『水星の魔女』(第0~7話) +論考:脚本に於ける“暗黒時代”のモチーフと類稀なる達観について | 真田大豆の駄文置き場だわんにゃんがうがおおおぉ!!!

真田大豆の駄文置き場だわんにゃんがうがおおおぉ!!!

真田大豆が極めて不正確で面倒くさい独り言をひたすら綴り、ややもすれば自ら恥を晒していくブログだにゃんわん!話半分に読んでね!

▼2022年10月29日

↓『水星の魔女』第0話「プロローグ」の冒頭5分

※本稿の参考文献:E.H.カー著『危機の20年』岩波文庫

※『水星の魔女』各話への感想は、本稿より下部と以下リンク先のエントリで分割して述べた。↓↓↓

●序文
 『水星の魔女』第0話「プロローグ」から第4話「みえない地雷」まで鑑賞し終えた時点で、私山田は以下に、同TVアニメシリーズで今後も更に露出度を増しながら描かれ続けるであろう、いわゆる“暗黒時代”ならではの過酷で暗澹とした風土性と、これに対して人類が種の存亡を掛けて抗うといった、いわば“生き地獄”、この極めて達観された脚本の“リアリズム”的な視点とモチーフについての、半ば断定的な所見を述べる。


●本稿に於ける“暗黒時代”の語義

 だが本題の前に、そもそもここで述べる“暗黒時代”とは、宮崎駿が1986年11月に一橋大学での公演で述べたところの、曰く「歴史を遡れば、どんなに下らない“暗黒時代”でも人間は生きていて、なら彼らが皆常に暗い顔をしていたかといえば必ずしもそうではなく、その瞬間には喜んだり、可愛い女の子を見てドキドキしたりしながら生きている。名を上げたり特別な事をしなくても、充実した人生を送れる。それが人間の生き方だ」という文脈に準じた語義として理解して頂きたい。

※以下動画の25:10~参照。

 つまり、『水星の魔女』の舞台である未来の文明模様とは、とりもなおさずそういった“下らない暗黒時代”という宮崎駿ならではの人類史への捉え方にも充分に通ずる、極めて悲観的でありながら同時に慈悲に満ちた未来予想の眼差しを基礎としていると、私山田は解釈している。

 又そこには、私山田が『水星の魔女』への今後の評価に関して、かつて高畑勲と宮崎駿、この“リアリズムとリベラリズム”の相互依存的な葛藤と達観では他の追随を許さない2大豪傑らが意気投合できたそもそもの創作方針としての「世界を総体的に捕まえる。克明なディテールを含めて全体像を捉える」を、実質的に継承するレベルの超絶大傑作にも化けかねないといった尋常ならぬ期待も含まれている。

 因みにその“相互依存的な達観”とは、E.H.カー著『危機の20年』第1部の2節「理論と現実」に於ける文脈で述べられたそれとして理解して頂きたい。つまり、私山田にとっての宮崎駿とは、まず彼の豊富な教養と戦争体験との葛藤が創作意欲の素地としてありつつ、更に“決定論の不毛さ”を“無垢な理想”で突破せんと、膨大な止揚を重ね、抗い続け、“恍惚と不安”を繰り返す、いわばリアリズムとリベラリズムの思想的な共存を超絶的な次元で極めた、もはや奇跡レベルの大天才である。

 が、そもそも仮に“ガンダム”という往年のSFアニメシリーズも、そういった重厚な制作思想を永く牽引してきた例の一つに漏れないのだとすれば、これは私山田の無知を恥じる他ない。改めて強調するが、私山田は超がつく程のガンダム“にわか”で、且つ大の宮崎駿ファンなので、本稿に於ける『水星の魔女』への評価の姿勢も、かなりぎこちないものとならざるを得ない事を御了承願う。

※因みに私山田の宮崎駿・評に関しては以下2つのエントリを参照。

 

 

●本稿に於ける“リアリズム”の語義
 又、本稿で述べる“リアリズム”の語義は、国際政治学に於けるリアリズムとリベラリズムとの2大潮流の内の前者に沿う。
 尚、国際政治学上の2大潮流について簡単に整理すると、まずリアリズムとは、より現実主義的な洞察、分析に基づく政経理論、外交戦略を提示する立場であり、対するリベラリズムとは、より理想主義的な洞察、分析に基づく政経理論、外交戦略を提示する立場だ。
 例えば、金融資本主義に於ける過度な自由競争の為の規制緩和によって、各国固有の版図に規定された経済発展度や産業構造の多元性を度外視し、これらを画一的に連結する事によって、より能率的な富の拡大と、世界的な資本の共有による戦争の抑止効果が見込めると信じて疑わなかった、いわゆるグローバリズムは、正にリベラリズムの典型例で、しかしこれが結果的にはボーダレスな多国籍資本への富の集中だけに寄与する一方で、人類全体の富をむしろ縮小させ、金融恐慌、ひいては世界大戦まで招く程の失敗に終る。第一次世界大戦、ロシアのウクライナ侵攻もその例に漏れない。尚、旧ソ連が崩壊し米ソ冷戦が終結した直後からアメリカのリベラリズムに基づくいわゆるNATOの東方拡大戦略こそがロシアのウクライナ侵攻を招いたと批判する立場は、国際政治学上のリアリストだ。
 又、かつて湾岸戦争でフセイン政権の打倒を是としなかった父ブッシュ大統領は仮にそれを成した場合のイラク、及び中東周辺諸国間のパワーバランスの崩壊によるリスクを洞察できていた事からリアリズムの系譜に位置付けられ、これに対し、かつてイラク戦争でフセイン政権を打倒したブッシュ大統領は、これによる中東社会、ひいては国際社会への更なるリスクの増大を過小評価し、その後のアフガン駐留の泥沼化やISIS等テロリズムの増長を招いた事からリベラリズムの系譜に位置付けられる。又、いわゆる“アラブの春”に象徴される中東諸国の民主化運動は、全世界を近代西欧型の民主主義的な統治秩序で一色に覆わんとする理想を実現可能だと信じて疑わないリベラリズムの系譜で位置付けられるが、これは周知のとおり、かつてISISの躍進ばかりか、シリア危機とこれを発端とするEU諸国への大量の戦争難民を輩出するに至り、つまり失敗した。
 そこで分かるとおり、国際政治学上のリアリズムとリベラリズムとは、現実主義か理想主義かの違いを問う思想傾向の分類であるため、従って米合衆国一国内はおろか、この保守政党単独の内部ですら、この対立構図を常に何らかの形で認められるものであり、或いは、米合衆国だけに限らず、極論すれば旧ソ連や現在の北朝鮮の独裁体制に於いてすらも、リアリストとリベラリストとの対立構図が見出せる(※E.H.カー著『危機の20年』岩波文庫の第2章3節P51の見解を参照)。つまり、そんな国際政治学上の2大潮流という観点は、かつての米ソ冷戦構造に於けるイデオロギー闘争の構図よりも遥かに古く、根が深く、より遍在性の高い洞察の手掛かりとも言える。従って、少なくともそこでは、いわゆる“リベラリズム≒左翼思想≒マルクス主義”とか、逆に“保守≒右翼思想≒愛国主義”みたいな連想ゲームを基礎とする視野狭窄は全く通用せず、門前払いを喰らう。つまり、国際政治の実態としては、たとえ米合衆国の保守勢力に於いてもリベラルな理想主義者が存在するし、又逆に、たとえ旧ソ連や北朝鮮や中共独裁体制に於いてもリベラルと対立するリアリストが存在するという、至極当然でより誠実な洞察の観点に過ぎない。
 では何故、そもそもそんな至極当然な観点が国際政治学上で重要なテーマと成り得るのか?それは、国際社会を構成する世界各国がそれぞれ自国の利益を追求する、この至極当然の志向性を帯びつつ交渉に臨む際に、現実を直視できずに根拠の乏しい理想に傾き、冷静な判断力を欠いてしまう程、自滅的に不利益を招く様になるといった、至極明快な防衛戦略上の教訓があるからだ。これを逆に言い換えれば、交渉相手のリベラルな部分、つまりロマン主義的な美辞麗句に惑わされ易い派閥、宗教、世論傾向等を誘導し増長させる政治工作を仕込めば、この弱体化を見込め、交渉をより有利に進められる。ならばいっそ、リアリズムの奨励とリベラリズムの排除とを同時に徹底すれば無敵の外交力、ひいては国益の最大化が見込めるのかといえば、必ずしもそう単純な話であろう筈もなく、何故なら、そもそも人類は死後の未知への不安まで自意識を肥大させてしまった生物で、従って有形、無形、いずれの価値観も欠く事のできない面倒臭い存在だから、つまり時には非合理的だとか損だとか分かった上でも理想や宗教や娯楽文化や破滅的な女遊び等にも逃避したり依存したくなってしまう訳で、こういった“内心の自由”も含む人権を基礎とする国益を保障すべく主権を付託、信任された国家という統治機構は、必然的にリアリズムだけでなくリベラリズムも共に許容せざるを得なくなり、少なくともリベラリズムの徹底排除は人類が人類である限り不可能なのだ(※『危機の20年』p111、現実と理論との相違を哲学的な観点から取り組んだアーサー・バルフォアの結論として引用された箇所を参照あれ。A.J.Balfour,Foundations of Belief,p.27. ※同著p182、「政治を無限の過程と考えることは(略)人間の頭脳には理解できないものであるようにみえる」、又p190「政治的思考はユートピアとリアリティ双方の諸要素に基礎付けられなければならない」等の洞察に富んだ見解を含む、第2部、第6章“リアリズムの限界”を参照あれ)
 果たして、人類は人類ゆえの限界として、リアリズムとリベラリズムとの狭間で性懲りもなく葛藤する事を余儀なくされ、先述の様に愚かな理想主義による国際政治上の失敗も繰り返す。

 ひいては、そういった洞察の観点こそが『水星の魔女』に於ける“暗黒時代”を構築せしめた脚本制作陣の博学の基礎としても、かなりの存在感を放っていたのではないかという私山田の推測の下、以下の本題に入る。

 

●本題1:『水星の魔女』に於ける“暗黒時代”を基礎付けるリアリズムとリベラリズムの対立構図
 さて、『水星の魔女』で描かれる未来像は、国家が企業に取って代わられた統治秩序、ひいては風土性や伝統性等の非関税障壁を破壊して文化の画一化を断行する金融資本主義の理想と、片やこれによって貧富の格差が極限まで肥大した暗澹たる現実との乖離、こういった、いわゆるユートピア思想を捨て切れない人類の限界を客観視させる、極めて達観したリアリズムの視点、この悲観や風刺に基づいて構築されていると、私山田は解釈する。
 というのも、まずは『水星の魔女』第0話「プロローグ」から頻出する“企業行政執行法”は、実際のいわゆる“GAFA”の延長として、国際社会の軍事バランスを牛耳るまで、既存の国家機構に圧倒して拡大した新たな国際&宇宙政治のプレイヤーたる“企業”、これによって既にこの未来の人類社会が分割統治されているという全体像を象徴する。尚、ベネリットグループの監査組織カテドラル、この実力組織による冷酷な“行政執行”とは、金融資本の自由競争こそが人類の富の繁栄を最も自然且つ能率良く達成できると信じて疑わない、実際に於けるリベラリズムの理想主義的な欺瞞を端的に象徴する。つまり、自由競争の原理“だけ”で運営される架空の未来の企業統治の秩序とは、これが能率だけをひたすら追求するがあまり、利益追求主体の立場、組織形成、風土性、伝統性、・・・等に於ける多様性、このいわば“短期的な非合理性”を過度に排除する傾向にあり、この結果、より長期的な文明の営みに必要不可欠な、例えば地球や宇宙の生存圏に於ける気候変動等の不確実性に対処できる適応力、この“長期的な合理性”をむしろ脆弱化させる。その資本集中、企業体の肥大、貧富の格差の拡大等の過度な先鋭化は、長期的には人類の富や繁栄をかえって損ね、文明全体としての経済規模も縮小させ、この総じて貧困の深刻化こそが新たな世界大戦級の戦争勃発、及び戦時経済の投資特需による救国(救・企業)合戦を煽り、極めて不寛容で殺伐とした国際宇宙秩序をひたすらに増長させる。
 そういった理想と現実の乖離を補い切れない人類ゆえの限界によって、ベネリットグループはガンドフォーマットの接収、規制、独占開発、これによる企業の軍事的な非対称性と経済的な覇権の維持に固執し続けざるを得ない。
 尚、今後の物語の展開では、おそらくベネリットグループ傘下の企業同士の内紛や、同グループ以外のMS開発競合企業グループとの全面戦争等が予想される。それは、現にベネリットグループ傘下の学園コロニーにスペーシアンとアーシアン両方の学寮が併設されている事からも分かる様に、必ずしもスペーシアンvsアーシアンといった単純な対立構図で展開するとは限らず、むしろ更に多彩な数の企業グループ同士による群雄割拠と、且つスペーシアンvsアーシアンの相互差別的な因縁とが混在し入り乱れる様相で推移するだろうと、私山田は予測する。
 いずれにしても、そんな“暗黒時代”に振回されざるを得なくなるだろう、主人公を含む若者世代の主要キャラ達の今後の運命に於ける不本意な友情の破滅、裏切り、死別等の悲壮を極めるエピソードの数々も予想される。それは既に第4話「みえない地雷」に於いてすら、チュチュの暴力こそが友情の麗しさだけに留まらず、企業文化の縮図、下積みの訓練所然とした学園生活での人脈構築サバイバルには必要不可欠な“したたかさ”の一つに他ならなかったと描写された、この“暗黒時代”ならではの風土性の過酷さを、更に幾倍も上回る衝撃で押し寄せてくるだろう(願望)!
 つまり『水星の魔女』で描かれる未来、宇宙SFの世界観の本質とは、実際の視聴者が生きるグローバリズムにほぼ支配された現実と地続きの、いわば“生き地獄”である。
 その極限状態に於いては、もはや大人の都合で操られる子供のままで留まるか否かといった、このシリーズ序盤で描かれたテーマから遥かに進展したところの、現実的に冷静な判断で振舞えるか(リアリズム;ミオリネ)、或いは理想に傾いた心の隙をつかれるか(リベラリズム;スレッタ)、といった葛藤を迫る運命の分岐点が幾度にも渡って全面的に押し出され物語られるのではないかと、私山田は期待する。それは度々の引用で恐縮だが、宮崎駿が『アーヤと魔女』の興行に寄せた「したたかに生きねば」にも通ずる、極めて残酷な現実への直視を迫るテーマ性の昇華に他ならない。

 ところで余談だが、以上の論点に従えば、宮崎駿の作品の思想性から、俗に“説教臭い”だとか“リベラルだ、マルクス主義だ”等と難癖を投げ掛ける愚行は、幾らか慎まざるを得なくなるだろう。とりわけ、仮にその“説教臭い”という偏見に“古臭い”とか“時代遅れ”みたいなニュアンスが潜むのなら、この偏見自身こそが、現下ウクライナ侵攻や台湾有事が危惧される情勢等から人類平和の維持の困難さを読み取る事も、向き合う事もできていない知性の不感症、正に“時代遅れ”そのものなのだ。又、上述の様に、宮崎駿はマルクス主義はおろか、リベラリスト以前に徹底したリアリストの顔を持つ。それは、『カリオストロの城』『紅の豚』『風立ちぬ』そして『風の谷のナウシカ』の原作漫画等に於ける、極めて周到に描かれた軍事バランスによるマクロな世界観の樹立、あれをジブリ専属の脚本家や各専門分野のアドバイザー等を雇ったり、制作協力を仰ぐこともせず、ほぼ独学で、彼自ら描き上げてきたという途方もない実績の数々によって一目瞭然となる。要は、宮崎駿の作品に込められた思想性とは、常に現実と理想との葛藤が常人の考え及ばない次元で煮詰められ、難産された普遍性に沿っているので、従って、常に新しいし、同時に古いが、決して腐らない、強靭な古さを誇る。余談が過ぎたが、つまるところ、そんな宮崎駿の創作スタイルに極めて稀なレベルで比肩するところを、私山田は『水星の魔女』の脚本から読み取らざるを得なかったし、よってこの実質的な“継承”を目の当たりにできている幸運に対して、独断的に狂喜乱舞しているという話である。
※以下動画3:55~参照。

 

●本題2:『水星の魔女』に於ける“魔女”と“カテドラル”とで構成される物語のモチーフ

 又、『水星の魔女』に於ける“魔女”と“カテドラル”とで構成される、実際の中世史のアリズムとリベラリズムの対立構図からのモチーフも、この脚本家の達観や創意工夫の抜かりなさを感じさせる。

 というのも、“魔女”とは西欧の産業革命以前に、当時の支配階級だったキリスト教の伝統性から隔絶した被支配層の一部で営まれた“自然魔術”の従事者を指し、同時にこれは後にいわゆる“自然科学”の源流の一部も成す、正に中世当時の“リアリスト”として位置付けられるし、又一方の“カテドラル”とは“司教”“聖堂”等のキリスト教的な権威のニュアンスを包摂するので、これが“魔女”と並べば必然と“異端審問”や“魔女狩り”等、不穏な対立構図を醸し、且つ、西欧中世の当時に支配的だった精神的な紐帯たる宗教的な理想主義、つまりは“リベラリスト”として位置付けられる。その時代を超越する普遍的なモチーフからは、一見ミクロな視点で見れば、ガンドという革新技術に夢を託そうとするオックスアース社のカルドばあばこそがむしろ理想主義の様で、又一方でこれを制圧し軍事的な指導力に長けるカテドラル統括官のデリングこそがむしろ現実主義の様にも見て取れるが、しかしこれをよりマクロな視点で省察すれば、その解釈は逆転し、すなわち、かつての自然科学的なアプローチに長けていた“魔女”の如きカルドばあばの現実主義と、又かつての宗教的なイデオロギーで支配層を指導していた“カテドラル”の座位の如きデリングの理想主義といった風にも捉え直す事ができ、つまり、両者それぞれにリアリストとリベラリストの両側面を見出し得るという相対化が可能なのであり、従ってそれぞれの立場に於ける思想的な欺瞞に対する皮肉だけに留まらない、リアリズムとリベラリズムとの相互依存的な混沌で捉えられる、こういった人類社会の全体像への風刺、この達観を、“魔女”と“カテドラル”とによるモチーフは強烈に効かせているのではないかと、私山田は解釈し、これを仕込んだ脚本家の叡智に感嘆するものである。

 『水星の魔女』脚本・シリーズ構成を担当される大河内一楼氏のwikiで同氏が過去に携わった作品リストに『コードギアス 反逆のルルーシュ』を確認。従って、私山田の期待は膨らむ一方である。

 

※以下は、私鏑木の『危機の20年』通読に際する引用メモ。

●p208「『大国の独裁』というのは、国際政治における『自然法』のようなものを構成する紛れもない一つの事実なのである」。

●p218「対外政策への民主的統制が抱える最も重大な問題は、どんな政府にも、自国軍事力に関する詳細かつあからさまな情報や、他国軍事力に関する知識すべてを明らかにする余裕などは、とうていありえないということである。(略)年報『国際問題概観』のような、極めて重要でなおかつ多くの面で称賛に値する出版物でさえも、それがいったん政策批判に乗り出すや、しばしば想像の世界へと舞い上がってしまう。なぜならこうした出版物は、実際に対外政策の問題を解決しなければならない人たちがいつも心にとめる、あの軍事的制約条件を無視してしまうからである」。

●p222「国家の団結・独立という形でその最初の目的を達成したナショナリズムは、ほとんど自動的に帝国主義へと向かっていく」。

●p227「19世紀後期の帝国主義は政治的武器を使った経済運動とみなすべきか、それとも経済的武器を使った政治運動とみなすべきかということが、いまだに議論されている。(略)『戦争遂行の基礎は、主として諸国民の経済生活全般である』」。

●p256「経済力が軍事力から切り離されることはありえないし、軍事力も経済力から分離されることはない。双方とも政治権力の不可欠の部分である。結局のところ、一方は他方なくしては始まらないのである」。

●p258「民主主義国は大衆の意見に従うということになっている。全体主義国は、ある基準を定めてそれへの服従を強制する。しかしこの際立った相違は、実際にはそれほどはっきりしたものではない」。

●p259「大衆の意見に対する民主主義国の態度と全体主義国家の態度との間に横たわる相違の基盤は、依然として存在する。そしてこの大衆の意見こそ、危機の時代には決定的な要素となるだろう。しかしこれら2つの体制とも、大衆の意見が最も重要なのだということについては、一致しているのである」。

●p260「意見の大量生産は、商品の大量生産の帰結なのである」。

●p261「問題はもはや、人々がみずからの意見を表明する政治的自由をもっているかどうかではない。問題は、意見表明の自由というものが、多くの人々にとっては無数の宣伝形態――これらはあれやこれやの既得権益の命ずるところによって決められる――の威力に左右されること以外に何か意味を持っているのかどうか、ということである」。

●p262「意見の国有化は、いたるところで産業の国有化と同じ歩調で進んでいるのである」。

 

▼2022年11月26日

 『水星の魔女』第7話「シャル・ウィ・ガンダム?」

 捨て駒エランとの決闘での決着の間際に起きたMS同士の“混線”が証拠となって、ペイル社にエアリアルが“ガンダム”だとばれる。スレッタは、一時消息を絶ったエランとの再会を期待してインキュベーション・パーティーに赴くが、ここでホルダーとして登壇を迫られた衆目の中、そのカテドラル協定違反たる“ガンダム”隠匿の嫌疑を掛けられる。これは、そもそも捨て駒エランが搭乗したペイル社製MSも又“ガンダム”だったと既に気付いていたジェターク、グラスレー両社のCEO達が結託して図った裏工作であり、この目的は、カテドラル統括官にしてベネリットグループ総裁たるデリングの“ガンダム”禁忌を巡る不正、及び“裏取引”を公けに晒し、彼を総裁の地位から失脚させる為だった。

 尚、その“裏取引”については私鏑木の勝手な憶測に過ぎず、この根拠は、第0話「プロローグ」でカテドラル側のMSがオックス・アース社のルブリスを機能停止に追い込んだものと同じ技術が、エラン戦に於けるエアリアルに搭載されていた(様にも見えた)事から、従って、これを製造したプロスペラ、及びシン・セー開発公社は、極秘にデリングの陰謀と裏で繋がっていたのではないか、つまりプロスペラの目的は「プロローグ」の企業行政執行に対する復讐とは又別の何かを動機としているのではないか、ひいては第7話に於いて、ミオリネが敢行した(株)ガンダムのTOB、及びカテドラル協定違反で多大な損益を出したペイル社技術部門のM&A買収統合と、匿名融資によるベネリットグループとカテドラル協定のしがらみからの脱却等、これら全てが、結局のところプロスペラとデリングの共謀で想定内の流れだったのではないかといった、私鏑木の漠然とした憶測だ。
 仮にそうだった場合、第7話のミオリネは、8:40~の狡猾なプロスペラの口車にまんまと乗せられた、どこまでも“操り人形”だ。又、これについて当の父親としてのデリングの真意はどこにあるのか。20:30~、デリング「お前が考えている以上にガンダムの呪いは重い」には、娘を励ます父親としての情けを覆す様な、冷酷や非情が秘められていない事を、私鏑木は一介のアニメ鑑賞者として切に願うばかりだ(大嘘)。
 又、憶測に憶測を重ね過ぎても仕方ないが、そんなプロスペラとデリングとの共謀関係にも際どい騙し合いの側面が伴っていないとは、まず考え辛い。そう思わせるのは第7話までの脚本の構成力も去る事ながら、プロスペラ声優の能登さまの名演だ。笑いを誘うユーモアとシリアスを直感させる知性とが混在する、もはやありゃ天性。
 無様を承知しながら最後の憶測として、ならばプロスペラとデリングが何に利害一致を見出して共謀に及び得るのかについては、宇宙規模まで肥大し過ぎた軍事企業の金融資本による統治秩序の解体と、地球の個々の風土性に根ざす、より多元的で自主独立的な国民経済圏の解放による国際秩序の再構築、このいわば未来版ヴェストファーレン条約体制の樹立を達成する為に、例えば、宇宙開発技術の全てを一網打尽に葬り去る(※いわゆる“コロニー落とし”)超核爆弾級の破壊力を持つ、自滅戦略特化型のMSの独占開発、及び時限的な運用、これらを秘密裏に進める為の隠れ蓑として、ベネリットグループの停滞した投資マインドに風穴を開けて誘い込み、利用できるだけ利用する。おそらく地球居住区では、グローバル金融経済の成れの果てでは必至のマフィア経済が横行しているだろうから、ここからの資金洗浄も、毒をもって毒を制すの要領で、利用できるだけ利用する。以上の陰謀に於いては、ベネリットグループ総裁デリングの娘という名声ばかりでなく、アーシアンとの人脈構築に積極的でもあるミオリネの気性や知性がモノを言う、という利用価値がプロスペラには極めて魅力的に映ったのではないかと、ここまでの私鏑木のてきとーな憶測の根拠は、第5話10:10~、ハンガーでスレッタの到着を待つ捨て駒エランが読んでいた本が『意志と表象としての世界』だった点にある。つまり『水星の魔女』の脚本は、少なくとも金融資本のラディカルな側面が人類平和にとって弊害であると、このショーペンハウアー的なプラグマティズムの系譜を踏まえて物語を構築しているだろうと、この様に私鏑木は見受けた上で、上記のてきとーな憶測を労した訳だ。
 しかし、仮にそんな陰謀を進める上で最も大きな障害となるのが、他でもないスレッタだ。
 彼女は幼少からエアリアルを家族として慕い、ガンダムではないと信じ込まされていたが、これが母親の大嘘だったと分かり、まずもって母親不信に陥る(?)。これだけに留まらず、スレッタは更に、(株)ガンダムを隠れ蓑に開発が進められ、遂に運用が開始された超ど級の自滅戦略特化型MSの特攻自爆作戦の援護要因として、エアリアルへの搭乗を命じられるも、このいわゆる“聖戦”の大義の冷酷さや欺瞞も全て清濁併せ呑む事ができず、むしろこんな“大人の馬鹿騒ぎ”に自分の人生やエアリアルがいいように利用される事に我慢がならず、果たして彼女は人間不信に陥る。一方で、かつての(株)ガンダムの躍進を皮切りに、カテドラル協定の“ガンダム”禁忌は徐々に形骸化を強め、これに伴いベネリットグループは崩壊し、代わりに若年の役員がCEOを務める新興企業同士の新たな分割統治、及び軍拡競争、そしてやがては戦時経済情勢が極限を向かえ、この様に分散化した資本が互いに消耗し弱体化していくという、当初のプロスペラとデリングの共謀のお膳立てが着実に実現されていた。スレッタは宇宙開発の未来を信じる自らの理想を掛けて、エアリアルと共に、その泥沼の戦場に“不殺”の一騎当千を仕掛ける。しかしこれ叶わず返り討ちにあって捕虜にされ、陵辱の限りを受けて、理想の全てを打ち砕かれる。…という自暴自棄をミオリネが未然に阻止し、スレッタの尊厳が守られた代わりに宇宙開発技術は壊滅し、ミオリネ、スレッタを含む人類は地球文明へと回帰するのだった。
 以上、ここまであーだこーだと無駄に先読みしたくなる程大好きですよ『水星の魔女』、今後の展開が待ち遠しくて死にそう!!!

▼2022年11月14日

 『水星の魔女』第0話「プロローグ」と第1話の間を繋ぐ、アニメ化されていない物語。

 同作の脚本家による原作小説『ゆりかごの星』を主人公スレッタの声優が朗読。

▼2022年11月13日

 『水星の魔女』Blu-ray、私山田は当然予約購入する。
 空想の未来、宇宙開発、巨大ロボを題材にしながら、実際の過酷な現実と地続きの暗黒時代を描き、且つ生きる人々のリアリズムとリベラリズムの相互依存的な葛藤まで表現しようとする野心に溢れた超大傑作の円盤を購入しない選択肢など、私山田には有り得ない。
 尚、『水星の魔女』が果たしてガンダムである必然性が有るか否かを問う発想も、私山田には微塵も無い。何故なら『水星の魔女』の野心的で且つ普遍的な表現テーマが“ガンダム”を題材とする程度の事で決定的な障害を被る懸念など皆無だからだ。
 むしろガンダムという題材は、たとえ往年の“ニュータイプ論”を、若者世代を惑わす“呪縛”として位置付け直し、これを全否定する様な大改編が施されたとしても、そもそもの若者世代の足元の事情に寄り添って語り掛けるという、より根本的な表現のスタンスの強烈な拠り所足り得、且つ巨大ロボ兵器を軸とする宇宙文明の軍事経済という一種のロマンを包む舞台装置として、鑑賞者の特に若者層に対して強烈なインパクトを与えるテコの効果が充分過ぎる程に見込める。又、『水星の魔女』の極めて挑戦的な“未来を切り開く”表現テーマはOP主題歌『祝福』にもある通り、若者や人類の自律性に対してだけでなく、“ガンダム”という文化資産自身が新しく切り開く未来に対してもメタ的に掛けられていると解釈すれば、『水星の魔女』が敢えてガンダムでなければならない必然性すら見えてくる。
 少なくとも、そういった私山田独自の見解に基づく限りの話、『水星の魔女』ほど抜かりなく、完成度に優れた脚本、及びTVアニメ企画は、ここ数十年を遡っても類例が見付からない。
 『水星の魔女』Blu-rayを買う気満々て話です(笑)。

▼2022年11月11日

 駄目だー、Netflix配信とTV放送とのタイムラグが生む『水星の魔女』のネタバレの誘惑に勝てない!
 ちらほら見かける限りじゃ『水星の魔女』にいわゆる“オカルト”嫌疑が掛けられ始めてるようだが、これは「プロローグ」からアナウンス済みの“身体拡張技術”をキーワードに払拭される。
 早く観たいよぉ!!!
 未だ第6話を観てないから何とも言えないが、おそらくそれは今、巷で言われてる様な“エヴァのパクり”というよりは、劇場版パトレイバー2や攻殻機動隊等の押井守的な巨大ロボ及び“義体”の設定の元ネタでもあった、実在の“身体拡張技術”からのSF的な応用と評価する方が妥当と考えられる。知らんけど!!!
 そいや『劇場版パトレイバー3』のアレもある意味、おそらくエアリアルの秘密と印象が幾らか被るのかな?あぁ、おぞましい、おぞましいぃ(ぐへへ)!!!

 『水星の魔女』第6話「鬱陶しい歌」!

 エランとスレッタの決闘。
 エランがスレッタに興味を持った理由は、彼女が彼と同類の強化人士としてこの境遇を理解し合える相手なのではと期待したからで、従って、エアリアルに試乗した時点でスレッタが強化人士ではないと確認できた途端、彼女に対するエランの興味は失われ、尚も思惑が食い違ったまま一方的な恋心を寄せてくる彼女は、むしろ只々“鬱陶しい”狸でしかなかった。
 そもそもこれまでエランだと思われていた彼は、実はオリジナルのエランの顔を模した別人で、ベネリットグループ傘下のペイル・テクノロジーズで製造された“ガンダム”の戦闘データを収集する企業利益の為に強化人士として身体を弄くられた“捨て駒”だった。果たして、エランを模した“捨て駒”が公けに露見したらまずくなる法的な理由でもあるのか、彼はスレッタとの決闘に敗れた時点で、強化人士としての利用価値を喪失したばかりか、焼却処分まで余儀なくされてしまった(?)。
 又、冒頭のプロスペラ「あのパイロットは何人目?」から、“捨て駒”はスレッタが想いを寄せた彼以外にも複数人存在してきたし、今後も強化人士の使命が充分に果たされるまで、再供給と焼却が繰り返えされると推測できる。
 又、スレッタが耳で、エランが目でそれぞれ感じ取った、エアリアルのガンビットに宿されたか如き声と姿の主こそは、おそらくプロスペラがベルメリアよりも先行してガンドフォーマットの“呪い”を解くに至るまで幾度も繰り返し犠牲にしてきた、彼女の“娘”達ではなかったか?調度、エランを模した“捨て駒”達の様に。
 以上の点を思い巡らせる第6話だった。
 あと、6:15~、「負けたら?」「破産」らしいが、仮にそうなった場合の彼らは学費を払えず退学?別にスレッタに対する彼らの信頼や絆を金勘定だけで量る訳じゃないにしても、或いは推進ユニットの急ごしらえで大赤字を背負い込んだ彼らは、後の進路や人生も半ば度外視する大博打に出ていたのではなかいかと想像が膨らみ、故に気になって仕方ない部分。
 2:50~、チュチュの美脚。
 5:35~、チュチュのM字開脚スパッツ。
 19:08~、決闘に敗れて放心のエラン。彼への愛が特殊効果でふんだんに表された美し過ぎるカット。グッときた!!!
 続きが気になる『水星の魔女』!!!

▼2022年11月4日

 『水星の魔女』第5話「氷の瞳に映るのは」

 スレッタだけじゃなくミオリネもアーシアン寮に仲良く馴染んでたので、安心した!
 又、グエルのスレッタに対する一連の立ち回り方も愛し過ぎるし、このアニメ、絵に描いた様なツンデレが多いな、アニメなだけに(笑)!だがそこが良い(歓喜)!!!

 スレッタはめでたく、ミオリネという有能且つ七光のスペーシアンだけでなく、アーシアン寮の生徒らとの絆にも恵まれた訳だが、欲を言えば、“御三家”周り以外の中流・底辺層のスペーシアンからも魅力的な主要キャラが登場してくれたら嬉しいな。
 ところで私山田の記憶が間違ってなければ、今回で初めて、スレッタとプロスペラ(母)との会話シーン(※電話越し)が描かれたので、ちょっと安心(※正しくは、既に第3話「グエルのプライド」3:30~スレッタとプロスペラとの電話越しの会話シーンがありました「お母さん、スレッタを魔女に育てた覚えは無いんだけどなぁ」)。
 おまけにスレッタが占ってもらうシーンで、彼女に兄弟がいない事と、父親が「小さい頃に死んじゃったと聞」かされている事を確認。
 尚、占ってくれたアリヤが「父親が見えない」に続き「これは何だろう」と訝った石が暗示した存在とは、次の「誕生日ちゃんと聞いて来るんだぞ」に沿って解釈すればエランだろうが、或いは・・・?
 というのも、まず今回初登場した概念“強化人士”、これにスレッタが該当するか否かを確認する為にエアリアルを試乗したエランの「これはガンドフォーマット、いや、(略)ならば、呪いをクリアしているのは・・・(13:20~)」から分かるとおり、スレッタは強化人士に該当せず、且つエアリアルにガンドフォーマットが搭載されていないというプロスペラの主張(第2話)も事実で、代わりにエアリアルこそがその“呪い”をクリアし、つまり“強化”に相当する別の何かが施されている事が確認されたが、翻って、エランと同様、パーメット流入時に肌の模様が光っていた第0話「プロローグ」のエリィは強化人士だった訳で、従ってスレッタとエリィとが同一人物でない可能性が露骨に示されたと理解でき、ここから更に転じて、スレッタが占いの時に誕生日を知らないと語った人物は必ずしもエランとは断定し切れず、若しくは5:15~「ここにいない人も占えますか?」が示すとおり、整備ハンガーの直ぐ傍にいたエアリアルとは別の、且つ彼女にとって母親の次に関心が向けられる相手とは正にエリィで、何故ならプロスペラはスレッタにエリィの存在について曖昧に伏せたままで、よって彼女は予てから気になっていたから…といった邪推が私山田の頭で巡ってる。仮にそれが当たっていた場合、エリィは未だどこかで生きている可能性も高くなるし、且つ“エリィ”と“エアリアル”の語感が近似してるってだけのコジツケな推測が妙な説得力を帯び始め、つまりエリィは…((゚゚дд゚゚ ))
 いずれにせよ私山田は、画面も演出も脚本も劇伴も全てが贅沢な『水星の魔女』の没入感に一喜一憂させられっ放しだぁ!!!

▼2022年10月28日

 『水星の魔女』第4話「みえない地雷」N(略)!

 そうか、主人公スレッタはスペーシアンに分類されるのか!というのも、確かに彼女は水星の生まれ育ちだが、第0話「プロローグ」でオックスアース社に所属のウェンディがアーシアンっぽかった事から、そのアイデンティティの根拠は生まれ育ちだけでなく、宇宙環境への遺伝的な適応を経た程度や代の数などによって半ば曖昧に規定されるもので、従ってスレッタも水星の生まれ育ちだが宇宙適応はそこそこなアーシアンなのではと、私山田は勘違いしていたのだが、実際の設定では単純に生まれ育ちだけで規定されるものであって、つまりウェンディに関しては、地球の生まれ育ちで水星のラボ勤務してたアーシアンって事のようだ。合点、合点。
 さて今回は学園ドラマの掘り下げが光った!
 おまけにオチが“再試験”、これはチュチュをもう1話分続けてフィーチャーしますよ的な?
 スレッタのコミュ障演技も相変わらず良い味出してる!
 私山田は、この“ガンダム”大好きだわー!!!

 ところで、その“学園ドラマ”の内実は単なるほんわか人間ドラマの域を優に超えており、これを表面上で和らげるアニメ的な演出とのギャップも相まって、私山田には極めて見応えのある脚本の業として映った!!!
 というのも、第4話に於けるチュチュとの和解という一旦の結末まで至らしめたそもそもの発端が何かについて遡れば、まずスレッタがコロニー着艦の際に偶然救助して知り合ったミオリネ、この園芸趣味を蹴散らしたグエルからの謝罪欲しさに決闘を申し込み、これに勝ってホルダーになった事で、ミオリネだけでなくグエルとの恋仲まで羨まれ、もはやこれ以上にないレベルの嫉妬の的になってしまった挙句、スペーシアンとアーシアン、双方の生徒らから田舎モノ、分不相応の玉の輿、或いは差別主義者などと疎外された結果、学校の実技試験ひとつすら合格できない前途への挫折を味わわされ、しかしここにきて、その嫉妬やアイデンティティの境界が生み出す偏見を同時に克服させる、言わば“アンフェアを心底嫌う若者ならではの愚直さ”こそがチュチュとスレッタとミオリネ、それぞれに共感され、彼女らを惹き合わせ、強靭な心の絆を新たに生んだ・・・、という流れで見渡せる。つまり、第4話の“学園ドラマ”には、まず階級文化の残酷さとアイデンティティ分断の悲壮さ、これらの重厚でシリアスな舞台設定が基礎として横たわっており、且つこれを若者ならではの素直さで突破するという、何とも大胆不敵なカタルシスでもって一旦の収束を魅せたって訳で、要は単純にこの宇宙未来SF面白過ぎ!!!
 件の“イオンモール迷子のディレクション”の逸話すら忘れさせる位、水星に学校を作るというスレッタの夢を応援するミオリネと、これに更なる援護射撃で男女平等顔面グーパン喰らわすチュチュとが見せた、友情カットの怒涛の流れにはグッと来た!!!尚も劇伴が良過ぎだし、もう完成度が高過ぎだよ、この学園アニメ(違)!!!
 『水星の魔女』の今後への期待値が右肩上がりだー!!!

 ところでネット某所で『水星の魔女』第0話「プロローグ」のエリィと第1話以降のスレッタとは同一人物ではない説を目にしてしまった(汗)。
 そういや第1話「魔女と花嫁」19:10~スレッタのセリフで「(エアリアルは)私とずっと一緒に育った私の家族なんです!」も解釈次第じゃ、必ずしもかつてのエリィと“ルブリス”との関係性を指すとは限らず、そう錯覚させてるかもしれない手掛かりは、あくまでCV能登と父親譲りの狸眉毛のみ。
 おまけに“エアリアル”“エリィ”
 ・・・
 ・・・


 ((゚゚дд゚゚ ))

▼2022年10月21日

 『水星の魔女』Netflixで一挙に4エピソード(※プロローグ~3話)まで配信開始してたから、早速第0話「プロローグ」観たけど、・・・
 ・・・
 ・・・
 なんじゃこりゃーーーーー!!!!
 おんもしれぇええええええ゛!!!!!

 先にことわっとくと、私山田はガンダムシリーズ、初代と種は第1話の冒頭数分のみ、Gレコンギスタは3話まで、閃光のハサウェイは冒頭のハイジャック阻止の数十分(?)、これ以外は全く観た事無いってレベルの超にわか。
 でも『水星の魔女』はレビューしたくなるほど、まず第0話は凄く楽しめた!
 まず脚本が良い!

 『地球外少年少女』も思い出させる、技術革新のジレンマを軸として地球人と地球外人とが利害、理念を衝突させる宇宙SFの世界観。

※その後、にわかなりにwikiで調べたら、独立国家概念に取って代わった“企業”とこのグループ傘下の“子会社”との対立だと分かった。又、生まれ育ちが宇宙で、人体の適応進化の代をかなり経た“スペーシアン”と、逆に生まれ育ちが地球で、或いは宇宙環境への適応を経た代が僅かな“アーシアン”という人類分断の構図もあるらしい。つまり、「プロローグ」の戦闘は、宇宙環境の適応力を拡張・支援するガンドフォーマットの開発を促進させたいアーシアン企業と、この技術革新の生命倫理違反を危惧し排除、或いは収奪しようとするスペーシアン・コングロマリットとの対立構図が背景だったようだ。※

 デリング「人類同士の殺し合いの“最低限の作法”を守る」論と、カルドばあば「ガンドは人類の未来を救う」論とが、技術革新の功罪どちらに信を置くかで正義をぶつけ合う。

 と、ガンダムに疎い私山田でもすんなり入ってける脚本の妙!その主軸が、主人公狸ちゃんのおそらく後の復讐劇の布石となる家族愛や、彼女だけ“生命倫理問題に抵触する兵器システム”にケロッとしてる謎や、又、母の困惑を尻目に“人殺し”に手を染めてしまう衝撃エピソード等、魅力的な要素で贅沢に彩られていた!
 又、おそらく先述のデリングとカルドばあばの主張はそれぞれに欺瞞の側面もあって、これが後の利害、理念の衝突の構図を更に複雑にし、脚本をひねる余地も増大させ、つまり視聴者を飽きさせない、より刺激的な展開を約束するのだろう!!!
 次に劇伴が良い!

 まず音楽と画面の相性がすこぶる良い!
 又、無伴奏からここぞのタイミングで重厚なオケが差し込まれる音響のメリハリ感が、もう笑っちゃう程カッコいい!!!特に再生時間18:10「ママ、この子起きたの?」と19:10「ロウソクみたいで綺麗だね!」の興奮必至な劇伴の連携演出こそが、私山田に『水星の魔女』を視聴継続させる決定打となった!
▼『水星の魔女』第1話「魔女と花嫁」
 ところで、ぼっち、スレッタ、共にコミュ障でコミカルな作画芝居が光る、私山田にとって嬉しい観測対象だと分かったw
 さて5:40~ミオリネが歩く後姿を美脚タイツからホットパンツ美尻まで執拗にPANアップするカットで、コロニー内の大気の空と灰色の建造物とで縦半分に割れたBG構図が印象的!又そこでやや力無げに響く劇伴イントロのホルン(?)の効果も相まり、直後に語られる、ミオリネが地球に脱出したがる何かしらの葛藤も伝わるかの様な、つまりこのたった4秒弱、セリフ無しの何気ないカットで、彼女の人物像をいっぺんに表現しようという野心に富んだコンテの仕込みに、私山田は唸らされる!
 又、高カロリーなカット以外は極力省エネに抑えつつ、キャラそれぞれの魅力が最大限に伝わり易いように画面設計された絵コンテのメリハリ具合がいちいち嬉しい!8:30~アイキャッチ直前でグエルに向かって振り向くスレッタの顔アップカットや11:15~腹鳴らして顔赤らめるスレッタカット等、他多く散見!
 その省エネな画面設計でアニメを成立させるそもそもの功労者こそは、やはりキャラデザ、特にこの色彩センスだと、私山田は感じる。たとえ動かす枚数が少なくても、又キャラの顔や脚や尻等のアップだけでも充分にアニメとして画面栄えさせ、視覚を退屈させない只ならぬ魅力に『水星の魔女』は富んでる。
 ところで園芸趣味の視聴者にとってグエルの暴挙は決して許されるものではない(笑)!

 あとMSが3Dモデリング抜きに手描きされてるアクションカットの多さに軽く失神(誇張)。
 そして今回最大の見所18:00~ミオリネ「好きにさせてよ、人の人生、勝手に決めるな!」。それはOP曲「祝福」とも連動するテーマ。私山田は「祝福」を聴いて『水星の魔女』に興味を持ち始めた当初から、このアニメ企画、昨今の某2世問題にインスピレーション得てたりしないかと妄想を拗らせてるが、いずれにせよ、そんな不測の時流さえ巻き込める普遍的なテーマ性が『水星の魔女』には間違いなく込められてる。従って私山田にとって本作の存在感は、もはや只事じゃない。それが確認できた『水星の魔女』第1話だった!
 20:35~エアリアルのファンネル攻撃を刹那に予見し、画面手前に前のめり姿勢になるグエルの顔アップカット、そこだけ時間が止まった様に劇伴が数秒途絶える、そして直後の圧倒的勝敗を盛り上げる為に計算詰められたコンテ!こんなの観てて盛り上がるに決まってんじゃん!!!
 やべぇーーー、おもしれーーー!!!
 もっともっとブチかましてくれーーーーー!!!!
と謎の雄叫びで応援したくなる程ぞっこん大好きになっちゃいました『水星の魔女』!!!
▼『水星の魔女』第2話「呪いのモビルスーツ」
 「ダブスタ糞オヤジ」「自分が作ったルールくらい大人なら守れ」。良い響き。ところで蛇足だが、それは某カルト教祖の自己欺瞞にも充分突き刺さる名セリフ。
 水星の掘削会社(?)の代表、あれ中の人が確かママも能・・・w
 Cパートの意思決定拡張AI接続云々。強敵?
▼『水星の魔女』第3話「グエルのプライド」
 19:10~グエルが「黙れよ!」で覚醒!第1話でのミオリネ同様、グエルも後ろ盾より己の意志に忠実たろうと勇気を奮った!

 少なくとも物語り序盤で各キャラの個性を印象付ける時点ではこの素直さがカタルシスとして強調されるが、おそらく後に舞台が学園の外部へ拡張し、若者らが大人の企業抗争や謀略に振回される展開に入ると、この素直さだけを押し通せず、時に不本意な決断や欺瞞も呑まざるを得ない現実を知るようになるみたいな、より複雑なエピソードやテーマも合流、しかしそれを更に覆す彼らの不屈の意思が炸裂、だが更なる後に、そもそも最も大人の意志に無抵抗だったスレッタこそが、幼少からガンドアームの負荷に平気で、仮に遺伝子改変レベルの先天的な、つまり他キャラより断トツに深刻で取り返しのつかない大人の都合を押し付けられていた真実が明かされ、従って尊敬する母親を心底怨むようになる、みたいな悲壮な展開など夢想。仮に、水星の磁場に右腕と仮面の素顔を持ってかれたスレッタの母のセリフが布石となり、水星の苛酷な環境が物語の大きなエピソードの逆境として立ちはだかり、企業の広告塔と人類の未来を背負わされて、これに特攻させられる“魔女”は、果たして大人の操り人形か、それとも友情を信じる自律した意志か。
 言わんとするところは、展開が速い分、後のテーマの方向性への期待が膨らむ!
 つまり、早く続きが観たい。

 『水星の魔女』の“スペーシアン”と“アーシアン”の概念の違いは、前者が宇宙の生まれ育ちかこの適応進化を幾代も経た人類で、後者が地球の生まれ育ちか宇宙への適応進化を経た代が依然僅かな人類・・・て理解で正しい?
 それなら第0話「プロローグ」のCEO会議で「アーシアン風情がでしゃばる」と貶されたオックス・アース社に所属するウェンディが「スペーシアンが独占し過ぎなんだよ」と愚痴る等、他諸々の箇所のセリフと相関図とが整合する。つまりガンドフォーマットはアーシアンがスペーシアンに宇宙環境への適応進化で遅れをとった分を補える身体拡張技術という側面もあって、しかしこれを生命倫理違反のタテマエで実質的に収奪されてしまったと。又同時にそれは、アーシアンとスペーシアンの宇宙適応進化の格差に起因した経済格差やアイデンティティの分断を緩和し得る、従って飽くまでオックス・アース社のカルドばあばにとっては“人類の未来”と歓迎すべき技術革新だが、逆にそんな格差や分断の現状を維持したがるスペーシアンの特に支配層、これを象徴する人物の一人デリングにとっては“愚かしい戦争の最低限の作法を壊す呪い”と否定すべき脅威として映ると。しかしそんなデリングの欺瞞を臭わす詭弁には真実も紛れており、つまりガンドフォーマットが秘める功罪の可能性を冷静に見極めようとする時に、必ずしもカルドばあばの言い分だけを無批判に肯定できる訳でもない。それは「プロローグ」冒頭の報道解説の箇所でもVTRも交え丁寧に説明されている。
 仮に以上の理解が正しい場合、私山田は『水星の魔女』独自の、ジレンマで入り組んだ複雑な世界観に今後振回されてゆくだろうスレッタとミオリネの百合友情、他若者キャラ達の運命の物語に、もう期待しかない!しかもあの画面と劇伴とが相性抜群で、ほぼ万人受けするだろう王道的な演出は、その普遍的なテーマ性を日本以外の外国視聴者にも強烈に伝え、波及させると信じて疑わない。
 『水星の魔女』、凄く良いアニメ!!!

 因みに、周知のiPS細胞やES細胞技術に共通する、いわゆる“細胞の初期化”は生殖細胞への応用も既に実証済で、理論上じゃ人類の繁殖は、一対の男女に限らず、独りの人間、或いは二人の同性、或いは二人以上の任意の性の組み合わせ、つまりあらゆる交配パターンで可能で、従ってスレッタとミオリネ同性間、且つアーシアン(スレッタ)とスペーシアン(ミオリネ)との亜人種間の交雑と出産、子育て、家族の営みも、『水星の魔女』の虚構の中でも決してあり得ないSF設定ではない・・・が、そんなおぞましい描写はさすがにTV放送の制約上は無理か。
 生殖は無理でも友情の描写の範囲であれこれ観れたら充分です!