絵の精進と絵画について(悩んでいた頃の、私) | ほっと癒される光の絵画〜こころのいろ~言葉と心を描くアート*mizunoART 画家で詩人・ゆり呼【渡邉裕美】 アートコレクション

ほっと癒される光の絵画〜こころのいろ~言葉と心を描くアート*mizunoART 画家で詩人・ゆり呼【渡邉裕美】 アートコレクション

人生に於ける孤独と憂愁を経て、天使や女神さま、優しい女性の癒しの微笑みを描く画家で詩人のゆり呼こと渡邉裕美の絵と詩を贈ります。恋愛詩、似顔絵、似顔絵アート名刺、天使画油絵。恋愛詩画集『あの人への想いに綴るうた』の著書あり。屋号mizunoART

● 絵の精進と絵画について(悩んでいた頃の、私)

 

ひたすら生きていれば

希望~La Esperanza~ 油絵 F10号 キャンバス

渡邉裕美作  (C) Hiromi Watanabe  All rights reserved.

 

こんにちは、画家のゆり呼こと渡邉裕美(ひろみ)です^^*

 

数年前までの私は、いろいろと絵のことで悩んでばかりいました

 

専門的な学びの場にいて、

そこの先生にいつも苦言を呈されていて、

 

自分の絵が「絵ですらない」と言われて絶望したのもその頃です

 

まだ10年そこらの前のことでしかありません

 

今のように、私の絵を支持してくださり、また好きでいてくださる方々に囲まれる

幸せが来るとは当時は想いもよりませんでした。。。

 

以下、その頃の想いを綴ったブログの記録をまとめた記事より転載します。。

 

****************

私のは
「これは絵ではない」
「精神的なものを表すと言うのなら私らにはなにもいえへんな」

講師たちにそのように言われて
絶望を感じて

自分の絵への自信を失い描けなくなっていったが

本日読んだ本に
「自己卑下は向上への努力を捨てた怠惰である」とあった。


自己卑下というより
講師たちが私の絵に

絵ですらないと引導を渡したのであるが

だからといって自分の絵をやめるという理由にはならないのかもしれない


絵という媒体を選んだのは私であって

それが他者が認めないからといって
あっさり捨て去るものであったのか?


だからといって
自分が、絵で、

どの方向へいったらいいのか皆目解らない

絵ですらないのなら
どうすれば絵になるのか?


菩薩の慈悲をあらわすのに菩薩を描くのは本道ではない

そう講師は言った


しかしなぜ菩薩を描いてはいけないのかの
理由はいわなかった


菩薩を描きたかったら菩薩を描いてはいけないのか??


例えば、

スピリチュアルな観念を表すのに、

水彩で抽象心象を描くのは

それは絵という範疇ではなぜないのか?


彼等は説明はしない

自分で考えろということである



しかし知らないものは考えようが無い

在野の師を求めて人に尋ねるしかない


と言うことで、もう少し外に出よう



私の水彩抽象は、
よく、


スピリチュアルアートと呼ばれる一派のひとびとが
似たようなものを描いている


彼等は自分たちの作品を
「絵ですらない」などとは思ってもいない


ならばなぜ、
講師にいわれたからといって自分の絵を絵ですらないと

「思い込まねば」ならないのか?


そもそも「絵とはなんなのだろう」?


絵であるための定義など

100人いれば100通り、
1億いれば1億通りあるのではないのか?


「私たちは寂しいと言う観念を
静物を並べて描いて表します」


講師はいった

なぜ「そうあらねばならない」のか?



しかしもともと、
私の描く作品には

その内容に情報が少ないのは確かだ。



調和を表すのに
色彩と線の調和を描いていても


そこから何かをひとに汲み取らせるには

かなりな困難を求めなければならないかもしれない


I先生の作品には

人に多くの入り口を設けて作品世界へ入りやすくしていると言う




しかし思うに

人物が物思いに耽っているというだけの絵画を描いて

それが絵画の正道だというあの世界では


ただの「描写することだけ」が絵画であるといっているように思えた


だから私はそこを辞めたともいえる


描写以外の、

そこに篭めた想いを表したい



それが私の絵画である




なんだか、講師のいっていることと
似たようなことを求めてる気がしないでもない(^^;



抽象がアウトに思えるのは
観念が昇華しきれてないからかもしれない


「簡単」な絵画でなく

最低限綿密な修行がそこに求められるべきである


感覚だけでない、
表現の、作品としての絵画


竹は墨で描いても、竹の情で描けば竹になる



という言葉(大意)がある



つまりはその対象の本質を描けばいいのかな



たとえば線を描く時に線の本質などというものは存在しない
線は線だからである


しかし線がどのような緩急で描かれたかを
感覚として線描で伝えたら?


という意識が私にはあるのだが



しかし線の描くスピードや緩急が
人に何をもたらすのかといえば疑問である


そこらあたりが講師に
「これは絵ですらない」といわれた由縁かもしれない



モンドリアンの抽象絵画が
絵画として歴史の上で認識されてはいる。


四角とその色彩がもたらす感覚をあらわしたものは
立派に絵画としてこの世で認められている


ではモンドリアンの絵画と私の絵との違いは?

ひょっとして「計算」と「偶然性にたよる」ことかもしれない



私の線描抽象が

例えば、

何処にどの線があればベストなのか?


を、考えつくしたものであればまた評価は変わるのかもしれない

 

****************


それは認められない、苦悩ばかりが続く日々でした。。。

 

 


 

 

 

 

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