で注文した銀座「久兵衞」ばかりだ。


コースに出るすべてが絶品だが私は特に穴子が大好物だ。

鮑もうまいな。

玉も変わってるが癖になってしまう。

書いてると行きたくなってくる。


銀座といや中央通りメルサ前の地下に下りて行く店、中華料理で何だっけ名前は忘れたけど親父が戦後すぐの頃から行ってて常連だった。


食後はメルサでお茶してってコース。

和光裏の煉瓦亭のマカロニグラタンやビフカツも好きだった。


まだ子供だった安達裕美なんかがマネージャー連れて来てたな。


銀座の吉田の蕎麦、うーん周りが好きだったから…


赤坂 砂場はうまい。

最近はテレビで取り上げすぎて私はちょっとと思うが。

事務所が赤坂の西山興業本社ビルにあったので事務所からは津つ井のステーキ丼なんかを出前で頼んでくれた。

それ以前、リキマンション近くの瓢箪亭で瓢箪弁当を姐さんが取ってくれてた。

その頃、親父が住んでいたのがブランルーシュ赤坂で知る人ぞ知るマンション。

リビングが広くてオシャレな間取りのマンションだった。


上にはキャスターだった故筑紫哲也さんが住んでいて、外人向けと聞いてたので親父に「オーナーも外人ですか?」と聞くと

「バンドマンだ」って言うから私はずっと後ろで演奏するバンドマンかなと思っていたら隣に住む大家は何と矢沢永吉さんだったので驚いたこともあった。


赤坂通りにはハマエンタープライズ、今の住吉会本部があり、五丁目には朝日で自裁した民族派のダイヤモンド、野村秋介さんの事務所が書店の上にあってバブルの頃は賑やかだった。


歌の文句じゃないけど

「いつもの一ツ木通り」も行き交う人だらけだった。

途中から親父の誕生会は赤坂の花紋で開催するようになった。

女将さんが親父のファンだったから…


今考えるとアチコチによく行ったもの。


有名になり過ぎたけど飯倉のキャンティはやはり本物のイタリアンだった。


あちこちの席にテレビで見る顔があってユーミンもここの出身と聞いた。


下町 浅草のすき焼きも鰻も美味いんだけど私には合わなかった。


常宿だった虎ノ門のホテルオークラ、久兵衞は本店に比べ今ひとつだったけど

中華の桃花琳は私個人は日本一だと思っている。

食事の前に少し汗を掻きにサウナに入ると猪木のデカイ身体が邪魔になった。


朝は山里会があって私もたまに末席に座らせて貰っていたが偉い人達ばかりで味が分からなかったな(笑)


夜食にはシーフードスパゲティか大好きで毎晩のように食べた。

昼も出来るだけ部屋で食べるようにして五目焼そばが定番だった。

まあ大阪にはない味だね。

でもやっぱホテルは帝国、インペリアルホテル


食堂街にも名店が入っているし何といってもビーフカレーとルームサービスのサンドイッチが好きだ。


なぜだか知らないが店に食べに出るよりルームサービスが美味しい。

これは三ツ星シェフから教えて貰ったが確かだった。

私を銀座や帝国、西麻布を連れ回した梁取は何処へ消えたんだろうか。


また食べ巡りの記を書きたい。