例年は仲秋の名月とは名ばかりで残暑残る長月の初め…

今年はすっかり秋めき涼しさにも秋を感じる昨今


私の身の回りと云えば身内にトラブルが発生、その収拾がつくと思ったらS君の異義申し立てが却下となり一抹の寂しさを感じる。


久しぶりに出入り禁止にしていた若手に連絡をすると御母堂が先月のお盆明け十七日に亡くなったとのこと…

放火で囹圄の身のI君の前職、ローソンに対する損害賠償の件、刑事事件の応援…

私自身の裁判etc…


秋風が吹くと何か寂寞たる思いにかられる。

年を重ねたせいであろうか。

ゆっくりと伽羅の香を焚き名月を愛でれる事に幸せを感じねばならないのかも知れない。

東北だけでなく今年の天変地異は各地に被害をもたらしている。

心より被災地の復興、復旧をお祈り申し上げます。


千葉地検から千葉刑務所に送られた私は朝までグッスリと眠りこんだ。

逃亡中の心身の疲れが一気に出たのだろう。

朝起きると朝の点呼で担当の刑務官が回ってくる。

刑務所に入ると、その日から名前は消え去り番号となる。

独房では一人で寝具を片付け中央部分に座っていると担当が副担を連れて点呼、点検に回ってくる。

自分の番号を大声で発すると担当が良しと言って隣へと行く。


その後は簡単に房内を掃除して整える。

次は配食準備だ。

皿や椀用意と配食係が言って小さい房の出し入れ口に出すと食事がそこへ入れられる。

千葉の朝はパンが多い。

食パンとマーガリン、ジャムかコッペパンにマーガリン、ジャムが普通である。
それに僅かな野菜が付いたりチーズが付いたりする。

食事時間は配食から合わせて10分もすると今度は

空下げと叫びながら配膳夫が回ってくる。

私のように食べるのが遅い人間には中々これが苦痛でで結局残したまま、機械的に下げられていく。

食事が終わると洗濯物の交換が始まる。

掃夫に下着を入れて貰い、すぐに着替えて出すのだが毎日の交換で清潔だと思われるが

その元の下着が誰がどれだけ履いたり着たりしたか知れない。

白いシャツやパンツに当たるのは月に一度あれぱいい方で他の29日はベージュか薄い茶色に染まった下着でまず外で普通の生活をしていた人間はこれに慣れるまでに相当な日を要する。


変に潔癖な私はこれには参って自弁の物を購入出来るまでは本当に病んでしまう。

外では当り前の物が中での生活では重宝、あまつ同囚との競争心さえ芽生える。

箸一つから手拭い、歯ブラシを競い合う。

スリッパや運動靴などは級によって購入できないシステムになっている。

ちなみに拘置所からは持ち込める物で刑務所で購入出来ない物、差し入れでしか買えない物などで囚は大きい顔をする。

まったく笑話にもならない。

私は豚毛の歯ブラシと書物の差し入れを良く頼んだ。
収監された翌日、私には嬉しいことがあった。


簡単な紙張り作業をしていた私に担当が

「面会だ」と伝えた。

昨日の今日、それも大阪から離れた千葉である。

千葉の獄は面会所まで中庭を歩く。

夏とはいえ緑が多くて爽やかな気持ちになる。

面会所に着くと大阪の倅達が来てくれていた。

有難く嬉しい限りなのだが、その心中や手間を考えると切なくなる。

私は敢えて明るく振る舞った。

倅達はアクリルの格子越しに何を思ったのだろうか…

一般の囚は拘置所か分類刑務所で色々な考査や適性検査があり、そこから長くを過ごす刑務所に送られることになるが

逃亡から収監となった私は千葉が分類刑務所の代わりとなった。


知能検査から手先の器用さ、漢字の検査まである。


その間は独居なので紙張りをした。

千葉か近辺の土産物袋を折るのだが、慣れると単調でやってられない。

こういう作業もベテランの囚が教えてくれるのだが同じ囚人の中にも色々な人間がいる。


後にDNA鑑定で再審無罪となった人間は私の舎の計算夫-すなわち一番の権限を持つ囚であったが、陰険な男で私らが少しでも反抗心を見せると食事の量を少なくしたり空下げを早くしたりと官も目をつぶっていたが大概ひどいことをして同囚をいたぶっていた。


かと思えば材料を入れに来る同囚は

「真面目にやらなくて適当にして下さいよ」と
気遣ってくれる人間も少なからずいた。

特に担当でえらく私を気に入ってくれ夜勤の度に暇があれば私の房へ来てくれ世話を焼いてくれた親切な心ある官もいた。

ヤンキー上がりの官たったが今も心に残る男で私を囚人としてでなく一人の男として扱い観てくれていた。

私の逃亡や罪状を知っている官はあまり私を相手にしたくなかったのだろう。

或る程度の事は目をつぶってくれた。

どちらかと言うと庇い合うべき先述の計算夫に悩まされた。

少し獄中生活に馴れて来た頃また担当から
「面会」の声がかかった。

今度はまったく心当りはなかったが何のことはない天敵であった私担当の検察官の横田氏らの面会でその時、初めて次郎のマスターの行動や所作を聞いた。


横田氏も
「あのマスターは男前」と褒めちぎっていた。


私は病気の事もあり、大阪いや関西、近畿の刑務所の幹部に根回しをしていたので簡単に考えていたが、それがバレていたのか、さたまた千葉で収監されたからか護送車で連行されたのは関東の果て栃木の黒羽刑務所であった。

暖かい千葉とは比較にならぬ寒さの地、夏は過ごし易いが冬は長く寒い。

私はまず此処へ送られた。
入所日から新入訓練である。

刑務所内での規則を身体に覚えさせ規則や決まりごとを教え、簡単な作業と訓練の毎日である。


まあ刑務所などという所は完全な治外法権の場、囚を手なづけ逆らわないよう徹底的につぶしにくる。


朝、舎房から工場へ出役、素っ裸になりガンガン踊りをして作業に入るのだが

朝、トイレに行けなかった連中が当り前でいる訳だが
「用便をお願いします」と手を上げて言っても中々行かせて貰えない。

「休憩の時間が判ってんだから、身体をその時間に合わせろ」と…

あちこちで垂れ流しが出現する。

だいたい刑務所では官は囚を人間と思っていない。

私にもそれが徐々に理解ってくるのだが…

負けん気の強い私はそれでも恐らく黒羽で一番、官に逆らった男だ。

その返しは陰険且つすざまじかった。

入所後、工場に配属された直後は強面の担当、田村も私を上手く利用し難しい部屋へ入れ外交問題にも発展しかねない中国人や根なし草で開き直った連中を抑えるのに私を重用した。


病棟工場は特に癖の強い人間が集められるが私は入って二日後には部屋を仕切り病棟工場で一目おかれる存在となった。


何事も初めが大事である。
入った初日に私は大上段から勝負に出た。

人生、賽の目丁半博打である。

丁と出るか半と出るか私は工場、部屋に入る時にこれ以上に折れないほど腰を折った。

後に勝負に出るには腰の低さが効果的だ。

明日は工場配役、寝つかぬ私は色々と想定してる間にいつしか眠りについていた。
窓開けて 明日も雨かと 一人ごつ 我が身ひとつの 長月の夜


直前まで長男と話しながらアドバイスをしていた私は我が身ではなくとも我が身の如く腹を括った。


自宅の前には刑事が見張り待っていると言う。

祖母と母親は

「ちょっと聞きたい事があるだけだから」と

刑事が言ってるから、その日のうちに帰れると甘く考えているようだが、周囲に経験者を少なくなく知る私には逮捕から拘留までは十分に読めていた。

いや確信していた。

おまけに当時は警察とも蜜月の関係であり逃亡の身でありながら倅たちの事件の概要や進み具合、それに共犯者の供述も少しずつ耳に入ってきていた。

そうなると祖母や母親のように脳天気に笑っておれない。

だいたいに於いて人生を舐めて甘く生きている人間ほど窮地に陥ると慌ててパニくる。

こうすればこうなるという単純な筋読みさえしないからだが

砂漠の駝鳥宜しく自身に不都合な物事からは目を逸らし直視しない。

連行された倅たちは東住吉署管内で事情聴取から予想通り逮捕に変わり帰れなくなった。

母親や祖母は相当抗議したようだが警察は一旦手の内に入れれば逃がすほど甘くはない。

そして何も出来なくなった、その時だけ私にSOSが来る。

まあ今振り返ると都合良く上手く使い続けられたものだ。

経済的な事を含めて、いざ自分たちの手に負えなくなってから急にSOSとなる。

しかし倅たちの事、仕方ない。

私は日頃から何かと世話になっていた学生時代からの先輩であるN社長に電話を入れて適当な弁護士は居ないか当たって貰った。

倅は双子だから二人の弁護士が必要で、なおかつ二人が連絡を密に取れる関係でなければならない。

N社長自身、信頼出来る人間なので専任まではお願いした。

結局、M弁護士とK弁護士を専任した。

すぐに接見に行ってくれるようにN社長を通じて依頼した。

なにぶん倅たちも初めての事、焦っているに違いないし弁護士の専任の仕方も分からないはずである。

私は自身の裁判時と同じように警察から流れてくる情報に合わせながら倅たちから聞いていた事を擦り合わせながら随時、弁護士に指示を出した。

これが難しかった。

私と繋がっている刑事以外は逃亡の身である私を当然のように収監、逮捕を狙っている。

その情報も私側の刑事から刻一刻と入ってくる。


私はファックスよりも、それを逆さに利用して京都から投函しては愛知の名古屋で一旦下車して投函、そして東京や横浜のあちこちから投函した。

夜はホテルでその書面を作るのに専念した。

弁護士はとにかく金だ。

車にガソリンの如く金や物を与えないと動かない弁護士がほとんどだ。

弁護士資格を持ちバッジを付けてる一商売人に過ぎないのだから当り前と云えば当り前なのだが…

それを一般の人や初めての人は弁護士は善意で動いてくれ、おまけに弁護士の言う事が全面的に正しいと思っている。

これは大きな間違いで私は多くの弁護士と関わってきたが弁護士の良心、正義から動いてくれた弁護士は戸谷先生と鈴木一郎先生の二人しか知らない。


ヤメ検などと言ってもてはやされているが、元検事や判事ほどお金が好物なようだ。

刑事事件と病気だけはやり直しが効かない。

そこだけはお金をけちらず自分が納得出来るところまで頑張るべきだと思う。


自分で言うのは何だが倅たちの弁護は八割方は私がした自負はある。

結局、拘留二回の末、鑑別所に送られ不処分という玉虫色の判決?で出る事になったのだが逃亡中の私は表舞台には出れない。

おいしい所は全てO一族だ。

もっとも出れぬ私も自業自得なのだが…

肩の荷が降りた私はその頃は逃亡に疲れ横浜の街に潜伏していた。

たまに東京に出るのだが銀座で或る店で気に入ったシャツやズボンがあり、サイズ直しの為に翌日に改めて出向くと私服刑事が見張っていたという事も何回も続き、いよいよ身辺が狭くなっていくのが日に日に自覚するようになった。

その頃はOが付ききりで居てくれたが当初、Mが付いていた時、足立区を見学がてらに行った際、足立区の夜は暗い。


犯罪の多い街で私の潜伏にはもってこいだと勧める人間が何人かいた。

ところが、そういう所は逆に警察の監視が厳しく一時間も走らない間に車を止められた。

間の悪い事に運転手のMは覚醒剤での前がある。

AB照会で出たのだろう。

身体検査から車の至る所まで捜査し出した。

私は逃亡者である。
落ち着いてる場合ではない。

本能的に車から降り少し走って曲がり角を曲がり見えなくなるなりタクシーを拾って都心に向かった。


僅かな逃亡期間中、いくど肝を冷やす事があったろうか。

ああいう生活を続けると本当に心身ともに疲れてしまう。

私のように意地があっても何があっても、やはり逃亡はすべきではない。

もっとも、それなりに覚悟をすればとは思うが思った覚悟の十倍の苦しさがある。

本当に映画やテレビを地で行くようなスリルとサスペンスがある。

しかし今考えると、やはりテレビや映画だからいいのだ。

身辺の狭まった私は千葉にも入るようになっていた。
ゴールや目的の無い果てしなく続く旅

結局、完治しなかった腎臓が痛み眠れない日も続いた。

今も慢性化した腎炎が痛む。

東京でも最初の頃に良く使った京王プラザも使えなくなり都内はほとんど宿泊できなくなっていた。

初めの頃、親方宅へ寄ったり親方からの縁のEさんとの喫茶が懐かしく思われた。

毎日のように馬車道を下り伊勢佐木町で時間をつぶし…

たぶん付いてくれていたOもうんざりしだしていたのだろう。

Oの顔にも疲れがはっきりと出始めていた。

当事者の私も疲れるというより腎臓をこじらせてしまったゆえの痛みや持病の狭心症や不整脈に悩まされ

どうにでも良く思えてきだした。


意地で選んだ道だから後悔こそ無かったが虚無感が襲うようになった。

逃亡を続けるのは意地から惰性に変わっていた。

夏の陽が煩わしかった。

合間はOを自由にさせたがそれでも家に帰る間もなけりゃ遠出も出来ない。


おまけに私の我が儘にはうんざりしたろうと思う。

Oが一番尽くしてくれた。

すべてを放り出し私に付いて尽くしてくれた。

感謝の言葉が見つからないほど尽くしてくれた。

地元の奈良に置いた奥さんやお嬢ちゃんを思い心で泣いていたのだろう。

あらためてOと御家族に深くお詫び申し上げます。


大相撲の夏場所が始まった頃、千葉船橋から幕張へと移った。

意外にホテルが少なく客の出入りが激しく紛れやすいと幕張の東横インに部屋を取った。

チェックインもスムーズに済ませたと思っていた。

その日は疲れて近くに食べる所も無いので近くのコンビニで餌を買って部屋へ戻った。


薬は大阪の中学時代からの後輩Kが取りに行き送ってくれていた。

衣類の夏冬物の交換もKが管理してくれクリーニングまでしてくれていた。

私はこの逃亡中、どれたけの人達にどれたけ有形無形の迷惑をかけたのだろう。

常用の薬と別に腎臓結石を溶かすために流石茶を飲み腫れを引かすために抗生物質を飲み痛みを収めるためにロキソニンやボルタレンを飲んだ。

ため息しか出ない夜だった。

日中はホテルに居ると疑われるので外出を心掛けていた。

Oに館内電話で

「明日一時に部屋へ来てくれ」と言ってその日は早々に床に就いた。

京王プラザやプリンスやオークラ、オータニ、伊豆、箱根、熱海のホテルや旅館と違い薄暗い灯りの中、安物のベッドがあり空間がほとんど無かった。


夜、天井を眺めながら来し方を思った。

おふくろの死が一つの節のように思われた。

何があっても、どんな状況でも私を愛してくれた人を思い涙が出そうになった。

朝方ようやく、まどろみの中に落ちていった。

あまら眠れず十時頃には目が覚めた。

時間変更を知らせようとOの部屋に電話したが繋がらない。

嫌な予感がした。

携帯に電話してみたが、こちらも電源が落としてあった。

自分で焦るのが判った。

念のためと部屋のドア窓から廊下を覗くと廊下の両端にぎっしり人が並んでいた。

見るからに刑事と判った。
慌てて私はベランダから階下を覗くと裏の駐車場にも警察官がいっぱいで溢れて私を見ていた。

私一人を捕まえるために何人の警察官、刑事が動員されたのだろう。


私は諦めてドアを開けると私服の刑事たちが部屋になたれ込んだ。


私が
「ジタバタしないから着替えさせなよ」と言ったら、ようやく責任者が落ち着き「判った。拳銃は持っていないのか」と尋ねた。


私は一瞬何が何が分からずキョトンとした。

逃亡だけでも逃亡罪が足されるのに銃刀法が重くなった今現在持つはずがないと心で笑った。

千葉県警は千葉県警で誰かからタレコミがあったらしい。

私はスーツにワイシャツを身に着けネクタイを結び終えると
「お待たせ」と言って自分から両手を差し出した。


責任者の刑事が私の両手首にガチャンと重い手錠をかけた。

廊下に出るとOが神妙にしながら私に頭を下げた。

私も「ありがとう。悪かったな」と言葉をかけてエレベーターに乗り込んだ。

昼前のホテルは大捕物に騒然としていた。

私は覆面に乗せられそのまま千葉の検察に回って引き渡された。

千葉の検察は情があり優しかった。

倅にだけは捕まったことを伝えたかったが刑事連中はいつもの事ながら電話もさせてくれない。

検察ではお茶を出してくれ倅に電話をさせてくれた。
「たかし、パパ捕まったわ。当分会えねえな」

電話の向う側で倅の動揺と弱々しい声が聞こえた。

「なんで」

倅たちは私の逃亡の身を知らなかったのだろうか。

いやそんなはずはない。

倅たちが逮捕された時、私を引っ掛けに警察は動いている。

知っているはずだが実の父親が逮捕されるのを受け止めれる年齢ではなかったのだろう。

たしか高校二年のはずだった。

私はそのまま検察から千葉刑務所に護送され収監され私の逃亡劇は終わった。

検査が一通り終わり舎房に連行された時は正直ホッとしてそれまでで一番眠れた。

追われる心配も何もない部屋で思い切り大の字になった。

大先輩の野村秋介から岩丸幸生、加茂田組長とお歴々が務めた獄である。

先輩たちはどう過ごしたのだろう。

思う間に眠りに落ちていた。

目ざめれば 蝉の鳴き声 千葉の獄
花冷えの夜、私に付いてくれていたOはその日、私用で出ていたが、その出先から急ぎの連絡が入った。


逃亡中は自身の車も又、特定される車もNシステムと呼ばれる自動で車のナンバーを拾うシステムから居場所が特定されるので乗れない。

定期的に変えるか私の足のつかない、また私と繋がらない人間の車でないと使えない。

持病を持ち身体の不調が続いていた私にはそれが物凄く負担となった。


二十年近く新幹線以外は電車に乗ったことのない私もこの時ばかりは電車やバスを出来るだけ使うようにした。


大学時代以後、久しぶりに乗る京都の市バスはなかなかオツなもんで妙に安心感もあり楽しかった。

同様に携帯電話も現在ほどではないが100メートル圏内は特定出来るようで私名義は勿論、私に繋がる関係の人間の物は使えず、それでも念の為に月に一度は二台ずつを交換していた。


私の地元の土建屋の社長が社員名義で取得し全国の何処へでも宅急便で送ってくれた。

これは有難かった。

このT氏は私たちが幼い頃、地元で有名なヤクザの親分でその長男として蝶よ花よと可愛がられた結果、親の七光りでやりたい放題をしていたので評判の悪い人間だったが縁あって付き合ってみると中々味のある、おもしろい男で少なくとも私に対してだけは義を尽くしてくれたように思うのだが…


ただ周囲に云わせれば私が居て、在してはじめてで私が収監された後は私の周囲には冷たかったように聞いた。

やはり頭の天辺から爪先まで商売人で足算引算で生きていたのだろうか…


或る時などT自身も保釈中の身であるにも関わらず危険を犯して私の潜伏先の京都のステーキハウス次郎まで陣中見舞いとして携帯と見舞金を届けてくれた事がある。


京都祇園の有名な名物マスターが経営するこの店はマスターの徳からか全国から芸能人やヤクザ者、不良が集まり、いつも賑やかな店だった。

私の大学時代、友人の多く居た立命館の応援団の一回二回生はこの店でアルバイトするのが習わしだった。

マスターは祇園という街の顔役であり商店会の役職にも付いており、空手の達人にして出雲の阿闍梨、また私が後に行く刑務所の慰問も務める人格者であり人徳者であり私の先輩に当たる。

応援団の連中の結婚式に出席すると必ず来賓として呼ばれ一芸を披露していた。
或る年の春先、横浜のパンパシフィックホテルで同期の応援団長の結婚式が行われた。

そこで少し話した後、私は翌日所用が入っており新横浜の最終にどうにか飛び乗った。

翌日、京都の伏見で用件を済ませた私はベントレーで道中にある店先で油を売っていたが、そこに偶然、何と次郎のマスターが現れ驚くとともに縁を感じたことがある。


私のような遥か年下の人間をも決して見下さない大好きな人である。

京都に潜伏するようになり私は、くれしまと何か客の時はこの次郎に招いた。


それを検察や警察は掴んでいたのだろう。

私がT氏にこの次郎を指定した十二時の一時間前まで前の道路に京都府警の警察官が何十人と配置され私を待ち構えていたという。

後に収監された千葉刑務所に面会に来た検察の横田氏から聞いたが

次郎のマスターに
「次に私が店に来た時、検察か警察に知らせるように」と言われたマスターは

「後輩を売るわけにはいかない」と断固、拒否してくれたという。

思い返せば確かにその日のマスターは言葉も少なくいつものマスターらしくなく緊張気味であったように思われる。


一時間、一歩間違えば次郎で又マスターの前で大捕物があったのであろうから…

話はすっかり逸れてしまったがそのT氏の用意してくれていた携帯電話にOからの電話が鳴った。

出るとOは慌てながら

「実子が二人とも逮捕状が出るようです」と

私は「私の件でか」と高鳴る胸の音を感じながらも静かに聞いた。

「いや友達連中と喧嘩したのが二ヶ月も経った今、一緒だった友達全員が逮捕されて実子も時間の問題らしいです」と答えた。

また厄介な時に厄介な事を…

私は早くに別れて一緒に暮らす事の少なかった子達に特別の愛情を持ち何でもかんでも助けて所謂、可愛い甘い父親になっていたようだ。

中学生になった倅たちが何かトラブルを起こしても私の後輩やその流れの人間が出て収める。

何度あっただろうか。

チンピラと揉めても私の後輩が出て次に舎弟が出て、私が現役の連中と飯を食ったり飲んだりした時にポロッとその事を話すとまたまた蒸し返し先方の事務所の連中が呼び出され私の倅たちに頭を下げさせられる。
若い頃はこれを錯覚して自分自身が偉いんだと思ってしまい余計に無茶をしてしまう。

私の倅たちも同じだった。
挙げ句、やりたい放題で狼藉を働いた。

その結果である。

父親としてその責任はしっかり取らねばならない。

倅たちは高校一年か二年だったように記憶する。

当り前の嫌いな私は倅たちに不良をするならちゃんと高校へ行き大学に進学しろと普段から言っていた。

私の信条でもあるのだが学生時代、牛乳瓶の底のような眼鏡をかけて成績が良かっても当り前で誰も目に止めてくれない。

勿論、その成績が東大だの何だのと飛び抜けていた場合は別だが。

逆に長ランを着てブカブカの所謂ゴケヤンなるズボンを履いていて成績が悪いのも同様だ。

生きていくにカッコいいのは、あくまで私の私見ではあるが見た目も素行も良くない、但し非行でなく不良が条件である。

それでいて新学校に在籍していたり、それなりの大学に入っていればと…

かくいう私もそれを目指しながら、もがきながら最低のラインの立命館に入学したわけだが、当時の東住吉、平野地区の愚連隊仲間で大学へ行っていたのは私だけであった。

後に兄貴分になる杉本弘などもそんな私に目を留めてくれたのだと思う。

その後の政財界の先達や不良の先輩たちも私のそこを買ってくれたと思う。

人生においてアンバランスやギャップは或る所では武器になる。

倅たちを増長させたのは私だ。

その結果の犯罪、逃亡中とはいえ私が責任を取らねばと覚悟した。

すぐに倅たちを南森町まて呼び出し私は京都からタクシーで迎えに行った。

夜も十二時近かった。

合流しタクシーに乗せこむと再び京都に向かった。

あらかたの話は倅たちから聞いたが疲れているようなので、その日は早く、といっても二時を回っていたが寝かせるようにした。

下手な流れになると親子三人で逃亡しなければならない。

私は泣きではないが身体も万全ではなく悲壮感が漂った。

ただその素振りを父親である私が見せると本人たちはもっと弱気になり悪い方向に流れる。

倅たちを宿に送ると私も自分の宿に向かった。

寝不足の上、疲れてるはずなのにこういう時は妙に覚醒され眠れない。

朝までこれからの事を考え、いつのまにか眠りについていた。

翌日は倅たちを元気づけるためと何よりかにより体力という事から西院近くの居酒屋でOも交えて今後のこと、私の弁護士連中からの情報、それに対しての対応の仕方などを話した。


さすがに初めての逮捕が目前に迫り倅たちの顔も暗く生気がなかった。

三日ほど京都市内に滞在したが私は追われる身、一ヶ所に長居は無用、次郎で食事を済ませ一号線を走り大津のプリンスに宿を取った。

此処はロイヤルオークホテルとともに私が昔から何かの時に愛用していたのだが京都の少しほの暗いホテルの部屋と違い高層階は特にガラス張りで外光が射し込み明るく気もなぜか明るくしてくれる。


倅たちも過ごし易いホテルが気に入ったようで育ての親、祖母、それに長男の彼女が訪れた。


逃亡しながらもストレスで食欲が旺盛だったのか食い道楽からか石山寺の松木にステーキを食べに行ったりした。

その後、母親(私の昔の女房)方の祖母が素人の浅知恵から、これだけ日が経っても動きもないし誰も来ないから家に連れて帰るという。

私は少し反論したが聞く耳を持たなければ最後は感情的になりロクな結果にならない。

私はしぶしぶ承諾した。

倅たちの事件で私の件とは別に警察内部では本部が設置され罪状も

強盗傷人というおどろおどろしいものになっていた。

無学は国の責任であるが人の言う言葉に耳を貸さないのは親の躾、教育である。
私の昔の女房の家系は我の強いこの種類の人間が多かった。

もっとも女房の末妹や幾人かはまともな人間も居たのは居たが…

教育を受けていないだけでなく、親からまともな躾を受けていないのは或る意味で不幸である。

くわえて貞操観念まで薄いこの伴侶とは早くに離婚し縁を切ったが子供たちはそうはいかない。

まがうことなき私の血を継ぐ縁である。

出来る事はしなければならぬ。

親は子を選べるが子は親を選べぬ。

後にこの女は私の先輩H氏の若い衆の若い衆、いわゆる枝のT石と一緒になった。

ややこしい事にこのT石は私より十才ほど年長だったが、私の所に居た舎弟、平野のTとは同じ親分を持つ回り兄弟だった。

この女は昔「姐さん」と呼んでいた人間の兄弟分と一緒になったわけで、私の周囲も扱いにくく困惑、合わす顔も呼び方もなく避けていたようだ。

私もT石の話が出る度に顔から火が出るように熱くなった。
別れたとは云え狭い不良の世界、チンピラと一緒になられたら私の顔や立場はなかった。

そのT石と一緒に地元の駅前で居酒屋をしていたようだが自分たちで飲みつくした挙げ句、長く続かず早く店を閉めたようだがアチコチの組織から追込みがかかっていた。
その中には私の知り合いや後輩も混じっていたので昔のよしみ、その分は握って貰ったが…

閑話休題

現実は小説より奇なりとは良く言ったもの。

一時期でも同じ時を共有した身、早く人としての衿持、節操を持ち今後の人生を少しでも豊かに送って欲しいと思う。

そう考えると家の違い過ぎる、また環境や状況の違い過ぎる者同士の結婚はやはり上手くいかない。

箸の上げ下げ一つから家訓に至るまで違うし幸か不幸か金銭を勘定せぬ謹厳実直を絵に描いた私の親族、家の中で育った私と算盤勘定だけの自営業のO家では何から何まで違い過ぎた。

曲がりなりにも教育者や事業家、それに市長の叔父を持った私はグレるまでは、それなりの家庭環境で育った。

幼い頃から姉のピアノの流れる空間で過ごし続かなかったが私自身も習わされた。

家には祖父母の残した蔵書が山ほどあり小さいながら花鳥風月を味わえる家で育った私と感性が同じはずがない。


無論、それは初めから判っていた事なのだが…

これから結婚する読者諸賢には私と同じ轍をふまないように心して欲しいものだ。

いわゆる
「お里が違う」
過ぎるのだ。

しかしながら間違った結婚とはいえ余計に子達は不憫である。

私は愛情を注ぎこんだ。


生みの親より育ての親、O一族に従うしかなかった。

大阪に帰すと一週間も経たない間に私の予想通り倅たちは逮捕された。

それも警察に協力するように倅たちを警察に差し出した。

つくづく思う。

無学と家庭での躾や教育を受けていない事は悲劇である。

お陰で此処から又私の悪戦苦闘が始まる。

季節は桜を散らせゴールデンウィーク真っ盛りであった。