『ルックバック』『さよなら絵梨』 | 真田大豆の駄文置き場だわんにゃんがうがおおおぉ!!!

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▼2024年6月28日

劇場アニメ『ルックバック』

 
●感想の結論
 劇場アニメ『ルックバック』は、天才的な原作漫画が天才的にアニメ化された奇跡級の成功例!!!
 藤本タツキの原作漫画を劇場アニメ化するにあたって、脚本・絵コンテ・キャラデザ・作画監督、その他諸々の監督業を超絶レベルでこなした押山清高、凄過ぎる!!!!!!

※ネタバレ注意!!!

●天才的な原作漫画をアニメ化する困難さについて

 劇場公開初日に鑑賞。

 当初、私真田は劇場鑑賞しようか否かを凄く迷った。何故なら、私真田の中で、『ルックバック』は藤本タツキの原作漫画から別メディアへと離れれば、同作の余白がこの真髄に忠実な形で昇華される事など、どう足掻いても決して叶う筈が無いだろうと高を括っていたからだ。

 例えば、MAPPAの『チェンソーマン』アニメ化企画に於いては、これ以上に無いって程に潤沢な製作、制作の環境が整ったにもかかわらず、結果は芳しくなかった。尚、これは、同TVアニメシリーズによる事業収益云々ではなく、飽くまでTVアニメシリーズの仕上がりそのものに的を絞った、私真田独自の印象の話に過ぎない。もっと言えば、かつての『無限の住人』の二度に渡るアニメ化企画の結果についても同様の印象を持っており、又、これらには幾分、似通った制作上の困難があっただろうと、私真田は漠然と感じている。

 というのも、藤本タツキと沙村広明、この両大天才に共通する、ダイナミック且つ繊細な表現テーマが余す事無く、無類の描画力で漫画化されたという業績、そしてこれに共鳴したコアなファンら、彼らとの間に共有される独特のイマジネーション、これを更なる高みへと押し上げる事を渇望されてしまうアニメ化企画、これを成功させる為には、アニメの制作スタッフ、主にコンテを切る監督が誰よりも原作の真髄を理解し、コアなファンはもとより、欲を言えば原作者の構想以上に突き抜けた画面を提供する事、これが最低条件となってしまうのであり、これこそがアニメ化に於ける困難の正体だと、私真田は考える。

 尚、同様の困難を見事に克服した前例を思いつくままに述べれば、『ルパン三世カリオストロの城』『機動警察パトレイバー2 the Movie』『宝石の国』『聲の形』『ぼっち・ざ・ろっく!』等があがる。もっとも、宮崎駿や押井守に関しては、丸っきりオリジナルでアイディア溢れる脚本、独自の演出哲学や思想性、これらを武器に、天才的な原作に充分過ぎる程に応えるばかりか、遥かに超えていく。つまり、言わば泣く子も黙らせる原作改変の鬼レベルについてはさておき、どこまでも原作のベクトルを維持しつつ、このイマジネーションを超える為には、先述したとおり、原作への理解、これに付随させる演出や芝居に関するアイディアの引き出し、更にはこれらを統御する監督業に特有の人心掌握の技能が最低限に求められるが、これだけでも実際に達成される事は極々稀ってくらいに困難だ。

 つまり、天才的な原作力に応え、更に超える為には、同様かこれ以上に天才的なアニメ制作スタッフの存在が欠かせない。しかも、原作側の天才の度合いが『ルックバック』級の超絶レベルとなれば、このアニメ化企画を成功させる事はほぼ絶望的としか、当初の私真田には考えられなかったと、こういう訳だ。

●『ルックバック』のアニメ化は大成功!!!

 しかしである。

 劇場アニメ『ルックバック』はそれを見事にやり遂げた!!!

 原作漫画の真髄に沿って余白を見事に補完したという意味に於いて、原作漫画を超えた!!!

 凄かった!!!

 内容的には勿論、メタ的にも感動した、泣いた!!!

 原作漫画と入場特典原作ネーム本と映画パンフレットとBlu-rayは、何ら抵抗も無くひとまとめに保管できる!!!

 尚、メタ的な評価について述べれば、劇場アニメ『ルックバック』制作陣は劇中の京本に相当し、これが藤野に相当する原作者、及び原作漫画を偉大なまでにサポートし、この構造的な内実を映画フィルムという形でもって名実共に、且つ問答無用に証明し切ったし、この奇跡的なアニメ化の偉業は、藤野と京本のパラレルで理想的な If の未来(※これについては後述する)、これをメタ的になぞるクリエイター(絵描き)魂の証に他ならず、従ってこれは、『ルックバック』に込められた最大のテーマ、あの弔いのテーマにも見事に繋がったと、私真田は、今日、この日、本っっっ当に心を打たれた!!!

 私真田は、劇場アニメ『ルックバック』制作陣に対し、最大級の敬意と感謝を捧げます!!!

●本編の細部について

 冒頭、夜の山形(秋田?)の住宅地への空撮から徐々に藤野の部屋の窓辺へと、CGを使わず手描きによるT.U.でカメラが降下する背景動画。原作漫画の雰囲気に忠実たるべく手描きにこだわると意思表示された本編の導入部。

 藤野・作の四コマ漫画『ファーストキス』が、決して本編全体の流れを損なわない範囲で、贅沢にアニメ化。ハート型の血溜まりでキスしながら、脚も絡ませ合う二人の細かい芝居だとか、転生した少女の20年の生涯を圧縮した描写だとか、転生した隕石が地球に衝突するエフェクト作画だとか、飽くまで藤野の四コマ漫画の陳腐さを損ねない範囲で最大限に脚色されており、この一連の演出に感服、笑わせられた。

 学年新聞で京本の四コマに初めて打ちのめされた藤野、この青天の霹靂と自意識過剰が合わさった心象を、教室の生徒の群像を倍々マシマシで見せていく演出に感服。

 京本に卒業証書を届けたついでに四コマを描く藤野、この一度の挫折を味わった正面からの表情、原作に無い素晴らしいカット。直後の「何してんだ私」と我に返る藤野の内面の抑揚に説得力が増した。

 直後、四コマが京本の部屋に滑り込んでしまった事に動揺し、退去しようと慌てる藤野のアクションシーンの悉くが魅力的過ぎた!!!

 そして、これに続く京本の躍動に溢れる初登場シーン。言わば本編全体としての発端のエピソードであり、それだけに魅力的なシーン。ここで私真田は泣いた。東北訛りで喋る京本が可愛い。別れ際の京本の「またね!」がやっぱり可愛い!!!

 京本に認められ、浮かれて水田を駆け抜ける藤野のシークエンス。正に“原動画”の魅力が本編中で最も際立ったであろう素晴らし過ぎるシーン!!!水田空撮からクレーンダウンとT.U.を加味した背景動画は恐らく手描きで、且つ、雨上がりの曇り空の明るい灰色を反射する水田へのハメコミ美術、この舞台演出が藤野の浮かれた心象と連動して美しく、楽し過ぎた!!!

 藤野の「お礼は10万円でいいよ」に素直に驚いてしまう京本に対して、再び藤野の「ウソ!」が追加されていて、和む。京本の反応がいちいち可愛い!

 水族館で取材中、サメに驚く京本の描写が追加。滅茶苦茶、可愛い!!!

 本稿冒頭に掲載したPVでも採用された、藤野と京本が手を繋いで走るシーン。しかし徐々に二人の手は指先が引っかかるか否かまで解けて行き、これが直後のカットで、京本が背景美術というジャンルと出会い、更に後に、美大に進学して藤野と袂を分かつ決断に至る、この予兆として、原作に追加して描かれた。これによって二人の友情ドラマの展開が、より一層、直感し易いものとなった。素晴らしい!!!

 直後、藤野が『シャークキック』連載で忙殺されるプロ漫画家としての日常へと場面が切り替わり、ここで彼女が電話越しの担当編集にアシスタント探しの相談をする、この原作には無いやり取りがお披露目される。 これは恐らく、劇中全体で最も重要な追加描写と言える。何故なら、これが後に、藤野が京本の部屋の扉越しに夢見たパラレルで理想的な If の未来、つまりは、仮に藤野が京本に卒業証書を届けた時点から二人の友情を開始せず、且つ漫画制作活動も一旦は諦め、代わりに空手に打ち込み、やがて直面する山形の美大の通り魔事件の現場に間一髪で駆けつけ、京本の命を救い、更にはこの出会いをきっかけに漫画制作活動を再開し、美大出身の京本を背景アシスタントに抜擢し、果たして二人仲良く上京するに至ると、こういった決して現実には叶わぬ理想的な If の未来への渇望、或いは、取り返しのつかない現実の運命への呪い、これらがない交ぜとなった藤野の終幕間際の心象への布石となっているからだ。従って、この追加描写は、藤野の無念と、これに向き合う覚悟とを、より明瞭な起承転結で直感させる為の素晴らしい余白の補完だと、私真田は唸らされた!!!

 尚、藤野にとって京本とは、理想的な背景アシスタントである以前に、そもそも唯一無二の愛読者だったし、従って、藤野が漫画を描き続けるモチベーションそのものだった。これについては、「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」に続いて藤野が回想する、かつて自らのネームに夢中だった京本の涙、驚き、そして笑顔によって理解できる。つまり、劇場アニメ『ルックバック』は、救急搬送される藤野の「連載できたらアシスタントになってね」から遡らせる発端エピソードとして、彼女と担当編集とのやり取りも明瞭に補完して描く事によって、そういった藤野と京本の多義的な関係性を、鑑賞者をして、原作漫画より更に直感し易い形に仕上げたという事だ。又、藤野が亡き京本の遺した部屋に見た実際とは、美大に通いながらも依然と藤野の連載漫画に夢中で、且つ四コマ漫画の制作も続ける、こういった藤野に対する憧れ、若しくは彼女と共に漫画家となる道を未だに捨て切れないでいた逡巡、未練、これらを思わせる痕跡だった。これを見せ付けられた藤野は、恐らく京本を失った無念を更に強めてしまうと同時に、自らの漫画を描くモチベーションを否応なく、最も残酷な形で再確認させられただろう。この残酷さは、到底、計り知れない。

 藤野が通り魔に殴りかかる刹那の大迫力なカット。格好良過ぎて痺れた!!!!!!!

 本編終了後のスタッフロールで“原動画”なる見慣れない項目。ここに井上俊之、監督の押山清高、他数名がクレジットされる。つまり、劇場アニメ『ルックバック』は、中割分も含む全ての原画を先の“原動画”にクレジットされた計8名の少数精鋭によって、ほぼ全体的に制作したという事だ(※この詳細については、劇場パンフレット掲載の藤本タツキ×押山清高の対談にて、原画マンの筆跡を2原のクリナップを経ずにそのままフィルムに残した等と説明されている)。こんな贅沢な話が他にあるか!?否、この“原動画”体制こそが、劇場アニメ『ルックバック』に於いて、原作漫画のテーマと演出思想とを合致させる為には決して欠かせない必然的な判断だったのだ(※これについては「メタ的な評価」として上述したとおり)

 正に奇跡級の大傑作アニメ!!!

 

▼2022年7月4日 

『さよなら絵梨』

弔いに於ける、利他と利己の格闘

 

 『さよなら絵梨』の単行本が届いたので、改めて読み返す。
 まず気付かされたのは、p97、p113、他諸所に於ける、間のニュアンスを含ませる登場人物の視線のみの芝居が彼らの魅力を引き立てると同時に、これが「人をどんな風に思い出すか自分で決める力(p131)」という劇中の主人公の造形に対する、作者の藤本タツキによるメタ的なディテール演出となっていた点。特にそのp97の父親の芝居と、p113の病症の絵梨の芝居、それぞれの状況と心情をセリフ抜きで滲ませる描画が魅力的過ぎた。つまり、改めて藤本タツキ氏は“絵が上手い”と思わされた。
 又、p108~177、この作品全体に於ける大枠の“転”によって、プロットの優れた構成力を痛感させられた。つまり、まず主人公が絵梨の不治の病を初めて知らされた事に残酷だと、母親のそれと同じだと、一旦は映画作りを放り投げるが、父親の説得によって「これからは絵梨の全部を撮っていい?」とプロポーズを兼ねて撮影が再開され、継ぐ怒涛の実質的な異性交遊がたったの12コマで見事に凝縮されたp138~143、そしてこれ以降は只の一度すら絵梨の姿はフレーム内に描かれないまま、例えば病室の天上を見上げる背景カットや黒ベタカット等の連続で鬱屈したエピソードの閉塞感がフェイクの“結”として演出された。果たしてその後、唐突に復活、再登場する絵梨という大枠の“結”への導入の解放感が、その陰鬱の“転”の紙数が大幅に溜められた事によって、見事に際立った訳だ。


 で、この度の私山田が書き留めたい最大の感想は、p100の父親の台詞「創作って受け手が抱えてる問題に踏み込んで笑わせたり泣かせたりするモンでしょ?作り手も傷つかないとフェアじゃないよね?」こそが、後のp192~193の見開きに於ける絵梨の台詞で強烈に示唆される、“主人公と絵梨との立場の逆転”に、この布石として繋がっているという、私山田独自の解釈についてである。
 それがどういう事かというと、まずp192、193の見開きの絵梨の台詞は「見る度に貴方に会える・・・。私が何度貴方を忘れても、何度でもまた思い出す。それって素敵な事じゃない?」なのだが、これはp106の絵梨の台詞「あの映画を見ればお母さんに会えるでしょ?それってとっても素敵な事じゃない?」と対照になっており、つまりこれは、映画に記録された愛する相手を思い出せる立場が、かつて母親や絵梨の死を見届けた側の主人公から、やがて先に寿命を迎える主人公の死を見届ける側の絵梨へと移り、逆転した事を意味している。で、その“立場の逆転”にp100の父親の台詞「作り手も傷つかないとフェアじゃないよね?」が布石となって掛けられているという私山田独自の解釈が何かといえば、これは『さよなら絵梨』という“物語、兼、劇中劇”が進むに連れて、映画(※厳密に言えば“劇中劇中劇”)の受け手が、母親の死別と対峙したかつての主人公自身から、やがて、実際には死別した筈の絵梨になっていたと明かされた急展開によって、かつて父親が“傷つかないとフェアじゃない”と指摘したところの作り手の主人公が、“カメラ越し”(※p170)で死んでいった母親や絵梨が“抱えていた問題”と釣り合いが取れる分だけ、順当に“踏み込み返された”といった、いわば報復律の構図で物語の一つ目の大きなオチがつけられたという事である。つまり、かつてはカメラ越しから母親や絵梨の死と向き合ってきた主人公が、今度は逆に、復活して自分よりも長生きするであろう絵梨にカメラ越しから“素敵なことじゃない?”という風に思い出される側に立たされた事によって、この時初めて彼は、あぁ、自分なりに工夫して弔いの意を込めたつもりだった“ひとつまみのファンタジー”が、場合によっては受け手にとってこうまで軽薄で残酷な独善にも映り得ていたのかと、身をもって悟るに至った(※という脚本の着想をよりメタ的な主人公が得た)という事である。

 従って、その後の主人公は、絵梨の「座る気ない人は帰ってくれない?(p195)」とは裏腹の誘いにも乗らず、敢えて「さよなら」と言い捨て、そして廃墟もろとも絵梨の存在を吹っ飛ばした。それは主人公が、絵梨への弔いを誰でも泣ける様なオチ(※p152~155)に一旦は落ち着かせようとしたが、再びかつての母親に対して手向けたものと同様の爆破エンドで焼き直すに至ったという事だ。それはつまり、綺麗な思い出としてだけ記録してもらう側と、この残酷な要求に対して爆破エンドの不謹慎さという“ひとつまみのファンタジー”を交えつつ“正直に”記録する側とが、生死で分かたれた上でも尚、独善の介在による後腐れが決して生じ得ない様に互いの利害に折り合いをつけるといった創作上の“フェア”な配慮が極められた“愛”の演出である。

 確かに絵梨は「体育館で泣いてたのは私だけ!(※p55)」「みんなをブチ泣かして(※p152)」と願ってはいたが、しかしこれに応じる主人公の立場では、どこまでも“絵梨の死”を題材として利用する映画企画という“事実”が前提として横たわり続けるだけに、おそらく『さよなら絵梨』に於ける究極のメタ的な主人公に相当する藤本タツキ氏自身が、只一面的な感傷を誘うだけのオチを覆さなければならなかった何らかの理由があったに違いないと、私山田は憶測する。それはおそらく、藤本タツキ氏が前作『ルックバック』に寄せられた賛否両論と真摯に向き合った末の、一種の返答、或いは一種のけじめではなかったかと、私山田は勘ぐるものである。

 しかし、である。或いは仮に、藤本タツキ氏が『ルックバック』制作当初から既に『さよなら絵梨』の着想も得ていたのなら、果たしてそれら両短編の弔いのテーマ性の間に優劣や是非を下せる明白な境界線など決して存在し得ないという、彼の並々ならぬ自負や覚悟が想定されざるを得なくなるのだが、私山田はむしろそういった、弔いの本質に利他か利己かを問い詰める、このストイックでありながら挑戦的な創作姿勢に感銘を受けるものである。それが飽くまで私山田の憶測の範囲に過ぎなくても、そもそもそんな考え方に伴う重圧を見事に克服した偉大さは讃えずにいられない。

 で、そういった憶測の範囲の大絶賛に私山田が勝手に盛り上がれている根拠こそは、p70の絵梨の台詞「物語の積み重ねと私の人生に共感があったから泣いたの」である。大小様々な物語のアイディアが試行錯誤の取捨選択を経て一つの短編としての構造を成すに至った事で、作者の生々しい息遣いを伝えている様だといった感触は、その絵梨の台詞で投影された藤本タツキ氏自身の物語作りに掛ける信念と照らし合わせる事によって、より一層強化されるのだ。


 最後に念を押して強調するが、以上の感想の大前提として私山田は、藤本タツキ氏が弔う相手に心を痛められた痕跡を、まずもって感じ取るものである。『チェンソーマン』という空前絶後の大ヒット連載の続編を控えた立場にもかかわらず、『ルックバック』『さよなら絵梨』という、共に弔いを最大のテーマとする短編に連続して着手された理由を、それ以外から見出す事はまず不可能である。従って、私山田にとってその両短編は死ぬまで手元からも記憶からも決して失う事の出来ない宝である。

 

 『さよなら絵梨』の最大のテーマは、弔いに於ける利他と利己の葛藤、もとい、格闘にあると、私山田は解釈した。

 

 藤本タツキ先生、『チェンソーマン』第2部も引き続き応援させて頂きます!!!

 

▼2022年4月11日

 藤本タツキの新作短編『さよなら絵梨』の感想。
 病院爆破は母親を綺麗に記憶し悼む為のひとつまみのファンタジー。
 又、再会した絵梨はメガネも歯の矯正もしてない(※自己中だが)ので、直後の廃墟爆破も含め、これもやはり絵梨を綺麗に記憶し悼む為に編集を大人まで重ねたファンタジー。
 つまり、劇中劇への予告無しの切換えが二度起きてる。
 絵梨萌え。
 只、終盤の劇中劇で主人公が語る家族との死別は、ドキュメンタリー要素を支える「事実」だろう。つまり、主人公は愛する妻、娘との死別や、学生時の自作映画への大顰蹙に対しては自殺で報おうとしたが、こと絵梨との死別に対しては爆破映画の飽くなき編集を続ける事によって、「死ぬまで生きる」事を選んだ。
 従って『さよなら絵梨』の最大のテーマは、初恋への愛と、弔いと、そしてこの未練との決別、これらの三点セットだと、私山田は読んだ。
 従って『さよなら絵梨』は『ルックバック』と本質を共有している。
 従って私山田は『さよなら絵梨』を『ルックバック』と共に生涯の宝として購入、保管させて頂く。

▼蛇足ですが、過去に私山田が描いた『チェンソーマン』のイラストです。パワーちゃんもう無理かもだけど続編楽しみ!