台風一過、晴れた夜空とは云えないが警報や注意予報から解放され少し精神的に落ち着く。


昨夜はテレビは台風の予報ばかりでつまらなく、ふと自身の来し方を振り返ったり懐かしんだり時を楽しんだ。


私は不良の身でありながら身の程知らずにも佐賀大学を受験した。


当時は一期と二期があり一期は大阪市大の法学部を無謀にも受けた。


加えて云えば前年の秋には防衛大学を受けた。

我が校からは二人でもう一人、私と一緒に受験に行った友人も共に落ちたが現在は警察官幹部として活躍している。

言わば私とは両極にある。
だが高校時代の私は真剣にこれからの不良は身なりもだが学歴もそこそこ必要だろうと考えていたからだ。

勿論、その根底には憧憬の人 安藤昇が法政大学のインテリヤクザだったということもあるのだが…

佐賀大を選んだのは縁も何も無い訳ではない。

私の叔父に当たる、それも我が家と比較的親しい親戚の叔父が当時、国鉄の九州乗り入れの拠点であった鳥栖の市長に当選して二期目で不良しながらも政治の世界にも興味があったからだ。

今をときめく金の亡者、孫氏の出身地でもある。

氏はその鳥栖の駅前で金融業やパチンコ業を営む在日の家に生まれたらしい。

話は逸れたが特に九州の叔父夫婦は離れた私を幼い頃より可愛がってくれ小学校入学の時などはズボンからセーターまですべて編んだり縫ったりして遠い九州から送ってくれていた。

叔父は実父と違い成績や小さいことにうるさくない所謂、器量のある人であったように思い。

その事が余計に私を九州佐賀へ引きつけたように思う。

あわよくば大学を出て叔父の引きで政界にでもと頭をかすめたのも事実である。

その妄想は佐賀大の試験用紙を見た瞬間に諦めざるをえなかったが…

試験が終わると叔父はお小遣いをくれ少し九州を回ってから帰ったらいいと言ってくれ長崎の坂本竜馬が槍を刺したままになった料亭を紹介してくれたりした。

「この確かな時間だけが今の私に与えられた…」

現在も当時良く聴いた丸山圭子の歌のメロディ-が蘇る。


長崎のオランダ坂、グラバー亭etc

私を除く家族はこの数年前に長く叔父宅に滞在し拠点として九州のあちこちを回っていた。


私は確か教官に成り立ての水連学校があり行かなかった。

こんな不良の私だが小中学校時代は空手や水泳に明け暮れた。

小学校高学年から中学三年までの記憶のほとんどはその二つになる。


昨夜、台風、退屈の中、鳥栖を検索すると鳥栖六十周年というページがあり

若かりし叔父の懐かしい顔があり無性に嬉しくなった。

叔父は結局、昭和四十五年から六十二年までの五期十七年を鳥栖のために尽くした。


我今何を為すべきか

問う盂蘭盆前の夜半

母の香の におふ風ふく 盂蘭盆 東月詠
梅雨と台風が重なるって年も珍しい。


小さい台風だと梅雨に飲み込まれてしまうから…


路傍の紫陽花はしっとりぬれて夏の陽を待つ。

そういえば夏祭りの時期だ。

私は大学時代を京都で送ったので特に祇園祭りに思いがあるが近くの杭全のだんじり祭も賑やかで夏を思わせる。


週末晴れればいいのだが…
今週末が杭全だんじり祭で続いて祇園祭か…

昔、私がまだ学生の頃、五木寛之さんが「四季奈津子」を書いて全国的に祇園祭りが話題になってたな。


あの頃の京は本当に日本の情緒が残っていた。


不良学生の私は祇園祭りに嵐山にと遊んでばかりいたけど時の流れ方がゆっくりだった。


京、祇園祭りの囃子で夏が始まる。

盆地だから暑さは特別だったけど少し郊外に出ると緑が多く涼があった。


私は暑さを凌ぐために友人や後輩連中を連れて良く琵琶湖へ泳ぎに出掛けた。

車で山中越えなる道を走ると一時間ほどで琵琶湖に着く。

歌の文句じゃないが

「夏がしのび足で近づくよ
煌めく波が砂浜 うるおして…

運命の出会い…」


近江舞子の浜に夏の陽射しがさすと歩けないほど砂が熱くなった。

海の家ではカレーや焼そば、おでんが決まったように売られ若者たちは有り余るエネルギーを各地の水に発散した。


無論、暇な私は若狭も白浜も世論へも出掛けたが琵琶湖だけは近くのプールへ出掛けるような気持ちで出掛けた。


夏の恋もあった。

元々あまり真面目でなかった私は水辺に女性を求めていたと言っても過言ではない。



或る夏の或る日

うだるような暑さの中、高校時代からの後輩で京産へ入学、近くに下宿していたIとお茶を飲んでいた。

「琵琶湖でも行こうか」
と言った私に気のいいIは
「行きましょうか」
と即座に琵琶湖入りが決まった。


私の車は車金融に預けているのでIの車で行くことにした。


二十歳前後、このIには色々な面で本当に世話になった。


良い家の育ちでボンボンだが気取らず気さくで高校時代から少し親交はあった。

下宿も私のように家を追い出された不良学生ではなく良家の長男だけに大学から少し離れた北山へ結構広いマンションを借りていて私も良く泊めて貰った。


Iが夏、彼女と北海道旅行へ行った時など鍵ごとマンションを提供してくれた。

現在は親の跡を継ぎ司法書士として立派に頑張っている。


五、六年前に久しぶりに事務所を訪ね雑談に興じたが昔と変わらぬ気のいい男のままだった。

私はそのまま不良を続けたが…

近江舞子の松林の砂浜に陣取り、早速二人で近くのオンナ二人連れを探した。


私たちのようなアバンチュールを求めるのは男だけではない。


すべてがすべてとは言わないが二十歳前後で二、三人、女性だけで来ているのはアバンチュールの期待を全く持っていない場合は少ない。

遊び回ってきた私の経験則だ。


美人と普通の女性同士を見つけ私はIにナンパするようにけしかけた。


一応と付くものの曲がりなりに進学校だった高校でIは不良と云うより軟派だった。

こういう場面は私より遥かに達者で実績もあった。


私は卑下するわけではないが中学高校と容姿、今で言うルックスにはひどいコンプレックスを持ち続けていた。

それでも陽気な性格とリーダーシップで唯一モテた時代-小学校五、六年は忘れていたが中学になるとコンプレックスが益々強くなり
ゆえに私は他の面、生き方や考え方、所作や立ち居振る舞いに人一倍に意識して美しく存在したいと思ったのかも知れない。


だから周囲の人間は愛想か社交辞令で私がさもモテて羨ましいように言ってくれたりするが

私自身、今でもこの齢になるまで私という人間を愛してくれたのは二、三人しか居ないと思っている。


他の通り過ぎていった女連中は色々な面で極端なギャップを持ちアンバランスながら保っている私という人間に興味を持ったり好奇心を持っただけだと思っている。

事業が曲がりなりに回っていた時は車に時計に持ち物…
要は私でなく私の懐がモテていただけなんだろう。


おまけに私自身も意外と一人の女性への執着心は薄い。

だからバブルの頃などは北新地やミナミで一発屋と呼ばれたりもした。

もっとも1から100まで総てが遊びでもないのだが、所謂飽き性なんだろう。
七月に入り夏の挨拶と同時に暑中見舞いを書き始め、ようやく終わりが見えてきたと思ったら祇園祭り。


京の街は署気の中、活気に溢れているのだろう。


今日は宵々山、昨夜より一層盛り上がっていることだろう。

今年は半世紀ぶりに前祭り、後祭りをやるらしい。

私が大学入学して京都に溶け込む遥か以前、私が物心ついた頃以来の前、後の祭りらしい。

歳のせいか、めっきり暑さに弱くなった。


先日も久しぶりに地元に近い平野の杭全神社のだんじり祭りを見物に行ったのだが…


若かった頃と違い立って見ているだけで汗が溢れて止まらない。

一昨年、祇園祭りに行った時も車を停めて降りるなり京都特有の蒸し暑さに参ってしまった。


盆地のせいか蒸すから余計に身体に堪える。

もっとも学生の頃はこの暑さが心地よく感じれたのだが…


私は昔から周囲の人間にマザコンと言われる。


自身でも確かに思うのだが周りの不良を見回してみてマザコンでない人間を探すのが難しいぐらい不良にはマザコンが多い。

やはり若い頃から心配を多くかけたからだろうか。

迷惑をたくさん掛けたからだろうか。

特に私の場合は実父との相性や折れ合いが悪く母がそのぶんを埋めてくれたからだろうか…

母と娘にはめっきり弱い。
母は彼岸だし愛娘は十年以上、顔も言葉も交わしていないのだが…

もっとも私は元々、女性全般に弱い。

不良ややくざの中にたまに女房や女に手を上げる人間がいるが私にはとうも理解出来ない。


弱い者苛め以前に侵さざる物だと思うから。


その愛情を出来の悪い私に注いでくれた母が逝って十八回目の夏になる。


母が動ける頃はお盆になると必ず祖父母の骨を分骨している天王寺の一心寺に一党で参りお経を上げて貰い帰りに阿倍野筋にあった「双葉」で鰻やゴマ豆腐を食したものだ。


母方の祖父母は九州の佐賀と門司から大阪に来て教鞭を取ったらしい。

母曰く祖父母ともにその九州の下級武士の出らしいが士族としてのプライドは高かった。

いまだ私自身も究明できていないが明治の中頃に生れた祖父の名が竜馬で、まだ坂本竜馬の名が維新の後、世にそう知れてなかった頃だから、もしかすると何か因縁があったのではと妙な期待もしてしまう。

そうは言っても私はやはり長州の高杉や久坂、それに当り前だが薩摩の大西郷に情景を覚え尊崇するのだが。

そのためか私の家は何事も九州色か強かった。


私もそろそろ九州のお墓を参っておかねばと思うが…

大の付く不良の私に似合わず祖父母はともに教職の身であり、祖父は特に変わっていて満州立国の際も母たち家族を日本に残し単身、渡満し教鞭を取り後に母たちを呼び寄せたらしい。

私が家を出るまで、小学生の頃まで母や祖父母の成り立ちをよく聞いたものだった。

母は本当に祖父母も兄弟も高岸の家や血が大好きだったのだろう。

その祖父母が早く逝き母は後どれほど苦労したのだろう。


それなりに学生時代、成績優秀で嘘か誠か蜂須賀を祖に持ち、その家柄と学歴しか見ない父を母は私が観る限り心の中では見下していたように思う。


或る年になってから母は私に良く

「みっちゃん、私も学生の頃、本当に勉強が嫌いだったのよ」と話した。


厳格な祖父母のもと、母たち兄妹は小学校から平野の教育大付属小学校に入れられ相当、嫌いな勉強を詰め込まれたようだ。


そのお蔭で母の人生は何倍も豊かになったように思うのだが幼い頃、同時、居を構えていた天王寺の勝山通りから平野は遠く本当に嫌だったのだろう。


祖父母の関係からか母は教職関係に友人、知己が多く小さい頃の私たち兄妹はその関係に良く連れて行かれた。


祖父母が長生きし、その後の私を見ていたら卒倒していただろう。

私はそのような実家を知る周囲や知人に良く冗談のように言うのだが母方父方の一族郎党すべての悪い血を一人で受けたんだと…

詭弁ではないが明治以前は武士階級は長く戦-人殺しが仕事だったのだが…

言い古された事だが少数を殺せば殺人犯だが多くの生命を奪うと何故か殺人とは言われない。

私に言わせれば戦国武将など全員が人殺しの親玉なのだから。


ただ、そういう母の躾は私の後の人生に良い意味で大きく影響を与えた。

さすがに不良、やくざの世界ではあまり言われることはなかったが、それでも年配の親分衆や先輩連中には不良ややくざ独特の暗さがなく出生の良いのが分かるなどと言われたりもした。

政治家の親交の合った先生連中は竹下先生をはじめ私の礼儀正しさや立ち居振舞い、所作、言葉遣い等などをよく褒めてくださった。

自身では、そう大した事はないと思うのだが。


やはり母は私にとって絶対なる存在であり母の元に生まれてなければ非行少年から人の痛みや思いも分からない中途半端な人生を送っていたのは間違いない。


私に長女が生まれると知った時、母は研究に研究を重ね姓名判断の先生に相談を重ね命名した名が絢子という名だった。

姓が変わると当然、字画も変わる。


お金なんて無くとも良い人生、心豊かな人生を歩んでくれているだろうか。

来月にはお盆、愛しい母が帰ってくる。

今年は何を報告しようか。
母ゆきて
十八年目の
蒼い夏 東月詠