『風の谷のナウシカ』と『進撃の巨人』、どっちも凄ぇ! | 真田大豆の駄文置き場だわんにゃんがうがおおおぉ!!!

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▼2022年05月29日
■進化生物学的な視点を踏まえた『風の谷のナウシカ』への再考

 本稿に於いて、群選択で解釈されるところの利他的な生態が種の存続を優位にすると述べる時の「種」の語義は、とりもなおさず生物学的な定義に沿っており、従って、後述する人類についての群選択的な解釈に於いても、飽くまで現生人類、「ホモ・サピエンス種」が想定されており、つまり、これは特定の「人種」同士の遺伝的な優劣や、これが自然淘汰に影響するなどといった、いわゆる人種差別的で非科学的なニュアンスの一切を含まない。

 尚、仮に『風の谷のナウシカ』の古代人と人造人間との間に、「種」を跨ぎ、交雑が困難なレベルの遺伝的な相違という虚構上の設定が存在する場合、これは群選択と個体競争とが混在する自然淘汰からの寓話化以上のリアリズム、或いはダイナミズムをもってする、いわば人工進化的な空想科学を交える事によって、生命の尊厳のテーマ性を昇華したSF大傑作としても評価できる。


▼序文
 進化生物学的な視点を踏まえて『風の谷のナウシカ』及び『進撃の巨人』のテーマ性について、以下に再考する。
 以前まで私山田はその両大傑作について、主にホッブス哲学に於ける自然権、この人類への根源的な洞察を主軸として原作者独自のテーマ性の更なる止揚が展開された成果として捉え、こうした飽くまで私山田個人の主観、思い込みの範囲に留まる所によって評価してきたが、本稿ではそれを包摂する形で更に評価の前提を拡げ、進化生物学的な視点、主に群選択、性選択、個体競争選択、等のいわゆる自然淘汰の知見をド素人なりに参照する観点から、改めて評価し直す。

※尚、本稿執筆後の'24年4月2日現在、私真田はいわゆる“中立説”“遺伝的浮動”“塩基配列の変異に於ける同義・非同義的置換”等を知るに至る。果たして、「常に前を向いて生きたい」「既にその機は逸した」と鈴木敏夫を通して意思表明した宮崎駿、彼の大ファンとして私真田は、『風の谷のナウシカ』を進化生物学的な観点で本稿以上に深堀る意義を既に見失ったし、むしろより複雑系のありのままと向き合う『君たちはどう生きるか』以降の宮﨑駿の今後へと、興味の殆どを移した次第だ。
 又、それと同様の観点を踏まえた上で私山田独自の人類平和の標榜についても本稿末尾で述べる。

※尚、『風の谷のナウシカ』及び宮崎駿評は、過去エントリでも述べた。

 

 

 

▼私山田がホッブスの自然権だけを念頭し述べた両大傑作への一面的な評価
 まず、以前まで私山田は『風の谷のナウシカ』に於ける、ナウシカによる墓所の破壊、及び自然愛護的な古代文明人への殲滅、及びこれによる腐海と共に生きる人造人間の民(※ナウシカを含む)自身の自律性、自然権の尊厳を守り抜く事と同時に人類そのものの滅亡の未来すらも選んだといった衝撃的な物語の結末について、当然、ホッブス的な自然権の尊厳を謳うだけに留まらず、そこには地球環境や民族性個々の風土性に規定されざるを得ないアイデンティティの多様性を蔑ろにすれば、人類の前途はろくなものにならないぞといった警鐘が鳴らされているという風に解釈を述べた。
 又、『進撃の巨人』に於ける、主人公のエレンが始祖の巨人の能力によってエルディア人固有の巨人化の特性を失わせると同時に、このいわば武装解除されたエルディア人の前途の為にパラディ島の外の人類の8割を「地鳴らし」で駆逐してしまったが、しかし結局、その数年後に生き残った2割から報復爆撃され存亡の窮地に追いやられたエルディア人は、果たして再び巨人化の力を受け継ぐ契機に手を伸ばさざるを得なくなったという結末についても、ホッブス的な自然権の尊厳こそが、民族的アイデンティティを守りたがる平和の理念の基礎となるだけでなく、同時に「壁の外」の他の民族的アイデンティティに対する不安、排他性、脅威、そして戦争の契機とも成り得るといった、こういったいわば戦争と平和が人類の文明の営みの根本に於いて表裏一体を成すが如きジレンマへの警鐘、この『風の谷のナウシカ』と比較すれば戦争勃発の脅威の根深い本質そのものをより身近なものとして皮肉った上での警鐘が鳴らされているという風に解釈を述べた。
 尚、どちらの大傑作もそれぞれ民族アイデンティティの対立構図の臨場感を際立たせる為の多様なギミックを構造的に仕組んでいる点(※『ナウシカ』は土鬼の神授王権体制の奇抜さ等、又『進撃』は勢力ごとの歴史記述の相違や衝突等)に限って比較すれば、両者にほぼ共通する普遍的なテーマ性、洞察力を作品に昇華した偉大さは、雌雄を決し難く比肩していると、今でも思っている。
 さて、しかしそういった以前までの私山田の両大傑作に対する評価はまだまだ浅はかで一面的に過ぎなかったと、先日学び始めた進化生物学的な視点を得た事により気付かされた、というのが以下に述べる本題である。

▼進化生物学に於ける自然淘汰への解釈の違い
 進化生物学には、自然淘汰を説明する前提を群選択か、或いは性選択及び個体競争かのいずれに置くのかという争点が存在する。
 群選択とは、種の群全体に対する個体同士の利他的、互恵的な行動、生態こそが、より最適な環境適応の突然変異の積み重ねを促し、種の存続をより優位にするという、自然淘汰への解釈。
 又一方の性選択及び個体競争とは、精子同士の卵子争奪の規模から観察できる、種の個体の利己的な競争(※オス側)や選択(※メス側)、且つ、個体同士が生存戦略上の小規模な群で共有する遺伝子の繁殖を望む血縁淘汰、これまた利己的な競争原理の上で、一見して互恵的とも捉えられる行動、生態すらも説明してしまえるところのものこそが、より最適な環境適応を促し、種の存続をより優位にするという、自然淘汰への解釈。
 自然選択説を主張する側は、群選択を主張する側を次の様に批判する。すなわち群選択説とは、まるで人類の文明社会的な道徳観念を脅かしかねない、野生に於ける自然淘汰の利己性から目を逸らさしめるかの様な、従ってイデオロギーが先行した非科学的な解釈だと。それは観察や実証による帰納という、この科学の根幹に関わる重要な姿勢の欠如への批判とも言える。

 そういったイデオロギー先行型の、物事に対する不誠実さ、これに対する批判の精神こそが『風の谷のナウシカ』の思想性の大きな一部としても見事に受け継がれ、昇華されているのではないかと問う私山田独自の仮説が、本稿の主旨という事である。

 

▼“社会進化論”批判

 そしてその批判の矛先は、かつてのナチズムやソ連のマルキシズムだけではなく、今現在のアメリカ合衆国に於いても尚、ダーウィニズムを生物学から社会思想哲学へと無理矢理に拡大解釈し、曲解してしまっている“社会進化論”という、この極めて非科学的な誤謬の塊にして革新左翼的で“リベラル”なイデオロギー(※いわゆる“新自由主義”的な思想の根っこ)に対しても及ぶ。

 尚、上述の私鏑戯に於ける“社会進化論”への批判は、“進化生物学”や“進化論”の生物学的な見地を、分子生物学や地質学や地球物理学等の見地も併せつつド素人なりに学んでいるからこそ必然される。言い換えれば、“社会進化論”は断定の産物であり、一方の“進化生物学”は傍証(※ゲノム解析等)と仮説との地道なすり合わせ、いわば学際的な産物だ。ところで、そもそも科学とは、帰納・演繹、いずれかによる仮説を検討、実証、論文査読を経る事によって客観的な知見を地道に積み重ねていく、人知の継承の営みなのであって、これは結論ありきの断定や宗教やイデオロギー的な思考法とは対極に位置する学問分野だ。従って、“進化論”及び“進化生物学”は科学だが、“社会進化論”は科学ではなくイデオロギー、或いは社会学の範疇だ。更に、かつてカール・マルクスはダーウィニズムを曲解し、いわゆる唯物史観という虚構を成立させた事、又、かつてハーバート・スペンサーに代表される“社会進化論”に影響を受けたヒトラーがナチスの選民思想、ユダヤ人差別、障害者差別を生んだ事、そして現在のアメリカに於ける優生思想色が極めて強い行政思想としての新自由主義や進歩史観だけでなく、敗戦後の日本に於いては、かつては国民統合ばかりか極東アジアの精神的な紐帯であると同時に対共産圏のイデオロギー闘争上の精神文化防衛の要でもあった皇室神道、この実質的な喪失を無理筋に代替させようと、当時のCIA監視下で暗黙裡に、且つKCIA主導で組織化され、現在は北朝鮮の独裁体制と裏金脈で繋がっている偽装“反共”で実質的な反日カルト宗教たる“壷教”、この教理に於ける、いわゆる“蕩減復帰摂理史観”という進歩史観も、やはり“社会進化論”的な誤謬の影響下にある事、これらは全て飽くまで本来の生物学としての“進化論”から逸脱した“非科学”が裏目に出た結果であり、従って私鏑戯は、この様な誤謬に基づく人文学の汚点たる“社会進化論”を“革新左翼的なイデオロギー”と批判する。

 果たして、こういった学際的なコンテキストは、いわゆる“拝米保守”でアメリカ様こそ保守主義の要などと視野狭窄に信じ込んでしまえる劣悪な教養水準にとっては、到底理解できるものではない(笑)。それは、かつてのソ連や現在の中国共産党独裁体制や米合衆国の政経思想、更にはそもそも“創造的破壊(※シュンペーター)”といった人類史の推進力からも根源的に見出せる、いわば“革新左翼”的な思想傾向の遍在性に対する洞察と諦観を踏まえた上での批判であり、同時に『風の谷のナウシカ』に対する私鏑戯の共鳴なのだ。


▼人類固有の内観的な特性故に利他性と利己性とが混在する、この自然界から逸脱した生態
 論点を戻し、そういった進化生物学的な争点の面白さはさて措いて、そもそも群選択説を批判し、いわゆる「利己的な遺伝子」を主張する側も認める様に、では野生ではなく文明的な人類社会に於ける自然淘汰的な生態は、果たしてどの様に解釈し得るのかを問うた時に、私山田はド素人なりの、空想的な演繹の次元で、その群選択的なものと個体競争的なものとによる両方の解釈が同時に参考になると考えた。

 つまり、人類は利己的、且つ利他的な両方の傾向を兼ねた生態を営む。従ってこの真実は、利他的な傾向「だけ」とか、利己的な傾向「だけ」とかというように、いずれか一方の傾向「だけ」によっては決して十全に捉え切る事ができない。
 何故なら、人類はまず野生的な部分を秘めながらも同時に、未来を予見し、目先だけでなくより広範に渡るより抽象的な利害を見越せる固有の内観的な特性、つまり有り体に言い換える所の「理性」も有する存在だからだ。
いわゆる「利己的な遺伝子」を理性でもって自覚的、客観的に認知できる、地球上で稀有な存在とも言える。
 ところで、そういった人類の内観的な特性たる“理性”について霊長類学では、「今・ここ」の目先の欲望を満たす事だけでなく未来の自分や、自分を含むより広範な他者の群の共通の利害を抽象的に把握できる思考能力、等と説明したりもする。
 その最たるものが個人や血縁を超えた部族、民族、国家、全人類まで共通すると信奉されるレベルの平和の理念だし、或いは、死や死後の自我同一性の先まで問いたがる知的衝動、不安や、死別した愛する存在に対する感情、そしてこの未練を断ち切り、客観視させる為の埋葬の習俗を根幹として遍在的、且つ風土に規定されながら多様に展開した宗教文化である。更に、そういった“集団社会性”という外部拡張のリベラルな志向性と、逆に“宗教性”という伝統保守的な志向性と、これら相反するジレンマによってもたらされる“戦争”という又一つの重大な“理性”故の所産も見逃せない。つまり、人類は“理性”という内観特性によって、現世だけでなく死後の豊かさや平穏まで求めるが故に、同時に戦争という呪わしき生態から抜け出す事も不可能となる。従って、人類特有の“理性”は戦争と平和、全ての根源に他ならないのであって、決してカトリシズムやヒューマニズムが信奉する様な、啓示や平和の絶対的な要足り得ない。“理性”(人類特有の内観)とは、善と悪の根源であると、私鏑戯の理性が訴える(※従って、私鏑戯はいわゆる中央集権的で全知全能の創世神的なゴッディズムよりも、たとえ“物心崇拝”と揶揄されようが、もののあはれな八百万の古神道の方に親しみを感じる。いずれにせよ、どんな宗教でも、仮にこの本質たる葬儀や死生観の営みから逸脱し、本来付随の範疇に過ぎない筈の宗教道徳規律や外部排他的な選民思想等を肥大させ、民族的な狂信や傲慢に陥れば、これが“理性”故の覇道や宗教戦争を招く様になってしまう事には変わりない)
 尚、人類以外の霊長類や哺乳類に於いては、その様な抽象的な思考能力や生態を、まずもって確認できない。

 例えばチンパンジーは霊長類の中では、同種殺しの生態が最も多く報告されており(※種の個体数を分母とする同種殺し被害個体数の比率を算出すれば人類をも凌ぐ。尚、成人個体を含まず、独り立ちしない子供の個体に対する同種殺しだけに限れば、霊長類よりも哺乳類、この中でもとりわけミーアキャットが、この残虐な営みの頻度で突出する)、又彼らは敵対する外部の群の成人の個体に対し、撃退する以上の複合的な目的の下で執拗な集団リンチを加え、ゆっくりと苦しみを与え続けた後に追い討ちをかけて死に至らしめるという、より人類に近い残虐性を現す。それは「今・ここ」の目先の利害衝突を回避できさえすれば充分と思考を打ち切ってしまう他の哺乳類や霊長類とは一線を画す、例外的な「先を見越せる」生態として位置付けられる訳だが、しかしそんなチンパンジーでさえも、結局の所は人類の様な宗教文化やこれを要とする部族や民族規模以上の連帯を組織したりはしない。又、チンパンジーの母親が、彼女を群に引き入れようとするボスの雄チンパンジーによって、授乳期にある子供チンパンジーを殺され、この体温が無くなって身体機能の全てが喪失された亡骸だと分かりつつも生前と同じ様に肌身離さず寄り添い続ける様が映像に残されるレベルで報告されもするが、こういったチンパンジーに於ける死を理解しこれを悼む生態すらも、結局の所は宗教習俗や、部族、民族、国家みたいな規模の組織化までは、決して発展しない。

 つまり、以上は、もはや人類文明だけに留まらず、地球生物全般に於ける自然淘汰的な生態に関して、“自然選択説”と“群選択説”との両方の観点から記述が併記、並存する事によって、初めて進化生物学としての客観性が担保され得るといった、私鏑戯の私見に関する、ややとりとめもない例証の羅列だ。というのも、人類に限らず他様々な野生生物の生態に於いて観察、報告される野性的な側面としての同種殺し、子殺し、共食い、これらと同時に理性的な側面としての宗教性、集団社会性、これら全てに対して進化生物学がより客観的な視点を担保する為には、自然淘汰を解釈する前提としての“自然選択説”と“群選択説”との両方の視点が有機的に参考され続ける事も重要だろうと、私鏑戯が門外漢なりに直感するからだ。例えば、上述した様に野生のミーアキャットの子殺しやチンパンジーの同種殺しに於ける残虐性といった生態の数々は、少なくとも“群選択説”の仮説としての存在意義すら動揺させるし、だからと言って、“群選択説”を全否定し、逆に“自然選択説”ばかりに傾倒する分だけ仮説設定や観察の視野の幅を狭める要因にもなりかねないし、例えば野生生物に於ける同性愛的な生態の数々については“群選択説”的な解釈を抜きにして“自然選択説”や“性選択説”的な解釈だけで説明する事が極めて困難となる、こういう事である。
 余談だが、私鏑戯は、神話学者キャンベル著『千の顔をもつ英雄』プロローグ「神話と夢」の項を読みながら、次の仮説を夢想した。人類を自然から逸脱させる理性、この賢さと残虐さの根源を発達させた原因とは、人類の二足直立歩行に伴う身体構造の進化、つまりは前脚(両腕)で道具を使う事による脳髄と頭蓋の拡大、これと同時に骨盤と産道の縮小、これらによって他の哺乳類や霊長類よりも未成熟な胎児を早期出産、且つ長期養育する様になり、ここで育まれる、いわゆる“エディプスコンプレックス”だとか“創造的破壊”などの言わば“現状打破”を追及させる深層心理、これにこそ見出せるのではないか、仮にそうなら、この生物進化こそが地球惑星に於ける自滅欲動の現れとも捉えられるのではないか、と。尚、私真田は、この世界観をより精緻、且つダイナミックに記述可能な熱力学の“散逸構造”仮説に、今後多くを学ぶ予定だ。

 話を戻し、果たして、私山田が本稿の冒頭で述べたホッブス的な自然権とは、そういった人類に固有の内観的な特性としての抽象的な思考能力の所産としての、誇らしいとも呪わしいとも解釈できる、民族や種としてのアイデンティティたる“理性”について、飽くまで当時のイギリスがスペイン無敵艦隊の脅威や国内のピューリタン革命が絶頂を迎える等の動乱の世に直面し、この統治体制を立て直す為の要請に応じて体系化された法哲学上の伝統的な概念の一つに他ならないのだが、ここに上述の様な進化生物学的な観点を併せると、果たしてどんな両大傑作への再評価が可能なのかという事だ。


▼進化生物学的な視点を門外漢なりに踏まえた『風の谷のナウシカ』の再考
 まず、『風の谷のナウシカ』は、群選択的な利他性のみによる自然淘汰への既存の文明本位な解釈を一旦は相対化させ、これと、性選択や個体競争的な利己性による自然淘汰への、自然科学的により誠実で野生的な解釈とが、人類の文明的な生態の中で葛藤しながら混在しているのかもしれない、といった風な否定弁証法的な止揚を、結末の粗筋に於けるテーマの軸とした。従って、一見するだけなら利他的で自然愛護的な墓所の古代文明が、彼らが生み出した腐海をもってする、核戦争後の土壌浄化計画の一環として作り上げた人造人間、つまりは、ナウシカをはじめとする風の谷の民、トルメキア人、土鬼民族、他全ての登場人物らを指す所の、この、古代人自身は墓所という安全圏で眠りについている間に、人為的に仕組まれた戦乱の愚かさをもって腐海の浄化活動や粘菌の大海嘯を刺激し寸断無く活発化させ続ける汚れ役を先天的に背負わされた、いわば使い捨てのコマに他ならなかったという、こういった古代文明人の群選択的で利他的であるが故の厳然たるエゴによる屈辱的な真実が明かされた事に対してナウシカは異を唱え、そんな使い捨てのコマの惨めな立場からもう一つのエゴ、この利己性とも自然権とも自尊心とも言い換えられる尊厳に食い下がる「生きねば」のド根性でもって、古代人が眠る墓所を巨神兵オーマに命じて破壊したのであり、こういった人類の本質的な矛盾を、実際に於ける伝統的な法理念から進化生物学的な知見までもを総動員して抉り出すレベルの報復律、復讐劇にまで昇華させた、いわば【利他的な群淘汰を装った、その実、利己的な自然淘汰をも包括的に活写する、人類の諸行無常の物語】として解釈し直せる。
 つまりそれは、旧態依然のスコラ哲学的で宗教道徳的な固定観念から抜け出し切れない群淘汰説の様に、利他性一辺倒で奇麗事ばかりな“理性”への妄信に基づいた演繹とかイデオロギーが孕みがちな世界解釈の不誠実さ、欺瞞に対して、又一方の、近代的な経験主義や懐疑主義が前提となった性淘汰、個体競争説の様に、清濁のありのままを観察や実証で受け止める世界解釈の愚直さをもって批判する、いわば否定弁証法的な止揚でもあり、或いはもののあはれ的な精神の寓話化でもある。

 そこで語弊を避けたい、『風の谷のナウシカ』を私山田が解釈するところの本質とは、決して【宗教 vs 科学】の図式で勝敗を決する物語だとか、ましてや【自然 vs 人類文明】の図式でいわゆるエコロジー的な価値観を訴える物語だとかいう軽薄な捉え方なんぞであろう筈もなく、つまりは【独善的で恣意的な世界解釈の不誠実さ vs 清濁含むありのままと向き合う世界解釈の誠実さ+反骨精神】の図式によって生命の尊厳を訴える物語という捉え方にある。それを換言すれば、『風の谷のナウシカ』は懐疑主義哲学(プラグマティズム)的な思想背景に富んだ類の、正に近代的思考による近代批判を成し遂げた超労作という事だ。それは例えば、「宗教」と「文明」いずれの範疇でも、恣意的な傾向とありのままと向き合う傾向とが共に複雑に混在している実際が踏まえられるべきで、これは間違っても、例えば【カソリックvsプロテスタント】とか【清教徒vsトランセンデンタリズム】とか【セム系一神教vs多神教】とか【汎神論vs八百万信仰】等と単純化された図式だけで実際を捉え切る事は不可能だとする、どこまでも、もののあはれに耐え得る誠実さと、且つこの宿命に対して貪欲に抵抗し「生きねば」と訴える『風の谷のナウシカ』といった、私山田の捉え方である。

 そもそも、ヒトの内観特性に於ける理性と情念とによる思考を立ち止まってつぶさに省みれば、果たしてここに演繹と帰納とを明白に分かつ境界線など存在しない事実にぶち当たる。又、そもそもヒトは宗教者であろうが科学者であろうが皆、五感で感知できる目先の形而下的な事象を当てにしなければまずもって生きられないのと同時に、目先には存在しないこの遥か先の何かを信じなくては生きられない存在でもある。そう私山田が弄する言説すらも、自身の人生経験に基づく帰納なのか、それとも、そういった個別の経験による実証に普遍性を装わせる断定とか演繹などと看做せる余地も当然混在している。更には、進化生物学が果たして科学なのか人文学なのかと、学問としてのアイデンティティを動揺させ、自問自答せざるを得ない根拠も、そういった演繹と帰納との境界の曖昧さという普遍性にある。

 従って、複雑怪奇なもののあはれのありのままと向き合った上で尚も抗い続けねば、生きねばと訴える『風の谷のナウシカ』は、これ以上に望めないほど深い本質の寓話化に成功した大傑作なのだ、少なくとも私山田の中では。
 少なくともそれは風土性、自然権、プラグマティズムのテーマを、文化人類学、法学、進化生物学などの観点を背景に考えさせてくれる空前絶後のSF大傑作だと思う。

▲『風の谷のナウシカ』第7巻P211。
ナウシカ「自分の罪深さにおののきます。私達のように凶暴ではなくおだやかでかしこい人間となるはずの卵です」
ヴ王「そんなものは人間とはいえん」
ナウシカ「オーマ、その者を闇へ帰しなさい!!」

ヴ王「気に入ったぞ、お前は破壊と慈悲の混沌だ」

 

 尚、そういった進化生物学的な知見をもってする空想科学的な止揚の具象こそは、『風の谷のナウシカ』に於ける、王蟲を含む腐海の生態系(生産者)、ヒドラやナウシカ含む人造人間ら(消費者)個々の習俗やアイデンティティの多様性、そして吸った人間を殺す胞子や大海嘯を起こす巨大な粘菌(分解者)、これらによる舞台設計の壮大な構造性だが、対する『進撃の巨人』は、そういった空想科学的な構造性を有さないので、本稿で改めて解釈し直さない。エルディア人固有の巨人化の能力の大元である多足類然としたアレが一体何だったのかについては言及さなかったと、私山田が記憶するからだ。

▼進化生物学的な視点を踏まえた人類平和への標榜の、私山田独自の再考
 現生人類は、この固有の内観的な特性によって「今・ここ」の目先の利害に留まらない、より未来や広範に渡る、より抽象的な利害を見越し、言語、算術、技術、宗教、科学、法を含む文学、国民国家、グローバル規模の統治機構を営むに至り、これは野生に於ける性選択、及び個体競争を基礎とする利己的な自然淘汰(※リチャード・ドーキンスが述べるところの「進化の推進力」)を包摂しつつ、同時に、群選択で自然淘汰を曲解する様な、「今・ここ」以上のものを見越す利他性、互恵性をも志向するといった、自然界に於ける逸脱を、「文明」の下で展開させている。
 例えばベンガルトラとアムールトラとが、それぞれの種固有のアイデンティティの違いを認識する事をもって互いのナショナリズムや軍事力を誇示し、紛争回避の為の外交政治を営んだりはしないが、人類は地球の気候風土の多様性に規定された個々の文化的連帯による固有のアイデンティティの尊厳を守る為に、愛する己自身、恋人、家族、氏族、民族、国民、人類種同士(※これは、いわゆる近代的な民族ナショナリズム同士という事ではなく、半ばSF的な仮説としての、例えばかつての“ネアンデルタール人vsホモ・サピエンス”の様な“人類種”同士を意味する)の絆を守るという理由で、戦争に反対したり、戦争に賛成したりもする。或いは、それが中世社会を過ぎて近代化を迎え、核兵器の時代に入ると、核武装する事によって戦争勃発を回避し、平和を獲得するという現実主義的な政経理論が影響を増す様になった。それは戦争そのものと、戦争を回避する為の軍備とを混同しない、正に「今・ここ」以上を広範に知覚できるという意味での、一回り賢い平和主義であるが、相変わらずこれを全人類が理解できそうにない位には、人類平和そのものは極めて非現実的で遠い彼方の羨望の的であり続けている。
 例えば、どこまでも利己的な自然淘汰の営みに限った範囲で従わざるを得ない猿並の思考回路ならば、病を治す為の薬の苦(にが)さという目先の嫌悪感だけを事の全てと看做して頑なに忌避するだろうが、一転してこれが利己的な野生への抗いとしての利他性も包摂した人類並の思考回路となれば、戦争を回避する為の核武装、この一見しておぞましい印象(※広島、長崎の記憶)という、これまた断片的で断定的な核武装に対する目先の嫌悪感だけを事の全てと看做して頑なに忌避する様な事にはならないだろう。
 又、まるで『風の谷のナウシカ』に於ける古代文明人が自らの利他的な自然愛護精神だけに驕り高ぶって、ナウシカら人造人間の生命としての尊厳を蔑ろに扱ったのと同様に、過剰な形で一人歩きする核武装への印象論(※イデオロギー)だけを根拠にこれを忌避し、最大の回避目標でなければならない筈の戦争勃発をむしろ誘発しかねない軍事的不均衡の拡大を、むしろ後押しし、口先では戦争反対を叫びながら、その実は戦争勃発の気運の造成に加担してしまっている欺瞞の徒は、つまるところ、聡明で自然愛護に満ちた古代文明人の様な上っ面を装う猿なのだ。
 或いは、そういった欺瞞に無自覚な群衆の自滅願望(タナトス)を搾取対象として利用し、地球という惑星規模の自滅欲動の要請に沿った生物進化の末端に位置する現生人類の愚かさを最大限に活用する壮大な企図に迷い無く突き進む一握りのサイコな頭脳による愉快犯が達成されてしまう未来についても、空想は可能だ。つまりは結局の所、人類固有の内観的な特性だとか、「今・ここ」以上を見渡せる利他性だとか、文明的な営みに見る自然界からの逸脱だとか、これら全ては所詮、地球の自滅欲動によって生み出され誘われ増徴させられ続けてきただけの、欺瞞を究極の本質として捉えるしかない事柄に過ぎないのかもしれない。

おわり

 

 

▼2021年5月11日

『進撃の巨人』原作最終話を読み終えた時点の感想まとめ
 

 人類の8割を踏み潰し大虐殺させた上で、巨人の力をエルディア人から失わせた結末を、どちらかと言えばハッピーエンドの雰囲気をより強調し、実際の人類の醜さに対する皮肉を意図するテーマ性も見事に演出し切った諌山創という原作者は、宮崎駿と肩を並べるくらいの大天才だと思いました。
 宮崎駿の『風の谷のナウシカ』のテーマが、人類の自律性の尊厳を訴える「生きねば」なら、諌山創の『進撃の巨人』のテーマはさしずめ、人類の自律性に伴う醜い素質を訴える「自覚せねば」だと比較してみたくもなります。
 因みに、私が『進撃の巨人』で最も好きなキャラクターは、エルヴィン団長とガビちゃんです!


 ところで私宮尾は、とあるイスラエル人のYoutuberが『進撃の巨人』の感想を語る動画を見ました。そこで彼は、マーレ編を読む以前までは、壁の内側のパラディ島民が、実際のかつて第二次大戦当時のユダヤ人で、壁の外側から襲ってくる巨人は、実際のかつてのナチス・ドイツとしてだけ解釈していたと述べていました。
 果たしてそんな彼もマーレ編以降から解釈の幅を広げざるを得なかった様ですが、これを日本人の読者の立場に置き換えると、例えばガビが反日の考えに偏った韓国人だけを隠喩しているのではなく、同時に、日韓併合の時の帝国海軍に所属し、神風特攻作戦に志願した朝鮮半島出身の究極の愛国者たる朝鮮系日本人の若者に対する隠喩でもあり、又同時に、実際の現在の在日同胞(※民団系と朝鮮総連系の朝鮮民族の事)の孤独な立場に対する隠喩でもあり、又同時に、実際の近未来の没落した母国を捨てて他国へ逃れ生きる事を選択せざるを得なくなるであろう多くの日本人に対する隠喩でもあると、この様な解釈の幅の話にも繋がります。
 つまり、エルディア人は韓国人であると同時に日本人でもあり、又、ユダヤ人であると同時にかつてのナチス・ドイツ人でもあると。マーレ人にも同様の象徴的な含蓄がある。或いは、その隠喩の対象は、もはや人類である限りはそれ以外にも無数に想定可能であると。
 このように、『進撃の巨人』に於ける全ての架空の民族は、実際のモデルの属性をことごとく分解し、再構成された上で、共有させられています。
 現に、例えば実際のユダヤ人は、過去に選民思想による民族浄化の戦争を他国に仕掛けた歴史を持っていないが、『進撃の巨人』のエルディア人は、巨人の力で民族浄化の戦争を国際社会に仕掛けた歴史を根拠として、マーレ人を含む全世界から恐れられ、収容生活を強いられ、差別を受けています。つまり、あくまで架空のエルディア人は、実際のかつてのナチス・ドイツとユダヤ人との両方の属性を、全て背負わされているのです。

 或いは、そもそも、架空のエルディア人の恐るべき民族浄化の過去とは、ややもすれば、実際の現代の中東パレスチナを迫害し続け、モサドを擁し、核弾頭も保有する、この大戦後急ごしらえされたイスラエルとこの成員たるユダヤ人に対する隠喩であるとも充分想定可能な、この厳然たる事実から目を背ける事は、むしろ人類平和を希求する普遍性に対する背信、冒涜、欺瞞に他なりません。つまり、かつてポーランドのユダヤ人を迫害したナチス・ドイツの非人道性から、現代のパレスチナ人を迫害し続けているイスラエル人が自らを戒め学ぶべき点は、決して少なくないと、この際、私宮尾は強調しておきましょう!
 従って、そこから推測できる原作者の演出意図とは、もはやユダヤ人であろうがドイツ人であろうが、或いは韓国人であろうが日本人であろうが、人種や歴史の違いすらも関係なく、実際の全ての人類は普遍的に、生存本能と表裏一体の、敵に対する恐怖を根源とする、反動的な大虐殺とか帝国主義的な思想性を暴走させかねない、いわゆる罪の素質が備わっている事実をしっかりと受け止め、自覚しろ、そして自戒しろ、とでもいった風な、いわば性悪説的、且つ現実主義的、且つ平和主義的、且つどこまでも建設的で前向きなテーマにあると解釈できると思います。


 又、アニメ版で初めてガビが登場した時、日本では決して少なくない割合の鑑賞者が、ガビはいわゆる「反日」に偏った部類の韓国人を皮肉る為だけのキャラクターだと、浅はかに断定していました。その時、私は彼らが本当に幼稚で愚かだと、情けなく思えて仕方ありませんでした。何故なら、ガビは決して「反日」だけじゃなく、同時にこれと全く同じ精神レベルの、幼稚で愚かな「嫌韓」に偏った部類の日本人自身に対する隠喩でもあるという、もう一つの重大な解釈を愚鈍なまでに見落としていたからです。『進撃の巨人』という虚構は、そのような大局を見渡せない部類の幼稚さや愚かさを見事に喝破し、自戒させる、大衆娯楽として最上の表現効果を備えています。
 

 従って私は『進撃の巨人』こそ、真の意味で戦争反対、人類平和のテーマを、強烈な反証や皮肉でもって表現できている大傑作だと確信しています。

 

 かつてナチスから亡命したドイツ系ユダヤ人の政治哲学者ハンナ・アーレントは、自著『イェルサレムのアイヒマン』にて、ホロコーストの素因が指令当事者の極悪性ではなく凡庸性にあったと、つまり状況次第ではユダヤ人自身も民族浄化に加担し得えたと、この人類共通の闇を喝破した。
 
翻って、現在のイスラエルはどうか?

 尚、以上の様な私鏑戯の主張、すなわち、中東パレスチナ問題にまつわるイスラエル批判や、ロシア・ウクライナ侵攻にまつわる米国批判等、これらに共通する論旨とは、西欧近代的な金融資本の論理によって、他の途上国や民族の尊厳を犠牲にしてまで過剰な利益追求を暴走させる、こういったいわゆる“覇道”に対する批判である。

▼以下の動画は2021年5月10~21日の、ハマスとイスラエルとの軍事衝突についての解説動画だ。

 

▼2021年5月17日

イスラエル解体を目指すユダヤ教超正統派団体 ナトレイ・カルタ

 さて、上の動画は【ユダヤ教超正統派団体、ナトレイ・カルタ】のドキュメンタリーだ。

 正直に述べるが、私宮尾はナトレイ・カルタはもとより、反シオニズムを掲げるユダヤ人がこの世に存在する事実すらも、つい昨日まで全く知らなかった。

 ナトレイ・カルタとは、「超正統派」と日本語訳されるとおり、ユダヤ教の教理を最も保守的な形で生活に組み込み実践し続ける、ユダヤ人によって構成された、非暴力団体である。ところで、ユダヤ教の経典は「聖書」であり、これはキリスト教にとっての「旧約聖書」だが、この冒頭は、神の七日間の天地創造から始まり、次に「失楽園」が物語られる。「失楽園」物語とは、人類始祖のアダムとエヴァが神の命に背き、罪を犯したが故に、神からの罰として、生まれ育った楽園から追放されるという、いわば神話であり、これが正に、ユダヤ民族が祖国を失った最も古い歴史的なエピソードとして信じられている。因みに、その後アブラハム、イサク、ヤコブが物語られるが、このヤコブが兄エサウに許しを請うべく帰省する道中で天使と相撲をして勝った事により授かった名前として「イスラエル」が初めて言及される(※創世記32章28節)。つまり、ユダヤ人=イスラエル人は、神に対する罪の咎によって祖国を失う神話から始まる歴史を信仰し続け、イスラエル建国の1948年まで祖国を持たない流浪の民族(ディアスポラ)だった訳だが、さて、ここにきて、このいわゆるシオニズムという、パレスチナ地方への祖国再建運動ですらも、依然、神の御前に贖罪が果たされていない段階の世俗的な判断だと看做す、どこまでも彼ら自身の本来的な教理に沿う理由によって反対し、従って、ユダヤ人でありながらイスラエル国の解体とパレスチナ人の解放を主張する保守的な宗派団体こそが、「超正統派」を自認するナトレイ・カルタだという訳である。

 ナトレイ・カルタは例えば、イスラエル建国記念日にはパレスチナ人の集会やデモに参加し、パレスチナ人と共にパレスチナの解放とイスラエル国の解体を叫ぶ。それはナトレイ・カルタがユダヤ教徒として異端だからではなく、ユダヤ教徒として最も保守的で、教理に最も忠実な思想の持ち主だからである。

 当然、超正統派のユダヤ教徒には、その筋金入りの保守性から、例えば、公けの場では女性は頭髪を見せてはならないとか、歌ってはならないとか、教育を受けてはならないとか、中絶は御法度だとか、又、毎週土曜の安息日には一切の家電製品を使用してはならないとか、他にも多分色々、近代文明から頑なに背を向け続ける風土、慣習が継承され続けている。新型コロナ禍のワクチン接種も頑なに拒み続け、イスラエルに於ける新規感染者の多くの割合を占めてもいるらしい。

 いずれにせよ私宮尾は、ナトレイ・カルタを始め、反シオニズムを掲げるユダヤ人、イスラエル人の方々こそが、一向に解決が見えてこないパレスチナ問題の歴史の暗闇に射す希望の光だと信じている。

 少なくとも、日本人の立場では、他でもない中国共産党独裁体制下で迫害され続けている新疆ウイグル人の人権問題を、今後も追及し続けるのであれば、当然、中東パレスチナ人の人権問題も同様に追求し続け、イスラエルや米国に物申していく姿勢を示していく覚悟が試されざるを得ないだろうと、私宮尾は確信している訳である。

 大局を見るとはそういうことだ。

 

 

▼2021年2月21日~28日
  Netflixでアニメ『進撃の巨人』の1話~69話を鑑賞。
 『進撃の巨人』は、マーレ編から【民族問題】が描写され始める。それはステイツとネイションが必ずしも合致するとは限らないという次元で!●●系■■人って、アレ。ほぼ単一民族構成のネイション意識な実際の日本国に於いては、ほとんどの国民の経験則上、そこから派生する様々な日常的問題意識感覚すら理解が困難。因みにここで述べる【民族問題】とは、例えばコンビニや牛丼チェーンのバイト等で学生ビザギリギリの就労日数を限りなくグレーに近いブラックで満たしている外国人を見かける機会が増えたみたいな話とは、根本的に違うんであって、それは、同じ国籍を有しながら、異なる宗教、言語、人種(容貌)が永い世代にわたって向かい合い続けざるを得ない日常感覚とここから派生する様々な軋轢、民事紛争、刑事沙汰、内乱テロ等の火種含みの社会問題感覚の話。

 作中のエルディア人は、国際的に被差別民族として分布し、マーレ、エルディア、パラディ島(エレンら)、そして無垢の巨人等は多人種集団として描かれる。そもそも『進撃の巨人』は物語の冒頭から、パラディ島民や無垢の巨人の髪と眼の色、目の堀、口周りの骨格等を描き分けていたのだが、まさかこれが記号的な漫画表現ではなく、マーレ編以降から明かされる予定だった世界観設定ありきの、あくまで彼らが多人種構成の民族集団であるというディテールだったとは!!!この点が私の『進撃の巨人』への評価を、この度、根本的に変えた。

 まず、マーレ帝国によってゲットーさながらに幽閉され、過去に優生思想(選民思想)と巨人兵器技術で国際社会の脅威であったとされるエルディア人という、このあくまで表面的な図式は、実際の第二次世界大戦下のナチス・ドイツとユダヤ民族の支配・被支配からの単純なトレース(写し)である筈もなく、この関係に於ける構成要素たる「ゲットー強制居住区」「腕章」「優生学思想」の分解、再構成なのであって、これによってナチス的な残虐性とユダヤ的な被虐性のどちらもが、そもそも人類に遍在する人類ゆえの本質に他ならず、故にこれは民族個々の地政学的な境遇次第であらゆる立場、民族、歴史にも発現し得る普遍的な闇であり、従ってここから必然される「憎悪の連鎖」の宿命から人類が逃避する事は不可能だという性悪説的な風刺の表現を見事に成功させている。

 つまり『進撃の巨人』に於ける支配層のマーレ人は、実際の第二次世界大戦下に於けるナチス・ドイツとユダヤ人、この両方の象徴的な要素を併せ持っているし、一方の被支配層のエルディア人も又、ナチス・ドイツとユダヤ人、この両方の象徴的な要素を併せ持っている。

 つまり、『進撃の巨人』作中のいずれの架空の民族の設定も、実際の歴史や民族に対する直接的な隠喩とか象徴として解釈するのは誤りという事だ。

 ところで、時に無知とは野蛮と同義であり、無垢な善意や正義や信仰などといったものほど原理主義的に過激化し易く、又、人類平和を脅かすテロリズムにまで身を投じがちなのだが、この意味に於いて『進撃の巨人』という知性の塊は、そういう忌むべき類の無垢や野蛮に対して媚びる事を知らず、正に自らの心臓を惜まず捧げた原作者の知性と勇気の結晶とも言えよう。素晴らしい!
 他にも、パラディ島から「不戦の契り」を対外宣布し、対内的には巨人の力で壁を築き、人民への記憶改竄で平和的統制を維持するなどの「レイス家」にまつわる設定をもって、実際の日本に於ける、太平洋戦争敗戦後のいわゆる平和憲法問題を批判的に取り扱っていながらも、これとは別に「ヒィズル国のアズマビト家」が「アッカーマン家(ミカサ)」を外交のダシに利用する事から見て、決して人類平和の大義に従順とは限らない、どちらかといえば俗物的なバブル経済期の成金民族さながらに登場するかと思えば、更に別のところでは、人的戦力のほとんどをエルディア人戦士隊に依存してしまっているマーレの軍国体制の欺瞞を憂うマガトの「マーレ人の耳に銃弾が掠める音を聞かせたところで(略)手遅れだ」という台詞からは、実際の敗戦後日本に於ける米軍丸投げ軍備及び安全保障体制の欺瞞に憂国を見る批判への隠喩がのぞき見える様で、つまりこれらの作中三つのネイションそれぞれに実際の憂国日本への隠喩が分解され、散りばめられているのであり、要は『進撃の巨人』が実のところ、【壁の外側の巨人の脅威に対し防衛、進撃、駆逐を果たす】という、実際の日本国の自主防衛意識を啓蒙するが如きテーマ性の表現のみに決して留まる事なく、【壁の外側には、更に別の「壁の内側」の事情が無尽蔵、且つ複雑に並存しており、これらは互いに自らの「壁の外側」を脅威と看做し合っている】という、実際の人類国際社会秩序の醜くも麗しい矛盾の実態を構成する一員としての自覚を啓蒙するか如き、より普遍的な表現を狙っていると、この様な事実がマーレ編以降から明かされた訳であり、更には、マーレ、エルディア、タイバー家それぞれの歴史観の相違やこの政治的な思惑による形成過程までもが披露され(※「俺達の教わった歴史は全てマーレに都合のいい・・・」と批判するエルディア復権派地下活動家らが、一方ではユミル神話の古語を未解読のまま断定的に解釈するグリシャを信じ込んでいたり、或いは、舞台演説プロパガンダでパラディ島打倒の結束を世界連合に呼びかけるヴィリー・タイバー等)、つまり『進撃の巨人』マーレ編以降に於いては、確固不動に一貫した歴史設定は敢えて設けられたり描かれたりもせず、逆に、政治的な思惑による相対的な歴史観が互いにせめぎ合う臨場感こそが、虚構のリアリティにより効果的な説得力を与えている等、こういった冷静、且つ緻密に現実を洞察し分解し再構成するという、虚構の創造の業が披露されている。
 更にネットの噂によると、アニメ69話以降の内容として、原作漫画ではエレンが壁に潜む超大型巨人の大群を使って世界の「地ならし」に踏み切り、パラディ島以外の人類を滅亡させ始めたというではないか!
 ところで私は予てから、実際に於ける帝国主義の闇は、かつての大英帝国、ナチス・ドイツ、旧ソ連、そして現在のアメリカ合衆国、中国共産党政府、イスラエル、そしていわゆるGAFA等超大型グローバル企業ばかりか、かつての大日本帝国にすらも、例外無く、一側面、一傾向、一派閥として遍在し潜むと考える。そして『進撃の巨人』に於いて、最終的にその帝国主義的、ゼロサム的、優生思想的、選民思想的、唯我独尊的な価値観を実現させてしまうのは、母親を巨人に食われた怨みから転じたトラウマを行動原則の究極の根拠とせざるを得ないエレンという個人にして、最も感情移入を呼び込み得る主人公的な人格である。又、『進撃の巨人』に於ける(始祖の)巨人の力とは、権力(※国を統率する根源が巨人の力を有する一個人の意志に委ねられてしまうため、多分、民主化が成立し得ない世界、もとい、民主化を待たずとも近代化が実際よりも緩やかに進行する世界)、社会資本(三つの壁)、抑止力、などに留まらず、人類を破滅させる脅威の意味も併せ持つ(※どういう理屈か未だ知り得ないが、壁に潜む無数の超大型巨人を一斉覚醒させ世界の「地ならし」に進撃させられる能力はやば過ぎるwww)。
 従って私は『進撃の巨人』から、【如何なる個人、民族、国、企業であろうとも、欺瞞、独善、人類の脅威、害悪と成り得る素質を、例外無く持っていると自覚しろ】といった風な性悪説的なテーマ性を読み解く。その【自覚】とは人類の知性や理性や意志や自律性等による抗い程度ではなす術が皆無でどうにもならない、人類に普遍な【素質】とか内観特性に向かわしめるものであるが故に、鑑賞者がエレンという主人公に対して、原作漫画34巻分に渡って積み重ねてきたであろう感情移入を荒々しく利用し誘導する先として充分に値する、時代、国柄を選ばない普遍的テーマだ。

 尚そこで留意したいのは、『進撃の巨人』の究極のテーマはあくまで【人類普遍の性悪説的な「素質」への自覚】という警鐘による、未来志向で建設的な提言の類なのであって、決して【普遍的真実と断定しようもない「歴史的な罪」なるモノに対する遡及的な罪悪感・贖罪意識の刷り込みとか強要】の類ではないという点だ。
 要は、人類は罪を結果させかねない「素質」とこの遺伝的な継承とを「例外無き」本質とする事は確かだが(※宮崎駿『風の谷のナウシカ』で言うところの「汚濁」「闇」「虚無」)、どこまでも「罪という結果」そのものまでが遺伝継承される筈もないし、従って、間違っても「特定の」個人や民族が「遺伝的」、或いは「歴史的な罪」などといった名目で、「一方的な」裁きを強いられる事態が正当化される如何なる根拠も存在し得ないし、これはたとえ巨人化の「素質」を持つエルディア人に対してすらも同様という話だ。つまり巨人化の脅威(※九つの巨人の継承者の骨髄液(?)を服用させ無垢の巨人化させられたエルディア人の前で無抵抗であれば、人種を問わず十中八九食い殺されるwww)すらも、飽くまで「素質」とか「可能性」に過ぎず、「罪」という結果そのものではないという、この様な究極の寓話で本質を突ける所にこそ虚構創作物の強みというか社会的意義があるって話なんだと思う(笑)。勿論、「んな突飛過ぎる寓話から読み手が何らかの本質を嗅ぎ取るに至れよう筈もないだろ、現実舐めてんじゃねぇ!」といった原作者の諧謔的な乗り突っ込みも、恐らく作中に仕込まれているだろうと解釈できる余地があり、例えば作中シリアスな場面に度々仕掛けられた唐突過ぎるギャグ描写やエレンの中二病的な描写は、『進撃の巨人』の超達観の視座を支える重大な構成要素の一つなんだと思う。

 その繊細なテーマ性を最も露骨な形で担わされたキャラクターこそが、アニメ版70話放送で話題騒然となった渦中のガビというエルディア戦士隊の少女であり、この自らの民族の名誉挽回の為になら命を失うことも恐れない熱き魂の持ち主という意味に限れば、過度にも正義に真っ直ぐな、愛すべき人格の成長譚が今後どう物語られるのか、原作未読の私にはハラハラドキドキの極み!!!

 尚、そもそもガビはエルディア復権派やパラディ島民の都合に照らせば、支配層、或いは敵対するマーレに対して媚びまくる、民族の裏切り者でもあるし、こういった複雑な立ち位置に於ける、彼女のパラディ島のカヤ(同じエルディア人同士)に対する「残虐非道の限りを尽くした歴史をお忘れですか?」とは、一見すればまず実際に於ける現代の韓国や北朝鮮の国民感情への隠喩とも映るが、これを俯瞰して解釈し直せば、かつての日韓併合時に特攻を志願するレベルの朝鮮系日本人兵にして究極の愛国者とも、又同時に、現代日本に帰化し日本国籍を取得した朝鮮系日本人とも、或いは、被差別と祖国愛を叫びながらも南北朝鮮からは部外者だとか裏切り者として扱われてしまう民団系、或いは総連系の朝鮮籍所有者とも、そして果ては、近未来に於いて亡国となった没落日本を捨て海外移住を選択せざるを得なくなるであろう多くの「元・日本人」の根無し草然たるコンプレックスや欺瞞や尊厳の体現者とも、この様な含蓄に富んだキャラクターだと分かる!

 つまり分りやすく言えば、そういった『進撃の巨人』の超達観の視座は、例えば「反日」や「嫌韓」に対しても、又、かつてのナチスから現在のパレスチナ情勢まで見渡した上で尚もユダヤ人が絶対的な被害者かの如くに偏向がまかり通ってしまう国際情勢に対しても、これら全てに対して公平に批判的であり、それらに共通する浅はかさとか幼稚さを、パラディ島に潜伏し始めて間もない頃までの、自らの正義に何ら疑いも葛藤も持たない只真っ直ぐなだけのガビ、このたった一人の少女の過渡的な精神的未成熟さでもって象徴させたのだ。従って「ガビって実際の反日韓国人じゃんwww」としか浅はかに解釈できない「嫌韓」の脳タリン共は、この同水準の知能で相対する「反日」勢と共に、『進撃の巨人』のガビに象徴される批判対象として等しく看做される同類という話だ。

 で、そこまで深読みできる部類なら更に自ずと気付ける点として、『進撃の巨人』が描く軍事クーデターやレイス家が実際に於ける「何」に対する隠喩を想定しているのかとか、そもそもパラディ島民、つまり主人公エレン達の、壁の外の海への好奇心や敵を駆逐してやるという憎悪が発端となって紡がれるメインストーリーとは、実は憂国日本に対してのみでなく、全く別の事情に対しても、閉塞感の打破の類を呼び掛けるテーマ性を含む事まで想定されているのではないか・・・等、いやはや全くでもって鬼気迫るほど奥の深過ぎる大傑作であるwww!!!

 上述は、たかが漫画の感想にしたってやや不穏が過ぎたかも知れないが、いずれの解釈が成立するにしろ、私にとって決して揺るがない『進撃の巨人』への感想の要とは、実際に於ける、多様な気候風土や地政学的条件に依拠せざるを得ない民族文化的なアイデンティティーが寄り集まるところに於ける社会正義や人類平和の達成の限界、この土着性の敗北にしてグローバル帝国主義の野蛮の勝利といった人類史の主流の傾向、この絶望的な真実を、「巨人」という人類文明の終末を極限まで急加速させる、視覚的に理解し易い虚構をもってして自明理に晒し挙げんと試みたであろう、超弩級の禁忌突破も伴った反骨精神から感じ取れる無類の爽快さだ。あぁそうですよ、私にとって『進撃の巨人』は爽快でたまらんですよ!その爽快さこそが実際には決して許される筈も無い不謹慎にして、虚構にだけは許される醍醐味であり、「表現の自由」の源でありましょう。それは絶望の限りを描く事で真の平和願望に迫る、逆説の爽快感なんであります!

 それは所詮、腐っても人類としてこの世に生れ落ちてしまった以上は、この種の分相応の限りに於いて、人類同士の過去・現在・未来を可能な限り客観的に見定め、同時に見極められない限界がある現実も認め、人類融和を尊ぶも、この地に足の付かない驕り昂ぶりを牽制し、より謙虚たるも、幅広く念頭し(※例えばこれを「議論を一時棚上げする」某外交妥結に見出し得るか否かすらも私自身には未だ分らない)、過度な期待も悲観もせず、或いは過度な幻想にも怨みつらみにも溺れることなく、或いは近付き過ぎも突き放し過ぎもせず、塩梅の良い距離感を絶えず模索し続けながら付き合っていく、この気力だけは死守していく他に仕方ない(※この点が、作中、「不戦の契り」で国際社会との均衡関係を消極的に放棄しパラディ島に篭って鎖国に踏み切ってしまったレイス家に対し、幾度のどんでん返しの筋書きを繰り返しつつも、原作者をして終始一貫して批判的に描かしめた根拠だと、私は考える)、だって、特定の血族(※これを寓話化する為に採用した題材としての「巨人化する素質」を持つエルディア人)であろうが否かに関わらず、人類皆互いに脅威として映り合わざるを得ない愚かさを共有する生き物同士って事実に違いはないのだから、という具合の提言なのだと思う。

▼同日

 私は『進撃の巨人』の「王政編(原作漫画18巻辺り)」までしか鑑賞し終えていなかったつい先日までの時点では、このテーマがせいぜい【実際の日本に於ける平和憲法や日米安保体制という脆い「壁」を過大評価する事を辞め、民主的な危機意識を備えよといった警鐘】程度に留まるだろうと思い込んでいた。しかし蓋を開ければ、それは【如何なる個人、民族、国、企業であろうとも、欺瞞、独善、人類の脅威、害悪と成り得る素質を、例外無く持っていると自覚しろ】といった風な、より普遍的なテーマ性だったので驚かされたし、これには無上の喜びが伴った。何故ならそれは私にとって、例えば宮崎駿『風の谷ナウシカ』に於けるナウシカによる「墓所」壊滅と、『進撃の巨人』に於けるエレンの「地ならし」とが、主人公の闇に対する批判の強度が、少なくとも表面的描写上では後者がより大きいというだけの、言ってしまえば紙一重の差異をもってして、それらのテーマ昇華力の比肩をも思わせるものだったからだ。つまり私にとって『進撃の巨人』は『風の谷のナウシカ』よりも更に暗い、闇が強く表現された作品。幼少の頃、母親の愛に満たされなかったトラウマを抱えるが故に、やや屈折した人格を自覚せざるを得ないナウシカが、「清浄」な古代人の「墓所」を破壊したという物語に比べ、幼少から「生まれてきてくれただけで立派なんです」なんて言ってくれる母親の愛に恵まれて育ったエレンが、ミカサを救いたい正義感や母親を殺された事への復讐心を一途に通した結果、殺人、大殺戮にまで及んでしまったという物語の方が、よりテーマに込められた闇や批判の視点が強烈だと思わざるを得ない、こんな文脈で評価したくなる大傑作。大前提として、両大傑作が「諸行無常」、「もののあはれ」の超達観の視座を共有している事実を踏まえた先に、『風の谷のナウシカ』が「生きねば」ならば、『進撃の巨人』からはさしずめ「自覚せねば」といった、より本質的な色の違いを見出せる。

 

▼2021年5月1日

【僕はコミュニズムが揚げた理想というのは、やっぱり現実の社会主義が上手くいってなくても、要するに人間はより高くありたいとかより高貴でありたいっていう、人から屈辱を受けたくないとか、そういうことでね、その価値は少しも消えてないと思うんです】(※宮崎駿botより)。
 上記引用の宮崎駿の言説は決して、安直な社会主義への否定でもなければ、同時に決して肯定でもなく、むしろホッブス的な自然権への言及という意味では極めて現実主義的な、人類の自律性の尊厳に対する洞察なんであり、こういった宮崎駿の苦悩の極限に於ける独自の思想には、もはや左も右も全く関係無い。本当に天才。
 例えば、「人は皆、いずれは死ぬ」程度は誰だって分かるし恐れもしない。だが「人は死に時を選べなくても、死に様は選べる」とか「人は他者の都合による、不本意な死に方、殺され方を嫌い、恐れる」というホッブスの自然権への洞察は、人類愛の普遍性に最も誠実な言及の一つだと思うし、宮崎駿の思想の核もこれと同じ。
 で、更にそれは『進撃の巨人』も同じで、特に「進撃の巨人」の未来予知の能力(?)なんかは、ホッブスの「将来を予見する理性」への言及が元ネタかと勘ぐらされるくらいで、とかく、人類の半分以上を踏み潰した終末の物語を、あたかもハッピーエンドの如く皮肉たっぷりに演出した諫山創先生は宮崎駿級に天才だと、私宮尾は思っている。