イタリア 米の歴史(3) 中世から19世紀 | ヴェネチアから、イタリアの歴史、文化、食のトピックスを発信

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IIIイタリア 米の歴史
 
イタリアは、ローマ帝国の崩壊後、侵略と征服が繰り返され、歴史的に異なった時代と地域で米の栽培が行われてきました。歴史的な米栽培の主な導入地域は、大きく分けて北イタリア(ロンバルディア、ピエモンテ、ヴェネト)、トスカーナ、ナポリ、シチリアの4つの地域になります。

 

北イタリアのポー川流域を中心に500年以上の米栽培の歴史があり、主にポー川の流域に沿ったピエモンテ州、ロンバルディア州で行われており、今日「米の発祥地」として認知されています。この地域では春になると独特の水田の光景が見られます。

 

 

 

 
 

今日イタリアではパスタ以外に米は食卓に欠かせないおなじみの食材です。北イタリアのロンバルディア州、ピエモンテ州、ヴェネト州とエミリア・ロマーニャ州が主なイタリアの米の産地。またトスカーナ州、南イタリアのカラーブリア州、シチリア州、サルデーニャ州の一部の地域でも生産されています。イタリアの米はヨーロッパの生産量の50%以上を占め、その栽培面積は約22万ヘクタールにも及びます。

 

どのような経路で、お米がイタリアに広まったか、という説には諸説存在します。シチリアを支配したアラブ人から、ナポリを支配したアラゴン人によって、東方貿易で中東および極東と関係を持っていたヴェネツィア共和国の商人によって、またはモンテ・カッシーノ修道院で湿地帯を埋め立て医療用庭園を造園したベネディクト会の僧侶によって、ミラノ公からロンバルディアとピエモンテに、など実に様々な説があります。前回はシチリアを支配したアラブ人から伝わった米の説をご紹介したので、今回は北イタリア(ロンバルディア、ピエモンテ)、トスカーナ、ナポリの説をご紹介します。北イタリアの東方貿易で米を輸入していたヴェネツィア共和国を含めたヴェネト州の米の歴史については、別のブログでご紹介します。
 

III イタリア 現在の米生産情報(FAOSTAT国連食糧農業機関統計 2019年)

イタリアの稲作面積:220,027ヘクタール

ヨーロッパと比較したイタリアの稲作面積:53%
年間生米の生産量:150万トン
ヨーロッパの生米生産の半分以上はイタリア産
 

51%がピエモンテ州、特にヴェルチェッリ県とノヴァーラ県で栽培され、次いでロンバルディア州の43%、特にパヴィア県とミラノ県で栽培されています。

他の地域

- エミリア・ロマーニャ州は2.8%、フェラーラやポーデルタの地域

- ヴェネト州では1.5%、ヴェローナ地区

- カラブリア州では0.3%で、ピアナ・ディ・シバリ地区

- トスカーナ州は0.2%、マレンマ地方

- シチリア島では0.1%で、シラクサ県のレンティーニ地区とカターニア平野

- サルデーニャ島では1.6%、オリスターノ地区

- クーネオ県のバルジやボルツァーノ県のテルメノなど0.005%

 

 
現在、イタリアの米生産地域の94%は、ピエモンテ州とロンバルディア州の2つの州のうち、主な地域はヴェルチェッリ県とノヴァーラ県パヴィア県とミラノ県となります。ヴェネト州、エミリア・ロマーニャ州の一部でも稲作は行われています。イタリアで生産された米のうち、3分の1は国内で消費され、3分の1はヨーロッパに輸出され、3分の1は世界の他の国々に輸出されています。
 
 

 

III香辛料扱いだったお米

古代ギリシャから古代ローマ人まで、その後、ヨーロッパでは中世からルネッサンス時代まで、米は香辛料として、多種の病状の薬として、または化粧品として使われていました。

 

500年頃、エチオピア、アラブ、シリア、アルメニアの多くの文書に稲作について述べられています。アラブの貿易商は、地中海東部沿岸のレバント地方とヴェネツィアの商人を通してヨーロッパと取引を続けました。当初は、陸上ルートが香辛料貿易の主要なルートでしが、これは海上ルートによる商業活動の急激な成長にも繋がりました。

 

中世には、米は常にアラブ、ジェノバ、ヴェネチアの貿易船で東方から輸入された多くの香辛料とともに輸入されていました。当時の薬局では、薬以外のエキゾチックな輸入製品と一緒にお米も販売していました。

 

 

このように、イタリアでは古代ローマ人から中世まで、米はエキゾチックな香辛料とみなされ、胃の痛みの改善に使用されたこともあり、後にデザートの原料として使用されることもあり、中世までその役割は続きました。

 

 

1300年に大貴族のサボイ公爵の「支出勘定帳」で、ケーキ、タルト等の甘い菓子類に使用した米は1ポンドあたり13インペリアル、蜂蜜は8インペリアルと記録されていました。

 

 

一方で、米が食料品として消費が確立し始めたのも中世です。中世に起こった大飢餓、戦争、そして感染流行によってもたらされたと推定されています。この時期生産性の高い穀物の必要性が不可欠になりました。

 

IIIナポリ王国 

   

アラゴン人は、カンパーニャ州のパエストゥム近くの湿地の平原で、アラゴンのアルフォンソ5世がナポリ王国を征服した後の15世紀にスペインの兵士がセレ川の沼地にあるパエストゥムの近くで米を栽培していました。

※アルフォンソ5世:アラゴン王、バレンシア王、バルセロナ伯、シチリア王(在位:1416年 - 1458年)、およびナポリ王(アルフォンソ1世として在位:1442年 - 1458年)様々な階層の対立が渦巻くアラゴン連合王国の国内政治に興味がなく、地中海方面に目を奪われナポリ王国を征服、亡くなるまでそこに留まった。

 

ナポリ王国の国旗 ナポリ王国の国章

   

ナポリ出身の医者、哲学者であるシモーネ・ポルタ (1496 – 1554年) によると、最初の稲の田んぼがサレルノ地域に現れます。カラブリア州のCrotoneとCosenza、アブルッツォ州S.Eufemia、カンパーニャ州のTorre AnnunziatとCastellammare di Stabia、ラッチィオ州のViterboの近くで中世に実際に稲作が行われていたことが証明されています。

 

 

モンテカッシーノ修道院

 

中世の間、米は標高519mの岩山にそびえ立つ、モンテ・カッシーノ修道院の庭園で栽培されました。ローマを州都としたラッチィオ州にあるモンテカッシーノ修道院の僧侶たちは、長い間米を栽培し、研究してきました。同修道院は6世紀頃同地に初めてベネディクト会の修道院を築き、6世紀から中世を通じてヨーロッパの学芸の中心という重責を担っていました。

 

モンテ・カッシーノ修道院

 

トスカーナ「マサローザの米」

 

南イタリアのサレルノ医科大学(カンパーニャ州)とモンテカッシーノ修道院(ラッツィオ州)から、米の栽培は、中央イタリアのトスカーナ州に移動し始めたと考えられています。トスカーナでは、1468年にメディチ家の支配下で、ピサ近くのセルキオ平野で稲作が活発に行われ、マッサローザ近くの沼地でも栽培されていたそうです。今世紀は「マサローザの米」と呼ばれる非常に貴重な品種があります。

 

古い稲作の記録が1468年の日付でフィレンツェに存在します。メディチ家の主権の下、レオナルド・コルト・デイ・コルティという紳士が稲作を申請し、米の栽培がすでに行われていたことが証明されていました。

 

 

稲は水を愛し、暖かく湿った気候を必要とする植物で、これらの理由から、トスカーナ州のマサローザ市の領土に適応してきました。実際、稲作は何世紀にもわたって、マサシウッコリ湖に隣接する地域の住民にとって経済的および社会的重要性を持ってきました。

 

マサローザの湿地帯での稲作の最初の記録は1611年にさかのぼりますが、実際はより昔から行われたと推定されます。共和国総評議会の17世紀の文書では水田の廃止を要求しています。なぜなら、何世紀にもわたった稲作の産地はマラリアの原因の1つと誤って考えられていたからでした。実際、19世紀の後半まで、マラリアによる死亡の本当の理由は不明ですが、当時は淡水と塩水の混合、および稲作に使用された土地での土塊の持ち上げが起因とされていました。

 

 

イタリア北部

 

米はスペインからピエモンテとロンバルディアに導入されたという説があります。米は8世紀初頭にスペインを経由してヨーロッパに到着しました。

 

中世のほぼ全体を通して、米は北イタリアのジェノバとヴェネチアの貿易船で東からやってきた多くのスパイスの1つと見なされていました。薬やエキゾチックな輸入品と一緒に米を販売したのは薬剤師でした。

 

料理レシピ本『Liber de coquina』(作者不明1285-1304)では、ブランマンジェを作るには、より濃厚にするために、米を細かくすることを勧めました。そこには、アラブ料理に明確に触発された「白い食品」のレシピがいくつか載っています。

※『Liber de coquina』ナポリ王国のアンジュー家の宮廷で作成され、現代まで伝わったキリスト教の最も古い料理レシピ。俗ラテン語で書かれて、中世後期のイタリアとヨーロッパの宮廷での食習慣を知る最も重要な証拠の1つです。

 

 

当時、米は鶏の胸肉、牛乳、アーモンド、砂糖、ラード、白生姜など、主な材料の白色から名付けられた、いわゆる「白い食品」は高貴な貴族階級の食品でした。今日でも、イタリアでは白い食品を食べることは、胃や腸の健康を回復することを目的とした、軽く味付けされて、香辛料を使わない食事を「白い食事」と呼びます。

 

「白い食品」は、フェラーラの宮廷で奉仕している紳士クリストファロ・ディ・メシスブゴ Cristofaro di Messisbugoによる『新書 (Novo Libro)』でも説明されています。

 

 

この料理は、ローマ教皇(在位1073 - 1085年)グレゴリウス7世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世 (1050年- 1106年)を和解させるためにマティルデ・ディ・カノッサ(1046年 - 1115年)によって準備された料理の中でも言及されています。

※マティルデ・ディ・カノッサ:トスカーナ女伯.。「カノッサの屈辱」ではカノッサ城にローマ教皇を保護した。

 

彫刻家ミケランジェロ(1475年 - 1564年)によって書かれた「フィレンツェのマリア・ディ・メディチ(1575年 - 1642年)とフランスのアンリ4世の結婚披露宴のメニュー」でも報告されています。

 

1340年にミラノの徴税人が米に適用した「アジアからギリシャ経由で到着した香辛料」であり、したがって「重い関税率」を支払う義務があるという勅令です。 1371年の別の文書では、穀物は香辛料の一種であり、商業的な観点からは「海外米」と「スパニッシュライス」と定義されていました。

 

中世に疫病、戦争、飢饉と様々な不幸が起こりました。スペルト小麦、キビ、ライ麦、大麦、小麦などの下層民むけの食料品の枯渇による飢饉、1348年から1352年まで続いた疫病など、イタリアは荒涼とした土地になりました。そのため、回復のために生産性の高い農産物が必要でした。その後の500年は、浮き沈みの中で、西側では戦略的な食料品の地位が必要でした。そうした中、一部の学者たちは米を「ルネッサンス野菜」と定義しました。
 
実際、15世紀にコロンブスが南米から持ち込まれたトウモロコシや北ヨーロッパのジャガイモのように、米は農民の飢餓を和らげる新しい食品の仲間入りをしました。、中世の終わりに階級関係なく、米は農民の生活の質の向上に、生活の活性化に貢献しました。
 
15世紀の終わりに、稲作はイタリア北部に広がり、現在のヴェルチェッリ地域のロンバルディアとピエモンテに広がりました。北イタリアでは、ここで最初に水田が整備されました。
 

ロンバルディア州の水田

 
最初の畑は15世紀から16世紀にミラノを統治していたスフォルツァ家最初のミラノ公フランチェスコ・スフォルツァから始まり、息子たちのガレアッツォ・マリア・スフォルツァとルドヴィーコ・マリア・スフォルツァ(ルドヴィコ・イル・モーロ)によって、本格的な稲作が始まりました。1436年に初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァはミラノからの米の輸出を禁止しました。
 
兄弟は、米のためにポーの頻繁な洪水を利用することを考えました。ミラノ南部地域では、湿地の埋め立てのための重要な計画を実施し、米の農業政策を開始しました。その時から、それはもはや異国のスパイスではなく、国内の農業食品生産における重要な商品と見なされるようになりました。スフォルツァ家のこうした農業政策は、ルネッサンス時代からの農業投資を刺激し、その原動力は人口増加、つまり米などの穀物を満たす需要の増加となりました。
 
初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァ
 
2代目ガレアッツォ・マリア・スフォルツァ
 
3代目ルドヴィーコ・マリア・スフォルツァ
 
この新しい穀物「米」の重要性を広めたのは、1475年にガレアッツォ・スフォルツァがフェラーラのニッコロ3世・デステ公爵に米の種を寄贈し、米はよく育ちました。その事前に送った手紙では、稲の種子の12袋を送ることを約束しています。「稲の種子1袋に対して小麦の種7袋の価値があるので、稲12袋で相当な利益が得られる」と書いています。この時代の米栽培の有名な文書として残されています。そして、この米の譲渡は、数年前からロンバルディアで稲作が行われていることを証明しています。このように15世紀から本格的に稲作が広がり始めました。

 

稲の種子は、当時東方からヴェネツィア共和国経由で到着するのが通常でした。最も奇妙なことは、1527年の有名な「ヴェネチア共和国10人委員会」の決議で、米は使用頻度の低い食品とされ、1561年まで無税のままでした。確かに1400年代の最後の数十年で、イタリア西部では稲作の市場開発が増加し、そしてミラノ公国からの米の輸出は禁止されています。

 

そして米の栽培の水田の土地を増やしました。 15世紀に水田が5,000ヘクタールを占めていた地域は、すでに16世紀に50,000ヘクタールにまで拡大しました。ロンバルディ州に広がった後、ピエモンテ州にも広がりましたが、運河がないため運送が鈍く、ゆっくりと広がりました。
ピエモンテ州の水田設備が頂点に達したのは、1863年から1866年の間に建設されたカヴール運河で、キバッソ近くのポー川から水を汲み上げてティチーノに運び、周辺の田園地帯を灌漑しています。
 
ピエモンテ州の米の産地 ヴェルチェッリ、ノヴァラ、ビエラ
 
ピエモンテ州のヴェルチェッリのライスロード
 
ミラノ-トリノ高速道路からのヴェルチェッリ
 
この時期、米は特別な措置で保護されるため、種子は輸出されず、反対国の手に渡る武器になりました。1567年には、ベルギーのアントワープ市場の米は、貴重な織物や武器のよう交換通貨と見なされました。
 
その後、北イタリアでは、東に向かってマントヴァからヴェネト州のヴェローナ、ヴィチェンツァに到達しましたが、この新しい作物は、土地の所有者や土地所有の聖職者の間で論争が起きている間に、マラリアの原因が稲作に起因すると考える住民によって反対され、稲作の禁止が求められました。

 

1575年に、ミラノの知事であるアヤモンテ侯爵の命令により、ミラノから6マイル、他の都市の国境から5マイルのところに米を植えることが義務付けられました。条例の多くは発令されましたが、実際は無視されていたようですが。

 

1584年に、ノバラ医科大学の報告がありました。これによると、稲の田んぼが住居から1マイル以上離れている場合にマラリアが発生しないことが保証されると言うことでした。米の水は自由に流れ、止まることなく湿地になるということでした。

マラリアの蔓延の原因として指摘された17世紀の衛生に関する論争によって一時的に消費が減少しました。

 

18世紀には、お米は日常で食べられるようになりました。そこで18世紀以降は栽培と生産の一定の安定性を維持して、イタリア人の食卓に並ぶ日常食になりました。

 

1839年、イエズス会の神父は、フィリピンから43種類のアジア米の種子をヨーロッパに持ち込みました。非常に注意深く研究され、さまざまな商品化された品種で作られ、それぞれ独自の特徴を持つ現代の稲作を生み出しました。

 

1903年に発生した病気である「葉枯れ病」に対処しなければなりません。

 

 

稲作の出版物

 

稲作の普及に伴い、最初の印刷物も登場。シエナ出身の医師、有名な植物学者のピエトロ・アンドレア・マティオリ(1501 - 1577年)による1554年「ディオスコリデスの本草書『薬物誌』の翻訳と解説」と『ディオスコリデスの著書への注解』583の木版画が添付された著書が出版されました。

 

稲を植物として説明する出版物は、ルネッサンスの医師、植物学者カストーレ・ドゥランテのヨーロッパと東インド・西インド諸島からの薬用植物について書かれた1667年『新植物誌(Herbario nuovo)』、ジャンバティスタ・スポルヴェリーニ侯爵の1758年『稲作』などがありました。

1667年『新植物誌』

 

イタリアで何世紀にもわたって稲作と水田に捧げられた地域に関するデータによると、1700年に20,000ヘクタールが耕作されました。アメデオ2世のピエモンテでは、1710年に平野の9%で米が栽培されています。ナポレオンの占領期間中、サンティア、ヴェルチェッリ、ビエラの間で40,000ヘクタール、イタリア全土で12万ヘクタールが栽培され、1860年にはヴェルチェッリ県でのみ30,000ヘクタールの米が栽培されていました。

 

本当の稲作ブームは、1866年のカヴール運河の掘削の後で、23万ヘクタールに増加し、イタリアの米が本格的な輸出製品になり、フランス、スイス、ドイツ、オーストリアの人々から大きな需要がありました。ただし、1869年のスエズ運河の開通により、低コストの輸入品に市場を奪われ始め、深刻な危機が始まり、1893年には16.4万ヘクタールまで縮小しました。保護主義の税関規則の制定と、その直後の第一次世界大戦の勃発から、食糧の需要が増加しました。

 

当時は外国からの米の輸入のリスクに加えて、非常に長い間栽培されきた種の病気の増加と生殖能力の低下がありました。 19世紀の初めに、フィリピンから中国人の43人などの新しい品種がイタリアに導入され、1839年に中国の宣教師であるこのカレリ神父によってトリノに送られました。この米は急速に広がり他の品種に取って代わりました。

 

III19世紀のモンディーナ

田の草取り、除草の意味「モンダ (Monda)」から由来する「モンディーナ(Mondina)」は、稲田の草取りや田植えをする出稼ぎ女性の季節労働者の呼び名でした。
 
実際のモンディーナのグループ
 
 
ピエモンテ州の稲作は、中世後期に導入され、その後、水力による運河工事を通じて、ヴェルチェッリ平原とノバラ平原に徐々に拡大しました。 19世紀には、モンディーナが水田の重要な原動力になりました。この季節労働者は、農作業の機械化の前の労働力となりました。周辺の村からピエモンテ州の田園地帯で、畑の氾濫の期間中に、繊細な米の苗木を開発の初期段階で昼夜の温度変化から保護するために、いわゆるモンダ、つまり雑草の除草を行いました。4月から6月上旬まで40日間家族を離れて1日8時間、時にはそれ以上の仕事に専念しました。女性にとって労働条件は厳しいものでした。
 
水田で働く実際のモンディーナ

 

 

19世紀の終わりから20世紀の前半にかけて、イタリア北部で非常に広まったモンダの作業は、丸一日素足で膝まで水に浸かり、背中を曲げて除草を行う事でした。田んぼの苗の成長を妨げる雑草の除草は非常に疲れる作業であり、社会的階層の低い人々(特に女性)によって行われました。一般的には、ヴェルチェッリ、ノバラ、パヴィアの水田に、エミリア・ロマーニャ州、ヴェネト州、ロンバルディ州から季節労働できていました。
 

彼女たちは作業を軽くするために歌いました。彼女たちはさまざまな歴史的作品の主題となり、映画作品『Riso amaro(にがい米)1949年』 と『La risaia(水田地帯) 1956年』にも登場しました。

 
映画『にがい米』抗議するモンディーナたち
 
映画『にがい米』除草のシーン
 
 
労働条件は非常に悪く、労働時間は長く、女性の賃金は男性よりもはるかに低く、不満を増大させ、1900年代初頭に暴動を引き起こしました。主な主張は労働時間を8時間に制限することでした。1906年から1909年の間に、ヴェルチェッリ地域の自治体全体がこの要求を承認ました。モンディーナは、田んぼに蔓延した蚊のために多くの病気の危険を冒しました。
 
映画『水田地帯』モンディーナの除草のシーン
 

モンディーナの服「モンディン」は、最善の方法で仕事を遂行するために特定の衣服を着用しました。モンディンは、つばの広い麦わら帽子と、あごの下に結ばれた、または首に巻かれたハンカチで構成され、特に田んぼに存在する蚊に刺されたり、太陽光線から身を守るために、膝の上に引っ張られた綿の長い靴下が専用に作られました。当時の広いスカートはショーツに置き換えられました。