『すずめの戸締まり』 災禍の不可抗力に打ちひしがれる人々の心を救う物語 | 真田大豆の駄文置き場だわんにゃんがうがおおおぉ!!!

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▼2024年4月20日
『すずめの戸締まり』

 Netflixで初鑑賞した結果、かつて劇場鑑賞をスルーしてしまった私真田自身を呪いたくなる程に、期待を遥かに超えて楽しめた!!!
※ネタバレ注意!!!
 本稿は、私真田独自の推測によって『すずめの戸締まり』のテーマ性、及び企図の本質を、無謀を承知で考察する。この結論を導き出すにあたり、『すずめの戸締まり』のメインプロットを以下の順で捉えながら、同作の思想性への考察を構造的に深めていく。
 

●ダイジンが人を救う物語
●人が土地を悼み、土地が人を救う物語
●土地の風土が人の不条理を受け止め、救う物語
●未来の鈴芽が過去の鈴芽自身を救う物語

●物語のテーマと企図についての考察の結論


 又、本稿末尾で、他色々について述べる。

●ダイジンが人を救う物語
 主人公の女子高生、岩戸鈴芽(すずめ)は、幼少期に3.11を経験し、この時に母親と死別した悲しみが現在も癒えず、所詮、人生とは「只の運(1:18:25~)」に過ぎないと、これに執着する気力を失っていた。そんな彼女はある日、常世から現世に震災を招き入れる「後ろ戸」を探し出しては閉じてを繰り返しながら日本全国を旅する「閉じ師」のイケメン大学生、草太と出会い、次第に恋心を募らせる。が、同時に、常世で震災の源を封じる「要石(かなめいし)」、この役目から解放された神獣、ダイジンとも出会う。ダイジンは、自分の代わりに草太を要石の役目につかせ、ダイジン自身は鈴芽の「うちの子」にしてもらい、現世で暮らし続ける事を望んだ。しかし、鈴芽はこれを拒み、草太を常世から救出し、自分はこの身代わりとして要石になる覚悟を決める。これは彼女が予てから生の執着に希薄だったところから必然された自己犠牲の精神とみて間違いない。が、鈴芽は草太を救出する土壇場で、彼と共に生き続けたいと、この時初めて、生の執着を取り戻した。これは鈴芽がかつて母親と死別して以来、初めて起こった奇跡であり、いわゆるタナトスからエロスへの復活劇だ(※タナトス、エロスに関してはフロイトの著作を参照あれ)。又、これは同時に、鈴芽がダイジンではなく草太と共に現世を生きるという二者択一の決断を意味したので、これを受けてダイジンは自ら再び要石の役目に戻る。何故なら、ダイジンの目論見とは、決して現世で大震災を暴発させる事そのものにあったのではなく、飽くまでこの危機感を煽りつつ、後ろ戸のありかを案内しながら、鈴芽の関心を惹き、ゆくゆくは「うちの子」にしてもらう事によって、現世で生き続ける事にあったからだ。つまり、鈴芽が草太を救出した上で彼と共に生き続けたいと願う状況では、要石の担い手は不在だから、決して大震災を望まないダイジンは、現世で生き続ける希望を断たれ、再び自ら要石の役目に戻るしかなかった。果たして、物語舞台の2023年の日本に於ける大震災は、ダイジンのおかげで未然に防がれた。
 以上によってひとまず、『すずめの戸締まり』は、“ダイジンが人を救う物語”と言える。

●ダイジンは土地のメタファ
 ところで、ダイジンは土地のメタファだと推測できる。これは、『すずめの戸締まり』の構想の発端について新海誠監督自身が述べたところを参照する事によって得られる、ダイジンというキャラクターが描かれた必然性に対する、私真田独自の解釈に基づく。
 新海監督は過去の舞台挨拶で全国を巡回しながら、次の様に思い立ち、『すずめの戸締まり』の構想のきっかけを得たそうだ。

 過疎化し、かつての賑わいを失い、やがては終焉を迎えるかもしれない土地が、人がされるのと同様に、そこに暮らした人々の思い出と共に鎮められ、悼まれる物語を作ろう、と(※筆者のうろ覚え)。
 これを念頭すると、劇中で、地震ミミズを鎮める要石の役目から解き放たれて白猫っぽく変化した神獣たるダイジンは、新海監督が述べたところの悼むべき対象たる土地のメタファだと推測できる。何故なら、ダイジンは現世の人々からの関心を失う事を嫌い、むしろ脚光を浴び、愛されたがる存在として描かれており、これこそが、実際に於いて過疎化し忘却され行く諸地域、この無念を具現させたキャラかの如くに映るからだ。
 というのも、まずダイジンは、本来なら地震ミミズ、後ろ戸、常世の光景、これらと同じ範疇であって、つまり現世とは一線を画す存在である筈なのに、この姿は鈴芽と草太の二人以外の全ての人々にも視認され、SNS上でバズり、鈴芽と絡む道中の行く先々で愛された。これは、ダイジンの行動原理が、常世から半ば逸脱し、現世の人々に認知されたいといった動機に根差しているとも解釈させる。つまり、ダイジンは、過疎化し忘却され行く土地の無念を自ら晴らそうとする具現として捉えられる。
 又、ダイジンは、劇中冒頭で要石の座から引っこ抜いてくれた恩人の鈴芽に「可愛い、うちの子になる?(0:16:30~)」と優しく声を掛けてもらった事によって、この直前までのまるで打ち捨てられたボロ雑巾の様な自身の姿を、丸々として元気で愛らしい白猫へと瞬時に一変させた。が、この直後にダイジンは、傍に居た閉じ師の草太を「お前は邪魔」と、椅子の姿に変えてしまう。これは、忘却され行く土地の無念を象徴するダイジンの未だ充たされない愛の枯渇にとって、鈴芽はこれを積極的に充たそうとしてくれるので都合が良く、逆に草太はこれを閉じ師の立場から一顧だにしてくれないので都合が悪い存在だったからだ。
 只、ダイジンは敢えて鈴芽に頼らずとも、従来から代々の閉じ師や草太の活躍によって、忘却された土地に想いを馳せてもらってきていた筈だし、従って、殊更、ダイジンが草太に要石の役目を押し付けるまでして、自分は鈴芽と共に現世で生き永らえようと望む理由は、そもそも生まれ要も無かったのではないかと問えば、おそらく違う。何故なら、ダイジンは、閉じ師だけでなく、より大勢の人々からの愛に飢えていた訳であって、又、鈴芽の子になるという期待も新たに芽生えてしまっていたからだ。つまり、忘却され行く土地のメタファたるダイジンの愛の枯渇は、かつて閉じ師の活躍を傍観する要石の座に留まっていた時点では決して解消されていなかった。従って、ダイジンが草太に要石の役目を押し付ける事こそが、彼に代わって鈴芽と共に閉じ師を受け継ぎ、且つ鈴芽の子として現世で生き永らえ、更により大勢の人々からの愛情も取り戻せる、この為の必然的な手立てに他ならなかったのだ。
 又、岩手の実家の跡地で鈴芽はダイジンに「いままでも後ろ戸が開いた場所に案内してくれてたの!?(1:40:00~)」と真相を確認する。これは、ダイジンが、飽くまで要石の役目から解き放たれた僥倖に任せ、より大勢の人々からの愛情を再び取り戻そうと愛嬌を振り撒きながら、しかし同時にどこまでも、鈴芽に閉じ師の真似事をさせる事によって、彼女が後ろ戸を閉じる際に、忘却され行く土地にかつて暮らした人々の賑わいに想いを馳せて欲しいと願っていたのであって、よって、ダイジンには決して大震災を起こす意図そのものは無かったという事実を明かすばかりか、ダイジンがやはり忘却を嫌う土地のメタファだとも匂わせる。

 尚、後ろ戸が方々で開く原因は、おそらくダイジンの仕業ではなく、飽くまでその土地で暮らしていた人々の「心の重さ」が消えてしまった事にある(1:54:30~)。又、この「心の重さ」とは、が鈴芽に本音の極一部を吐き出してしまうシーンで象徴された様に、時に心の行き違いの種ともなり得るが、しかし同時に、鈴芽の実の母親が3.11で帰らぬ人となった事によって、岩手の実家の後ろ戸が開き、これに閉じ師ではない「従人(ただびと)」の鈴芽が迷い込む描写があった様に、より根本では心の絆を繋ぎ止める力でもあると両義的に描かれていたと、私真田は解釈する。更に「心の重さ」は、これがおそらく少子高齢化や過疎化等によって土地から失われ行く度に、常世から現世に震災を招き入れる後ろ戸の出現を許してしまうといった位置付けで描かれていた事から、人同士だけでなく、人と土地、或いは、人と風土とを繋ぎ止める基礎的な力としても、より多義的に描かれていたと、私真田は解釈する。つまり、ダイジンは、飽くまで忘却され行く土地のメタファとして、「心の重さ」と震災への抵抗力とを自滅的に失い行く盲目な文明社会の尻拭いに奔走する功労者とも言える。これが表面上では、鈴芽を後ろ戸が開いた場所へと案内しながら、彼女の閉じ師の真似事をサポートする事によって、ついでに「うちの子になる?」と一度は声を掛けてくれた彼女の関心も惹きたがっていたダイジンの健気さとして描かれた。只、ダイジンは鈴芽の恋心を理解できない童心や気紛れも併せ持つ獣神として描かれたので、ややもすればこれが彼を、後ろ戸を開いて大震災を引き起こす憎たらしい悪役とかサイコパス等と誤解させる、やや嗜虐的な演出が件の東京のシーンまで仕組まれもした。この理由を推測するに、『すずめの戸締まり』がダイジンを描く事で何を伝えんとするのかを鑑賞者に少しでも多く考えて貰う為の、言わばアンビバレントな誘引を狙ったのではないか。つまり、痛がるダイジンもなかなか可愛かった(笑)。
 果たして、東京で後ろ戸を閉じる際に、鈴芽は仄かに恋し始めていた草太を要石にしてしまった後悔に憔悴し、ダイジンに「どっか行って」と誤解交じりの憎悪をぶつけ、ダイジンはこれを機に再び打ち捨てられたボロ雑巾の様な姿、つまりは忘却され行く土地の無念をより直球な形で表すメタファそのものへと戻ってしまう(1:14:10~)。が、ダイジンが求める基本は、飽くまでより大勢の人々からの愛情を取り戻す事なのであって、鈴芽からのより具体的な愛情はこのついで、偶発的に得た棚ぼたに過ぎない。従って、既に宮崎からの道中で大勢の人々からの愛情を欲しいままにしてきたダイジンは、尚もめげずに鈴芽の閉じ師の真似事のサポート役として、彼女の岩手の実家への旅路に自ら合流する(1:21:50~)。そして、ダイジンは、ここから物語の終盤まで、つまりは、岩手の鈴芽の実家の跡地で、彼女から、後ろ戸の場所に案内してくれて「ありがとう、ダイジン!」と再び心を開いて貰うまで、終始、打ち捨てられたボロ雑巾然とした姿を保ち続けていた(1:14:20~)。この事から、ダイジンは東京から岩手へ出発する時点で既に、「鈴芽の子」になる期待を失い、諦め、且つ要石に戻る覚悟も薄々決めていたと考えられる。只、物語のクライマックスで「私が要石になるよ!」と自己犠牲の精神を告白する鈴芽に対して、ダイジンは動揺してもいた(1:43:10~)。しかしいずれにせよ、ダイジンは「鈴芽の子」になる期待を東京で失った時点から、既に現世でこれ以上に生き永らえたいという執着を、少なからず弱めていたであろう事と、且つ、その後に鈴芽が生への執着を取り戻したと知らされた事によって、ダイジンが自ら要石の本分に立ち返らんと覚悟を更に固める弾みとなったであろう事とは、この後、ダイジンが「鈴芽の子」になる期待を再び膨らます事もなく、むしろ「ダイジンはね、鈴芽の子にはなれなかった。鈴芽の手で元に戻して(1:46:00~)」と自ら切り出した、この潔さによって難無く推測できる。
 尚、ダイジンより一回り大きく黒猫っぽい神獣で要石たるサダイジンも、この姿は、閉じ師や鈴芽以外の芹澤、環らによって視認されている。つまり、『すずめの戸締まり』に於いて、要石、或いはこの化身たる神獣とは、基本的には忘却され行く土地の無念を表すメタファであり、このキャラ造形が童心に束縛されるか否かに関わらず、ダイジンもサダイジンも、かつて暮らした多くの人々からの愛情を取り戻したがっている基本姿勢に変わりはないと解釈できる。そして、彼らが要石の座から解放される事をややもすれば望んでしまう理由とは、彼らが要石の座に留まるままでは、忘却され行く土地然とした彼らの無念を決して晴らし得ないからだ。
 以上の様に、ダイジンを土地のメタファとして捉えると、『すずめの戸締まり』の企図は、まずもって、過疎化し、失われつつある土地に固有の風土性や伝統性を悼み、想いを馳せ、あわよくば再びこれを隆盛させる一助たろうとする、この壮大な野心にあったのではないかと、私真田は更なる推測を重ねたくなる。それは例えば、「日本列島改造論」「地方創世」「国土強靭化」、果ては「多元主義的国際秩序」等の国際政治学的、且つ文化人類学的、且つ現実主義的な達観も包括する大テーマとも独断したくなる。何故なら、いわゆる積極財政による国土強靭化とは、日本国に於けるデフレ(失われた30年)不況、少子高齢化、及び人口減少問題、そして首都直下型地震も危ぶまれる震災大国独自の防災戦略、これらいずれも国の未来を決定付ける根本問題と真正面から向き合う、いわば政経論の王道に他ならず、更に、こういった憂国の観点と、土地のメタファたるダイジンを悼む『すずめの戸締まり』の世界観とが、少なくとも私真田にはピッタリと重なって見えてしまうからだ。

 只、だからといって、私真田は決してそこだけに『すずめの戸締まり』の企図の本質があるとは考えない。
 いずれにせよ、ダイジンを土地のメタファとして解釈できる余地は多分にある。従って、ひとまず『すずめの戸締まり』は、“土地が人を救う物語”と言える。

●人が土地を悼み、土地が人を救う物語
 ならば新海誠監督が『すずめの戸締まり』でもって、今の時代に人が土地を悼む物語を、或いは土地が人を救う物語を描かなければならなかった、この必然性とは何だったか。そもそも“土地が人を救う”とは、実際的には何を意味するのか。
 まず、ダイジンで象徴された土地が含むニュアンスとは、決して固定資産とか不動産相続の類ではなく、上述した様に、かつての賑わいを失った土地を悼み、鎮めるという企図から推測される、おそらく土地固有の光景、憧憬、或いはここから更に転じたところの、風土や伝統だ。従って、ダイジンは風土や伝統のメタファとも捉え直せ、又、『すずめの戸締まり』は、風土や伝統が人を救う物語とも捉え直せる。
 更にここで注目すべきは、『すずめの戸締まり』が強烈に描いた、いわゆる不条理のニュアンスだ。具体的には、自然界に於ける、決して人智では抗い切れない大震災や、ダイジンの気紛れ、そして、人間の側に於ける、鈴芽と環(たまき)が曝け出し合った生々しい本音(の極一部)の応酬だ。こういった自然と人それぞれに於ける不条理が対照的に描かれた点は、まるで、人間は不条理な災禍に直面した時、この極限状況で顕在化する人間自身の不条理な本性と向き合えるだけの覚悟、視野、思慮等が備わっていてこそ、これに耐え、生き延びる事も初めて可能となる、といったメッセージ性を読み取らせるかの様でもある。
 そして、この人間と自然の不条理同士の営みの積み重ね(或いは連環)こそが、正に風土や伝統に他ならないと気付かされた時、果たして、『すずめの戸締まり』とは、“土地が人を救う物語”だと、私真田は端的に解釈するに至ったという訳だ。

●土地の風土が人の不条理を受け止め、救う物語
 というのも、いわゆる「津波でんでんこ」等と、古くから東北地方で伝わる教訓は、いざという時に生き延びる為には、もはや平時に尊ばれる利他的な美徳や公共の規範やモラル感覚だけに囚われてはならないと警告し、むしろより原初的な判断や洞察も重要だと呼び掛ける。これを私真田なりに噛み砕いて述べ直すと次となる。いざ生きるか死ぬかの瀬戸際では、共同体の全滅だけは絶対に避けねばならないから、たとえ避難中に目の前で他人を見殺しにせざるを得ない自分の無力さに罪悪感を覚えたとしても、これに押し潰されずに、死者の分までしっかりと生き延びて命を後世に繋げ、みたいな。只、飽くまでこれは津波到達までの初動で意識すべきレベルの緊迫を伝える教訓には違いない。しかし、震災によって生活基盤が根こそぎ破壊され、この復旧に要する永い期間に渡る避難生活に於いても、やはり「津波でんでんこ」の延長線上で理解されるところの、平時なら決して省みられる事もない、この一見して“不条理”とも捉えられがちで原初的な判断や洞察が少なからず重要であり続けるとも言える。尚、これは決して、避難生活に於ける公共の秩序や共助の取り組み等に対する悲観や否定を意味するのではなく、飽くまで被災地の現実に於ける不確実性に極力対応する為の、より柔軟な判断や洞察の兼備の奨励を意味するニュアンスとして、私真田は述べている。又、この観点からは、被災地から遠く離れた場所でSNSを介して被災者やボランティアの方々に、実際とそぐわない独善的なモラルを押し付け、誹謗中傷する等という、この下劣極まる所業は言語道断の論外となる。現実と甚だしく乖離した理論やモラルや正義感程に醜悪なものは無い。
 又、避難生活とは、生活基盤たる自宅、土地、物流インフラ等を失った地域住民らが復興行政の計画に従って長期的、且つ断続的に営む集団生活だ。そこには、日常で普通だったプライバシーや生活ルーティンや気心の知れた人付き合い(職場、病院、居酒屋)等の全てが夢幻と消え、従って多くの被災者が避難生活による忍耐、ストレスを強いられ、又決して少なくない被災者がこれに耐え切れず、何らかの不幸な形で脱落を余儀なくされる。つまり、被災故に持病を悪化させたり、犯罪に手を染めたり巻き込まれたりする等の不可抗力が頻発する。そして、おそらくこれに関しては国、地方行政、民間ボランティアですら救済し切れず、この極めて寄る辺の無い不遇が見過ごされてしまう。そもそもこれは、被災地復興の為の立法が現実に追い付かない国難級の“不条理”だ。従って、TVをはじめあらゆる報道媒体もこれに関してはほぼ役に立たない。この様に、被災地の公共秩序や治安を一定に保つ為とはいえ、この極限状況にたまたまうまく馴染めなかったという理由だけで社会不適合者と烙印されてしまう人々を、或いはそうなるまいと必死な思いで避難生活に無理して耐えざるを得ない人々を、より本質的な意味の“災害弱者”として捉え直し、この決して公けには明るみにならない本音の部分の苦しみに少しでも寄り添い、救済しようというならば、ここで文学やアニメ等の役回りは重要さを増すと、私真田は信じて疑わない。

 つまり、『すずめの戸締まり』に於いて、たとえ虚構のサダイジンに憑依され煽られたとはいえ、本音の極一部を吐き出してしまった環だったり、他方ではこの献身や心配を「重い」と拒絶し、実の母親との死別の悲しみから反動した自暴自棄で向こう見ずな恋愛衝動に突っ走る鈴芽だったりが描かれた事とは、人という存在が、さも文明人らしき表の顔を支える生活基盤を失えば、皆多かれ少なかれ本能や自然法が平時よりも剥き出しにされ、自らの醜い本音を自制できずに醜態を晒してしまったりもする、この様な人間の本質的な弱さや不条理を自覚し、理解し、受け止めてやらねばならんといった、つまりは平時のモラル感覚を超越し、人間のありのままに対するより深い洞察、抱擁、救済を試みる、この文学的な意義に満ちていると、私真田は解釈する。少なくとも被災経験者なら、環と鈴芽の両者に対してアンビバレントな共感を深く得られるに違いないと、私真田は考える。
 尚、『すずめの戸締まり』は、劇中の震災で象徴する実際の災禍に於いて、仮に利己か利他かを逡巡するなら、究極的には利己に振り切れと鑑賞者の背中を押さんばかりの形で、このクライマックスを描いている。というのも、鈴芽が草太を救出して自らも彼と共に生き続けたいと、この土壇場で願い始めた覚醒とは、決して彼女が実の母親と死別した悲しみを乗り越えたという前向きな意味合いだけでなく、要石の不在に伴って発生するであろう、劇中舞台たる2023年の大震災とこの大勢の犠牲を未然に阻止できないという断念、絶望という後ろ向きな意味合いも同時に示すからだ。つまり鈴芽は、自らの恋愛衝動と日本の行く末とを二者択一の秤にかけ、果たして前者を優先するという、いわゆるセカイ系的なエゴを発動した訳だ。少なくとも、こういったエロス(生命欲動)がタナトス(自滅欲動)に優る精神を極限状況で維持できない部類の人間は、震災を例に取る災禍やこの不条理をまともに耐え、生き延びる事も困難だという、正に「津波でんでんこ」的な不条理の包摂への帰結と言わんばかりにである。

 且つ、この「津波でんでんこ」的な不条理≒セカイ系的なエゴとして、鈴芽が草太を救出し、彼の身代わりに要石となる覚悟を土壇場で捨て、彼と共に生きたいと、生の執着を取り戻し、しかし同時に劇中2023年の大震災を防ぐ事を断念したという不可抗力、この後始末を、土地、及び風土の象徴たるダイジンが引き受けた訳だ。つまり、このプロットの組み方こそは、決してご都合主義ではなく、むしろ、“土地の風土が人の不条理を受け止め、救う物語”を成立させる上では必然に他ならなかった。要は、極限の災禍が強いる不可抗力、これに打ちひしがれる人々の心を救うのは、人と土地とが古くから紡いできた風土、これに息衝く達観という訳である。
 以上を総合するに、生死を分かつ極限状況下では、必ずしも平時のモラル感覚だけに囚われなくてもいいのだと、この様に精一杯生きる事を応援し、救済するメッセージ性を、私真田は『すずめの戸締まり』から解釈する。
 そして、以上の様な人間側の不条理も含む、言わば清濁併せた本性を近代以前から理解し、語り継いできた営みこそが風土や伝統の範疇であり、これは、近代以降の文明力でもってしても決して抗い切れない大震災という極限状況にあってこそ、より一層に存在意義を増し、人々の原初的な自然法を抱擁する。少なくとも、『すずめの戸締まり』という物語は、新海誠監督が構想の発端とした「人が土地を悼む」範疇だけに留まらず、上述した様な「土地が人を救う」テーマも併せ、更なる普遍性を至極合理的な多重構造で隠喩し、且つ鑑賞者をしてこれを直感させるレベルまで見事に昇華し切れていると、私真田は独断し、大絶賛する。
 以上が、私真田が『すずめの戸締まり』から感じ取った、“土地が人を救う物語”の意味するところと、これを新海監督に描かしめたであろう必然性について推測するところの全容となる。

●未来の鈴芽が過去の鈴芽自身を救う物語
 しかし、私真田は上述した次元より更に深奥の必然性を『すずめの戸締まり』から感じ取る。この手掛かりとなったのは、劇中の最後まで、ついに鈴芽と母親との再会が描かれる事は無かったという点だ(※脚注01)
 

※脚注01
 勿論、鈴芽の叔母で養母の環(たまき)こそが実質的に母親として描かれていたという解釈の余地を、私真田は決して否定しない。むしろ、道の駅で鈴芽と環が互いに本音の暗い部分をぶつけ合った後、自転車で二人乗りしながら和解に及ぶまでのシークエンスでは、実の娘と母親以上の信頼が結ばれたとも解釈できる。しかし、更に後の劇中クライマックスで草太を救出する土壇場まで、鈴芽は彼の代わりに自分が要石になると、この自己犠牲的な覚悟を決して崩していなかった。この自滅衝動の描写こそは、鈴芽に生の執着を失わせたトラウマとしての、実の母親との死別の悲しみが、たとえ環の献身的な愛情をもってしても、ついに最期まで癒されなかったという事実を証明する。
 尚、『すずめの戸締まり』は、実の母親との死別の悲しみを、恋人と生きる欲求によって克服するという鈴芽の成長を描き、これによって、彼女の自滅衝動と対照を成す生命力、このイメージとして、恋愛、或いは自ら新たな家族を殖やして命を紡ぐといったニュアンスを最大限に強調する。つまり『すずめの戸締まり』に於いては、家族愛よりも恋愛が優位に描かれる。この理由は、一重に本作が若者向けだからだ。

 因みに、これがどういう事かをいちいち説明すれば、まずもってこの国の少子高齢化を野放しにし続けてきた無能政治家、或いは若者の性衝動を厳格に統制する教理でもって、曰くイエスキリストの再臨として信仰される教祖の権威をより強めようとする“壷カルト”、これとの政策協定(※選挙運動協力に報いる政教癒着の闇取引)を重ね、永年に渡って日本の若者の性教育制度すらなおざりにしてきた確信犯的な売国政治家、こんな連中に頼ったままでは、大震災の脅威を待たずとも、どのみち日本という国民国家は滅びるという事だ。又、いわゆる恐慌経済や戦争経済が繰り返される文明史を学ぶ観点から、日本の少子高齢化と人口減少を野放しにし続ければ、いずれは東アジアの軍事的不均衡が臨界点を突破し、果ては有事勃発を誘発させかねないと危惧する、こういった平和主義の視座こそが、言わば独立愚連隊的なアニメ演出家、及びアニメ制作スタジオが取り組むべき大命題の一つとなっている。従って、今の時代にアニメが若者向けの恋愛物語を描く事は必然であり、正に「津波でんでんこ」的な国難突破の訴求とも言える。
 従って、自らの婚期すら省みなかった環の愛情は、どこまでも鈴芽のトラウマの深刻さを際立たせる仮初めの域に留まる事を余儀なくされる。しかし同時に、こういった環の報われなさこそが、震災が人に強いる不条理の象徴としても見事に機能する。この最たる例として、まず、環が心配して遥々宮崎から東京まで迎えに来ても、鈴芽はこれを拒絶し(1:21:10~)、又、後に自転車で二人乗りしながら和解して信頼をより強固にした後も尚、鈴芽は環の心配を振り切り、自己犠牲の覚悟を秘めながら「好きな人の所」へと突撃した(1:40:30~)。尚、この様な不条理が描かれる構造的な必然性については、既に説明済みだ。
 以上によって、環は鈴芽にとっての実の母親の代わりには、決して成り得なかったと言える。
 又、劇中の3.11当時に岩手の実家で後ろ戸が開いた事と、これを閉じ師でもない幼少期の鈴芽が視認し、くぐり抜けられたばかりか、この後、成長した鈴芽が草太と“再会”する事で再び後ろ戸を視認できる様になった事とは、岩手の実家の後ろ戸が、鈴芽の母親の「心の重さ」の消失によって開かれた事を、まずもって推測させる。何故なら、本来なら閉じ師でもない従人の筈の鈴芽が岩手の実家の後ろ戸を視認し、くぐり抜けられた理由を探る時、これは鈴芽の母親の「心の重さ」との生死を超越した共鳴みたいなもの以外に考えられないからだ。更に、従人の鈴芽が後ろ戸を視認し、くぐり抜けられた理由は、おそらく鈴芽に対する母親の「心の重さ」が超重かったからだ。少なくとも、鈴芽の母親が3.11を生き延びながらも何らかの事情で姿を暗まさざるを得なかったといった可能性など到底考えられない程に、鈴芽が後ろ戸から常世に迷い込んだ事実は閉じ師にとっても珍しく、つまり超重かった!又おそらく、3.11当時の鈴芽が常世で出会った相手は、母親とも見紛うシルエットの奥の、未来の自分自身というよりも、未来の恋人たる草太だった。これは、後に高校生となった鈴芽に生きる希望を取り戻させる運命の恋人の予告であり、又、彼と閉じ師の旅路を共にしながら恋を育ませる為の、亡き母親からの置き土産だ。又、母親の手作りの椅子を因果律改変的に手渡された事も含め、劇中終盤で鈴芽は「大事なものはずっと前にもう全部もらってたんだ(1:53:20~)」と思い出す。以上によって、鈴芽の母親の「心の重さ」の消失とは、3.11当時に於ける母親の死としても無理なく捉えられる。
 尚、母親の死によって開いた、岩手の実家の後ろ戸と鈴芽との対峙とは、広義には鈴芽と母親との再会として捉えられるかもしれない。しかし、この解釈の拡げ方は、そもそも後述せんとする、死者を悼む実際の過酷さと向き合う『すずめの戸締まり』の普遍性への評価とは、関係が無い。端的に、鈴芽と母親との再会そのものが描かれなかった点こそが、本稿の文脈では重要だ。


 『すずめの戸締まり』に於ける鈴芽の成長譚は、決して亡き母親との再会などといったエピソードには頼らなかった。これはたとえ超弦理論的に因果律が混沌とした常世の舞台設定に於いてすら許されず、代わりに鈴芽の過去と「鈴芽の明日(1:52:50~)」との邂逅が描かれた。従って、鈴芽の成長譚は、彼女が過去の自分自身のトラウマを見つめ直し、これを克服するという自助努力を隠喩していると言える。
 又、鈴芽の過去とは実の母親との死別と同義であり、又、鈴芽の明日(未来)とは草太との出会いと同義である。従って、鈴芽の成長譚は、タナトス(自滅欲動)からエロス(生命欲動)への復活劇であるのと同時に、愛する者との死別の悲しみを乗り越えさせるのは、生きる事への執着を取り戻させるだけの、又新たに愛する者との出会いの喜びくらいしか無いといったメッセージ性の隠喩とも捉えられる。
 つまり『すずめの戸締まり』は、自助努力やエロスといった、この生に前向きな意志や執着こそが、極限状況に置かれた人間を救済し、再起させるといったテーマ性を、上述した人間の不条理な本性とかエゴとか、又は風土や伝統の連環を繋ぐ生殖の営み等と関連付ける思想構造のド真ん中で描いた。端的に、死ぬな、生きろ、この為なら近代以前から足元に息衝いてきた風土の大らかさに立ち返るくらい図太くあってもいいし、むしろあらねばならない、みたいな、この飽くまで生きる事を諦めたくない、諦められない者を応援するテーマ性を、私真田は解釈し、同時にこの普遍性を評価する。
 何故なら、まず、人は誰しも例外なく、死後を知る事も、体験する事も、証明する事もできない(※たとえ臨死体験の証言の類を幾ら掻き集めたとしても、ここから個別ケース同士の整合性や客観性を導き出す事は、未だ果たされてはいないし、ましてや宗教的な死生観はそれを証明するものではなく、飽くまで信じさせるものに過ぎない。従って、現段階の人類は、死後が“有る”とも“無い”とも、このいずれの断定も決してできない)。つまり、死別した相手との再会は、本質的には何物によっても決して保証されない。よって、死別の悲しみを乗り越え、死者を悼む為には、遺され、悼む側の者が死者に頼らず、むしろ死者を能動的に送り出すといった強靭な精神性が必要だ。この様に、死者を悼む実際に於ける過酷さという、人類にとって普遍的で且つ切実な大命題を、『すずめの戸締まり』は、このメインプロットたる鈴芽の母親との死別と、草太との出会いと、そして過去の鈴芽自身との再会とによって組み合わされた成長譚でもって、見事にエンタメとして昇華できていると、私真田は感じ取る。つまり、この普遍性とは、『すずめの戸締まり』がもはや震災を題材として取り扱う“震災もの”の枠組みばかりに留まらない、更に深遠なテーマ性の熱量に溢れ、より広く多様な鑑賞者の心の奥底まで響くに違いないと、この様な私真田独自の評価を意味するという訳だ。
 勿論、未来の鈴芽から過去の鈴芽へと渡された「大事なもの(1:53:20~)」の象徴として、生前の母親が遺してくれた手作りの椅子は、鈴芽を成長させる上で偉大な役目を果たした。只、この椅子とて、未だ幼い鈴芽にとっては母親との死別の悲しみを想起させるトラウマの具現に他ならなかった。そして、これは鈴芽がやがて出会って好きになる草太が封じ込められてしまう、いわば魂の器にして、生き続けたい(1:44:45~)と思いを改めさせる希望の“要”とも成り代わる。この成り行きを経た劇中終盤の鈴芽は、既に草太が元の姿に戻った事で、少なくとも自分には不要となった椅子を過去の鈴芽自身に譲り渡した。つまり、鈴芽にとって、母親の手作りの椅子は、後ろ向きな過去と前向きな未来の両方を映し出す象徴であって、且つこれを前向きな未来の象徴へと成り代わらせたのは、他でもなく鈴芽が草太と出合って成長する未来であり、或いは鈴芽自身の意志だった。従って、鈴芽は未来に生きる喜びを受け入れる事によって、過去の死別の悲しみを克服したのであって、これは鈴芽がどこまでも死者たる母親に頼らず、自力で復活を遂げた自助努力の成長譚と言える。よって『すずめの戸締まり』は、最早震災云々の次元を超え、そもそもの、死者を悼む実際の過酷さを克服させ、遺された者が尚精一杯生き続けられる様に虚構の側から激励を試みるといった、このテーマ、及び企図の普遍性を見事に昇華していると、私真田は感じ取るのだ。

●物語のテーマと企図についての考察の結論
 以上に従って、『すずめの戸締まり』に込められたテーマとは、人間の不条理な側面も含むありのままを自覚し、向き合う覚悟こそが、震災も含むあらゆる災禍の不条理や死別の悲しみを克服し、生き抜く力となる、みたいなものだろうと、私真田は感じ取った。
 又、以上に従って、『すずめの戸締まり』の企図の本質とは、様々な災禍に見舞われ、極限の忍耐を迫られる人々の苦しみに、或いは死者を悼む過酷さに寄り添い、救済する、こういった虚構側からのささやかな試みにこそあったのだろうと、私真田は感じ取った。

●他色々について
 『すずめの戸締まり』がエロスとタナトスの対照構図を描いていたと解釈した私真田にとって、これと細田守監督作『竜とそばかすの姫』を比較検証する発想は避けられない。まず『すずめの戸締まり』の大筋は、エロスによるタナトスの克服であり、又、この思想性は、遺された者が逞しく精一杯に生きる事への激励に基礎付いている。対する『竜とそばかすの姫』の大筋は、終始タナトスに徹し、又、この思想性は、遺された者がこの悲しみに報うべく自滅衝動の先に解放を求める事への抱擁に基礎付いている。ここで私真田が強調したい点は、両作品は確かに思想性のベクトルは真逆だが、同時にテーマの普遍性とこの昇華レベルは比肩しており、つまり、両作品それぞれによって心の奥底からの共鳴や救済を切実に感じ取る鑑賞者が確実に存在するし、従って両作品とも時代を超えて記憶されるだけの大傑作には違いないという事だ。
 只、『すずめの戸締まり』に於ける鈴芽の成長は、飽くまでイケメンの草太との出会いと恋が必要不可欠な要素となっている。これを裏返せば、『すずめの戸締まり』が描くエロスによるタナトスの克服とは、美少女とイケメンとが出会い恋する事でしか実現し得ない奇跡への標榜、これを強いる理想主義的な側面への偏重がやや否めない。このため、たとえ土地を悼み、風土の大らかさに立ち返って図太くエゴも辞さずに生きようと幾ら気張ったところで、肝心の青春の出会いに恵まれない境遇にとって『すずめの戸締まり』は、ややもすれば絵に描いた餅の域を出ない。つまり、“エロス”が恋愛だけでなく生命力そのものとして描かれている筈ではあるが、ややもすればこれが矮小化され、誤解の形で受け止められても仕方ない作りになっており、この分だけ救済の効果も薄れる。少なくとも、「土地を悼む」とほぼ同様の切り口でありながら、これに伴う一種の慢心への葛藤に踏み止まり、これと大消費社会への文明批判(※というよりも実存主義的に極めてフラットな対照描写)も並行するドラマ仕立てにした高畑勲監督作『おもひでぽろぽろ』の誠実さと比べれば、擁護の余地無く見劣りしてしまう。が、同時に、劇場興行を爆発的に成功させる観点からは、その優劣が見事に逆転する事も確かだ。
 又、例えば宮崎駿の場合、彼の文明批判や諧謔等のやや後ろ向きな思想性の側面は、世界各国の児童文学や伝承等からの膨大なモチーフの重層的な組み合わせ、変換によって覆い隠され、むしろさも前向きで、優しく、心躍らせる表象を装わせる形で昇華され切っている。つまり、そこにはたとえ仮装が施されていても、決して嘘も妥協も手加減も無いし、これこそが宮崎駿作品の多義的で、且つ退屈させない見応えの根源となっている。他方で、新海誠監督の場合、『すずめの戸締まり』に至っても尚、どこかしら自分を曝け出し、諧謔する事に及び腰で、これがややもすると嘘や妥協や手加減の様にも、私真田には感じ取れてしまう。勿論、メタ的な諧謔が全く無かったとは言わないが、端的に、弱かった。当然、本稿で述べた不条理や、セカイ系的なエゴや、平時よりむき出しにされた自然法、等々と私真田に解釈させた生々しい描写の数々こそは、正に諧謔そのものだった。しかし、同時にそれはどこまでも新海誠監督自身へのメタ演出としては決して充分ではなかったと、私真田は率直に感じた。尚、これは『君の名は』『天気の子』を含む過去のどの新海作品と比べても『すずめの戸締まり』の思想構造的な昇華の錬度がずば抜けていると大絶賛した上でも拭い去れない感触の話であり、つまりは更なる期待の裏返しでもある。というのも、私真田は、新海誠監督の全作品を通して、彼が伝承、SF、理化学、物理学、オカルト、民俗学等々に渡り、生来から知的探究欲が旺盛で、これらを血肉として創作の肥しに還元して止まない類の超天才だと確信している。だからこそ、たとえ宮崎駿の様に児童文学からではなくとも、これに比肩する規模の物語や科学史的なナラティヴ等のモチーフを縦横無尽に駆使する事によって、新海誠監督独自の思想性や性癖や諧謔の全てを更に隅々まで昇華し、曝け出して欲しいと、私真田は期待せずにはいられない訳だ。

↓『風の谷のナウシカ』第5巻p141。他、『君たちはどう生きるか』や、スコセッシ、リドリー・スコット、ガイ・リッチー等、名だたる名匠に見るコンプレックスの自白、表現者、もとい人間としての贖罪の吐露といった意味での“諧謔”は、少なくとも『すずめの戸締まり』時点の新海誠には依然と皆無だ。

 尚、何故、私真田が作家自身を客観視する諧謔の昇華、この究極のメタ演出に、そこまでこだわるのか。これには、ややもすれば虚構に於けるメタ的な諧謔こそが、昨今の国際紛争に於ける宗教イデオロギー的な、いわゆる“聖戦”の大義まで、この当事者ら一人一人をして客観視、相対化させる文学的なメッセージ性ともなり得るといった、この様に所詮は私真田独自のしょーもないロマンが関わっているという程度の話に過ぎない。つまり、いわゆる“人類平和”と果敢に向き合う類の普遍性が作品に包摂されるか否かは、少なくとも私真田にとって、あの日本アニメの黎明を決定づけた『ホルスの大冒険』を基点とし、決して揺るがない、超絶級の大傑作であるか否かを見分ける評価基準という事だ。又、これこそが、所詮は製作スポンサーの広告事業の余興にあやかる請負仕事に過ぎない劇場アニメなんてシロモノが、この様に身も蓋もない“現実”の後ろ盾とは裏腹の“理想”を大衆に売り付ける、この商慣習上の欺瞞に束縛されながらも尚、せめてもの存在意義を作家はじめ制作スタッフ側に信じさせるモチベーションの拠り所ではなかったかと、私真田は勝手気ままに夢想したりもする。当然、これはアニメだけに限らず、邦画、洋画、文学、ゲーム、他あらゆる娯楽作品に対して一貫した、私真田独自の評価基準だ。そして繰り返すが、私真田はこの水準の期待を諦められない程に、『すずめの戸締まり』を現時点では自身の最高傑作とする新海誠監督を評価しているという事である。
 勿論、少なくとも100億超えの興行収入を期待され続ける立場で挑戦できる限度とか、他にも到底計り知れないしがらみの多い状況で最善を積み重ねている、この途上の節目だけを作品として垣間見せられているに過ぎない、一介の鑑賞者たる分を、ここに改めて弁えたい。以上は飽くまで、劇場アニメ的な興行も成功させつつ、シネマ的なスケールアップも経た新海誠監督の復権を切に望んで止まない、私真田の我儘だ。
 いずれにせよ、既に『すずめの戸締まり』から期待を遥かに超える感動を得られたし、これによって次回作への期待も跳ね上がった。楽しみじゃー♪♪♪