今年の梅雨はどうも梅雨らしくない。
合間の晴れた日が多いからかな…
今年は色々な意味で見れないかなと思っていた蛍をようやく先の日曜日に観れた。
やっぱ梅雨から初夏にかけては蛍は我が日本の国の情緒そのものだからね。
昨年、知り合いに教えて貰った高槻と茨木、京都亀岡の境界部分の山の谷間が大阪でよく観れるように思うので今年も迷い込みながら山道を走りどうにか辿りつき蛍狩りを楽しめた。
団扇は忘れたけど風情があって良かったな…
谷川の木々の中に仄かに青白い光が輝いて、目を凝らしていると今度はせせらぎの音が聞える。
まだ大阪にもこんな自然が残されていたんだ。
来年も是非来ようと思いながら後ろ髪をひかれるように車に乗り込んだ。
その日の夕、毎週、最近は惰性で見ている「そこまで言って委員会」を見てから着替え家を出た。
ひと月近く前から行きたかったのだが体調も冴えず行けず何か心が重かった。
春、親しいヤクザ者と話している中、私の不良の先輩に当たり地元も近く私はともかく離ればなれになった子達が世話になったりしていたHさんが渡世を引退したと聞いた。
半世紀以上、三代目の田岡親分の時代から山広会長ところで居た人で、それ以前は世に悪名を轟かせた明友会に籍を置いていた或る意味で昭和ヤクザの生き字引でもある。
私の生まれ育った矢田の隣町の針中野に住まれていたので顔は見知っていたが話すようになったのは私が裏方の整理をしていた西成の酒井宝時堂だった。
私のこれも大先輩に当たる加茂田軍団2000人を率いた若頭 飯田時雄が酒井に遊びに来ていて飯田と一和会時代に同門であった二人が話していて私も横に居たのが縁だった。
飯田は当時、完全に引退し浪速区大国町で宝産商なる会社をしていたがバブルも弾け決して景気がいい時代ではなかった。
二人は三代目時代の話を懐かしそうに話していた。
先輩同士が話すのを私は隣で聞いているだけだったが一和会の代紋を飯田が考案したなどという事は知らなかった。
Hさんは当時、ミナミで韓国クラブと麻雀屋をしてた。
針中野からミナミへ行く道中にある酒井宝時堂には良く顔を出していた。
私もだが不良は飯が食えなくともお洒落に金をかける。
もっともその頃はHさんも私も金は回っていたので余計に車や時計には凝った。
私もバブル崩壊で地を這った後ようやく復帰しつつある時だったが、ようやく車も新たにベントレーやロールスを手に入れ時計もバセロンから出ていたカーラなるバブル当時、1億していた時計を腕にはめていた。
時計も人生の潮の流れと同じく寂しがり屋で同じ所に寄ってくる。
私は一本目を知遇ある北浜の不動産屋の社長から買い少しすると又、友人のSから話が来て金色と銀色と二本持つに至った。
今思うと夢のようだが…
後にもう一本、1ランク上のパコダカーラなる時計も手に入れるのだが、その頃が私の二度目の人生の絶頂期だったのかも知れない。
毎夜のようにミナミや新地を徘徊し怖いものもなかった。
まさに下り坂の後の上り坂、その後の「まさか」が忍び寄ってるとも知らず、その生活に麻痺していたように思う。
話が長く取り留めもなくなったがH先輩も当時、そのカーラをはめていた。
それも数少ない大阪で五本六本、日本中合わせても十本か二十本と言われた時計だ。
おまけに堅気の弟さんもはめていた。
人は直感と第一印象で好き嫌いが決まる。
最初に印象の悪い野郎はやはり後々も好きになれない。
よほどの事があれば例外はあるが…
私はこのH先輩に好感を持った。
失礼だが見た目はヤクザそのものだが何か私に響くものがあった。
飯田からの縁もあるのだろうが人見知り激しく狷獪な私は先輩でも目上でも何処の親分でも私から話すことは滅多にない。
値打ちをつけてる訳でもないのだが性分なのだろう。
そんな中で何の障害も意識もなく自然に話せたのがこのH先輩であり、又、近くの浪速区に事務所を構え矢田に縁のあったY氏である。
Y氏ともお茶一杯で何時間も話した事が何度もあり相性もあり私には何でも話してくれていたが八年程前に若くして癌に蝕まれ逝ってしまった。
このYさんが健在なら私のこの七、八年の人生も大きく変わっていたかも知れない。
もっとも、それが良かったのか悪かったのかは判らないが…
Yさんは三代目時代、一斉風靡し全国に名を馳せた菅谷親分の最後の若い衆であったことを誇りにしていた。
その後、収まるところへ収まり当時の名古屋 弘道会 舎弟頭補佐の席にあった。
アクもクセもあるが私には本当に良い人だった。
ガラッパチだったが少年のヤンチャなまま成長したヤクザのようで微笑ましかった。
私の矢田の小中の同級で友人である村岡の親父さんと縁があったようで、そこから矢田には知己も多く私と知り合う前からしょっちゅう矢田に入っていたようだ。
心斎橋 日航ホテルの裏に清水湯という銭湯があり、場所柄、刺青をしていても可で今は無くなったが五年ほど前までは地下にマッサージルームがあり腕のいいマッサージ師が多く居て不良やヤクザたけでなくミナミの商店主も良く来ていた。
そこで同じような時間でマキちゃんや南ちゃんを良く取り合ったもので懐かしい。
私の服や身に着ける物に興味を持つので洋服店や時計屋、宝石屋を紹介した。
日本一と評判のバアゼル宝石も紹介したのだが一人で行って相手にされなかったと憤慨していたのも今は懐かしい。
一般の人には分かりにくいが不良やヤクザでもチンピラや中途半端はいざ知らず、或る程度の親分、組長になるような人物はがらっぱちであろうとヤンチャであろうと情も義も心もあるというのが長くその中で生きた私の結論である。
魅力という経済力や暴力より一番大切な力が無い人間に人は集まらない。
逆に言えば世に知れた、又、名の知れた親分や組長には魅力が必ずある。
H先輩も私が好きなヤクザだった。
数年間に脳梗塞で倒れてからは元気はなかったが私も何かとあり少し御無沙汰していた。
久しぶりに見た顔は元気そうで私にはそれが何よりだった。
子供さんももう立派な大人でシャキッとしている。
そんな子供さん達やお孫さん、それに一番ずっと居る姐が横にいる。
これがH先輩の男の花道ではないだろうか。
ヤクザや不良をしていると途中、自分の足元が見えなくなり、家を出て新しい女と一緒になって入れ揚げるのを多く見てきた。
しかしその末路は本当に哀れだ。
骨さえ引き取り拒否をする姐を少なからず見てきた。
それに比べ皆に囲まれる好々爺になったH先輩は素晴らしい老後と思う。
しかし、そのぶん、姐は勿論、子供さんに至るまで愛と心をいっぱい与えた結果なんだと思う。
子供は親の背中だけでなく在り方を良く観ているものだ。
金銭、経済的だけの面倒見、本当の愛情、それに敏感である。
かくいう私には子供誰一人寄り付かない。
私がそういう生き方をして来たのだろう。
考えさせられる事である。
しかし自身で選び生きてきた道、悔いてはならないと自分に言い聞かせている。
蛍火のように儚い人生、何が是で非か正か邪か私ごとき凡百にはとんと分からないのだが何事も誰に対しても愛や心をいっぱい与えれば通ずるという事である。
奥山の
蛍光の
寂しさは
誰に知らせむ
こともなきぞと 東月詠
合間の晴れた日が多いからかな…
今年は色々な意味で見れないかなと思っていた蛍をようやく先の日曜日に観れた。
やっぱ梅雨から初夏にかけては蛍は我が日本の国の情緒そのものだからね。
昨年、知り合いに教えて貰った高槻と茨木、京都亀岡の境界部分の山の谷間が大阪でよく観れるように思うので今年も迷い込みながら山道を走りどうにか辿りつき蛍狩りを楽しめた。
団扇は忘れたけど風情があって良かったな…
谷川の木々の中に仄かに青白い光が輝いて、目を凝らしていると今度はせせらぎの音が聞える。
まだ大阪にもこんな自然が残されていたんだ。
来年も是非来ようと思いながら後ろ髪をひかれるように車に乗り込んだ。
その日の夕、毎週、最近は惰性で見ている「そこまで言って委員会」を見てから着替え家を出た。
ひと月近く前から行きたかったのだが体調も冴えず行けず何か心が重かった。
春、親しいヤクザ者と話している中、私の不良の先輩に当たり地元も近く私はともかく離ればなれになった子達が世話になったりしていたHさんが渡世を引退したと聞いた。
半世紀以上、三代目の田岡親分の時代から山広会長ところで居た人で、それ以前は世に悪名を轟かせた明友会に籍を置いていた或る意味で昭和ヤクザの生き字引でもある。
私の生まれ育った矢田の隣町の針中野に住まれていたので顔は見知っていたが話すようになったのは私が裏方の整理をしていた西成の酒井宝時堂だった。
私のこれも大先輩に当たる加茂田軍団2000人を率いた若頭 飯田時雄が酒井に遊びに来ていて飯田と一和会時代に同門であった二人が話していて私も横に居たのが縁だった。
飯田は当時、完全に引退し浪速区大国町で宝産商なる会社をしていたがバブルも弾け決して景気がいい時代ではなかった。
二人は三代目時代の話を懐かしそうに話していた。
先輩同士が話すのを私は隣で聞いているだけだったが一和会の代紋を飯田が考案したなどという事は知らなかった。
Hさんは当時、ミナミで韓国クラブと麻雀屋をしてた。
針中野からミナミへ行く道中にある酒井宝時堂には良く顔を出していた。
私もだが不良は飯が食えなくともお洒落に金をかける。
もっともその頃はHさんも私も金は回っていたので余計に車や時計には凝った。
私もバブル崩壊で地を這った後ようやく復帰しつつある時だったが、ようやく車も新たにベントレーやロールスを手に入れ時計もバセロンから出ていたカーラなるバブル当時、1億していた時計を腕にはめていた。
時計も人生の潮の流れと同じく寂しがり屋で同じ所に寄ってくる。
私は一本目を知遇ある北浜の不動産屋の社長から買い少しすると又、友人のSから話が来て金色と銀色と二本持つに至った。
今思うと夢のようだが…
後にもう一本、1ランク上のパコダカーラなる時計も手に入れるのだが、その頃が私の二度目の人生の絶頂期だったのかも知れない。
毎夜のようにミナミや新地を徘徊し怖いものもなかった。
まさに下り坂の後の上り坂、その後の「まさか」が忍び寄ってるとも知らず、その生活に麻痺していたように思う。
話が長く取り留めもなくなったがH先輩も当時、そのカーラをはめていた。
それも数少ない大阪で五本六本、日本中合わせても十本か二十本と言われた時計だ。
おまけに堅気の弟さんもはめていた。
人は直感と第一印象で好き嫌いが決まる。
最初に印象の悪い野郎はやはり後々も好きになれない。
よほどの事があれば例外はあるが…
私はこのH先輩に好感を持った。
失礼だが見た目はヤクザそのものだが何か私に響くものがあった。
飯田からの縁もあるのだろうが人見知り激しく狷獪な私は先輩でも目上でも何処の親分でも私から話すことは滅多にない。
値打ちをつけてる訳でもないのだが性分なのだろう。
そんな中で何の障害も意識もなく自然に話せたのがこのH先輩であり、又、近くの浪速区に事務所を構え矢田に縁のあったY氏である。
Y氏ともお茶一杯で何時間も話した事が何度もあり相性もあり私には何でも話してくれていたが八年程前に若くして癌に蝕まれ逝ってしまった。
このYさんが健在なら私のこの七、八年の人生も大きく変わっていたかも知れない。
もっとも、それが良かったのか悪かったのかは判らないが…
Yさんは三代目時代、一斉風靡し全国に名を馳せた菅谷親分の最後の若い衆であったことを誇りにしていた。
その後、収まるところへ収まり当時の名古屋 弘道会 舎弟頭補佐の席にあった。
アクもクセもあるが私には本当に良い人だった。
ガラッパチだったが少年のヤンチャなまま成長したヤクザのようで微笑ましかった。
私の矢田の小中の同級で友人である村岡の親父さんと縁があったようで、そこから矢田には知己も多く私と知り合う前からしょっちゅう矢田に入っていたようだ。
心斎橋 日航ホテルの裏に清水湯という銭湯があり、場所柄、刺青をしていても可で今は無くなったが五年ほど前までは地下にマッサージルームがあり腕のいいマッサージ師が多く居て不良やヤクザたけでなくミナミの商店主も良く来ていた。
そこで同じような時間でマキちゃんや南ちゃんを良く取り合ったもので懐かしい。
私の服や身に着ける物に興味を持つので洋服店や時計屋、宝石屋を紹介した。
日本一と評判のバアゼル宝石も紹介したのだが一人で行って相手にされなかったと憤慨していたのも今は懐かしい。
一般の人には分かりにくいが不良やヤクザでもチンピラや中途半端はいざ知らず、或る程度の親分、組長になるような人物はがらっぱちであろうとヤンチャであろうと情も義も心もあるというのが長くその中で生きた私の結論である。
魅力という経済力や暴力より一番大切な力が無い人間に人は集まらない。
逆に言えば世に知れた、又、名の知れた親分や組長には魅力が必ずある。
H先輩も私が好きなヤクザだった。
数年間に脳梗塞で倒れてからは元気はなかったが私も何かとあり少し御無沙汰していた。
久しぶりに見た顔は元気そうで私にはそれが何よりだった。
子供さんももう立派な大人でシャキッとしている。
そんな子供さん達やお孫さん、それに一番ずっと居る姐が横にいる。
これがH先輩の男の花道ではないだろうか。
ヤクザや不良をしていると途中、自分の足元が見えなくなり、家を出て新しい女と一緒になって入れ揚げるのを多く見てきた。
しかしその末路は本当に哀れだ。
骨さえ引き取り拒否をする姐を少なからず見てきた。
それに比べ皆に囲まれる好々爺になったH先輩は素晴らしい老後と思う。
しかし、そのぶん、姐は勿論、子供さんに至るまで愛と心をいっぱい与えた結果なんだと思う。
子供は親の背中だけでなく在り方を良く観ているものだ。
金銭、経済的だけの面倒見、本当の愛情、それに敏感である。
かくいう私には子供誰一人寄り付かない。
私がそういう生き方をして来たのだろう。
考えさせられる事である。
しかし自身で選び生きてきた道、悔いてはならないと自分に言い聞かせている。
蛍火のように儚い人生、何が是で非か正か邪か私ごとき凡百にはとんと分からないのだが何事も誰に対しても愛や心をいっぱい与えれば通ずるという事である。
奥山の
蛍光の
寂しさは
誰に知らせむ
こともなきぞと 東月詠