イタリア 米の歴史(1) 古代ギリシャ・ローマ | ヴェネチアから、イタリアの歴史、文化、食のトピックスを発信

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III お米の歴史

お米は日本の食文化の基礎となる食料品です。江戸時代まで米本位制で、武士の給料もお米で支払われていました。幕府の直属の家来の武士、つまり旗本や御家人の多くは、幕府から給料を米でもらっていました。一方で、給料だけでなく、たとえば寺子屋の授業料から、私塾の授業料も米で支払われ、また税金である年貢も、お米で支払われていました。

 
イタリアと言うと、一般的にはパスタがイタリア人の基礎となる食料品と想像しますが、現在のようにパスタ文化がイタリアの食文化に浸透し始めたのは、ナポリ周辺地域で乾燥パスタ製造の技術が発展した17世紀以降になってからのことです。この時代はパスタという呼び方さえ存在しませんでした。ナポリではスパッゲティをマカロニと名付けていました。イタリア各地では、いわゆる今日のパスタに繋がる伝統的に作られていた様々な形の小麦粉をベースにした食品を各地独自ので名前で名付けていました。イタリアのパスタの歴史に関しては、何回にも分けてご紹介したので、ご興味ある方はご覧になってみてください。
 
今回の調査テーマ『イタリア 米の歴史(2) シチリア』でも、シチリアに米を伝えたアラブの経路をご紹介しますが、シチリアの乾燥パスタの歴史も、さまざまな歴史家によると、9〜11世紀のアラブのシチリア支配と関連していることを指摘し、アラブの地理学者によると12世紀頃パレルモのトラビアで製造された乾燥パスタが存在したことなど、この話は『パスタ歴史 (3) シチリア パスタの歴史』でもご紹介していますので、ご興味ある方はご確認ください。
 
イタリアの領土における小麦をベースにしたパスタの一種ラザーニャは古代のエトルリア、古代ローマ時代から食べられていたようですが、イタリア全土の食生活に本格的に浸透したのは、お米の方が大分早っかったようです。
 
今日は、パスタと並んで、各地独自のリゾットが食べられています。このリゾットについては、後日リゾットに特化してご紹介させていただきますが、リゾットには肉、魚介、野菜、キノコのリゾットから、ワインのリゾット、スパイスのリゾットなどさまざまな種類の各地ならではのリゾットがあます。また、イタリアではお米はスープとして、多くの具を入れたライスサラダとしても食べられています。ライスサラダは冷めて食べやすいので、女性がお弁当として職場に持参したり、夏の海辺のランチにも持参されます。
 
 
海老のリゾット
 
魚介のリゾット
 
サフランのリゾット
 
肉など食材を腸詰めにしたサルシッチャのリゾット
 
ポルッチーニのリゾット
 
アスパラガスのリゾット
 
ライスサラダ
 
ライススープ
 
 

III 世界の米生産

世界の生産の約91%はアジアで行われているそうです。アジアの主要な生産国は、中国、インド、インドネシア、バングラデシュ、タイ、ベトナム、ビルマ、日本、フィリピン、パキスタンです。米はアフリカの一部の地域でも栽培されていますが、ヨーロッパではイタリア、スペイン、ロシア、ポルトガル、ユーゴスラビア、ハンガリー、ルーマニア、ギリシャ、フランスで栽培されています。ブラジル、アメリカ、オーストラリアで栽培が行われています。

 


米は、近年ますます世界的に重要な食品になり、西洋の国々が米の料理とワイン、オリーブオイルの組み合わせに魅了され、東洋の習慣、その食べ物、その哲学とその伝統に興味を持ち、お米を使ったお寿司など、東洋の伝統的な米を使った料理が人気を博しています。東洋では、米は各地の伝統、文化、そして料理法と常に密接な関係を維持してきたことが、ヨーロッパの関心にも広がったようです。中国では「ご飯のない食事は目のない美しさのようなものだ」と語られ、インドでは「一日に一握りの米が健康と活力を保証する」と言われているそうです。

 

III 世界の米の歴史

稲は世界最古の栽培植物とされています。稲は6000年以上にわたって栽培されており、今日では人類の半分以上の主食となっています。米はほぼ世界中で栽培されています。
 
アジアではお米が重要な穀物で、何千年もの間神の植物として崇拝されてきました。その歴史はまた、世俗文明や世界の宗教の発展と密接に関連してきました。種まきと収穫は人生のサイクルの象徴となり、稲作には精神的な意味があります。
 
タイ北部の山の洞窟では5000年〜6000年前にさかのぼる稲作文化が存在したことが証明されました。紀元前1万年前米の残骸が残された食器も発見されました。このように数え切れないほどの古代からの米の存在発見されてきました。
 
中央アジアの遊牧民がインドに侵入した紀元前1700年頃にまで遡る歌詠を含む、紀元前1500年から1000年頃の古代インドの聖典『リグ・ヴェーダ』に稲のことが書かれています。稲が栽培された当初は、山地・丘陵でアワ、ヒエ、キビなどの雑穀類とともに混作されており、その後稲だけが独立して水田で栽培されるようになったと推定されています。
 
アレキサンダー大王がインドまで遠征した際に、地中海世界に米の存在が伝わったと言われています。稲作は南アジア(アフガニスタン、バングラデシュ、ブータン、インド、モルディブ、ネパール、パキスタン、スリランカの各国を含む地域)から、ユーフラテス川の肥沃な平原でインドとペルシャに広がり、その後エジプトへと到達しました。インドなど南アジアとアラビア半島の間で、米と小麦の物々交換が始まりました。
 
 
実は、意外にも美食家で知られる古代ローマ人は米に強い興味を示しませんでした。古代ローマはじめ、中世までヨーロッパでは、米は貴重な輸入品として、薬や香辛料として扱われていました。それゆえ、イタリアでは、最初にシチリアで、7〜8世紀頃にアラブからの貿易品として米が伝わり、9世から11世紀約250年間のアラブ支配の期間を通して、シチリアでお米は食料品として高く評価されました。
 
他のヨーロッパの地域では、7世紀〜8世紀頃北西アフリカのイスラム教徒がスペインに米を紹介しました。そして、徐々にフランスをはじめとした西洋で米の重要性が高まりました。イブン・アル・アウワンの『農書』では、稲作を詳細に説明しています。

※イブン・アル・アウワン:12世紀にスペイン セビリアで活躍したイスラームの農学者、植物学者。中世のイスラム科学において重要な書の一つである『農書』(1150年)を著したことで有名。

 

イブン・アル・アウワン

 

お米はイネ科の植物で、学名は「Oryza sativa」、属名「イネ属 Oryza」は古代ギリシア語由来のラテン語で「米」または「稲」で、種名「Sativa」 は「栽培されている」と言う意味があるそうです。イネ科の植物には23種あり、そのうち20種が野イネであり、2種が栽培イネでだそうです。栽培イネの2種は「アジア栽培イネ(Oryza sativa)」と「アフリカ栽培イネ」に分かれます。今日はこの2種が食用されています。
 
 
「アジアの種のイネ」に由来する3つのタイプの稲があります。
1) ジャポニカ: 中国で分化したイネ。水田では最も一般的
2) インディカ:インドで差別化され、アメリカの長粒とバスマティ用のイネ
3) ジャヴァニカ(Javanica)またはトロピカル ジャポニカ:他の2つのタイプの中間的な特性品種
 

III古代ギリシャ お米の歴史

地中海における米の歴史を語るには、古代ギリシャとアレクサンダー大王の話から始まります。
米は中国、タイの地域から、数千年後に西に向かって広がり始め、紀元前300年代にメソポタミアに到着し、古代ギリシャのアレクサンダー大王(紀元前356年 - 紀元前323年)が穀物として伝えたとされています。古代ギリシア人が考える世界の主要地域(ギリシア、メソポタミア、エジプト、ペルシア、インド)のほとんどを征服した世界征服者アレクサンダー大王は、異文化の交流と融合を図る諸政策を実行した人物です。
 

古代ギリシャの歴史家、地理学者、民族学者のカッサンドラのアリストブロスは、アレクサンダー大王と共にアジアへの遠征に同行し、人々に米について語ったことが証明されています。

※カッサンドラのアリストブロス(紀元前4世紀-紀元前3世紀):アレクサンダー大王配下の歴史家。軍事の専門家であったが,地理や自然法に通じ、アレクサンダー大王についても信頼できる記述を残した。

 
アレクサンダー大王
 

古代アテナイのアリストパネスの詩では「ライスロール」のレシピが語られています。

※アリストパネス(紀元前446年 - 紀元前385):古代アテナイの喜劇詩人、風刺詩人。代表作はソクラテスが登場する『雲』、パロディーを取り入れて優れた文芸批評に仕上げた『蛙』など、があります。

 

このライスロールは、今日ギリシャはじめ、トルコや中近東で食べられる伝統料理です。伝統的にはブドウの葉にライスをロールしています。歴史的に、中東を越えて広がった料理とされています。トルコやエジプト、パレスチナなどの中東諸国・地域のほか、東はウズベキスタンやアゼルバイジャン、西はギリシャやアルバニア、コソボなどのバルカン半島の諸国にも存在します。今日は移民として多くのイスラム教徒らが渡った欧州にも広がっています。

 

ブドウの葉でロールしたドルマデス(またはドルマダキ)

中東を越えて広がった料理「ドルマ」 グローバル化の歴史を物語る


ライスをロールするのは、イチョウの葉やキャベツのレシピもあり、中身の具も各地で異なります。このように各国、そして国内でも各地域のバリエーションがあるようですが、ギリシャでは、野菜の葉で包むタイプのものだけをドルマデス(またはドルマダキ)と呼んでいます。中近東、トルコ、アルメニアではドルマと呼びます。

 

ドルマデス(またはドルマダキ)は、紀元前338年頃にアレクサンダー大王によってテーバイが包囲された時期に誕生したレシピと伝えられています。テーバイは、古代ギリシアにあった都市国家のひとつで、現在の中央ギリシャ地方ヴィオティア県の県都ティーヴァです。

 

ボイオーティア同盟の盟主となり、アテナイやスパルタと覇権を争った最有力の都市国家のひとつであった。精強を謳われた「神聖隊」の活躍が有名。またギリシャ神話では「7つの門のテーバイ」として名高く、オイディプス伝説などの舞台になっています。

 

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一方で、古代ギリシア三大悲劇詩人の一人であるソポクレス(紀元前496年 – 紀元前405年)が、紀元前442年ごろに書いたギリシア悲劇『アンティゴネ』で、この料理が言及されていると言う説があります。ただし、そうなるとアレキサンダー大王よりも前に古代ギリシャに米が存在することになってしまい、時代背景が合わないので、とりあえず伝説としておきます💦

 

大激怒しテーバイ王クレオーンを落ち着かせるために、この料理が提供されたと言うのです。本劇におけるアンティゴネとクレオンの対立は「神の法」と「人間の法」の対立とされます。

 

ソポクレス

 

『アンティゴネ』

ポリュネイケースは、祖国テーバイを裏切って戦争を仕掛けましたが討ち死にします。テーバイ王クレオンは、裏切り者ポリュネイケースの遺体の埋葬を禁じ、野ざらしにします。ポリュネイケースの妹であるアンティゴネは、王クレオーンの命令に逆らい、兄の遺体を埋葬します。王クレオンは自分の命令に逆らったアンティゴネに大激怒しますが、アンティゴネは逆にクレオンを神に逆らう愚か者と責めます。アンティゴネは死刑となりますが、それは実はクレオンの破滅の始まりでもあったのでした。

※ ソポクレス:現代まで作品が伝わる古代ギリシアの三大悲劇詩人の一人。生涯で120編もの戯曲を制作したが、殆どが散逸し、完全な形で残っているものは7作品にすぎないとされる。

代表作『オイディプス王』がある。

 

『クレオンによって死刑を宣告されたアンティゴネ』

ジュゼッペ・ディオッティ1845年

 

テオプラストス(紀元前371年 – 紀元前287年)は著書『植物誌』で米の栽培について説明しています。

※テオプラストス:古代ギリシア人で哲学者、博物学者、植物学者で、植物研究における先駆的な功績から「植物学の祖」と呼ばれる。
 
ニカトール(勝利王)と呼ばれたシリアのセレウコス1世に仕えた古代ギリシャ人の歴史家メガステネス(紀元前350 - 紀元前290 )は、使節としてインドのマウリヤ朝に派遣されました。数年の滞在期間中の見聞を記録した『インド誌』は当時のインドの事情を伝える貴重な資料とされ、その中で米について言及しています。
 
メガステネス
 

これまで上げてきた古代ギリシャの歴史上の人物たちの文書や作品で証明するように、西側に米を知らせる役割を果たしたのは古代ギリシャ人とされています。

 

III古代ローマ 米の歴史

※ローマ帝国の黄金時代には、深紅色I、バージンウールの自然な色I、紫Iの3色がファッションカラーでした。

 

古代ギリシャから古代ローマ人まで、その後、中世からルネッサンス時代まで、実は米は香辛料として、多種の病状の薬として、または化粧品として使われていました。

 

香辛料、薬、化粧品としての米

 

たとえば、古代ローマ時代の南イタリアの詩人ホラティウス(紀元前65 - 紀元前8年)は、彼の著書『風刺詩』 の中で「米茶」を処方した医者について語りました。

 

ホラティウス

 

風刺詩

 
ストラボン (紀元前64 – 紀元前21年)は、インドの人々は「米を食べてワインを作る」と述べています。何世紀にもわたって偉大な旅行者であるストラボンは『地理書』の第9巻で穀物が栽培されている地域について言及しました。
※ストラボン:古代ローマ時代のギリシア系の地理学者・歴史家・哲学者。全17巻『地理書』で有名この大著は、当時の古代ローマの人々の地理観・歴史観を知る上で重要な書物
 
ストラボン

 

古代ローマの博物学者大プリニウス(23 - 79年)は、彼の著書『博物誌』で「この穀物(米)はイタリックで知られている」と書いています。

※大プリニウス:古代ローマの博物学者、政治家、軍人。ローマ帝国の属州総督を歴任する傍ら、自然界を網羅する百科全書『博物誌』を著した。

 

『博物誌』大プリニウス

 

ローマ皇帝ネロの治世下の古代ローマで活動したの医者ペダニウス・ディオスクリデス(40 - 90年)は、彼の著書『薬物誌』のなかで米は栄養価が高く、腸にたまることを証言しています。

※ペダニウス・ディオスクリデス :ローマ帝国期のギリシア語著述家、医者、薬理学者、植物学者である。薬理学と薬草学の父と言われる。ギリシア・ローマ世界の至るところで産する薬物を求めて、軍医として方々を旅する機会があり、その経験を活かして『薬物誌』をまとめたとされる。

 

ペダニウス・ディオスクリデス