こんばんは〜今夜も勉強会お疲れ様でした
今日の内容は、お題目よりも、
プラスアルファの話題の方が濃かったですね(笑)
台本の内容覚えてないもん
今、眠気覚ましのお酒を飲んでます。
KAITOに毎日言われます。
『酒飲んだら眠くなるのが普通なのに、異常ですよ』って。
来月、脳ドックに行ってくるので、
そこで先生に聞いてみます(笑)
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開運のことを話せば、最終結論は先祖霊に行き着きます。
それは、戦争で亡くなった人も含みます。
血は繋がってないかもしれませんが、
戦没者に対して、手を合わせるのは日本人の義務です。
亡くなった英霊が、最終局面で守ってくれるんです。
戦後、日本企業が経済大国として、
世界のトップ5に食い込んだのは、
奇跡としか言いようがありません。
あの焼け野原から、どうやって世界トップに出れるんですか。
信じられませんが、その背景には、
戦没者たちの後ろ盾があるんです。
バブルが崩壊したのは、戦後46年以降です。
約50年ですね。
この50年という数字は、亡くなった故人が、
神上がりする年数です。
なので、天に行かれるので、もう後ろ盾がなく、
日本経済は破綻した。
では今、どうやって日本を守るのかは、
最終的に、物事決めるのは、亡くなった人。
自分の開運のことを願うよりも、国の安泰。
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【以下、西日本新聞引用】
「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」-。
昭和天皇は1945年8月15日正午、
ラジオを通じて日本の敗戦を国民に告げた。
満州事変から日中戦争、
太平洋戦争と拡大した戦局は14年におよび、
空前絶後の310万人が犠牲となった。
不戦を誓った戦後日本の原点「8・15」。
九州ゆかりの戦争体験者は、
歴史的な一日をどう過ごしたのか。証言を基に再現する。
「握り拳を膝に打ち付ける者、涙を止められない者がいた」。
敗戦にうちひしがれる軍人たちの姿を記憶する人がいる一方、
当時の微妙な空気を映し出す証言もある。
宮原弘子さん(85)=福岡県粕屋町=は、
学徒動員された軍需工場の寮の広場で放送を聞いた。
「今から天皇陛下の大切なお言葉があるから、
心して聞くように」。
寮長に指示され、砂の上に正座して耳を傾けた。
ラジオから流れてきたのは、初めて聞く昭和天皇の声。
「人間の声だね」。友人たちとささやき合ったのを覚えている。
放送後、友人たちがざわつき始めた。
「はよ逃げんと米兵に殺される」
「髪の毛を切って顔に炭を塗らんと連れて行かれる」。
宮原さんも、うわさを信じて山中に隠れたという。
死と隣り合わせの空襲、飢え、物資不足。
国民生活を限界に追い込んだ戦争の終結は、
絶望の先にある小さな光明でもあった。「ありがたい」。
福岡市東区の小原康子さん(81)は、
母や叔母たちの言葉が耳にこびりついている。
福岡県宇美町の有森紀美子さん(76)は1938年2月生まれ。
生後15日、福岡市の自宅に、
父が戦死した知らせが届いたと後に聞かされた。
「父のぬくもりも厳しさも知らないまま、
お父さんと呼ぶこともなく生きてきた」
終戦時は、佐賀県北山村(佐賀市)の山村に疎開していた。
都市部に比べ、米や砂糖などの食料が豊富で、のどかな環境。
「終戦を実感したのは、今からすれば米兵だった」と振り返る。
9月ごろ、山村に米兵2人が現れた。
「日本の女性を襲う」と恐れられていた彼らの素顔は違った。
頭をさすりながら、笑顔でチョコレートをくれた。
初めての異国の味と、
軍服に帽子をかぶった米兵の姿が今も忘れられない。
「今後、日本が戦争のない平和な国であることを信じている」
「戦争の悲惨さを決して忘れてはならず、
次世代に伝えていかなければ」
戦後生まれの記者たちが、
老いを深める証言者たちから託された切なる思いを、
ここに書き残しておきたい。
=2014/08/15付 西日本新聞朝刊=
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暗いニュースは嫌だけれど、
日々楽観的に生きていることに、チクリと針を刺すのは、
大切なことだと思う。