『ポアントで立つ踊り子』

エドガー・ドガ

(1877〜1888年)

 

 

 

***2020年1月19日の日記***

 

 

ダンカン・ダンスを

深めていくにつれ。

 

バレエというものはすごく、

男性性の強い踊りなのだな。と。

 

そう思うように

なっていきました。

 

 

バレエには、

「こうあるべき」という

理想の形が決まっていて。

 

みんながその「高み」を目指して、

日々、訓練を重ね努力していく。

 

常に自分や周囲に

ダメだしをして。

 

更に上へ、

更に上へ。と。

 

今はここにない、

「完璧な理想」を目指して。

 

 

綺麗な衣装を身にまとい、

お姫様になったり妖精になったりと。

 

とてもロマンティックな世界で。

少女の憧れの世界だったりしますが。

 

そのバレエの裏方。

 

たとえば、

演出家とか振付家というような、

 

その舞台を、

「創作」する側にはやっぱり。

 

男性が多かったような

気がします。

 

 

バレエの歴史の本には、

 

メディチ家の

カトリーヌ・ド・メディシスが

フランスにお嫁入した時に。

 

自国のイタリアから持ち込んだ、

宮廷舞踊がバレエの始まりだ。と。

 

そう書かれていますが。

 

 

実際は、

 

現在の「バレエ・スタイル」の

基礎を築いたのは、

 

太陽王と言われた、

あのルイ14世で。

 

正確には、

あの王様のダンス教師で。

 

そのスタイルが今もなお、

頑なに継承されていたりしますし。

 

 

私には。

 

「トゥ・シューズ」自体がもう、

「男性性的」な発想だと。

 

そんな風に感じるのです。

 

 

地上についている部分を、

より少なく。

 

宙に浮いているように

見えるように。

 

・・・と。

 

「上」を目指しているのです。

 

上昇することを。

 

 

*******

 

 

バレエだけに熱中していた頃は。

 

バレエの世界しか

知らなかった頃は。

 

こんなことは

思いもしませんでした。

 

 

けれどもダンカン・ダンスに

触れることによって、

 

バレエのそういった部分が、

自分の中ですごくハッキリと

見えるようになってきたのです。

 

 

そして。

 

イサドラ・ダンカンにとっては

きっと。

 

バレエのそういった

男性性の部分が。

 

「不自然」に

見えたのだろうな。と。

 

そんな風に思ったりもしました。

 

 

音楽や自然のエネルギーを

身体で感じて、

 

本能的に足をあげたり

回転したくなったりした時に。

 

それにそのまま身を任せ、

それをそのまま表現する。

 

・・・というのが、

ダンカン・ダンスなのだと

思いました。

 

 

けれどもバレエでは、

 

「アラベスクは、

こういう形であるべき」

 

・・・というものがあって。

 

「完璧とされる美」

 

・・・というものが、

決められていて。

 

「そこ」から外れる形は、

美しくない。とされます。

 

 

あの頃の私は。

 

バレエに対して多少、

苦しんでいたところが

あったせいか。

 

ダンカン・ダンスの

そういった理念に。

 

在り方に。

 

救われた。というか。

 

何かから、

解放されたような気持ちになり。

 

そして、

そういう新しい世界に一時、

夢中になりました。

 

 

それまでは、

 

理想を目指して、

上へ上へと上昇していく

バレエの世界しか

知りませんでしたが。

 

ダンカン・ダンスは、

裸足で大地にしっかり足をつけ、

 

低く、低く、

下降していく世界。

 

 

下降するエネルギー。

 

それはおそらく、

女性性的なエネルギーで。

 

私はあの時、

そのエネルギーの表現を、

初めて体感したのです。

 

 

*******

 

 

「・・・とは言っても。

 

ダンカン・ダンスも、

まったく自由というわけではなく、

ある程度の約束事はあるのよ」

 

・・・と、メアリー先生は

話していました。

 

 

たしかにバー・レッスンは、

バレエほどアンディオール(外向き)に

こだわりはしないものの。

 

バレエの基礎レッスンと

似ていたりしましたし。

 

 

「そのまま表現」

 

・・・と言っても、

ある程度の基本的な形は

決まっていたりしました。

 

 

そしてまずそこに、

イサドラ・ダンカンが遺した、

 

「振付」

 

・・・というものが

あること自体。

 

 

やっぱりそこにはまだ、

 

「何かに囚われた部分」

 

・・・が残っているように

感じたりもしました。

 

 

そして今、

それを習っている私たちというのは、

 

ダンカンの理念に従って、

音楽や自然のエネルギーそのものを

表現しているわけではなく。

 

ダンカンの振付を。

 

つまり、

 

「ダンカンの魂」

 

・・・を表現しているんだな。

 

・・・と、

そう思った時。

 

私はふと、

立ち止まってしまいました。

 

 

私は。

 

「イサドラ・ダンカン」の

信者ではないのだけどな。と。

 

そんな気持ちが、

自分の中に生まれてきたからです。

 

 

ちょうど、

そんな時期だったのです。

 

あのパーティーで。

 

ああいう、

いざこざが起こったのは。

 

 

*******

 

 

なので結局。

 

あのパーティーでのいざこざは、

 

単なる「キッカケ」に

過ぎなかったのだろうと、

 

今は思いますおやすみ

 

 

表面のストーリー上では、

あの一件で私の気持ちは

冷めた。となるのですが。

 

でも。

 

そこに至るまでに、

自分の中に様々な迷いや

疑問が生じていて。

 

そんな時に

あのタイミングで起こった、

あのいざこざが。

 

私の中にあった迷いを、

後押ししたのだろうと。

 

 

今となってみれば。

 

ダンカン・ダンスの世界は

私にとっては。

 

「終着点」ではなくて、

「通過点」でした。

 

とても重要な、

通過ポイントでしたがおやすみ

 

 

*******

 

 

そしてあの、

火の彼女はきっと。

 

ダンカン・ダンスや

メアリー先生のことを、

 

本当に、

とても大切に思っていたの

だろうなと。

 

そんな風に思います。

 

 

私や、

風の彼女よりもずっと、

 

ダンカンの世界を、

ダンカンのことを、

 

愛していたのだろうとおやすみ

 

 

だから、

あんなに怒ったのだろうな。と。

 

 

火の彼女からはいつも、

「熱」を感じていました。

 

 

そういう、

熱い思いを持った人がきっと、

 

「継承」していくのだろうと

思います。

 

 

その、「魂」を。

 

 

つづく

 

 

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