八月に入って台風が来たと思えば雨、また雨
毎年のように異常気象が言われて久しいが今年の夏は又例年の夏と違った異常だ。
特に京都は福知山から由良川にかけて豪雨、犠牲者まで出たとテレビが報じている。
お陰様で昨夜の京の大文字の送り火を観に行けなかったが…
それも又、塞おう翁が馬
天の声なのだろう。
二十世紀の最後の年、登り坂に麻痺して「まさか」の坂を真っ直ぐ転げ落ちた。
言い訳、詭弁の類でなく本当に不本意なあってはならない事件だった。
故人は勿論、遺族の方々にも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
だから私に出来うる限りの償い-被害弁済はじめ、何事にも応えて行こうと思い実際、弁護士を通してその意志も遺族や遺族側の弁護士にも伝えていた。
金銭的にも周囲が驚くほどの金額を掲示した。
実際に保釈で出ると同時に被害弁済は始めた。
保釈までの都島拘置所は暑い時期だっただけに心臓、他を患う私には堪えた。
留置場と違い拘置所から先はクーラーも扇風機もない。
真夏の猛暑日にウチワが配られ涼を取るのだが
夜は困る厚くて仕方なく扇ぐと手を動かすという動作をするので寝れるはずがない。
私は五舎四階という死刑囚や凶悪犯を拘置する所に入れられた。
その後、一審後の再保釈も此処が私の居となった。
二畳ほどの部屋で前も後ろも鉄格子に覆われる。
かろうじて刑務官とやり取りする窓口の真下にトイレの便器がある。
それを閉めればテーブル、机となるのだが慣れるまでは便器の蓋の上で食事は出来ない。
幸いにして私の場合は友人や知己、後輩らが毎日のように面会や差し入れに来てくれ実の姉、顧問先の会社の社長、それに弁護士も来てくれ舎房からは良く出れるのだが所詮、一般面会は十分、まともな事は話せない。
念のためだが一般面会の部屋では真夏も扇風機だけだが弁護士との面会室はクーラー付きだ。
この差はいったい何なのだろう。
弁護士は公人ではなく一般の民間人で一般面会と同じように思えるのだが…
しかし弁護士面会は涼しくて有難かった。
取り敢えずは顧問だった谷口弁護士と森岡一郎弁護士でスタートした。
とにかく一度保釈で出なければ謝罪も弁済も何もあったもんじゃない。
私は取り調べで警察でも検察でも認めるところは認め是々非々ははっきりしていたのですぐに保釈は通るだろうと安易に考えていたが、これが厄介で結局、出れたのは三回目か四回目の申請で半分諦めていた時だった。
暑い夏が終わり寒くて防寒着が必要になっていた。
その頃は私もまだ多少の経済力もあり衣類から布団まで差し入れさせた。
たぶん布団まで官物でなく差し入れで自身のを使っていたのは3000人を収容していた当時でも10人も居なかった。
刑務所もだが拘置所や警察の留置場でさえ見栄の張り合いがある。
タオルの色ひとつ、石鹸やシャンプー一つで競い合う。
幼稚と云えば幼稚極まりないのだが、それが獄だ。
私のような独居はまだましで雑居に入れば、その中で序列が出来、人間の一番の本能、自己保身のために弱いもの苛めが日常茶飯事で行われる。
基本は古く入った人間からの序列になるのだがツッコミ(強姦)や小さい窃盗、チカンなどの犯罪は馬鹿にされ軽く扱われる。
保釈保証金は大方の予想を上回り八桁だった。
勿論、上告の度に上乗せされていく。
外からの電報で保釈許可を知らされたが担当にも中々伝わらずヤキモキした。
夕方やっと用意になり外の空気を三ヶ月ぶりに吸ったのは夜になっていた。
それでも私を支えてくれていた実姉をはじめ中田氏、親友の和男や若い連中ら仲間が来てくれていたのが嬉しかった。
その夜から取り敢えず日航ホテルに入ったのだが誰や彼やが祝いに来てくれた。
翌日からそれ迄から私の行きつけだった滋賀県雄琴の京近江に垢落としに出掛けた。
ここは元々が琵琶湖グランドホテルの別館の特別室ばかりを作ったのだが出来上がると同時にバブルがはじけ設定していた一人10万では客は来ず悪戦苦闘している頃から私は大学の古い先輩である松島氏や京都のT親分らの紹介で特別室中の特別室に泊まれたので良く愛用した。
部屋は15畳ぐらいの二間続きがあり、寝室が又15、6畳、8畳ほどの麻雀部屋にトイレが2つ、部屋の風呂はゆったりして三、四人で入れる。
サウナがありベランダの露天風呂は琵琶湖が見渡せ絶景で気に入り本当に良く行った。
拘禁の疲れを取り垢を落とすには慣れた温泉宿が一番だ。
拘禁中、世話になった人間も全員、招待した。
出た足で三重県鈴鹿の吉澤自動車に回った。
保釈中にそれまでに乗っていたベントレーでは反省が見られるどころではない。
融通の効く吉澤で社長に話しジャガーのショートリムジンに乗り換えた。
この車は外見は普通のジャガーと変わらないが室内がなかなか凝っていて気に入った私は当分の間乗った。
あとは裁判に集中、専念だ。
まずは弁護士連中と私の主治医、それに私のブレーン数人を招いて日航ホテルの中華料理 桃李で会食しながら今後を話した。
私のような、こういう事案は一にも二にも被害者、被害者遺族への被害弁済と示談が大きくものを言う。
私は保釈前に取り敢えずとしてお見舞い金として300万か500万を渡したが
示談を済ませねば懲役は間違いない。
私は年のせいか、持病からの体調の悪さからか、出来ることなら示談を済ませ執行猶予を取りたいと思った。
それに執行猶予がついて社会にて活動が出来れば、その稼いだお金で又被害弁済が出来るからという理由もあった。
保釈後、ほどなく故人のお墓参りに行った。
私にも不本意だった故人の死はお墓に線香を上げると生前のことが思い出され胸がいっぱいになりこみあげるものがあった。
墓下の故人に謝罪し久しぶりに会話をした。
聞く耳を持たない遺族に示談のために私の高校時代からの親友Uや大学時代のKがわざわざ遠い広島や姫路から来てくれた。
本当に周囲の皆が良くやってくれた。
私のような人間のために…
特に広島のUは立場があり10分単位のスケジュールで動く中、被害者遺族との交渉だけでなく弁護士との打合せ、他諸々の事で大阪に入ってくれた。
幼稚園からの親友 和男は保釈中の私にずっと横に付き添ってくれ私が体調の優れない時や裁判出廷の際には車椅子を押して付き添ってくれた。
一審判決での実刑を受け私は即座に又、都島の大阪拘置所に収監されたが、それ以前より再度保釈申請をしており長くとも二泊三日と思っていたので気楽に入った。
やはり五舎四階
異様な雰囲気な中、私は房に入れられガシャーンと周りに響き渡る音を発し鉄のドアが閉められた。
差し入れの本も間に合わず担当が特別に官本を入れてくれ時間をつぶした。
舎房の窓から晩秋の夕陽が真っ赤に射し込んだ。
毎年のように異常気象が言われて久しいが今年の夏は又例年の夏と違った異常だ。
特に京都は福知山から由良川にかけて豪雨、犠牲者まで出たとテレビが報じている。
お陰様で昨夜の京の大文字の送り火を観に行けなかったが…
それも又、塞おう翁が馬
天の声なのだろう。
二十世紀の最後の年、登り坂に麻痺して「まさか」の坂を真っ直ぐ転げ落ちた。
言い訳、詭弁の類でなく本当に不本意なあってはならない事件だった。
故人は勿論、遺族の方々にも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
だから私に出来うる限りの償い-被害弁済はじめ、何事にも応えて行こうと思い実際、弁護士を通してその意志も遺族や遺族側の弁護士にも伝えていた。
金銭的にも周囲が驚くほどの金額を掲示した。
実際に保釈で出ると同時に被害弁済は始めた。
保釈までの都島拘置所は暑い時期だっただけに心臓、他を患う私には堪えた。
留置場と違い拘置所から先はクーラーも扇風機もない。
真夏の猛暑日にウチワが配られ涼を取るのだが
夜は困る厚くて仕方なく扇ぐと手を動かすという動作をするので寝れるはずがない。
私は五舎四階という死刑囚や凶悪犯を拘置する所に入れられた。
その後、一審後の再保釈も此処が私の居となった。
二畳ほどの部屋で前も後ろも鉄格子に覆われる。
かろうじて刑務官とやり取りする窓口の真下にトイレの便器がある。
それを閉めればテーブル、机となるのだが慣れるまでは便器の蓋の上で食事は出来ない。
幸いにして私の場合は友人や知己、後輩らが毎日のように面会や差し入れに来てくれ実の姉、顧問先の会社の社長、それに弁護士も来てくれ舎房からは良く出れるのだが所詮、一般面会は十分、まともな事は話せない。
念のためだが一般面会の部屋では真夏も扇風機だけだが弁護士との面会室はクーラー付きだ。
この差はいったい何なのだろう。
弁護士は公人ではなく一般の民間人で一般面会と同じように思えるのだが…
しかし弁護士面会は涼しくて有難かった。
取り敢えずは顧問だった谷口弁護士と森岡一郎弁護士でスタートした。
とにかく一度保釈で出なければ謝罪も弁済も何もあったもんじゃない。
私は取り調べで警察でも検察でも認めるところは認め是々非々ははっきりしていたのですぐに保釈は通るだろうと安易に考えていたが、これが厄介で結局、出れたのは三回目か四回目の申請で半分諦めていた時だった。
暑い夏が終わり寒くて防寒着が必要になっていた。
その頃は私もまだ多少の経済力もあり衣類から布団まで差し入れさせた。
たぶん布団まで官物でなく差し入れで自身のを使っていたのは3000人を収容していた当時でも10人も居なかった。
刑務所もだが拘置所や警察の留置場でさえ見栄の張り合いがある。
タオルの色ひとつ、石鹸やシャンプー一つで競い合う。
幼稚と云えば幼稚極まりないのだが、それが獄だ。
私のような独居はまだましで雑居に入れば、その中で序列が出来、人間の一番の本能、自己保身のために弱いもの苛めが日常茶飯事で行われる。
基本は古く入った人間からの序列になるのだがツッコミ(強姦)や小さい窃盗、チカンなどの犯罪は馬鹿にされ軽く扱われる。
保釈保証金は大方の予想を上回り八桁だった。
勿論、上告の度に上乗せされていく。
外からの電報で保釈許可を知らされたが担当にも中々伝わらずヤキモキした。
夕方やっと用意になり外の空気を三ヶ月ぶりに吸ったのは夜になっていた。
それでも私を支えてくれていた実姉をはじめ中田氏、親友の和男や若い連中ら仲間が来てくれていたのが嬉しかった。
その夜から取り敢えず日航ホテルに入ったのだが誰や彼やが祝いに来てくれた。
翌日からそれ迄から私の行きつけだった滋賀県雄琴の京近江に垢落としに出掛けた。
ここは元々が琵琶湖グランドホテルの別館の特別室ばかりを作ったのだが出来上がると同時にバブルがはじけ設定していた一人10万では客は来ず悪戦苦闘している頃から私は大学の古い先輩である松島氏や京都のT親分らの紹介で特別室中の特別室に泊まれたので良く愛用した。
部屋は15畳ぐらいの二間続きがあり、寝室が又15、6畳、8畳ほどの麻雀部屋にトイレが2つ、部屋の風呂はゆったりして三、四人で入れる。
サウナがありベランダの露天風呂は琵琶湖が見渡せ絶景で気に入り本当に良く行った。
拘禁の疲れを取り垢を落とすには慣れた温泉宿が一番だ。
拘禁中、世話になった人間も全員、招待した。
出た足で三重県鈴鹿の吉澤自動車に回った。
保釈中にそれまでに乗っていたベントレーでは反省が見られるどころではない。
融通の効く吉澤で社長に話しジャガーのショートリムジンに乗り換えた。
この車は外見は普通のジャガーと変わらないが室内がなかなか凝っていて気に入った私は当分の間乗った。
あとは裁判に集中、専念だ。
まずは弁護士連中と私の主治医、それに私のブレーン数人を招いて日航ホテルの中華料理 桃李で会食しながら今後を話した。
私のような、こういう事案は一にも二にも被害者、被害者遺族への被害弁済と示談が大きくものを言う。
私は保釈前に取り敢えずとしてお見舞い金として300万か500万を渡したが
示談を済ませねば懲役は間違いない。
私は年のせいか、持病からの体調の悪さからか、出来ることなら示談を済ませ執行猶予を取りたいと思った。
それに執行猶予がついて社会にて活動が出来れば、その稼いだお金で又被害弁済が出来るからという理由もあった。
保釈後、ほどなく故人のお墓参りに行った。
私にも不本意だった故人の死はお墓に線香を上げると生前のことが思い出され胸がいっぱいになりこみあげるものがあった。
墓下の故人に謝罪し久しぶりに会話をした。
聞く耳を持たない遺族に示談のために私の高校時代からの親友Uや大学時代のKがわざわざ遠い広島や姫路から来てくれた。
本当に周囲の皆が良くやってくれた。
私のような人間のために…
特に広島のUは立場があり10分単位のスケジュールで動く中、被害者遺族との交渉だけでなく弁護士との打合せ、他諸々の事で大阪に入ってくれた。
幼稚園からの親友 和男は保釈中の私にずっと横に付き添ってくれ私が体調の優れない時や裁判出廷の際には車椅子を押して付き添ってくれた。
一審判決での実刑を受け私は即座に又、都島の大阪拘置所に収監されたが、それ以前より再度保釈申請をしており長くとも二泊三日と思っていたので気楽に入った。
やはり五舎四階
異様な雰囲気な中、私は房に入れられガシャーンと周りに響き渡る音を発し鉄のドアが閉められた。
差し入れの本も間に合わず担当が特別に官本を入れてくれ時間をつぶした。
舎房の窓から晩秋の夕陽が真っ赤に射し込んだ。