今年は今の時期の天候が少し例年と違うような気がする。


蛍狩りも終わり、もう少し陽射しが強く夏を感じさせるのだが今年は梅雨とはいえ朝晩はまだまだ過ごし易い。


私の幼い頃の七夕の記憶も庭先や垣根の下に咲いた紫陽花、そしてその上を舞い出す蝶、そしてやはり湿っぽい雨なのだが…


最近は年のせいか、この時期になると暑苦しく過ごしにくく思っていたが…


幼稚園の時、七夕祭りの日、私は風邪を引き子供ながらに切ない思いをしたのを覚えている。

母が後日、私のためだけに七夕祭りをしてくれたのがほんの昨日のようで…

やはり幼少期は七夕祭りは子供にとって楽しみなのだ。

今日の大阪はあいにく曇ったり降ったりで天の川は見えなかったが…


小学校の低学年の頃は梅雨時のプールは寒かったがもう少しで訪れる夏休みが待ち遠しく元気が溢れた。

もっとも終業式の日に貰う成績表の悪い私はそちらも気になったが、それでも何か心が清々しくなる季節だった。


夏休みに入ると普段、私達子供とほとんど交わりのない会社員だった父親も揃って家族旅行へ出掛けた。


笠置山に川、淡路島に若狭の小浜の海、白浜…

回想は逆光の彼方へと遠ざかっていく。

思い返すと五十年近く前だが人生早いもの。

亡き母が晩年、私に「人生は本当に早いものですからね…」と良く繰り返していた。


先週末、姉から言われてその実の父親を老人ホームに見舞った。


過去、私を虐待に近い家庭内差別で家に居場所がないようにした事などすっかり忘れたのか無邪気に喜んだ。

老いた父は恰幅も貫禄もなくなり単に年老いた一人の老人でしかなく私も怒りどころか憐れみを持って接してしまう。

お互いの年のせいだろう。
記憶もほとんど失せた中、たまに私をハタと驚かさせる。

途中からは高さばかりを求めた父だが私が小学生の頃までは文武両道を勧め大学も後年のように旧帝大などと言わずに神戸商船大学を勧めていた。


上は姉、下の弟は幼少時、病弱だったので体力だけが取り柄だった私に白羽の矢が立ったのだろう。


もっとも当の私本人がそんな事を完全に失念していたのだが…


父は没落した家だったから父母からは愛情でなく社会に出るための高さだけを求められる教育を受けたようだ。

小学校の頃から家庭教師が付けられ高さだけを求められた。

或る面では寂しい少年期を過ごしたのだろう。

その父の家庭教師だったのが後のアシックスの社長であったり三和銀行の頭取だったり、同級生には大阪医師会会長や塩川正十郎の実弟ら関西財界で活躍された人たちが少なからず居るが、私は父の確執からか何かの折、声を掛けてくれはしても甘えたる事は一度もなかった。

この年になるまで実の父親の関係に一度たりとも物事を頼んだり甘えたりした事はない。


今も父親の絶縁時の絶対的な言葉が頭に焼き付いている。

「縁を切るという事は長男も何もない。家を継ぐことも必要ないし何の義務もない。ただ家や家族、兄弟、そして身内には絶対に迷惑をかけてくれるな」と

それが故に家に関係する人に一切関わらないというのが家を出た私なりの意地であり衿持であった。

それらが使えたらば人生はどれほど楽に渡れただろうか。

その代わりに飼犬の人生であり野良犬の自由や夢は無かっただろうが…


だから私が何かで警察の御世話になる事があっても家を出た後は絶対に家の事は言わなかったし触れなかった。


勿論、引き取りや引き受け人形にもなって貰わなかった。

普通に生きてる一般の人なら当り前どころか警察の御世話になることもないのだが不良で生きて行くには何がしかのしがらみから破廉恥罪ではなくとも可能性は山程ある。


かくいう私も何度となくかる。

ただ破廉恥なことではない。

一度だけ友人や後輩が破廉恥罪でお縄になり、その流れで四八拘留を受け取り調べを受けた事はあるが自慢にもならないが自身で破廉恥罪を犯した事は一度もない。

幼い頃から母に枕べで諭されたからだろう。


日本人とは廉恥を知り破廉恥なことはしないと。

そう思うと母親の与える影響は大きい。


教育とは教え育むと書く。
親鳥が子鳥を育むというあれだ。


現代の世の中、高さ-いかに世の中に出た時にお金を稼げるように、又、いかに良い進学校に入るか、その為には偏差値を上げる、そのテクニックを身につけることが教育であると錯覚し、他の面に於いては可愛い甘いの過保護に徹する。

まともな心や魂を持つ大人に育っはずがない。


他人を押し退けても自身の利を追求する大人しか育たない。

自身に少しでも不利益やマエナスリスクがあれば知らん顔をして遠ざかっていく。


無論、私らの時代から、そういう人間はいたが未だ満たされた豊かな世ではなく、兄妹も多くいた中、親の愛情の注ぎ方も十人十色で過保護は今に比べて極端に少なかったように思う。


私達が育った高度経済成長時代の後の豊かすぎる時代、その時代の少ない子供たちに親が注いだ歪な愛情‐学校で些細な事があれば学校に乗り込むモンスターペアレンツ等…


歪な愛情を注がれた子供が歪な大人にならないはずがないのだ。

私は異常な憎悪を父親から受けた。

やはり普通の大人になれなかった。

自分で選んだ人生ゆえ後悔などはないが、それでも波乱万丈な人生を歩んだ遠因に父親の歪な憎悪があったことは否定できない。


ただ私が不良とはいえ非行の道へ進まなかったのは母親の父親の憎悪を埋めて余りある深い愛情があったことだ。


どこの箱入り娘で育てられた世間知らずの女性が子供の為とはいえ単身、やくざの事務所に乗り込むか。


誰かに頼ったり助けを求めるかも知れないが私の母の偉かったのは箱入り娘で世間知らずの母がいつも何かあっても誰に頼らず自分自身で事を行ったことだと思っている。


だから私は何かある度に母と娘に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

身内身贔屓ではないが、この二人、母と娘のことだけは誇りに思っている。

正々堂々と存在している。
そういう女性、いや日本人が少なくなった。


娘とは小学校二年生まで一緒に暮らし過ごした。

私は家庭を持たずに世に出たので家庭の温もりを求めたからか家族や子供に愛情を精一杯注いだ。


私の愛情も歪だったかも知れないが…


娘と二人で一緒に良く出掛けた。

二人だけの時間を多く共有した。


娘が二年生の時に貞操観念の薄い嫁と別れ私は一人家を出た。


それでも私はずっと三人の子供たちに養育費だけでなく経済的な苦労をしないだけの金銭的な援助も当り前だがした。


私が家を出た年と同じ中二に私から離れるようになった。

私からの養育費、援助を拒絶し自身で受けた奨学金と深夜までのファミリーレストランで大学卒業まで頑張り通した。


私は相も変わらずロールスロイスやベントレーを乗り回している間も愛娘はバーミアンで叱られながら夜中の二時過ぎまで働いたと聞く。


人としては立派で私個人的には最大の評価をしたいが我が娘となると、この上なく切ないものだ。

その頃の娘の心中を思うと胸が詰まり苦しくなる。


どれだけ私を頼りたかったであろう。

どれだけ苦しかったであろう。

どれだけ泣いたであろう。

それを考えると私の心は掻き乱れる。

本当に苦しくなる。

そこからはもう私に頼る機会はなくなる。

社会人になって自分で稼ぎ自分で生きるから…


今生、もし会うことがあれば両手を思い切り広げて抱きしめてやりたい。

「良く頑張った。本当に良く頑張った」と


そう考えると私の血をDNAを一番引き継いでいるのは皮肉にも娘なのかも知れない。


娘が中学二年生の時、募金を渋ったので厳しく叱った事があった。

後に娘が学用品のすべてを、その募金すべく小遣いでやり繰りしていると知って私は娘に素直に詫びた。


娘は私の腕の中でずっと泣き止むことなく泣き続けた。

私は精一杯の力で膝上に抱きしめた。


あの時の娘の温もりと涙が身体と頭から外れない。


私は父のように長くは生きれないだろう。


生きている間に私の愛は娘に伝わらないかも知れない。


だから足跡を遺したく、こうして書き記している。


この父にこの娘あり


それもこれも自身で選びきた人生なのだと自分に言い聞かせる。


週末、見舞った父親のホームを出ると止んでいた雨が降り注いでいた。

深呼吸をし天を仰いでみたがやはり星は見えなかった。

因果はめぐる。


黒髪の
長き娘の
幸せを
ただただ祈る
七夕の夜 東月詠
私は長く不良として人様に誇れる事何もない人生を歩んできた。


それでも人生がグルッと一回りするに近く生きていると色々な人を見てきた。

上はてっぺんから下は地下まで左端から右端まで…


まあ外人を別にして日本人だけでも色々な人間がいる。

特に私達の少し下の世代を新人類などと呼んで考えている事が理解できないと言っていたが今考えると可愛いもので今どきの若い者になると想像を絶する。


これが本当に日本人なのかと首を傾げる人間ばかりに或る面で古い私は辟易してくる。


安部総理も良く口にする戦後レジウムの産物かも知れない。


そりゃそうだ。

我が国は大東亜の戦で白色人種を相手に国家を賭けて戦い破れた訳だから


勝者であり占領国に二度と戦えぬよう、戦う気が起こらぬように武器は取り上げ精神的支柱も折っておこうと…


不良の喧嘩でも同じで中途半端にシメると骨のある人間は必ず仕返し、復習を考える。


それを思わせないぐらい叩いて心を折るぐらい恐怖心を植付けなければならない。

歴史も文化もまともに持たないアメリカ人にしてみれば生命を賭けて突っ込んでくる特攻には本当に恐怖心を覚えたに違いない。

精神文化でなく物質文化で成り立つアメリカ人には生命を賭けてまで守ろうとする精神や心、魂など理解できないだろう。

人間、自身の物差しで計れぬものには底知れぬ恐怖を持つものだ。


先の大戦での敵国、中でも主たるアメリカ人には理解も想像も出来なかったろう。

空母や駆逐艦で空を見上げていて人の運転する飛行機が自爆で突っ込んできたら人間誰しも狼狽する。

だから日本がポツダムを受け入れアメリカの占領が決まった時にアメリカ人が一番に考えたのは、そういう日本人の精神性の破壊だろう。


武器を取り上げても武士道精神、葉隠れの精神を持ち続ければ又いつ立ち上がってくるか分からない恐怖があったのだろう。


憲法九条を錦の御旗に日本人から闘う精神を奪うのが一番だったように思う。


終戦から一気に共産主義が我が国を


その作られた法や思想に一番乗りしたのが当時の自称インテリの進歩的文化人たちだ。

彼らは変節の根源、朝日新聞を片手に左を語り演じた。


逆に言えば或る時期、それも昭和の終わりに近づく頃まで、そのように振る舞えばインテリに見えたのだ。

本物、偽物物、似非物で云えば本物は一割にも満たなかったように私は思っている。


私は左右弁別すべからずの主義ではあるが全学連委員長だった唐牛健太郎氏が一際まぶしく見え憧憬の念を今も持っている。


氏は大学を卒業していくと何もなかったように敵と見なしていた資本主義に取り込まれ企業戦士になったり国家から禄を食む道を選んだ。


生活の為と言えばそれまでだが男が日本男児がそんな簡単に思想や信条を変え変節していいものかと人間性を問うてしまう。


唐牛はその後、男として節義を通した。

資本家から資金援助があった事を指摘し批判する人間も居るが60年安保、70年安保、特に60年安保はその資本家からの資金援助で成り立っていたのも否めない。

その後、南の島で肉体労働者をしたり晩年は北海道に戻り漁業に携わった。


生涯を資本家側に回らず、スタンスを取らず労働者側、プロレタリア側に身を置いた。


その一貫性が日本人としての美しさを感じさせる。

酔えば「北帰行」でなく「さすらい」を歌ったと聞く…

今はどうあろうか。

先日の集団的自衛権にして総理官邸前でのデモは60年安保と比べるもない。

指導者がいないのか、現在の若者にエネルギーが無くなってしまったのか、はたまた傍観者になってしまっているのか…


私は集団的自衛権には賛成なのだが、現実を考えると私達よりも若い世代の子や孫の世代に直接関わってくる問題であり法なのだ。


是か非かはハッキリ意思表示して欲しかったのが本心だ。

もっとも運動が或る規模になっていても結果は変わらなかったろう。


今の若者に情念なるものが観られず安部総理には明らかに情念が観えるからだ。

三十年から四十年の時代が違うだけで精神性がそこまで違うのだ。

安部総理の場合は特に岸信介という稀有な保守政治家を祖父に持ったのも大きいが…


今どきの若い者などと言うが政治家一つ取っても信念や情念が観えぬ。

権力に近づく為には変節どころか朝令暮改も平気である。


壇上で死んだ浅沼委員長も左とはいえ、あっぱれではある。


その若者の移り変わりの原因を考えると、やはり教育に突き当たる。

戦後教育の検証と総括、これを為さねば日本がしまいに日本でなくなりそうだ。

大東亜戦争で我が国が悪かった、日本の侵略戦争だった。

ゆえに日本人は総懺悔してアジア各国だけでなく世界中に頭を下げ続けることが日本の進む道であると。


戦後賠償が行われても又、難癖をつけられれば借款やODAの名目で資金援助する。

いつになったら日本はアジア各国の財布でなくなるのか。

石原慎太郎氏や平沼赳夫先生はそのヤルタポツダム体制からの打破、脱却を目的にしているのだろう。


私には日本人として当然のように思えるが若い世代には理解しにくいのだろう。

自主憲法の制定など当り前すぎて言葉もないが結いの江田氏辺りには民主と組める事ぐらいの目先しか考えれないのだろう。


残念なのは、それだけでもないが、せっかくの若い世代で政治の情念が感じ取れる橋下、松井コンビが江田氏ごときに上手く乗せられてしまったことだ。


これで勢いがドンドン削がれていってしまうように思う。


直感、直覚で選んだ石原チームとの連携が正解だったように私は思っている。


戦後、役人上がりの政治家が溢れ出たが所詮は頭で生きてきた人種、自分の理屈で人を平気で利用する。


役人の作った文書を一度でも見れば一目瞭然だ。

これで野党団結を叫んで回りまわって渡辺みんなの党と組むなどとなったらマンガにもならない。


恩も義理も人情も無くなったからな…


他人の悲しみや苦しみに涙をこぼし

義のために自身の血を流せる人間がほとんど絶滅してしまった。

自分のため、利己のため、忘他利己になってしまった。

日本人は本来、忘己利他のはずなんだが…


そんな人間が昭和の時代にはまだ残っていた。


見ていてカッコいいなと思える人が不良だけでなく政財界にも少なからずいた。

自身が滅びることをも厭わない人間が。

残念な事に今は国宝みたいに少なくなったけど東北で何人か観たな。


ま、東北の震災の直後は全国からそういう人たちが集まっていたんだけど、やはり少し年月が流れると他人事、傍観者になってしまうのが残念だ。

かくいう私も体調云々と行動を起こせないまま忸怩たる思いが募るだけだが…

人間、高さだけ-偏差値や学歴、金銭や肩書で計れるものじゃない。

幅や奥行きもあっての人間であって日本人は日本人で高さオンリーのアメリカ人には成れないはずなんだが教育者が日本を嫌いなアメリカ人を製造しようとする。

何でもかんでもアメリカに右に倣えの教育の中で真の日本人は生まれるのかね。

いかに楽をして金を稼ぐか、いかに他人を利用して自分は楽をするか、自分に損か得か足算引算しかしない若者たち。

この先どうなっていくのだろう。


金と得と利には揉み手で擦り寄り損や不利からは知らん顔をして逃げ遠ざかる。

そうした虚業や虚で手にした金でさも社会貢献をしているように、その社会貢献までを公表する日本人独自の奥床しさをも失くしてしまった日本人。

学校で高さしか教えぬようになった今こそ家庭でと思うのだが、その家庭で幅や奥行きを教えるべく親自身がそれらを持たぬ時代。


朝が来る

起きれば

花に水を

犬に餌を

そして若者と老人、いや人に愛を与えねば
私は縁あってあるボクシングジムを応援している。


ボクシングジムというより、そこの会長との縁だが…

かれこれ四半世紀になるだろうか。


彼がまだ現役の日本チャンピオンだった頃、私の弟のような後輩が可愛がっていた。


そんな縁で杭全にあったフリーというバーで会った時に何本かボトルを差し入れた。


思い出せば色々あった。

私のところへ出入りしていたNと揉めたUがこの現ジム会長のTところへ持ちこみ私の所へ電話が入ったこともあった。

Tの引退試合は和歌山であったのだがTの後援会長で音頭をとっていたO氏がバスを段取りし私達も応援に行った。


引退した後、平野でラウンジを開いた時もオープンに花を出し行った。

あれから何年経つのだろう。

闊達で粋のいい実の姉さんが応援で手伝いに来ていてじっくり話し込んだ。


その後、どのような経緯だったか失念してしまったが松原の私のマンションへしょっちゅう顔を出すようになった。


その内に私の不動産の仕事を手伝って貰うことになり、それ以前から出入りしていた解散していた飯田組の元の若い衆Yと引き合わせた。

顔づけの為に私の気に入りだった京都の奥、湯の花温泉に遊びに出掛けた。


せっかくの温泉なのに早く宿の炭屋亀峰庵を飛び出し京都の夜へ出た。

私が大学時代良く遊んだ京都朝高番長だった一郎二郎の店、くれしまに顔を出し二階のラウンジで軽く飲み最後は祇園の次郎で軽く食事をした。


あれから二十数年が流れ、お互い年をとった。

Tは私の誕生日「帰りに顔を出してください」と言うので立ち寄ったら冷やしたドンペリを用意して迎えてくれた。


正月になると除夜の鐘が鳴るとほとんど同時にインターホンが鳴り挨拶とともに私の子たちに御年玉を持って来てくれた。


私が肝臓で倒れ入院するとしょっちゅう見舞いに来てくれた。

不器用だが一途な心が観えた。


私は男でも女でも真っ直ぐな人間が好きだ。


ひたむきさに感動させられ喜びを貰う。

或る時、親父の跡を継いでジムをやりますと報告に来た。


最初の頃はラウンジとの掛持ちで大変だったと思うが良く頑張ったと感心する。

そして今、押しも押されもしないボクシングジム会長として存在している。

若い頃のヤンチャさも姿を消して大人になったようにも見える。


私も今や私も老兵でおまけに浪人の身。

大した事は出来ないが私ごときに出来る事はしてやりたいと思っている。


杭全神社の祭りが近づき、ふと思ったこと。


地車に乗る人間も子供達より若い世代に変わった。

時の流れだろうが…


今日、某出版社の人間とそんなこんな取り留めない四方山話をしていたら
「そろそろ何か書いたらどうですか」
と言っていた。

私はいつものように笑いながら流したが心の奥底は変わらない。

自分の青春を含めて来し方の思い出を売り渡すつもりはない。


どんなに貧乏をしても今日の米代に困っても売ってはならない物がいくつかあると考えている。


その一つが思い出なのだ。

キザに聞こえるかも知れないが男は売っても思い出は売りたくない。


ただただつれづれなるままに思いつくまま駄文を書くのが私には似合っているのだ。


来し方を
振り返見れば
はるかなる
時の向こうに
蒼い夏あり 東月詠