蜘蛛の巣。
狩りのための道具であり、棲家であり、単なる『モノ』でありながら、見る者に意思の存在をもやりと示唆する。
どんなに立派な巣であっても、それは一夜にして片付けられ、再度生成される。しかし今目にしている巣が真新しいものなのか、家主を失った単なる跡にすぎないのかはわからない。
それは、我々が空き家を見た時に抱く心情によく似ている。
崩壊寸前のぼろ家に住む者はいないと考える。自分がそこには住みたくないからだ。同様に、手入れの行き届いた立派な屋敷には誰かが住んでいると考える。己の境遇では死ぬまでそんな豪奢な屋敷には住めそうにないからだ。
だが、見てくれは住人の存否と必ずしも連動しない。主人のいない蜘蛛の巣が打ち捨てられているのか、ただ家主が昼寝しているだけなのか、即座には判断できないのと同じように。
目の粗い乱雑な巣。こんなちゃちな巣に引っかかるものがいるのだろうか。我々は適当な作りの罠を鼻で笑う。どんなとんまがこんなお粗末なトラップに引っかかるんだ、と。自分がそのトラップにかかる危険性など微塵も考えない。
だが、罠としての蜘蛛の糸は必ずしも粘着性を持たない。蜘蛛の巣に絡め取ることが目的ではなく、糸に触れた者を知らせるセンサーとして使われることがあるのだ。そして、障害物としての蜘蛛の巣は厄介だ。粗雑な巣は我々の足場にはなりえず、蜘蛛だけが自由に動き回れる。結果、急襲を避けきれずに捕まってしまう。ちゃちな作りに見せかけること自体が立派な罠なのかもしれない。
まだ寒い早春にも蜘蛛の巣はかかっていた。打ち捨てられていた巣が残っていたのかと思ったが、巣の隅の方で家主がじっと這いつくばっていた。まだ生命活動の乏しい時期には、巣をかけてもそれにかかる獲物はほとんど来ない。だが、餌がかかる可能性はゼロではないのだ。
生き残るための努力は残らずする……当たり前のようでいて我々がすでに忘れかけていることを、繊細な蜘蛛の巣が教えてくれる。
美しいものと汚らしいものとが隣り合っていた場合に、我々はどちらに目を向けるだろうか。トレジャーハンターのようにがらくたの山の中から宝物を見つけるのが商売の面々ならともかく。我々は美を台無しにする汚物の存在をことさら意識し、それらを嫌悪する。
つまり。どんなに美しいものが存在していても、汚物とのセットであればまとめてジャンク扱いにしてしまうのだ。なんと勿体ない。
ゴミグモはそういう我々の粗雑な美意識をあざ笑う。ごみでカムフラージュされるのはごみに擬態した己の姿だけではない。美しいが危険な蜘蛛の巣の存在もまた、汚物に隠されるのだよ、と。
◇ ◇ ◇
蜘蛛の巣は、極めて多種多様な姿と機能を有している。我々が思い浮かべる蜘蛛の巣の姿は、そのほんの一部に過ぎない。だからこそ、我々はまんまと蜘蛛の巣にかかってしまう。どうかくれぐれもご用心あれ。
大きすぎるもの 小さすぎるものは
蜘蛛の巣にかからない
I'm A Spider by Captain Sensible
《 ぽ ち 》
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