イタリア 米の歴史(2) シチリア | ヴェネチアから、イタリアの歴史、文化、食のトピックスを発信

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IIIイタリア 米の歴史

古代ローマ人はテオプラストスやストラボンのように「水棲植物」の漠然と定義していましたが、長老プリニウスは著書『博物誌』の中で「米は肉質の葉を持つ野菜の果実である」と述べました。当時、最も情報通の古代ローマでさえ、殻付きのこの穀物は胃の痛みや病気のための薬と考えていました。実際、イタリアとフランスでは、中世初期まで米は薬として、またはお菓子の原料でしかありませんでした。
 
どのような経路で、お米がイタリアに広まったか、という説には諸説存在します。シチリアを支配したアラブ人から、またはナポリを支配したアラゴン人によって、またはミラノ公からピエモンテとロンバルディアに、または東方貿易で中東および極東と関係を持っていたヴェネツィアの商人によって、またはモンテ・カッシーノ修道院で湿地帯を埋め立てて、医療用庭園を造園したベネディクト会の僧侶によってなど、実に様々な説があります。今回はシチリアを支配したアラブ人から伝わった米の説をご紹介します。

III イタリア 現在の米生産情報

イタリアの稲作面積(過去10年間の平均):232,147ヘクタール

ヨーロッパと比較したイタリアの稲作面積:53%
年間生米の生産量:150万トン
ヨーロッパの生米生産の半分以上はイタリア産
 

現在イタリアの米栽培は、ヨーロッパ全体の生産量の約52%、世界の約0.13%に相当します。20州の米生産地域の93%はピエモンテとロンバルディアに2州で占めており、特にパヴィア、ヴェルチェッリ、ノヴァラに集中しています。ヴェネトとエミリア・ロマーニャは5%を占め、残りの2%はサルデーニャ、トスカーナ、カラブリア、シチリアに分けられます。リゾット米(カルナローリ、アルボリオなど)が耕作面積の約40%を占め、続いて丸米が30%、パーボイルド米が15%、インディカ種の品種がさらに15%を占めています。少量ではありますが、市場の関心の高まりを受けて、着色米と香り米が近年増加しています。イタリアで生産された米のうち、3分の1は国内で消費され、3分の1はヨーロッパに輸出され、3分の1は世界の他の国々に輸出されています。

 
 
 

シチリア

イタリアで、最初の栽培はシチリア島で始まりました。シチリア島の米の普及はアラブ文化に起因していると伝えられてきました。アラブ人がスペインでそれらを広めたのと同時期で7世紀もしくは8世紀とされています。 その後9世から11世紀約250年間のアラブ支配の期間を通して、シチリアでお米は食料品として高く評価されました。875年に米は他の食品と同じように課税さたという文書も残っています。シチリア島東部で稲作を行なっていた地域は、シラクサととカターニアの間のレンティーニの広大で湿地でした。アラブ人によって輸入され稲は、この作物の栽培に最適な環境条件のシチリアの湿地帯で、非常に長い間栽培されていたそうです。


あいにく、イタリア統一と第二次世界大戦のムッソリーニの時代を境に稲作は消失してしまい、現在はシチリアの米生産は公的に行われていないので、上記の米生産情報にも載っていません。

 

シラクサとカターニアからそう遠くない、レンティーニの平原で稲作を導入した可能性があります。彼らがそれをカラブリア州、バジリカータ州、またはプーリア州に導入しようとしていたことも想定されています。

 

 

 

2019年11月「レンティーニにシチリアの水田100年後の帰還」の記事によると、米が消滅してから1世紀以上が経ちましたが、シチリアの田園地帯で米が発芽するようになりました。アラブ人によって導入された米はシチリアでは何世紀にもわたって普及した作物でした。1600年から1800年の間、米の生産はシチリア島で最も重要な農作物の1つでした。シメト川の沖積平野、特にレンティーニの田園地帯で栽培されていました。

 

再生した稲

 

 

シチリアの稲作は、イタリア統一(1861年)後、初代首相カヴールによる稲作の北イタリア独占政策によって1900年代初頭までにかなり減少し、ファシスト時代に湿地帯の埋め立てによって姿を消しました。それ以来、シチリア人の米栽培の記憶は消失しました。しかし、100年後の米の有機栽培で、シチリア平原に稲の緑が戻りました。IRES(イタリア米実験研究所)の研究者とカターニア大学の共同実験の開始から4年後にシチリア米から得られた高品質の特性が得られました。

 
初代首相カヴールは、米がピエモンテ州だけの特権農作物であることを望み、シチリアの米の栽培を禁止しました。米の栽培を目的とした畑は、1855年の土地登記によれば247ヘクタールの面積を占めていました。数十年後、柑橘類の果樹園の漸進的な拡大の影響で、米はサトウキビなどの他の多くの作物とともに、レンティーニの湿気の多い田園地帯は徐々に姿を消しました。イタリア統一後、カブールは米の代わりに小麦栽培を集中させることで、米の栽培を思いとどまらせました。そして、数十年後ムッソリーニは湿地帯の完全な埋め立てを命じました。
 

シチリア島には、多くの湿地帯が存在し、米がかつて栽培されていた地域、アウグスタ、レンティーニ、カルレンティーニ、フランコフォンテの間のピアナディカターニア、そして再びラマッカ、パテルノー、ベルパッソ、そしてシメト川沿いで輝きを取り戻しました。

 

 

IIIシチリア発祥のアランチーニとリゾット

 
IIIアランチーニIII
 
アラブ人は、シチリア島に輸入した米やサフラン、他のハーブを混ぜたひき肉で作ったミートボールを食べていました。それが現代のアランチーニの発祥地され、このレシピの誕生はアラブ人によるものと考えられています。アラブ人が長旅の間に必要に応じてアランチーニの発祥となるレシピを食べていました。立ち止まったり、皿をテーブルに置いて食べるのは不可能だったのでしょう。例えば、長旅の途中に、おそらく馬に乗ったまま食べたのでしょう。
 
サフランと肉のオリジナルのアランチーニ

 

米、サフラン、玉ねぎ、肉汁など、アラブ起源のすべての食材は、後にイタリア全土に広がり、各地で地元のバリエーションを広め、イタリア料理における米の存在を素晴らしいものにしました。イタリア領土で、調味料として使用されたバターも、実はアラブの羊乳に由来するそうです。14世紀頃シチリアを支配していたアラゴン人が北に向かって移動してロンバルディアに持たされたとも伝えられています。

 

 

チーズとハム入りアランチーニ

 

IIIミラノ風リゾットの起源III

 

ロンバルディア州のミラノ風リゾットのお米は、15世紀にミラノ公国の統治者ガレアッツォ・マリア・スフォルツァの政策によるノヴァラとヴェルチェッリ近く水田の稲作に由来しています。当時は、まだイタリア領土内でで栽培された米は貴重なものでした。そのため、1475年にスフォルツァ家からフェラーラのエステ家に送られた2つの米の袋は貴重な贈り物と見なされました。

 

ミラノ風リゾット

 
1549年にサフランを米の混ぜて食べた歴史的証拠は「卵とサフラン入りの米料理」として、フェラーラのエステ家の宮廷で証明されています。シチリアの「卵とサフラン入りの米料理」はフェラーラのエステ家に仕えた家令クリストフォロ・ディ・メッシスブーゴが書いたサフラン入りの米料理の歴史的証拠の論文があります。のちに、この料理にパルメザンチーズを追加する以外は、ミラノ風リゾットと全く同じ料理だそうです。
 
今日、シチリア島にこのリゾットに似た料理『badduzzi di risu'ntobroth(肉汁入りにぎり)』が存在します。この料理では、ミラネーゼのリゾットのようにご飯を作った後、冷ましてから握って球型(badduzzi バドゥッツィ)を作り、肉汁と粉チーズを加えて、卵と小麦粉をつけて揚げます。この名前はアラビア語のrisu 'またはfurnuが起源だそうです。
 
ミラノ風リゾットの発祥は、一説では、中世のカーシェールの典型で、ユダヤ人の商人によってミラノに導入されてミラノ風リゾットになった、というものです。
※カーシェール:ユダヤ法ハラーハーに従い消費される食べ物はカーシェール。カーシェールの食べ物はカシュルート(ユダヤ教の食のタブー)の規則に従う食品
 
もう一方の説では、ミラノの貴族のシチリア料理人は、アランチーニを準備したかったのですが、詰め物の材料がなかったので、球型にせず、黄色いリゾットを作りました。材料は、米、卵、ペコリーノチーズ、トマト、ミートソース、ニンニク、砂糖、干しぶどう、松の実、パン粉が含まれます。このレシピはアラブの「ムサカ」の影響が明らかです。
ムサカ


シチリア人は、8〜9世紀ごろ、ヨーロッパで初めて米について学んだとされています。シチリアの人々は長年、米は栄養価の低い食品であると考えてきました。多くの伝統的なシチリアのレシピ、特にアラブから影響を受けたシチリア料理が存在します。

 

アランチーニ意外に「badduzzidirisu'nto brdo」(にぎりのスープ)という料理があります。この料理では、ミラノ風リゾットを冷やしてボールにして、揚げてパルメザンチーズと一緒にスープに入れた料理。牛乳で炊いた米をベースした、様々なデザートレシピなども存在します。

 

シチリア島で、1000年以上前にアラブ人たちから伝えられた食文化が、今日まで米を通して、色濃くシチリアの食文化に残っています。今回、ご紹介した米をベースにしたシチリア料理はより象徴的なレシピでした。これ以外にもシチリアならではのリゾット料理から様々なレシピがあります。アラブ人に持ち込まれた稲作は、米の食文化も導入し、シチリアの歴史と文化に多大な影響を与えたことは明らかです。近年再生したシチリア産のビオの米栽培が順調に進むことを祈っています。個人的に、シチリアには仕事と休暇を兼ねて何度も訪問しました。次回は、この再生したシチリア産のビオの米で作られたアランチーニをぜひ食べてみたいです。