『響け!ユーフォニアム アンサンブルコンテスト』『君たちはどう生きるか』『ブラッド&ゴールド』 | 真田大豆の駄文置き場だわんにゃんがうがおおおぉ!!!

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▼2023年8月5日

『響け!ユーフォニアム 特別編 アンサンブルコンテスト』

※ネタバレ注意!!!

 まず、本作に対する私鏑戯の感想の本質は、正に筆舌に尽くし難く、理屈を超えた激情の混沌であり、それでも尚書き残す本稿ごときは、その内の僅かな一部に過ぎず、又、後々に自ら思い返す為のなけなしのよすがに過ぎない。

 超良かった!!!

 もはや評価、解釈、考察、云々以前に、私鏑戯の人生の一部、必然であった。『響け!ユーフォニアム』という素晴らしい世界観の連なりが、京都アニメーションの比類なき情熱と技術によって、又新たに展開される場面に居合わせられたという、この僥倖に対し、いわば情感の地殻変動を覚えた。もはやこれは、アニメや映画の鑑賞の範疇を優に超えた、全く別物の、極めて貴重な体験だった。

 尚、本編への感想を具体的に述べるなら、以下の点が特に印象的だった。

 まず、本作のメインプロットたる黄前ちゃんとマリンバのつばめちゃんとの掛け合い、ここを中心に窺える彼女らそれぞれの機微、葛藤、成長譚。この一連の描写によって私鏑戯は、『響け!ユーフォニアム』シリーズに一貫される、いわば“才能の残酷さ”が、本作に限っては一見して軽減されてしまったかの様にも錯覚させる“アンサンブルコンテスト”、この代表チーム選考の為の校内予選の物語に於いて、かつてはコンクール出場のレギュラーメンバーから外されてきた通称“モナカ”の面々にも、この度改めて代表選出の機会を広く与えるといった、この表面上の筋書きがたとえ目立ったのだとしても、この根本では、そのインセンティブをもってする、おそらく吹奏楽部員全ての実力の底上げを暗黙裡に図った顧問の滝先生の企てこそが本質として描かれていたのであって、従ってやはり『アンサンブルコンテスト』でも、かの高等学校の吹奏楽部に所属するまでに至らしめた、一定水準以上の経済力と才覚に恵まれた、選ばれし境遇の者同士で、更にこの中からより優れた才能を選び出す競争の仕組みに立ち向かうといった、この厳然たる“残酷さ”が克明に描かれていたと、この様なテーマ性への手応えを得られた。

 具体的には、マリンバのつばめちゃんの頑張り、成長、束の間の希望等の全てが、物語のオチでは無惨にも代表選抜という形で報われる事無く終わってしまったり、又、チーム編成からタイトなスケジュール上の期限ギリギリまであぶれ続けてしまう部員の存在だったり、これを優しくフォローせずにはいられないが、同時にこの優しさが行き過ぎると部長としても無責任に空回ってしまいかねないシビアさも重々理解できている黄前ちゃんだったり、で、最終的に大学受験を終えた3年生の吹奏楽部OGの面々から協力を取り付ける事によって、この場の気まずさ(※チーム編成からあぶれた疎外感や劣等感)を半ば変則的に補い、取り繕って凌いだといったエピソードだったり、いずれにしても、これらによって“才能の残酷さ”が克明に描かれていたという事である。

 只、ここで留意すべきは、その“残酷さ”とは、決して悲観のニュアンスだけで受け止めるべきではない、より含蓄の深いテーマ性という点だ。つまり、必ずしも結果が報われるとは限らない努力や希望すらも、決して全てが無駄に終わる訳ではなく、吹奏楽部内に於ける競争の構図から視点を変えた、彼、彼女らの後々の人生に於いては何物にも代え難い糧ともなり得るという事だ。且つ、一方では環境や運や実力や天性等の諸条件に恵まれ、選び抜かれ、勝ち続けて大成していく、自分よりも麗しく秀でた存在に対して、只悔しさだけでなく賞賛、リスペクトも同時に送る事ができる、こういった前向きな精神の心地良さ、ここまでひっくるめて追体験させてくれるという意味での“才能の残酷さ”、この厳然たる“現実”の側面の含蓄を汲み取れるか否かで、『響け!ユーフォニアム』シリーズの醍醐味を楽しめる幅や深みは段違いに増減する!

 ところで、こういった『響け!ユーフォニアム』シリーズの醍醐味を深く理解でき、楽しめ、愛する事ができる方々は皆、本稿独自に述べている“才能の残酷さ”に相当する、俗に“ギスギス”等とも呼ばれるニュアンスの総体に、自らの人生経験の思い当たる節々を切実に投影できる、つまりはあらゆる意味で豊かな人生を歩まれている人々なのだろうと、不肖私鏑戯は謹んで最大級の敬意を表すものである。しかし逆に、いわゆる“努力”や“向上心”といった情緒や情操とは無縁な青春を今現在に過ごしてしまっている部類、或いはかつて過ごしてしまって、今や取り返しのつかない部類に対しては、『響け!ユーフォ』に込められた醍醐味は、たとえ幾ら創作や理屈が尽くされたとしても決して伝わりっこないのであって、この厳然たる実際を目の当たりにする時、私鏑戯は後者の彼らを率直に哀れだと思う。因みに、“努力”を尊ぶ者は、決してこの万能さを盲信する様な甘ったれではなく、むしろ大方の場合に自身が直接的に報われなくても、仲間や競争相手の報いに資する刺激の一部にでもなれさえすれば本望といった、より現実的な覚悟が据わっている。つまり、“努力”を尊ぶ者は、この不毛と豊穣とが渾然一体を成す精神に身を委ねる覚悟によって自尊心を満たせるからこそ、自身より麗しく秀でた勝者に対して悔しさだけでなく賞賛、リスペクトも同時に抱く事が可能なのだ。逆に、“努力”を端から否定し、近視眼的な損得勘定でこの不毛さしか見出せない輩は、何時まで経っても自尊心が満たされず、従って、何時まで経っても自身より麗しく秀でた勝者に対して賞賛、リスペクトを送る事も、これを心地良いと感じる事もできない。従って、“努力”は決して平等に報いはしないが、だからこそ“努力”に触れる勝者と敗者のいずれをも間違いなく成長させると言える。以上は、“努力”を尊ぶ者こそが、この豊穣さだけでなく不毛さも同時に熟知しているという逆説の由縁でもある。只、こんな初歩的な理屈を私鏑戯如きが幾ら詳述したところで、そもそも『響け!ユーフォ』という大傑作によってですら、“才能の残酷さ”を前向きに捉え直す事ができない、この決定的に心が貧しく哀れな部類に対する“救い”となろう筈もなく、これこそ純然たる“不毛”でしかないのだ。いずれにしても、“才能の残酷さ”とはその位に尊い範疇なのであって、こういった意味で観る者を選ぶ“残酷さ”もメタ的に備えた『響け!ユーフォニアム』シリーズの現実主義的な魅力が、本作『特別編 アンサンブルコンテスト』でも見事に貫徹されていたという事だ。

 ここで余談だが、『響け!ユーフォニアム』原作者の著作で私真田が気に入ったものの中に『愛されなくても別に』(講談社2020年8月刊行)がある。

 これをネタバレ全開でざっくり解説すると、主人公の女子大生がいわゆる“毒親”との未練を断ち切り、自ら未来を切り開く自助努力の物語だ。又、『響け!ユーフォ』と『愛されなくても別に』を、これ又ざっくりと比較して評すると次の事が言える。すなわち、前者が“特別”を目指す“努力”の物語なら、対する後者は“普通”を勝ち取る“努力”の物語だと。つまり、“特別”か“普通”かに生れ落ちる先天的な“運”に関わらず、“努力”、個人の意志、能動性といったものは、それぞれの境遇に於いて相応の意義を持ち得ると、この様な人間洞察に優れた表現テーマを多彩な作風に渡って一貫させる武田綾乃という作家を、私真田は大絶賛する!
 ここで私真田が言わんとする事とは何か。
 第一に、“努力”とは決して“特別”な人間だけでなく“普通”の人間にとっても不可欠な価値だという事実について。
 第二に、“努力”を否定し、避け続ける自らをさも“普通”の人間の内の一人だと勘違いする愚か者は、その実、本来なら自ら負うべき“努力”を家族や社会に肩代わりさせ、この様な他者からの“特別”扱いを日常的に貪り、もはやこれに麻痺して恥すら自覚できない、つまりは“普通”未満の甲斐性無し、恩知らず、怠け者、人間の屑に他ならないという事実について。

 第三に、いわゆる“自己責任論”という概念の適切な捉え方について。というのも、いわば資本主義の宿命としての景気循環(※金融規制緩和と国際的コストカット競争による投資需要の縮退⇒恐慌経済⇒戦争経済によって一時的に投資需要が増大に転ずるも、通低するコストカット競争、つまりは奴隷経済的な金融資産家の志向によって再び投資需要の縮退に戻る、この繰り返し)に於いて、近代貨幣論を前提として踏まえられない当該国の政府が、投資需要が縮退する情勢でも尚、“最後の貸し手”としての積極財政策を判断できず、むしろ民間部門への利益誘導的な金融緩和政策だけに血道をあげたり、又は、税制拡大で余計に需要全体の縮退を招き続けてしまうという様に、デフレ不況時にインフレ対策をあべこべに敢行しておきながら、本来なら“大きな政府”として振舞うべき自らの責任は棚に上げ、他方で不況に苦しむ大勢の国民に対しては“自己責任”の考え方を強い、この責任転嫁に甘んじながら国民経済を自滅に追いやってしまうという、この様な政府の自己欺瞞を指摘する文脈で使用される概念こそが、本来の“自己責任論”なのだ。従って、決して、個人の社会生活に伴う責任の一切合財が無条件に公けによって肩代わりされるべきなどと、この様に共産主義的な福祉国家のユートピアを夢見るかの如き愚かな文脈で“自己責任論”批判が拡大解釈されてはならないという事実について。

 第四に、そんな冷静な観点から、つまりは自由競争への批判と許容とが、自由と平等を同時に目指す民主主義の理念によって中庸する観点から、“努力”や“自己責任論”の不毛な側面を批判的に論じられるならまだしも、これらを全否定し、社会から根絶すべきなどと極めて偏向した理想を短絡に掲げる、こういった単なる無知な怠け者の自己正当化の幼稚さについて。
 最後に、そんな人間の屑には、『響け!ユーフォニアム』や『愛されなくても別に』等の醍醐味なんてとてもじゃないが理解できないだろうといった、この様な人間の“運”次第の“残酷さ”について。

 以上、閑話休題。

 尚、『響け!ユーフォニアム アンサンブルコンテスト』に於ける“メタ的”な演出を考察する上で言及すべき点がもう一つある。

 それは、“才能の残酷さ”という至上のテーマ性をメタ的な演出の次元で終始、支え続けていたのが、他でもない京都アニメーションの制作スタッフの比類なき情熱と技術だったという点だ。これを言い換えれば、“才能の残酷さ”を至上テーマとする『響け!ユーフォニアム』シリーズのアニメ化とは、京都アニメーションの制作スタッフの比類なき情熱と技術、これを抜きにしては決して十全な形で成立し得ないし、或いは、だからこそ、『響け!ユーフォニアム』シリーズのアニメ化を京都アニメーションが担うという制作体制こそは、正に奇跡級の僥倖だと、少なくとも私鏑戯は捉えざるを得ないという事だ。というのも、『アンサンブルコンテスト』本編中に於いても、顧問の滝先生の指導の下で向上心の共有が行き届いた吹奏楽部に特有の、又は麗奈が言うところの“なあなあで済ます子は嫌”といった風な、この“残酷さ”と向き合い続ける覚悟、或いは緊張感が終始途切れず、部員らの日常を多かれ少なかれ覆い続けている(※たとえチョコまんの甘ったるさに幻滅し、肉まんを選び損ねた事を後悔する下校時の何気ない瞬間であっても、常に)、更に言い換えれば静寂の内に秘められた情熱とでもいった風なものが、フィルムの隅々から極めて直感的に伝わってくるのだが、これを演出しているのは、意図された演出技法の数々も去る事ながら、何よりもまずは京都アニメーションの制作スタッフの比類なき情熱と技術、これを否応無く証明する、いわば全く隙のない画面作り、いわゆる“京アニクオリティ”だ

 分かり易いところで言えば、『アンサンブルコンテスト』でも従来のシリーズ作品から受け継がれた楽器作画に於ける、半ば“ハーモニー(※背景セル以外のキャラやモノのセルに通常のベタ塗りではなく、背景美術の様な繊細な彩色を施す手法)”とも言わんばかりの非常に手の込んだ色彩、仕上げが鑑賞者の眼を惹く。本編の冒頭で、黄前ちゃんがひとり、教室の窓辺でユーフォの練習に没頭している場面でのユーフォの楽器作画、これが黄前ちゃんの動きに連動して動く、しかも決して“スライド作画(※一枚きりの絵を各コマのフレーム上でスライドさせる事によって簡易なアニメーションを繕う手法)ではなく、しっかりとパース、光源、反射の揺らぎ、反射光まで全てを中割りで描き切るよう指示された原画の偉業、この職人魂が光る!本作の劇場パンフレットに掲載された“楽器作画監督修正集”、この複雑を極めた楽器作画がパース、光源、反射の揺らぎ、反射光の破綻も無く(※端的に言うといわゆる“色ぱか”の不自然さも無く、という事。つまり、複雑な色トレス線で影・ブラシ指定された原画カットを受け持つ動画・仕上げ担当に要請される中割のセンスや手間は、この分だけ増大する)、この数秒間のカットに渡って“動く”事がどれだけ手描きアニメーションとして凄過ぎる事なのか、うはーぁ゛という事である!!!これぞ“京アニクオリティ”の一端だという事である!!!そしてこの様な“京アニクオリティ”こそが『響け!ユーフォニアム』シリーズの至上テーマたる“才能の残酷さ”、これと向き合い続ける登場人物らの緊張感を臨場感たっぷりに、且つ最もメタ的に引き立てているという事である!!!つまりは、こういった『響け!ユーフォニアム』シリーズの虚構としての物語と、京都アニメーションのバックグラウンドが醸し出す現実としての物語と、これらが重なって見える事によって、京アニ版『響け!ユーフォニアム』アニメシリーズが文学的な完全無欠性を帯びると言うことである!!!

 以上の様な形で、『響け!ユーフォニアム 特別編 アンサンブルコンテスト』を鑑賞した私鏑戯は、京都アニメーションが新たな継承、発展の道を突き進み始めて、既にかなり久しい段階にあると確信できた!

 ところで、『響け!ユーフォニアム』TVアニメシリーズ第3期が来年春に公開予定らしい。黄前ちゃんを凌ぐユーフォ奏者が転入(?)してくるのか、この布石としての、本作に於ける、あの黄前ちゃんが蓋をした一抹の不安、麗奈からの承認を奪われかねない脅威からの逃避だったのか!?

たたたたたたたた楽しみじゃー!!!

 あと、久石奏ちゃんが嬉しそうに変な動きしまくってたのが、可愛くて笑えた。

 

▼2023年7月15日

『君たちはどう生きるか』

※本稿の参考文献

●宮崎駿・著『風の谷のナウシカ』全7巻 徳間書店

●E.H.カー・著『危機の20年』 岩波文庫

 

※ネタバレ注意!!!

●冒頭から結論:

 私鏑戯は、宮崎駿作品の中で『君たちはどう生きるか』が最も大好き!!!

 尚、『君たちはどう生きるか』を一言で解釈するなら、“宮崎駿の脳内に於ける現実主義と理想主義との葛藤の遍歴についての告白”とも言える。これはかつてE.H.カーが『危機の20年』で打ち出した、“現実(リアリズム)”と“理想(リベラリズム)”の相互連関こそが国際政治上のまともな議論を基礎付けるという、この究極の“達観”にも間違いなく繋がっている。つまり、俗に風説されるステロタイプな批判として、宮崎駿はかつてのルソーの“自然に帰れ”の如きエコロジカルな理想でもって文明批判ばかりを訴える理想主義者、リベラリストだなどと、こういった彼の一面だけを捉える類の誤解に留まったままでは、決して『君たちはどう生きるか』の本質を理解できない(※脚注1)或いは、少なくともE.H.カー・著『危機の20年』を読解する上で要求される人類史、法思想哲学史、経済学史、文化人類学(民俗学)、これらへの一定の理解が備わっていない知的水準にとっては、『君たちはどう生きるか』『風の谷のナウシカ(原作漫画版)』等の下地になっている宮崎駿独自の思想の真相も決して理解できない。勿論、理解するもしないも、人それぞれの勝手だが。

 果たして、以下に述べる感想の本題も、そういった教養水準にとっては理解不能な行間を敢えて行間のままに放置し、必要最小限の脚注を付すのみに留めた。

 

※脚注1

 何故なら、まずもって宮崎駿独自の思想性の真髄を最も如実に表すであろう原作漫画版『風の谷のナウシカ』第7巻の完結部で、ナウシカとオーマ(巨神兵)によって破壊、虐殺された墓所の古代文明人こそが、過去の核戦争で汚染された自然の生態系を浄化する為に、粘菌による大海嘯や、これに端を発する腐海の森という人工的な生態系や、物語に登場するナウシカ含む全ての人工亜人類(※浄化途上の毒された生態系でのみ生存できるよう人工的に適応された、言わば“使い捨て”の生命)を生み出した、つまりは、いわゆる“自然愛護主義”の最たるもの、或いは象徴だった。更には、ナウシカがそんなエコロジカルな墓所の古代文明人の思惑に納得できず、むしろ虐殺しなければならなかった理由こそは、端的に、浄化途上の世界でのみ使い捨てる様にして生きる事を強いてきた張本人としての古代文明人から、ナウシカら人工人類にも間違いなく宿る筈の、生命としての尊厳、自尊心に対する冒涜と、これに対する底無しの不信や怒りを、ナウシカが抱かざるを得なからだ。従って、そこから解釈できる宮崎駿独自の思想性とは、少なくとも自然愛護主義に留まらず、むしろこれを相対化する達観にあり(※つまり『風の谷のナウシカ』のテーマは自然愛護主義そのものに対する礼賛でも批判でもない)、更には、たとえどんな“自然愛護”や“正義”に立脚しようとも、時に自らのエゴ、“理想(リベラリズム)”だけを優先してしまうのであれば、結局のところは、他者の生存圏の気候風土や宗教伝統性等に規定された“理想”も多元的に並存するという世界全体としての“現実(リアリズム)”には無頓着であらざるを得ないという、この人類史の根源的な悲劇、独善、傲慢さ、愚かさ、或いは“生命の尊厳に対する冒涜”、これを批判するといった、この様に極めて普遍的な訴えを真髄とすると言えるからだ。

 つまり、いわゆる“コスモポリタニズム”“インターナショナリズム”“グローバリズム”、そして全ての宗教と政治と科学は“統一”すべきなどとほざく“壷”カルト、果ては近代西欧的な金融資本による景気循環とこれを補う為の戦争経済の繰り返し、これら全ては、多様な気候風土に規定される多元的な伝統性や尊厳の並存という人類の“現実(リアリズム)”に無頓着なユートピア思想、つまりは“理想”主義(リベラリズム)の系譜に他ならないのであって、そしてこれを極度に嫌う宮崎駿は、むしろエドマンド・バークやショーペンハウアーの様な保守主義の系譜に近いとすら言える。これは、宮崎駿独自の思想性が、どこまでも現実主義的に物事と向き合う誠実さを伴いながら、同時に理想主義を捨て切れずに打ち出していくという、正に“現実”と“理想”の葛藤から展開する思想的なダイナミズム、もとい中庸を、結果的に核心として宿しているからだ。

 尚、結局のところはナウシカも又、自らの“理想”を優先し、古代文明人にも宿っていた筈の尊厳を排除してしまったという意味では、“生命の尊厳に対する冒涜”にまつわる批判対象の例から逆説的に免れないのかもしれない。つまり、どのみち生命の尊厳を冒涜する外ない人類は、古代文明人だろうがナウシカだろうが全て滅んでしまった方が世の為なのだと、こういった訴えを解釈できる余地は、少なくとも原作漫画版『風の谷のナウシカ』の完結部の筋書きそのものだけを見る限りに於いては認められるかもしれない。しかし、そこにナウシカのモノローグともとれる様な「生きねば」の1コマが更に描かれた事によって、宮崎駿独自の思想性がいわゆる“終末論”の一歩手前で踏みとどまり抵抗するかの如き感触を、少なくとも私鏑戯は覚える。つまり、実際の文明社会がたとえどんなに腐ろうとも“この世は生きるに値する”という又一つの強烈な信念が“生きねば”のニュアンスに含まれているからこそ、『風の谷のナウシカ』に象徴される宮崎駿独自の思想性は、どこまでも“終末論”的な世界観を題材とする実際社会への揶揄、警鐘、こういった僅かでも捨て切れない人類愛の裏返しの次元に踏み留まれているのであって、決して“終末論”そのものを表現する左翼的なイデオロギーへの埋没とか、或いは人類への断罪そのものが表現の中心とはなっていないし、むしろこれに対する飽くなき抵抗だと、私鏑戯は捉える。当然この辺りも、本稿で述べるところの“宮崎駿の脳内に於ける現実主義と理想主義との葛藤の遍歴についての告白”という解釈の一部として、少なからず関連する。

 

●物語の大枠:

 この世では、覇道(※脚注2)の人類史が絶望の闇で覆うかの様に繰り返されるが、もう一方のあの世では、少年少女の冒険物語が僅かな希望の光を放つかの様に、これ又、永遠に繰り返される。

 

※脚注2

 “覇道”とは、儒教の政治理念の一つで、武力や権謀をもって支配・統治する政道を意味する。又、この対義語としての“王道”とは、同じく儒教で理想とした、有徳の君主が仁義に基づいて国を治める政道を意味する。

 転じて、本稿では現代の国際社会に於ける覇権主義的な統治力学を批判する意味合いも込めて“覇道”を用いる。又、“覇権主義”と対となるのは“多元主義”。この詳細は中野剛志・著『国力論 経済ナショナリズムの系譜』を参照。

 尚、『風の谷のナウシカ』第7巻p222では、トルメキアのヴ王を失ったクシャナが「だが帰ろう!!王道をひらくために」と叫ぶ箇所がある。つまり、これを私鏑戯は、宮崎駿流の“覇道”批判、或いはこの理想主義の表れと解釈する。

 又、E.H.カーは『危機の20年』(岩波文庫)のp208で「『大国の独裁』というのは、国際政治における『自然法』のようなものを構成する紛れもない一つの事実なのである」と述べており、つまりは、「大国の独裁」という“覇道”も又、人類の自然法、ありのままの生態の一つに他ならないと指摘している。尚、これは同著p190「政治的思考はユートピアとリアリティ双方の諸要素に基礎付けられなければならない」、或いは同著p42「ユートピアンの典型的な欠陥は無垢なことであり、リアリストのそれは不毛なことである」等の、人類の文明が根源的に孕むジレンマへの洞察が前提となる文脈で述べられている。従って私鏑戯は、たとえ“覇道”が、軍事力に優れた大国の独裁から必然されざるを得ない自然法の範疇に他ならなかったとしても、こういった現実を達観する“不毛”にばかり偏ってしまわぬよう自省を心掛け、むしろ時には“無垢”な理想にも思考を巡らせ、より多くの視点を意欲的に保つ事によって、己の人生を形而上・下共に豊かなものにしたいと、この様な演繹を抱く。これは同著p45「理論と現実の相互依存は、ユートピアとリアリティの相互連関があって初めて得られるものなのである」に対して、私鏑戯が深く共感する発露でもある。

 従って、上述の様に解釈できるところの『君たちはどう生きるか』の物語の大枠から、以下に詳述する様に解釈できるところの、いわば宮崎駿なりの、“現実”に対する“理想”からのささやかな報復といった様なテーマを、私鏑戯は至極痛快に感じ取るものである!

 

●テーマ:

 まず、『君たちはどう生きるか』のテーマに対する私鏑戯独自の解釈を要約すると以下となる。 

“たとえ覇道の正義や秩序に抗いようもなく繰り返される人類史の愚かな大潮流があったとしても、弱き人の自尊心による僅かな抵抗はこれが滅び切るまで、決して止む事はないし、少なくとも私(宮崎駿)自身はその信念で生きてきた”。

 以下に、上の要約について詳述する。

 まず、『君たちはどう生きるか』は、原作漫画版の『風の谷のナウシカ』の完結部に於いて如実に表現された、いわゆる“生きねば”そのものを、ついに宮崎駿が『千と千尋の神隠し』や『崖の上のポニョ』等に観る様な、子供向けの柔らかいタッチながらも日本アニメの技術の粋を結集させ、且つ彼独自の唯一無二なアニメの芝居の監修を基に作り込むといった贅沢過ぎるジブリ劇場版アニメの枠で、ほぼ初めて昇華し切った大傑作であり、この意味で彼の集大成だ。

 というのも、確かに『紅の豚』『もののけ姫』『風立ちぬ』等も同様のテーマ性、“生きねば”を含むが、決して子供向けとは評価し難いし、一方の『天空の城ラピュタ』『ハウルの動く城』はエンタメが優り過ぎてテーマ性が良い意味で黒子に徹しているし、アニメ版『風の谷のナウシカ』に至っては“生きねば”がほぼ不在だし、又、『未来少年コナン』に於ける“生きねば”は飽くまでこの劇場版ではなくTVアニメシリーズ版でこそ評価されるべきと考えられるから。

 さて、太古の地球に文明の種をもたらした宇宙船には、多元宇宙同士を結ぶ無数の扉とこれらが並ぶ回廊があって、ここにかつて戦禍で焼け死んだ母親や、その後に継母となった夏子らの身柄をダシに、主人公の眞人(マヒト)は、アオサギの仲介もありつつ誘い込まれる。この首謀者はマヒトの母方の大伯父で、彼は本を読み過ぎて狂ってしまった失踪者とされていたが、その実、マヒトが誘い込まれ、探索、冒険に乗り出した宇宙船(※館の離れの塔の地下)の最深部のいわば“天界”の様に演出された場所で、何やら積み木遊びの延長の様な具合で、人類文明ばかりか太陽系の物理的なバランスの調整、維持に励んでいた。

 これは本作に於ける、宮崎駿なりの最大のブラックジョークだ。つまり宮崎駿は、昨今の世界大戦級の軍事的な紛争の火種が燻ぶる情勢や人類文明ばかりか、気候変動も目まぐるしい宇宙物理学的に不穏な世の中までの一切合財の根底では、そんなブラックジョークで風刺してしまえる程に、極めて矮小で、儚く、危うく、幼稚で独善的で、しょーもない精神性が、形而上的にも形而下的にも(※つまり宗教文化的にも、科学的にも、政治経済的にも)幅を利かせ、牛耳っているのかもしれないし、むしろこんなものに牛耳られ、騙され、振回されっ放しであり続けるしかない人類とは、本当にどーしょーもない存在だね、といった様な諦観を表した。更に言うと、このブラックジョークによる風刺は、この批判対象たる積み木遊び然とした世界秩序のパワーバランスの危うさや寡頭制の幼稚さを、E・H・カー著『危機の20年』で述べられたところの“不毛な達観”にも相当すると位置づけ、つまりはこれを忌避、拒絶する、言わば決定論や運命論的な人類史観に対するプラグマティック(※懐疑主義的)な反骨精神たる宮崎駿なりの“無垢な理想”、いわゆる“生きねば”の発露に他ならない。従って、主人公の名前が“眞人”だと知ったキリコさんは彼に対し、「どうりで死に急ぐ様な顔してる(※筆者のうろ覚え)」と感想を述べた場面もあったし、これは宮崎駿にそんな理想主義と現実主義との対抗軸や相互依存の中庸を標榜する思想性が意識されているだろうと推測させるに充分な、『君たちはどう生きるか』の絵コンテに於ける状況証拠だ。つまりは、“真実”を追及する人 ⇒ 理想よりも現実を追及する人 ⇒ 第一次世界大戦終結以降の戦間期に於いて国際政治学上で人類自滅を回避する為として議論され始めた“理想主義(リベラリズム)”と“現実主義(リアリズム)”との相互依存(※いわゆる中庸)、この内の後者を極めたところの“不毛な達観”への偏重、つまりは最近の流行り言葉で言うところの“タイパ”の合理性をより長期的な規模まで突き詰めたら、料理や衣食住どころか人生や生殖本能や種の存続まで全てが無駄なコストに過ぎないと位置付けられてしまうといった、究極の虚無観 ⇒ 従って、早死にしそうとか死に急ぐとかいった主人公“マヒト”の隠喩ギミックが成立。要は、その様に宮崎駿の自己投影がマヒトという主人公によって成された背景には、俗に宮崎駿が左翼的な“リベラリスト”だとかいう浅はかな風説とは裏腹に、宮崎駿当人に於ける、むしろ人類の現実に絶望せざるを得ない筋金入りの“リアリスト”、つまり現実主義者だという強い自覚があった。更に宮崎駿は、人類への“絶望”から目を逸らす事ができない自らの現実主義的な性分を半ば呪っており、だからこそ“絶望”の闇の中から“理想”の光を僅かでも“虚構”で描き、“生きねば”と訴えずにはいられなかったと、この様な告白を、マヒトがやがて“無垢な理想”で大伯父の“不毛な達観”を拒絶するに及ぶというクライマックスを含む成長譚によって表現したという事だ(※脚注3)更にマヒトは、実際の宮崎駿よりも早く、より幼い時期に吉野源三郎・著の『君たちはどう生きるか』と出会う事ができた分だけ、父親がゼロ戦部品を製造、納品する工場経営の家業という戦中の特殊なリアリティと隣り合わせな境遇から精神的に逃避でき、距離を置けていたといった、“if”の宮崎駿自身とも解釈が可能だろう。但し、この“if”の代償は、戦禍による彼の母親の焼死、死別という残酷な“現実”だった。

 

※脚注3

 つまり、『君たちはどう生きるか』とは、眞人が“現実”に対して自らの“理想”で抵抗する生き方を選ぶに至る物語であり、ここから読み取れるテーマとは、いわゆる現実逃避をやめて現実と向き合えといった様な説教の類ではなく、むしろこれとは逆に、現実主義よりも理想主義への究極の選択を信念の軸として生きてきたといった様な、この飽くまで宮崎駿自身に於ける告白に尽きると、私鏑戯は考える。又同時に、それは本稿冒頭から述べる様に、どこまでも眞人に於ける“現実”と“理想”との葛藤の過程としても捉えられる。従って、眞人の物語に込められた宮崎駿の告白とは、彼の理想をもって現実に抗う人生が、常に“現実”と“理想”の葛藤、苦悩、自己矛盾の連続だったという様なものとして、私鏑戯には解釈される。

 というのも、まずもって『君たちはどう生きるか』の冒頭から描かれる太平洋戦争の戦禍は、一見すれば“現実”の表象としてのみ捉えがちだが、これをよくよく俯瞰すれば、当時の大日本帝国とアメリカ合衆国の双方に於ける大義名分や経済戦略的な思惑、これら“理想”同士の衝突の内在も、併せて捉えられる。この視点に立脚すれば、もはや『君たちはどう生きるか』に於ける“現実”と“理想”とは表裏一体、不可分の関係で描かれていると理解できる。従って、これは決して、単なる現実逃避への批判を訴えかけてくる、単純明快で他にありふれた“現実”と“理想”の対の構造の提示などではなく、更に複雑で深い洞察に基づくテーマを含んでいると推察させる。

 尚、実際の戦時下では、戦争当事国双方の“理想”、正義、プロパガンダが交錯、衝突、相対化され、つまりは“現実”を規定する社会通念や良識等の機軸が不安定化、或いは喪失されるので、従って、そこではしばしば“現実”なるものは実質的に存在し得ない。いわゆる戦争報道に客観性をほぼ期待できない由縁だ。戦争の“非現実性”。

 一方の宮崎駿にとって“戦争”とは、戦争当事国双方の“理想”の衝突という幼稚で寡頭制的な側面と、同時に、人間の尊厳が極限まで生々しく醜く汚され、冒涜される“現実”としての側面と、これらが渾然一体を成すといった様な、この自身の戦争体験に基づくトラウマだ。つまり、宮崎駿にとって戦争とは、極めて下らない類の“理想”の産物に他ならない(※しかし戦闘機の形態美は大好きで、これも彼の自己矛盾の重大な要因の一つ)。

▼以下動画33:24~ 宮崎駿が語る、彼の空襲避難体験にして創作の原点

 従って、彼はこれに対して自らの“理想”でもって対抗する為にアニメで表現する人生を選んだし、又『君たちはどう生きるか』の眞人には、宮崎駿のアニメ人生を貫いてきた“無垢な理想”を、葛藤、自己矛盾の苦悩も伴わせつつ投影させた。何故なら、宮崎駿独自の“理想”で世の下らない“現実”に対抗するアニメ人生とは、同時に、過去の戦争や、日本列島から海を隔てた遥か彼方の現在進行形の戦争、この悪夢の様な“現実”とは無縁でいられる鑑賞者らの自律的な“理想”と“現実”とをむしろ弱化させ、つまりは奪ってしまうという弊害も孕んでおり、これに自覚的な宮崎駿は、例えば『となりのトトロ』を毎日見せながら子育てするファンに対して「年に一度見せれば充分」と釘をさしたというエピソードが象徴する様に、こういった戦後日本に拠点を置くジブリを取り巻く、又一つの“現実”にジレンマを覚え、苦悩し続けてもいたからだ。従って、例えば、眞人が亡き実母の遺品たる『君たちはどう生きるか』を涙ながらに読み耽る場面、或いは眞人が継母に心を開いていく過程、或いは眞人が疎開先の屋敷で仕えるばあや達を蔑む視点、或いは眞人の側頭部への自傷行為、或いは眞人の父親のガサツさに対する抵抗感、或いは眞人が現実逃避先とも現実の深奥ともとれる大伯父の塔に誘われていく模様、或いは現実の有限性と理想の無限性が混在する様な塔の中の様々な現象や出会い(※例えば弱肉強食の食物連鎖や資源の有限性による利己的な生態系で描かれる無間地獄風の世界観とか、亡き実母が美少女の姿で現れるだとか)、或いは大伯父の塔から帰還し、終戦に伴い疎開先の屋敷を後にする眞人が次に向かう未来とは果たして本当に“現実”なのかを問わしめる様な終幕カットの余韻、これらは全て、眞人に投影された宮崎駿自身の“現実”と“理想”の葛藤の軌跡であり、彼の告白のディテールだと、私鏑戯は捉える。

 

 果たして、物語のクライマックスで主人公マヒトは大伯父の願いを拒絶し、つまりは世界の秩序のバランスを牛耳る寡頭的で運命論的な覇道の座という“現実”、この継承を生来の反骨精神たる“理想”でもって拒んだ。これは正に、原作漫画版『風の谷のナウシカ』完結部に於いて、ナウシカが墓所の古代人の自然愛護的な“エゴ”による陰謀を拒絶し、巨神兵オーマをして、墓所に秘められた人類の可能性の全てを壊滅させたと同時に、いずれにせよ自らも絶滅する他ないという未来を受け入れた上で“生きねば”と覚悟を決めた結末と、ほぼ同じ構図だ。つまり、『風の谷のナウシカ』と『君たちはどう生きるか』に共通する“生きねば”の内実とは、“不毛な達観”で世界が覆われ、虚無が極められるくらいなら、いっそのこと“無垢な理想”にかまけてでも生命の自尊心や自律性の保全を選ぶといった、宮崎駿なりの究極の選択と、この提示でもってする、実際の世界に於ける“理想”と“現実”それぞれへの偏重の隔たりが埋まらない情勢、この危うさへの警鐘だ。少なくとも宮崎駿自身はその信念に基づいてアニメを表現しながら生きてきたが、さて、“君たちはどう生きるか”、といった具合だ。

 これを子供も楽しめる体裁の劇場版アニメでやってのけたのだから、『君たちはどう生きるか』は宮崎駿の集大成。

▼『風の谷のナウシカ』第7巻p196~202

 但し、以上の様な『風の谷のナウシカ』の結末と同様の構造にプラスαされた部分として、主人公マヒトが時空超越の多元宇宙の連結空間から積み木然とした“石”の残骸の一つを持ち出してしまったという、このちゃっかりな部分こそを最も注目すべきなのかもしれない。というのも、まずヒロインのヒミはそれを「拾っては駄目。まだ何か残っているかもしれないから(※筆者のうろ覚え)」と主人公に対して警告した。“何か”とはおそらく後に大伯父が述べたところの、“石”を染めていた“悪意”だろう。因みに“石”とは、文明とかこの秩序を根底から支える軍事バランスの象徴たる“核兵器”とか、これによって睨み合って均衡を辛うじて保つそれぞれの覇道の思惑のみならず、そもそもこれに至らしめた文明の発端としての農耕、宗教、律令、文学、映画(※娯楽だけでなくファシズムのプロパガンダにも利用され得る大衆メディア)まで暗喩しているとも考えられるし、更に言ってしまえばそれら全てを含蓄する“石”と“意思”との語呂合わせ、或いはそもそも人類の自律性の“ありのまま”をもののあはれな観点で捉るといった、いわば清濁併せ持つ人類の可能性の源泉への隠喩とも考えられる。つまり、その隠喩対象には当然“アニメ”や宮崎駿自身の業績も含まれる。言わずもがな、『君たちはどう生きるか』の主人公たるマヒトは誰が観ても宮崎駿自身を投影したキャラだ。ならば、彼がこの世の真実を秘めた場所から、本来なら持ち帰ってはならないとされた筈の“石”をちゃっかりくすねて持ち出してきたというエピソードが何を暗示しているのかといえば、清濁併せ持つ人類の意思、この可能性には、決して“理想か現実か”とか“善意か悪意か”とか“幸か不幸か”等にまつわる明白な境界線など存在し得ず、この実態は飽くまで、所詮は人類の不完全な理性ごときでは認知し切れない、極めてつかみどころがなく複雑で曖昧模糊とした世のコトワリの延長の一部として謙虚に捉え、つまりは宗教的にも科学的にも断定を避け、イデオロギー化の思想的な腐敗も絶えず牽制し、より賢く、したたかに抗いながら、時に平和を模索したり、或いは戦争の宿命に屈したり、又時に資源の有限性を尊んだり、或いは呪ったりしながら生きるしかない、ひとまずは“生きねば”、そしてこの観点からは、“アニメ”という呪縛も又、決して悲観ばかりすべきものでもないのかもしれないし、転じて、人類の意思も決して捨てたモンじゃないといった、この様な諦観(絶望)と希望との、葛藤、中庸、或いは混在である。こういった宮崎駿独自の思想構造のプラグマティックな入り組み具合は、原作漫画版の『風の谷のナウシカ』の完結部でも、確かに披露されていたものの、しかしやはり、いわば呪いを呪いとして知った上で敢えて持ち帰るといった風なエピソードをもってする、この思想的なジレンマの側面への更なる強調こそは、少なくとも私鏑戯の浅はかな考察によれば『君たちはどう生きるか』に於いて初めて成された宮崎駿の新境地だったと思う。この様な、“生きねば”へのプラスαに注目すれば、『君たちはどう生きるか』は、もはや宮崎駿の“集大成”の域すら更に超えている。

 否、例えば『天空の城ラピュタ』の最後でドーラ海賊がラピュタから脱出するどさくさに紛れて財宝をくすねて来た描写や、又、原作漫画版『風の谷のナウシカ』第7巻p129では、ナウシカが墓所に辿り着く直前に迷い込んだ楽園で、ここの甘く強い大気で肺が血潮を噴出して死なずに済む様に、或いはナウシカだけは浄化が済んだ腐海の尽きる地でも生き延びられる様に、母親に扮した“ヒドラの番犬”から身体に何かされたという描写などがあるし、つまり、呪いを呪いとして知った上で敢えて持ち帰るエピソードによる思想的なジレンマの強調とは、必ずしも宮崎駿に於ける真新しい演出のモチーフとは限らないかもしれない(汗)。しかしだからこそ、それら往年の宮崎駿作品から一貫されてきた“生きねば”の思想背景と同様のものが『君たちはどう生きるか』に於いてもやはり暗喩されたという解釈に、改めて立ち戻ることができる。つまり、上述と重複するが、マヒトが持ち帰った積み木の様な“石”と語呂合わせされたところの人類の“意思”が、たとえ清濁いずれかに染まってしまったとしても、ここに明白な“善意か悪意か”の境界線が人類自身によって見出される程度の単純な形で現れる筈も無いといった風に暗喩されたのであり、このいわばプラグマティズム、もののあはれ的な賢明さの奨励こそが、宮崎駿独自の思想性に於いて人類平和を標榜する上での基礎としての中庸の価値観であり、或いは、特定の“正義”に対し懐疑する無頼と反骨の精神であり、或いは、他者の自尊心や伝統文化を尊重し合う心といったようなものであろうと、少なくとも私鏑戯には窺わしめる。

 いずれにしても宮崎駿、天才過ぎて凄い(※私鏑戯の語彙力が死滅)

●演出思想:

 確かに、いわゆる“奥行きのある画面設計”は、かつての『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』よりも鳴りを潜めるが、しかしこの代わりに、言わば“誰も考え付かないイマジネーション(※つまりイメージボードとこれに死に物狂いで食い下がっただろう背景美術の業)”や“決して乱暴なカメラワークありきの安直で欺瞞に満ちたアクション演出などには依存せず、伸びやかに物理現象を再現するアニメーションの生理的な快感を貪欲に追求する画面演出”、この2点を軸に、従来の宮崎駿作品の全てを凌駕して極めたのが『君たちはどう生きるか』に於ける絵コンテ演出と、これに死に物狂いで食い下がったであろう超々精鋭揃いの作画班とが共に達成させた、前人未到の演出哲学の結実だ。

 具体的には、まず冒頭辺りで主人公が、戦禍で燃え盛る病院へと母親の救出にひた走る一連のカットに於ける、おそらく3DCG技術のパースの“アタリ”の助けすら借りていないだろう、画面奥から正面へのマルチフォロー、もとい、全て手描きで“スライド”抜きの、火の粉、炎等のエフェクト描写、人だかりと主人公、これらが絶えず動きまくって織り成す、もはや“つけPAN”を超越した物凄過ぎる“何か”。圧巻。又、夏子の産屋で式神みたいなやつに妨害されながら彼女に「夏子母さん!」と主人公が呼びかけ、救出しようとする一連のカット。画面上の個々のアニメーションの業を決して把握し切れない程の美意識の膨大さ、言わば“群体”的な美意識が、おそらくとてつもない中割り枚数で緻密に表現された、もとい、あれはもはや中割りとかじゃなく“全原画”とか呼ぶべき執念の業だったのではと思うくらい、美しくも大迫力の圧巻だった。唸らされたなー、本当にスゲーよ!

 他にも、墓の門を突き破ったペリカン(?)の群や、主人公を食おうとするセキセイインコの群衆描写等、凄過ぎた(※もはや我が拙い語彙を労する事が全く無駄に思えるくらい只々凄い凄いの連続!)。

 

●輪廻転生の死生観、及びヒミについて:

 あの世でもこの世と同様に弱肉強食の食物連鎖や資源の有限性があって、これに苦しんで生きる個体それぞれの利己的な生態が展開するといった、つまりは仏教で言うところの“無間地獄”のリアリティが、ジブリの優しいタッチで残酷に炸裂する。これが実に面白い!

 又、白く丸い“ワラワラ”が、キリコの釣り上げた魚の滋養によって成熟して膨らみ、空高く飛んで死ぬ事は、黄泉での死は浮世での誕生と同義という事を、つまりはいわゆる“輪廻転生”の死生観を表す。

 更に言えば、浮世の死は黄泉に於ける誕生と同義とも連想させ、正にその後のヒミというヒロインの登場は、物語の冒頭で空襲による火災で死んだ筈の母親が少女に若返った姿で再び現れたかとも錯覚させる。少なくともヒミは、主人公との出会い頭に、彼が継母の夏子を救いにきたと聞かされた事に対して、夏子を自分の「妹」だと理解する旨の台詞を口にした(※筆者はこの台詞を正確に覚えていない)。つまりヒミは、夏子の姉とか主人公の母親となる自身の宿命を黄泉で待ちわびる、いわば仮の姿、存在だ。浮世で主人公を産み、空襲で命を落とした後、黄泉で生前の記憶をリセットされ、再び別次元のパラレル宇宙に同様の運命の星の下に産まれ落ち、そこで再び夏子の姉となり、又再び主人公を産んで彼の母親ともなり、又再び戦禍に巻き込まれて焼け死んでしまうという、この母と子の悲劇的な別れが永久に繰り返される。しかし同時に、こういった人生の終わりと始まりの間を黄泉で繋ぐ、ヒミとマヒトの夢の様な出会いと別れの物語も又、永久に繰り返され、つまりこの都度、ヒミは美少女に生まれ変わり、大伯父から妹・夏子の名を予告され、また息子のマヒトの成長した姿と出会い、束の間の冒険と青春を共にする。この様に、ヒミは無限に繰り返されるモラトリアムな空間でだけは永久に歳を取らず、美少女の姿を保ち続ける存在。で、そんなヒミを連環の存在たらしめたのは、おそらく大伯父の趣味嗜好(※であり、これはおそらく宮崎駿の煩悩w)。ここから転じて、おそらく大伯父が主人公をヒミの魅力を餌にして呼び寄せ、彼に自らの立場を継承するか否かを決断させ、人格を試すという、このクライマックスのイベントもまた、永久に連環するモラトリアムの一つなのかもしれない。

 要は、この世では覇道の人類史が絶望的に繰り返されるのと同様に、あの世では夢の様な冒険物語が束の間の希望を与えてくれるかの様に繰り返されるといった具合の、こういった『君たちはどう生きるか』に於ける大枠の物語と世界観の提示であり、これは宮崎駿独自の死生観、つまり虚構でもってする、現実の絶望に対するささやかな報復だ。

 尚、ヒミが『君たちはどう生きるか』という物語の中で存在する必然性が、必ずしも輪廻転生の死生観や物語を表現する目的のみにあるとは限らない。例えば、ヒミはマヒトとの別れ際に、自分が浮世の人生の最期で戦禍に巻き込まれて焼け死ぬと知らされた上でも尚、「火は素敵」とか「マヒトを産める人生は素敵」などと目を輝かせながら、この扉の先へと迷わず進んでいったのだが、これによって私鏑戯は、宮崎駿が「君たちはどう生きるか、実際の日本社会の暗澹たる子育て環境に於いてすら恋愛や結婚や子育ても決して捨てたモンじゃないぞ、諦めるな頑張れ」といった風な応援メッセージを具現させたキャラではないかとも解釈できる。とりわけ「火は素敵」や“ヒミ”というネーミングの必然性については、それ以上のモノが私鏑戯には解釈されるが、敢えてここでは述べない。又、そもそもヒミは宮崎駿の素直なエロス追及の煩悩とも本質的に関わっており、更にはこれこそが、『君たちはどう生きるか』だけでなく宮崎駿のアニメ作品全てに共通してきた最大のテーマたる、現実と理想との中庸を基礎として人類平和を標榜する思想性を、只単に観念的な次元のみに留まらせない、彼特有の純粋なモチベーションに他ならなかったとまで考えられるし、これだけでも充分に、ヒミという美少女キャラの必然性が帰結される。これを更に分かり易く述べれば、永久に老いる事無く、若々しく、美しくあり続けられる虚構の母親像、恋人像、愛娘像、孫娘像、これらへの憧れがあってこそ初めて、男たるもの、幾ら歳を重ねようとも大真面目に天下国家や人類平和を追求できるってだけの、いわば地に足のついた単純な話だ。

 要は、そんなヒミが可愛い。ひたすら可愛い。もう、犯罪的にカワ(ry。

 又、ヒミがセキセイインコに囚われの身となり、気絶しながらガラス張りの棺で運ばれる際、彼女の首から上が振動で僅かに繰り返し揺れる、揺れる。これがたまらなくやばい。さすが宮崎駿、さすがジブリ!!!

 

●劇伴:

 「祈りのうた(産屋)」『Carl Orff, Carmina Burana, O Fortuna (カルミナ・ブラーナ おお、運命の女神よ)』を想起させる辺り、これが流れる産屋のシーンで、眞人がヒミという理想に助けられながら夏子という現実を救い出そうとする構図が、正に二人の“運命の女神”によって翻弄される主人公を描いている様でもあり、つまりは理想と現実とで葛藤し続けてきた宮崎駿自身を投影していたとも直感させる。

 確かに、運命論的で不毛な達観の象徴は、森羅万象を司る大伯父だ。しかし同時に、大伯父に只ならぬ親しみを向け、眞人に一種のエディプスコンプレックスを煽るヒミも又、“運命”を司る側の強大な存在の一人に違いない。又、ヒミが、眞人と死別した筈の実母の魂の連環を予感させるといった理想的な運命の象徴であるのに対し、夏子は眞人が受け入れるべき現実的な運命の象徴だ。つまり、宮崎駿にとって彼の母親と妻、そして高畑勲とは、ほぼ同等に、抗い切れない運命の様な存在だったし、この三者からいわゆる三体問題の如く翻弄され続けてきた宮崎駿の人生の身近な部分こそが、彼の理想と現実との葛藤を少なからず受肉していたと、この様な告白が聞こえてきそうでもある。尚、そこにはもう一人の運命の象徴であり、どちらかといえば理想で現実に抗う、この試みに協力してくれる側の友達としての青サギ、つまりは鈴木敏夫も重要な存在として描かれた。

 要は、こういった宮崎駿自身の私的な告白とは、彼自身による宮崎駿ブランドという一種の権威主義の相対化、もとい破壊であり、或いは、罪滅ぼしとか社会還元とまで言わずしても、世界的な巨匠といった栄冠に溺れず、むしろ自らこれを退け、こうする事によって、どこまでも作品に込めてきた真意に注目して貰う為の、一種のけじめともとれる。少なくとも、『風立ちぬ』の堀越という狂人像よりも、『君たちはどう生きるか』の眞人、この自らの理想を現実から取り戻そうとする冒険活劇の主人公像の方が、幾倍にも潔くそれが達成されたと、私真田は確信し、大絶賛する。

 

●墓の主、キリコ:

 “墓の主”とは、かつてキリコが大伯父か“耄碌爺ぃ”との間に宿したが、中絶したか流産したかの結果としての水子の怨霊であり、つまりキリコが墓の主を見守り番をする献身の振舞いとは、産声を上げられなかった幻の命への未練や償いであり、更に言えば現世で叶わなかった子守の代替行為とも妄想できる。つまり、キリコと墓の主とは、一方で産屋に囚われた夏子や、主人公の母親の仮の姿たるヒミと対の位置付けとなる、いわば“死産”のメタファーであり、これは同時に、『君たちはどう生きるか』に於ける至上のテーマたる“生きねば”、このいわば生命の自律性の尊さを“新しい命を宿して次世代に繋ぐ事”の側面から活写する際に、この全貌を俯瞰させる為の“闇”の部分の象徴とも解釈可能だろうという事だ。で、そんなキリコですら、たとえ“死産”や“闇”のメタファーといえども、決して絶望や落胆や悲壮だけを醸さず、むしろ前向きで快活な“生きねば”を貫くようなキャラ造形で描かれている点によって、私鏑戯は宮崎駿流の、いわば“古神道”まで遡った日本古来のより根源的な風土性、これに沿った“救済”観、つまりは“死産”という不条理に対して御伽噺でもってする“報い”、或いは“癒し”を感じ取る。因みに、宮崎駿が描く日本固有の風土性が、もはや“神仏習合”より遥かに源流たる古神道に根ざしている事実は、『もののけ姫』以来、久しく明白だし、これに継ぐ『君たちはどう生きるか』に於いても、キリコが番をする墓の描かれ方が、かつて日本太古の巨石崇拝をなぞらえている点から、宮崎駿ならではの筋金入りの保守精神、もとい風土愛は歴然と言う訳だ。

 

▼2023年7月5日

 『【推しの子】』。

 物語の大筋は輪廻転生の謎を秘めるファンタジーと、次に、アイの元彼であると同時に彼女を殺させた黒幕の芸能業界人をアクアがつきとめるというサスペンス&ミステリ。更にこのディテールとして、アクアの思惑に利用されたり、利用したり、或いは、助けられたり、助けたり、・・・等の出会いや色恋沙汰のエピソードが多様に盛り込まれるといったプロットの組み方が秀逸、しっかり練り込まれており、超面白い。キャラの作り込まれ方がどれもハイレベル。又、芸能界のシビアなリアリティがブラックジョーク調で演出され、これが彼ら、彼女らに繰り返し襲い掛かるといった物語も新鮮、且つ飽きさせない。アニメ第1期の9話まで観終えた現時点じゃ、黒川あかねと有馬かな、どっちも可愛い頑張れだし、他方の星野アクアは別の意味で頑張れ(?)・・・な感じ。だけど後々、アイの元彼にしてアクアの父親でありアイを殺させた黒幕が誰なのかが明らかになり、且つ彼とアイとの恋物語が断片的にでも明かされ始めれば、再びアイという人物像がより深く掘り下げられるだろうとも期待できる。果たしてこれがどんな結末を迎えるのか否応なく見届けたくなってしまう程の原作漫画の脚本力に脱帽。ネタバレを恐れつつ、原作漫画には敢えて触れぬまま、アニメ第2期及び原作漫画完結とこの全てのアニメ化まで、私鏑戯はしぶとく待ち望んでいく予定。

 翻って、昨今の日本の芸能関連ニュースの内でも極めて凄惨な部類を彷彿させる様な、作中の主要エピソードの企図を推し量るに、私鏑戯個人としては、『推しの子』は極めて社会的意義、メッセージ性といったニュアンスに優れた超大傑作漫画、アニメとしても捉えられ、従って超々大絶賛するものである。「芸能界において嘘は武器だ」の含蓄よ。

 続きが楽しみじゃー♪

 

▼2023年6月15日

 『ブラッド・アンド・ゴールド~黄金の血戦場』。

 第二次大戦も末期、ナチス軍の兵士たる主人公は、故郷で連合軍の空襲を生き延びた娘との再会を果たす為に隊から脱走、追われる身に。逃亡に力を貸す僅かな登場人物以外は、ナチのファシズムに無抵抗な大勢の庶民、ナチ党員、追手のナチス軍、更にソ連の赤軍ばかりか米軍まで全てが主人公の命を狙う“敵”。この絶望的な逃亡劇の結末や如何に!?って映画。

 超々面白かった!!!

 まるで宮崎駿ばりに計算高い画面設計。例えば冒頭、首釣られる主人公を軍車両荷台の徐々に遠ざかる視点から撮り続けるカットや、教会戦闘時に建造物の高低差を活かした奥行きあるカット等。つまり論理よりも直感、生理的快感に訴えてくる絵作りが秀逸!

 尚、脚本の展開とエピソードは終始奇抜。

 登場人物のキャラも創り込まれ、極め付きに、ナチスへの憎悪に留まらぬ“反戦”そのものが『ブラッド&ゴールド』の最大テーマ。何故なら、逃亡兵の主人公は、ナチス軍だけでなくナチ社会、赤軍、米軍まで、つまり“戦争”全てを敵に回しながら“反戦”を体現するといった物語の構造となっており、このテーマを劇的に昇華した脚本の業こそが『ブラッド&ゴールド』の魅力の根幹として私鏑戯に解釈されたから。

 又、流血の描写は凄いものの、過度なセックス描写は無いので、子供も鑑賞可(嘘)。