梅雨入りするなり暑苦しい天気が続いたが昨夜からめっきりと涼しく感じられる。


いつものように窓を開けて横になっていたら寒くなり思わず閉めて寝た。


雨が温度を下げているらしい。

なるほどもっとも。

それにしては七月に入って雨の降った後は蒸し暑くて堪らなくなる。


それを思うと自然の涼、自然のクーラーはそろそろ最後かも知れない。


去年の今頃は入院していたけどもう少しパワーも元気もあったなと何とも情けなくなる。


入院中の週末外泊の折、少し離れた高槻に蛍を観に行ったっけ。


桜じゃないけど蛍の観れる時期が短いだけに日本人の情感や情緒にはひときわ汲みいる。


そんな中、いよいよ集団的自衛権が通されそうだ。

公明党もギリギリのところで与党離脱に踏みこめないから結果、解釈が違うだの何だのと理由づけして賛成に回らねばなるまい。


母体である創価学会が表明文を出すこと自体が私などからすると政教分離に反しているように思うのだが…

正々堂々と首相官邸前ででもデモをすればよい。

昨夜も反対する人たちが日比谷野音に5000人程集まりシュプルヒコールを繰り返したらしい。


私は反社会ではないが反体制愛国者だと自負している。


どうも昨今、愛国者=体制支持=右翼と妙な図式が巷間、信じ込まれるようになっているが私には右翼ってのは分からないが愛国者が体制支持って何なんだと疑問が浮かぶ。


古くは頭山満翁に板垣退助、五、一五の三上卓、それを支援した橘孝三郎、二、二六の理論的支柱だった北一輝、実行の永田鉄山…

愛国者は反体制だったはずだが…


戦後のアメリカのドサクサ統治で体制、反体制、右翼に左翼、愛国に憎国にと思想も何もかもが無茶苦茶に解体された。


体制に擦り寄って利権に肖ろうって輩がどうして愛国者なのか馬鹿な私には到底、理解出来ない。

そういう連中は国益よりも自身の利益を最優先にしてるのだろう。


してみると60年安保70年安保は愛国の心情から溢れ出たもの。


心の奥底から湧き出た愛国の血の騒ぎ

それが若者を安保闘争に駆り立てたのだろう。


私の見ずしたままに逝かれた敬愛敬慕する北の雄、唐牛健太郎を一番の国士と位置ずけたのは故中上健二さんや西部邁氏だったか…


酔うと「さすらい」を歌ったという唐牛健太郎こそ愛国心溢れる国士だったのではなかろうか。


竹中労の言ったように「左右弁別すべからず」としても現在は両陣営を問わずして気骨のある人物が現れない。


市井の草の一石から波がたち一国を飲み込むような場合も数百年に一度ある。


大化の改新然り明治維新然り。


若者のエネルギーが小さくなってしまったのだろうか。

三無主義なる言葉が使われて久しいが現在は草食系となり狼から飼犬になってしまった。

これも教育だけとは言えないが影響が大きいのは否定出来ない。


やはり占領国、アメリカに骨抜きにされたのだと思う。


そりゃそうだ。

己の生命を投げ捨てる若者が育つような教育は周辺や仮想敵国には驚異この上ないだろう。

知覧や特攻というものを外国人には理解出来まい。

先般、ワールドカップ敗戦後の我が国のサポーターが世界各国から絶賛された。

しかし日本人にとっては当り前だ。

勝負の前に礼がある。

アメリカ人には理解も行動も出来ない。

精神性の高さが違いすぎるのだ。


個人的に好感を持っていた橋下市長や松井知事も何処を目指しているのか判らなくなってきた。

目的が大阪都実現だけしか判らない。

その大阪都の「都」も私は納得いかないが、それでもこれからの若い力と応援してきたつもりだ。

平沼先生、石原慎太郎さんと袂を分かちどうするのか?

結いの党と組んで国政参加出来ると甘く考えているのだろうか。

前原氏は合流するかも知れない。

でも前原氏は所詮 風見鶏だ。

力の強い風に流される。

海江田氏は正反対、細野氏は嫌いではないが考えは甘い。

ゆえに維新とは合流すまい。

まだまだ自力でと考えているだろう。

みんなの党も…


それぞれの頭目を纏めて頭に浮かべてみると

橋下、松井、江田、前原、これに渡辺氏でも揃えば気色悪いこの上ない。


福島の最終処分場では石原息子が失言。

私は失言は本音だと思っているから氏の本音なのだろう。


沖縄にそれ、金目が当てはまっても福島には当てはまらない。

所詮、政治家二世のボンボンだ。

だから総裁戦を争えなかった。


それに比して石破氏は意気軒昂だ。

一つ一つこなして一歩ずつ総理に近づいていってる。

この人は熱い。

暑苦しく思うほどに。

でも政治は熱さだ。

涼や寒は必要ない。

暑苦しいほどの丁丁発止の上に成り立つ。


靖国神社や明治神宮の参拝もいいだろう。

しかしたまには寺山修司の墓でも参って欲しく思ふ。

「マッチする つかの間 海に霧深し 身捨つるほどの 祖国はありや」

と刻まれた墓を。

寺山のその問いに迷うことなく「ある」と答える人間にしか天下国家は任せれない。

それが日本という国の禄を食むということだ。
祖国より身を優先する人間に国益を守れるのだろうか。


集団的自衛権に対するデモは今夜も行われるらしい。

涼しい夜を熱くして欲しいもの。

そのエネルギーの爆発が国を少しずつ変えていくと信じて疑わないから。


水無月の そぼふる雨の つめたくて 国を思ひて ただ祈りあり 東月詠
風薫るの頃か…



幼い頃、少年期はこれから始まる夏、夏休みへの期待から心はずんだ季節


紫陽花の道をゆきながら晴れた日には始まったばかりのプールが楽しくて仕方なかった。


道を行けば青葉が繁り何ともなく心がすがすがしかった初夏。


青年期、少年時代の純粋さを失いつつ、まだ夏が待ち遠しく心が明るかった。


そろそろ琵琶湖や若狭の砂浜に遊んだ。


灼熱の太陽に負けぬ強靭な体力に自信が溢れた。


浜寺水連学校で水泳を習った私は多少の自信があり、大海原に躊躇なく泳ぎ出た。


与論島、百合が浜に遊んでも船でなく泳いでニキロ沖の浜に行こうと迷わず泳ぎ出した。


近い太陽がまぶしく水辺の私達を照らしたあの遠い夏の日。


いったい、いつの頃からその眩しい太陽が疎ましくなったのだろう。


不摂生を繰り返し体力が弱って後か…


いや人生の青い春、そして夏を過ぎた頃から初夏の陽がやけに眩しく苦手と変わった。

幼き日から高校時代を人生の春、大学時代から二十代を夏と過ぎてから思うようになった。


三十代に入り晩夏を感じ、海辺より山へと涼を求め灼熱の陽を避けるようになっていった。


たまに遊ぶ海が疲れる海になっていった。


焼けた身体が自身の胸を何日も苦しめるようになった。


最後に波と戯れたのはいつだったろう。


時代が昭和から平成に変わって何年かはまだ浜辺に遊んでいたように思う。


たしか平成四年の夏、急に湘南の真っ白な波が見たくなり昼過ぎに出発した。

それが私の子供たちとの最後の夏を何とはなしに予感していたのだろうか。

私の人生の最後の海を感じていたからだろうか。

まだ幼かった愛娘と当時の倅を連れて名神、東名を走った。


遅くなったので御殿場の岸先生宅の近くで宿を取り泊まった。

ちょうど翌正午過ぎに江ノ島に着いた。

久しぶりに湘南ホテルが白く眩しかった。

夏の終わりなのに湘南の海や浜、そして街に照る陽はやけに近く感じた。


私の最後の夏を思わせるように…


愛娘と倅を伴い湘南の海に入った。


久しぶりの湘南の波はやはり関西の波と違った。


水面の波しぶきが真っ白に光り輝いた。


まるで燃え尽きる前の線香花火のように。


娘と息子は浮き輪に入り込み無邪気に関西にない大きい波を楽しんだ。

お互いにそれが一緒に遊ぶ夏、海とは知らずに。


海から上がってもその夏は焼けた肌に痛みも火照りもほとんど感じなかった。


神が導き最後の夏をプレゼントしてくれたのだろう。

思えばあれから海に入っていない。

毎年のように親父の居る軽井沢や東京に入っても白浜や近場の海に船を出しても水に入ることはなくなった。

そう、あの年に私の人生の暑い夏は終わったのだ。


人生街道に秋風が吹くようになった。

いにしえ人が歌ったように目にはさやかに見えねども確かに風の音がした。

今は初夏の青、緑を楽しみ夜は蛍を楽しむようになった。

初夏の山里の人の気配も無い所でせせらぎの音を聴きながら蛍を追うと涼を覚える。


人生五十年の間に線香花火の切ない灯りから蛍火にうつろい変わった。

麦わら帽子にトリモチと網を持ち蝉を取りに行った。
蛙がかます厳しく鳴く田んぼの畦道を歩いた。


縁側に西瓜を頬ばりながら姉と線香花火を楽しんだ。

泳ぎ疲れた夕寝の後、散歩の道で赤蜻蛉を追いかけた。


迷子になった娘を気が狂ったように探しまわって見つけて涙がこぼれた竹野浜の夏。


京、山奥の三和の川の冷たい水の中、川遊びをした遥かな夏。

山小屋で焼けて火照った身体でバーベキューを楽しんだ娘の笑みがまだ残っていた夏。

私の人生の夏がどんどん遠ざかり、夏の背さえ見えぬようになった。


人生の冬を迎え、部屋に籠もりひっそり夏を観るようになった。


同じ夏が毎年のように変わって感じられる。

長く人生を生きると若い頃観えなかった事がいろいろと観えてくる。


幼少期に観た白浜の松林、青年時代に又、同じ松林を観た。


子供が出来て又、白浜で同じ松林を観た。

子供の手が離れて後、水に入らなくなったが無性に観たくなり車を飛ばして観たあの松林。


人は同じ物を同じように観てもその年齢によって観え方も違ってくるのだろう。

今年の夏も時間と体調さえ揃えば久しぶりに白浜の松林を観に行きたく思ふ。


過ぎし日の 吾子とたわむる 湘南の 波音聞こゆる 夏の近づく 東月詠
昨夜、高校時代の恩師から電話を貰った。


先日、旅先から名産品を送って頂いたことへの私が書いた御礼状に対する、これまた先生からの御礼の電話だが学生時代から心をいっぱい貰った先生に未だにこうして心を遣って頂くのは私にとっては恐縮至極だからだ。


先生には四十年程前に担任として受け持って貰ったのが縁になる。


一応、どうにかこうにか進学校に在籍していたが私は学校へも滅多に行かず相変らず小中からの悪友たちや近くの女子高の彼女たちと遊びまわっていた。


そんな生活をしていて成績など論外で試験さえまともに受けていなかった。


たまに出向いた学校でも問題ばかり起こし本当に手のかかる生徒だったと我ながら汗顔す。


そんな時、先生はいつも担当されていた化学研究室へ私を呼び怒るでなく時間を取り説諭して下さった。


本当に良く説教されたもの。


ただ少年期に家を追い出された経緯からヤンチャ盛り、反抗心だらけで大人や教師を見ていた私も何故かこのG先生にだけは反抗もせず従った。


相性なのか、はたまた先生の愛情を何処かで感じていたからなのか…


高校を卒業せねば当り前で大学へは行けなかった。

してみると大学時代の友人、知己、そこから広がった人間とは知り合うこともなかったはずである。


さすがに大学は籍だけ置いたままほとんど行く事もなく近くの悪童や暴走族を集め遊び回って挙げ句、悪友の事件に巻き込まれ中退に至ったが、それでも立命館大時代に縁を持った人間は人生に於いて少なくない影響を及ぼす。


立命館、京という都に縁を持てたことは私のその後の人生を豊かにしてくれた事は間違いない。


私は以前に横浜という街の魅力を書いたり私がこよなく愛する事も書いたが、又、まったく違う意味で京都という街も愛している。


京という街は巷間、良く言われている通り外部の人間を受け入れ難い所ではある。

京都人は異常にプライドも高く東京人なぞ何するものぞとしか思っていない。



拠る街は懐も深く奥行きもある。


京の街に魅入られて通ったり居を構えるのは当然のように思える。


途中、いろいろあったにしても平安の御代から天皇の住まわれる京の街を中心に我が日本は回ってきたのだ。

話は逸れてしまったが、それもこれもG先生のお蔭なのだ。


極論を言うなら現在、私のような不良がこうして、どうにかこうにか世間の端っこで生きさせて貰っているのも…


高校出て何年目かの年、私は大学を半分、放っぼり出し大阪に帰り平野区喜連に居を借りた。


その頃は人生に於いて一番、荒んだ、殺伐とした時期だったように思う。


近所の不良や愚連隊連中が出入りして小型版 梁山泊のような様相さえ醸していた。


地元の幼ななじみと我孫子や松原に在った博打場、いわゆる盆中にも通った。



持ち金の無い私達は胴元から廻銭を回して貰って張るのだが、得てして博打などというものは持たざる者は勝者となるない。


金も運も寂しがり屋だと気付いたのはその頃だ。


それにしても良く通い良く負けた。


私達が通っていた博打は本引きと言われるもので関西発祥と聞く。


塞本引きと手本引きがあり、ともに胴の塞の目か胴が引いた目の一から六を当てるのだが、これが中々良く出来ていて面白い。


張る札の位置や枚数で配当も違ってくる。

一度やり出せば止められない面白さがある。


競馬に競輪、競艇からウォーカーヒルまで遊んだ私が言うのだから間違いない。

当時の南大阪の盆は現在は無くなってしまったM組が多かった。


S組の盆中も栄えていたが若い金の無い私達には敷居が高く後輩連中がゲソを付けていた賭場にしか行けず、結局、近場のM組が多かった。


当時、私は舎弟連中や若い連中を食べさすために金になる事なら何でもやっていた。

勿論、破廉恥な事以外であるが…


債権の切り取りか小さい会社の整理から民事にも介入し金にした。


その金を増やそうと博打をするのだが、そう簡単には行かない。


その一時期、私は幼なじみのNと毎日のようにつるんでいたがNの従兄らが我孫子で常盆を持っていた。


その少し前に私の後輩がつまらぬトラブルで私を担ぎ出し隣の長居駅前の喫茶店水車で掛け合いの時、席に着く間もなく相手方の付き添いに左胸、心臓横を刺され、相手がM組に連なる組員で、その治療代と貸しもあり盆中では普通の二倍、三倍、余所の五倍六倍の金が借りれた。

勿論、幼なじみNの顔もあったのだが…


しかし落とし穴があった。

廻銭を多く回すことは、逆に言うと負けが込むと払えなくなる。


それが分かっていても若い私は勢いにまかせ通い続け張り続け、気が付けば返せぬ額に膨らんでいた。


当然のようにM組系の若い衆が私を探してると耳にしても払う金の無い私は姿を現すわけにはいかない。


若いいっぱしの兄ぃが外を歩くのを憚るのはカッコの良い事ではない。


頭が狂っていたのか何を考えていたのか私は思い余って恩師であったG先生ところ、すなわち我が母校へ駆け込んでいた。


どうなるとも思っていた訳ではないのだが一円も無い私は今日の食事する金さえ無かった。


外へ出れないから仕事も来ない。
よって金も入って来ないという悪のスバイラルに入っていた。


少しの金でも出来れば車で京都や関西近郊の友人や知己所を回れるのだが、そのガソリン代、いや電車賃さえ無かったのだ。


舎弟や後輩に頼る訳にも行かず思い悩んでいた。


中学の同級Kはミナミの夜の街でホスト稼業で成功していると聞いて行ってみたが忙しいからか馬鹿にしてか待つ私を朝まで相手にもしなかった。

その後、普通通りの交際はしていたが先日、困った時に何回も電話を掛けて来ていたが、その昔の事が腹の奥底に横たわっていて、どうも真剣になれない。


狭量と言われば狭量なのだが恩は三倍返しだが受けた恨みは五倍返しだ。

今は落ちぶれて運転代行をしていて労働時間が違法だから掛け合ってくれとの依頼だったが…


突然、卒業以来、G先生を訪ねた私に先生は優しかった。


おそらく私が金に詰まって無心に来たというのを見抜いていたのだろう。


学生時代と同様、説諭の後、私が最低限動けるお金を貸すでなく、下さった。


化学の教師ながら当時から何とも慈しむような慈愛の心を持ってらっしゃった。


その後、私はY組系のSの舎弟となり、新聞社、証券会社と渡り歩き、それなりに身上を持つようになっていくのだが、その道中、一度だけ母校にG先生を訪ねたがすでに転任されており、爾来、その事、先生へ対する恩義が澱のように心の奥底に横たわった。


人生晴れた日ばかりじゃないが、晴れた日は無論、曇った日も雨、嵐の日も決して忘れる事はなかった。


遥かな月日が流れた。


私は若い頃の不摂生がたたって心臓を患って、発作を繰り返すようななった。


病院のベッドで身体じゅうに管を繋がれながら何人かの顔が浮かんだ。


生きてる間に会っておこう。

お礼を言っておこうと。

その第一に浮かんだのがG先生だった。


私は高校三年の時、同じクラスで比較的親しかった。Bに手紙を出した。


二回出しても何の返事もないので南田辺の家を訪ねてみた。

昔は同級生が集まって夜まで賑やかで泊まる所がない私も良く泊まったその家は人の気配もなく廃墟のようになっていた。


仕方なく私は平野の後輩に探させた。

住居は分からなかったが出席する予定の同窓会情報を手に入れ、その当日、宝塚にあったカラカラテルメへ向かった。


Bがどう変わったか期待を胸に…

懐かしい日のBの顔を思い浮かべながら暗闇を走った。