秋の匂ひが急にするようになった。


今年の夏が短かったというのではなく今年は夏らしくなかった感がする。


あめつちの怒りか異常気象にあちこちでの地震、天変地異…

ダウンタウンの松本人志さんの御尊父が亡くなられたらしい。


松本さんらしく笑いに変えようとしていたが今回はさすがに観ていて少し無理があった。

ツイッターを読むと感性、感受性の強い彼の凝縮した慟哭の言葉が並んでいた。

一緒に食べたチキンライス、一緒に行った太陽の塔…
私も松本さんと同様に実の父親と折れ合いが悪くほとんど接する事もなかった。

最期に目を瞑った時にどういう感や思ひが襲うのだろう。


心より御冥福をお祈り申し上げます。合掌


五條病院へ抗生物質と痛み止めを点滴しに朝昼晩と三回、二日通い痛みも少し薄れ熱も微熱まで下がった。

私は逃亡の身である。
いかなる理由があれども一ヶ所に長期間留まる事が出来ないのは自覚していたし覚悟もあった。


三日目、何か嫌な感じがした。

Oから呼びつけられ急遽、五條入りしたSもリバーサイドで合流し協議したが私は治療中の身体でなお逃亡の道を選んだ。

Sはさすがに黙っていたがOは身体の心配をして出頭も視野に入れていたように思う。


私は決断すると二人を促し部屋を片付け移動の用意を急いだ。

まだ完治どころか取り敢えずの対処療法で熱を下げ痛みを抑えていただけである。

少し動く度に痛みが襲った。

とにかく五條を離れねばという思いだけで橿原神宮付近に移動し寝ぐらを確保した。


五條のOは自宅へ一旦帰り朝晩と桜井の病院へ送り迎えをしてくれた。

とにかく腎臓の腫れを取るために抗生物質が点滴でも服用でも必要だった。


後に知る事になるが私がリバーサイドホテルを出た一時間後に検察の横田チームと警察がホテルへ踏み込んだらしい。

私が出たのを知って五條病院へも行ったらしい。

後に知ったとは云え冷や汗が出っぱなしだった。

こうしてる間も検察は私の身内や友人、知己に迫り追及の手を緩めなかった。

奈良もいよいよヤバイと判断した私は大阪を横切り一気に神戸に入る決心をした。

Sは用事があり一時、静岡に帰り再び神戸で合流する予定だったが…

西名阪から阪神高速を通り大阪の街を眼下に観た時はさすがに切なくなった。

俺はいつまでこうして追われる生活を続けるのだろう。

頭にボヤーッと逮捕される時の場面が浮かんだ。


神戸線を西へ走り神戸に入り、そのまま新神戸オリエンタルホテルへと向かった。

このホテルは不良の大先輩の宅見若頭が暗殺された所で神戸では新神戸駅へ直結していて便利で皆が結構つかっていたが暗殺事件以後は警察の出入りも激しく不良は少しずつ減っていた。
それに私は身体も大きく、いくらおとなしい服装をしてもまっとうな人間には見えない。

自業自得、来し方と云えばそれまでたが…

完治していなかった腎臓は痛んだがジッとしていれば捕まる。

取り敢えず何でもかんでも抗生物質を手に入れて服用した。


微熱もまだ続いていて丸二日間、部屋に籠もって過ごした。


三日目、静岡のSと合流したが再三再四に渡り仕事を疎かに家に帰らぬSの奥さんが何かを感じたのか


何を考え血迷ったのか、その時、私の一番恐れる兵庫県警に捜査を以来した。


移動して三日、まだ治らず微熱のある身だが焦った。
即座に身支度を整えたが先にホテルの部屋のチャイムが鳴った。

覗き窓から覗くと刑事と制服警官が並んでいた。


私は腹を括ってドアを開けて刑事を招き入れてSが何やら聞かれてる間に背後から部屋を出て一気に一階まで下り待機していたOのセルシオに乗り込み、とにかく出来るだけ離れてくれと荒い口調で言った。


S夫婦は私が逃亡しているのは武士の情けで兵庫県警には伏せていたのか


はたまた兵庫県警の失態だったのか。

長く私の逃亡に付き合い、支援してくれたSの顔はこれ以来観ることはない。


見かけに寄らず男気のある心ある男だったが逃亡という特殊な心理状態にある私に愛想をつかしたのだろう。

今となれば感謝と猛省しかない。


Oとそのまま名神を利用し京都へ入った。

京都は私が立命館大の時に過ごした街で勝手知ったる街である。

行く所へ行けば路地の一本まで知っている。


当初、京都駅裏にある新都ホテルに部屋をとった。

まだ腎臓は痛み微熱は続いていた。

旧知の友に連絡すると何処からともなく抗生物質を持って来てくれた。

大阪からも電話をすると中田氏が飛んで来てくれた。

裁判中ずっと世話になった人間で、いつも我儘な私に付き合って無理難題を聞いてくれた。

さすがに年をとったからか最近はとんと顔を見せてくれないが…

現役ヤクザのA氏も来てくれ再開を祝い飯を食った。
舎弟のNやS、Kも来た。

悪友のKは呑気に仕事の案件を持ってきた。

その頃の私はもう仕事どころではなかったのだが…

大学時代の友人、一郎、二郎が百万遍と京大農学部前でくれしまという居酒屋を開いていたので何もない時は夜はその店ですごした。

逃亡中とは云え平穏な日々に戻りつつ私に耳を疑うような事が転がり込んできた。


ここから私の生活は又、スリルとサスペンスの中に戻る。

結局、逃亡などという法に挑戦する行為はいつも何かに怯え落ち着く時がない。

引き返せるなら引き返したいと思う事が増えていた。

京の桜の一番美しい頃だった。

散る桜も、残る桜も散る桜。

自身の逃亡に果てのない事が次第に分かってきていた。

花曇りの京の街は例年になく冷え込んでいた。
今年の夏は異常に雨が多い。


兵庫や京都で被害は出ていたが広島の安佐南区で大変な被害が出てしまう今更ながら自然の猛威には抗えない人間の弱さを再確認する。


亡くなられた多くの方々の御冥福をお祈り申し上げます。

それにしても今日も雨が散らついていた。

湿気の多い蒸す日本の独特の夏だが…


私は応援していた大阪拘置所に一年余り座って無罪を争っていたS君が先週の面会でその朝、最高裁から上告棄却されたと知らされ自分ごとではないが気分の晴れない日が続く。


そのS君からの伝言でF君に会い案件を進めているのだがこれ又厄介であるが今日も関係者が雁首を揃え話し合った。

何しろこれから下獄するS君に少しでも持たせてやりたいと…


外に在する者は何だかんだ文句を言いながらも動く自由がある。

仮に私のように動けなくとも今の時代は携帯電話もあり、連絡を取り合い情報交換も仕事もこなせる。


中、すなわち拘禁の身はそうはいかない。


それが一般の人以上に理解っている故、代わりに頑張ってやらねばならない。

外に居る人間が今頃、中で大変だろうなと思う十倍は中が辛いもの…

S君の修養生活の無事と早い社会復帰を願う。


私の逃亡生活に戻るが静岡に滞在した十二月から翌二月までが逃亡中で一番、安定した日々だったかも知れない。


擦れ切った心身を癒すことも多少は出来た。

東京で旧知の連中ともあったり年末には河童連なる祭りと芸能関係の若手が作った団体の設立パーティーにも出たりした。

奇人俳優の中山和也などは
「えっ今、逃亡してるんすか」などと驚きつつも遅くまで語り合った。

年末の永ちゃんの武道館公演は一度でもの足らず新幹線に飛び乗り二度楽しんだ。

名古屋にも行ったから
この年は計三、四回行った。

七月生まれのCちゃんを思い出させる「真っ赤なルビー」が久しぶりに歌われ


その時の私のためのような「逃亡者」を永ちゃんが歌った。

ランナウェイ 東へ向かえば…
答えなど ないと分かった…

本当にこの歌は心に突き刺さった。

年末年始はグランヴィア静岡に引きこもりゆっくり過ごした。

年越し蕎麦が振る舞われ他のお客さん達と他愛ない話を楽しんだ。

駅の地下に美味しいステーキハウスがあり、ストレスからか良く通った。

店長や店員の皆さん達はしょっちゅう食べに来たり持ちかえる不気味な私をどう見ていたのだろうか。

見るからに普通でない私に何かは思っていたはずだが…

静岡の中心部にあったグランドホテルの中華、海鮮丼も美味で通った。

心身ともに緊張の極致に居た私は食べることしか欝屈した何かを発散することが出来なかった。

でも静岡で比較的に落ち着いたゆっくりした日々を過ごせたのはひとえに静岡在住のS氏のお蔭に他ならない。

改めて感謝申し上げます。
そのS氏も逃亡者である私の面倒見、我が儘に疲れたのか或る夜、約束していた時間に現れず電話連絡も取れなくなった。

私はSが警察か検察に押さえられたのではと焦った。
ゆっくり過ごした静岡の三ヶ月だが一ヶ所のホテルにずっと滞在することはホテル側にも訝しがられるし、不信感を持たれる。

それ故に基本的にホテル、すなわち寝床は二、三日で移り変わるわけだが


逃亡の身、何もかもを持っての場所替えである。

オータクロワの特大一つにボストンバッグ二、三個を持ち小さいバッグまであるのでとてもじゃないが一人で出来ずSに車を出して貰い引っ越した。

持病の身、体調のすぐれぬ時の引っ越しはうんざりだが逃亡という道を選んだ以上は仕方なかった。


そんな私の面倒見や我が儘に疲れたのか或る夜、約束していた時間にSが現れず、てっきりSが警察に身柄を拘束されたと思った私は数年前から私の所へ出入りしていた奈良五條の好漢Oに電話をした。


何もかもを放って四時間後には静岡入りし一緒に荷物を片付け車に積み込むと東名を一路関西に向けて走った。

真夜中に五條入りした私は不信がられない為にOの友人が親しくしているというリバーサイドホテルの部屋を空けて貰い部屋に入り着替えると疲れからか翌日の昼まで死んだように眠りこけた。

起き上がると散歩がてらにホテルから少し歩いたが身体がどうもスッキリしない。

途中で田中の柿の葉寿司を買って部屋に戻りテレビを観たり知り合いに情報取りの電話を入れた。

大阪では思っていた以上に検察、警察が動き私の身内や友人、知己の周りに聞きまわり監視していた。

逃亡とはどれほど周囲に迷惑をかけてしまうのだろうか…


夕方になり、Oが一緒に食事と前後策を練るために来てくれたが体調が思わしくなく一階のレストランでの食事となったが


それでも悪寒が続き食欲がわかなかった。


早々に部屋へ引き上げテレビを観ていた。

二月の末頃だったのだろう。
朝まで生テレビが流れていた。

田原聰一郎がいつもの調子で司会を務めて進行していた。


悪寒が続いていた中、下腹部に強烈な痛みを感じた。

ヤキをくったり胸を刺されたりと大概にして痛みを知っている身体のはずが、その激痛は特別だった。

脂汗がこぼれ落ち蒼白になり床を転げ回った。

一時間ほどロキソニンやボルタレンを服用しながら我慢したが堪らず真夜中にも関わらずOに連絡し痛み止めという痛み止めを持ってきて貰ったがあまり効かず朝一番を待ち市民病院へ行く事にした。


血液と尿検査をしてレントゲンを撮り診察室に入ると結果は出ていた。

腎臓結石が腎臓からの尿管に詰まり炎症を起こし腎臓が腫れ上がっていると…

腎孟腎炎である。

そう大した病気ではないのだが痛みだけは一人前いや二人前だ。


入院を強く進められたが逃亡の身、とてもじゃないがそれは出来ず結局、抗生物質と痛み止めの点滴をして貰い翌日から朝昼晩と点滴に通院することになった。

当然、保険証はなく検査も治療もすべて実費である。
持ち金はみるみる減っていく。

それでも自身で選んだ道と自分に言い聞かせ前に進むしかなかった。


友人たちが送別会を開いてくれた時、幼なじみ連中が
「早く行って早く帰って来たら」との言葉が逃亡中、何かある度に幾度も浮かんだ。


ここから小説のような逃亡劇が始まる。
結局、私は二回目の保釈で保証金を三割上積みして翌日に出た。


今回は時間も何もが外部との連携が取れず一回目と違い表に出ると一人ぼっちだった。

大阪拘置所は都島の友淵町にある。

だいたいに於いて刑務所や拘置所は昔の脱走対策の名残りか不便な所にある。

その中で大阪拘置所はまだましな方ではあるが、それでも前の道路は一方通行の一本道でその道の向こう側は川である。

その昔は拘置所の塀を乗り越え川を泳ぎ渡った業の者もいたとか…


川の向こう側にはさざなみプラザという大型公団住宅があり、そこにも多くの不良、やくざ、夜の住人が棲息する。

仕方なく一本道をボストンバッグ一つ持ち歩いた。

一度目のような感慨はない。

通りに出て東へ少し行きファミリーレストランに入り迎えを待った。


30分ほどで若い連中が掛け付けてくれたので、そのまま四天王寺のマンションに戻った。


僅か三日ほどの粗食だがその日は無性に寿司が食べたくなり中田氏らと一緒に上六の力ろく寿司に行きこれでもかと食べた。

知らぬ間にストレスが溜まり食欲が旺盛になっていたのだろう。


二審の間、弁護士や友人達の懸命の示談交渉があり、私も直接、遺族代表の弟と会い正式に謝罪し話し合った。


その間の毎月数百万のお金を遺族側弁護士に支払っていた。

故人の実弟が私の思いや誠意を汲んでくれたのか、ほとんど示談もまとまりかけるようにみえたのだが…


けっきょく僅かなボタンの掛け違いでまとまらなくなった。


私がへそを曲げたのだが今思い返すと事件も全員が不幸なら示談、裁判の結果、判決も関係者全員に不幸だった。

私は早い時期に家を出てから何も無い自分を知り、その私が世の中を渡って行くに意地とプライドだけで生きた。

それが習い性となっていたのだろう。

その為に結局、その数倍の経済的負担をおい持病を持つ私が獄中生活を送ることになった。


日本男児に生まれて譲らねばならないところは譲るが絶対に譲れない線がある。
その譲れない線が他人より太くて濃いのかも知れない。

果たしてそれが良いのか悪いのか最期に目を瞑る時まで判らないのだが…

もっとも、そのお陰でこの世の生き地獄を見ることになった。


今過ぎた日々を振り返るとまるで映画か小説の中に居たようにさえ思える。

勿論、いつも自身で選んだ道なのだが…

この時ばかりは本当に険しい道で弱音ではないが本当に引き返したくさえなってしまった。

遺族側との示談が壊れた結果、相応の被害弁済をしていたのだが実刑は免れない。

いろいろな自分の状況や立場、例えば仕事を一緒にしかけていたり…

諸々を考えるとすぐに収監され下獄することは難しかった。

すべてに影響力を持つ後藤田先生にも周囲の人間が掛け合ってくれたりした。

また或る筋からは保釈逃亡しても追わないなどとの眉つばな話もあった。

取り敢えずは入院し最高裁へ上告し時間稼ぎをと考えたがこのような事件で最高裁が差し戻すことはほとんど0に近く三ヶ月ちょうどで棄却通知が届いた。

収監状が出るのは近いが、かかっていた仕事を途中で投げ出せば周囲に迷惑を掛けてしまう。

他にも色々な考えもあり、私は保釈逃亡の道を選んだ。

収監を延ばしながら神戸に安いマンションを借りた。
灯台もと暗しだが大阪ではあまりにも危険であり京都も考えたが知己や協力者が多い事から神戸を地盤とする事にした。

結局、後に京都に拠点を移すことになるのだが法治国家、それも整備された先進国の我が国で法と真っ向から向き合う逃亡などは許されるものでもなく、また容易ではない。


物音一つにビクビクし少し動作のおかしい人間を見ると刑事のように疑う生活は想像を越えたストレスになり心身ともに激しく衰弱する。

終わってみれば一年ほどの短い逃亡生活だったが神経をすり減らしただけで仕事など何も進まず正直、千葉幕張の逃亡先で収監された時はホッとして、その日すぐに送られた千葉刑務所が一番、安心して寝れたのを今でもしっかり覚えている。

最初の頃こそ神戸でそれもおとなしく過ごしていたが少しずつ退屈を覚え京都や時には大阪へも入った。

どうしても精神的に落ち着きにくいので東京から箱根や熱海、伊東でもゆっくりしたが所詮は逃亡者、何処に居ても落ち着かなかった。

友人や知り合いと会うのも神経を使った。

けれども誰や彼やがそんな私に会いに来てくれたのはほんのひとときであっても心が和んだ。

そんな時はやはり場慣れしたヤクザ者や不良が多かったがたまには一般の会社経営者や商売人も来てくれた。

しかし反面、持病を煩いながらも付く人間が間が悪くまったくの一人で過ごした事も何度かあった。

軽い狭心症だがそれも一人の時に発作が起こると、こんな私でも心細くなった。
まして知らぬ土地を旅している時は本当にまいった。

私の運転手兼身の回りの世話をしてくれていたMという男がいたのだが、普段は気のいい少し甘い吸いも分かった男なのだが、いかんせんルーズなのと気が効かない。


まして逃亡中の私はいつも気が張って緊張感の極地にいる。


それまでは笑って流せていた事が命取りになることもあって厳しく当たった。

感情的になり唸りつける事も度々あった。

おまけに我儘はどんどんエスカレートしていく。

今考えるとMには本当に悪い事をしたと思う。

或る日、その日は穏やかに熱海の高台にあるドーミーインヴィラ伊豆山で過ごしていたのだがあまりに暇なのでMに熱海駅まで本を買いに行かせた。


往復坂道の下り上りとはいえ31分もあれば帰って来れる距離だ。

しかし40分経っても帰って来ない。

少し遅いなぐらいに思っていたが一時間を過ぎた頃から少し首を傾げた。

携帯に電話してみたが電源を切ってある。

私は警察にでも捕まって時間を取られているのかななどと…

それでも此処は言わない。
それぐらいは出来る男と買い被っていた。


二時間が過ぎ胸騒ぎがしだした。

どうしてもおかしい。

私はその日もそう体調は良くなかった。

東京と静岡と熱海に近い人間に連絡してみた。

静岡のSが飛んで来てくれた。

有難かった。

Sと一緒に身支度を整えSの地元静岡へ向かった。

今思うとこのSも本当に尽くしてくれた。

M以上に尽くしてくれたが神経をギリギリまで張り巡らせながら逃亡している私は精神的に患っていたのかも知れない。

身近な者に当たり辛い思いをさせてしまったと収監した後、大いに反省、猛省しているのだが


残念ながら覆水盆に返らず…

人生で失ったものも多い。
失いながら逃亡を続けた。
弁解にもならないが逃亡というのは、それだけ特殊な日々が危機感の極限にある。

そんな中でストレスはどうしようもなく付いてる人間に当たったり又、過食となり体重も逃亡中ますます増えていった。

勿論、そんな経験はそれまで波乱万丈な人生を送ってきた私にも初めての事で毎日が神経だけでなく生命を切り売りシタ感が否めない。

何事にも冬来たらば春遠からずとは言うが逃亡というものにだけは終わりというものは無い。

一応の時効はあるが成立する事などない。

N会の人間がT若頭暗殺の後、逃亡し昨年も最期の逃亡者が埼玉で捕まったがやはりやつれ衰え気の緩む時が無かったという。

本音であろう。

これだけは経験した者でないと理解できないだろうし、精神状態は完全に尋常でない。

私の場合、幸いにして最低限の逃亡資金があったのでまだ多少の気の紛らわせる事も出来たが行き当たりの稼ぎながらの逃亡など不可能と言って過言でない。


そこのところはオウム真理教の連中はやった事や思想、信条は断固許されるものではないが逃亡で苦しみ今から又懲役が待っているのを考えると間尺に合わぬ事をしたと後悔の念でいっぱいであろう。


師走直前に入った静岡で私はSの力を借りながら此処を拠点に二月までの三ヶ月を送ることになる。

この静岡での生活が逃亡中では一番穏やかな日々だったのかも知れない。

駅前のセンチュリーホテルを寝床に三日四日、それまでの疲れを取るように寝たりテレビを観たりとゆっくり過ごした。

捜査の手もまだまだ緩かったからかも知れない。

神経をすり減らしながらもゆったりした時が流れた。
年末には大阪から倅たちと名古屋で合流し温泉に行ったり又、矢沢永吉のコンサートに行き刺さくれだった神経を癒せる時空も存在した。

Sに時間が空けば東京や横浜へ連れて行ってもくれた。

感謝の限りである。

真面目なごく普通のSには秘めた男気があったのだろう。

とにかく時間が空くといつも私に付き合ってくれた。
他の時は結構、気儘に静岡の街を一人で散策したりした。

又一度、静岡を旅したいものだ。

年末年始を静岡駅直結のグランヴィアで過ごした後、徐々に身辺が狭くなりだしていく。


本当に特殊な精神状態の私を多くの友人や知己が支えてくれた。

感謝の念はたえない。

改めて有難うございましたの言葉とともに衷心より厚く厚く御礼申し上げます。
行き先の終点の見えない旅はまだまだ続く。