『Meditation』

ギルバート・ウィリアムズ

1997年

 

 

 

***2019年10月27日の日記***

 

 

仕事を辞めて、

だいぶ気持ちに余裕が

出来てきたので。

 

あの頃から

「瞑想」というものに、

 

少し真面目に

取り組むようになって

いきました。

 

 

そこには、

以前レイオルトに、

 

「歌いながら瞑想しなさい」

 

・・・と言われたことが、

大きく影響していました。

 

 

そして。

 

それによって起こった、

OSHOの彼とのシンクロ。

 

その彼が、

「瞑想」をものすごく

重要視していて、

 

それを実践していたこと。

 

・・・などなど。

 

 

やっぱりそこにも、

「流れ」があったように

思います。

 

 

*******

 

 

あの頃の夫は。

 

スピリチュアル的なことに

関しては。

 

まったく無関心でした。

 

 

それ以前に。

 

今までは私自身が、

 

「瞑想なんて怪しい」

 

・・・と思っていた人

でしたので。

 

 

夫のいるところで

瞑想をするのは。

 

少し、

気恥ずかしい感じでした。

 

 

また。

 

昔、毎朝般若心経を唱える

母を見て。

 

子供の自分が

ドン引きしていたことを

思うと。

 

子供たちの前でも

やりづらくにやり

 

 

昼間はバタバタしているし、

両親もいるし。

 

 

結局。

 

当時の私が安心して、

ひとりでゆっくり

瞑想できたのは。

 

夜。

 

お風呂に入っている時

だけでしたにやり

 

 

けれども。

 

瞑想をする時に、

そこに「水」があると。

 

それが大きく作用して

瞑想に入りやすくなる。

 

・・・ということを、

のちのち知って。

 

 

私の場合は、

意図せず。でしたが。

 

たまたま、

お風呂の中。

 

つまり、水の中。

 

・・・で、

瞑想をしていた。

 

・・・というのは。

 

なんとも

面白いものだ。

 

・・・なんて

思ったりしましたおやすみ

 

 

毎日毎日、

瞑想をしていると。

 

いろいろなことが

起こりました。

 

 

最初の頃は、

ヴィジョンが見えてくることが

よくありました。

 

 

始めは光だけだったものが、

そのうち絵?映像?のような

ものが見えてきたりしました。

 

 

そんなヴィジョン系のもので、

印象的だったものが

あります。

 

 

その時に見えた

ヴィジョンの中では。

 

私は、

ネイティヴ・アメリカンの

女性になっていて、

 

なぜか、

高い崖から落ちそうに

なっていました。

 

 

そして。

 

崖っぷちに

ぶらさがっている

私の手を。

 

禿のおじさんが

踏みつけてくるのです。

 

 

しばらくは、

必死で耐えていましたが。

 

とうとう、

手を放してしまいました。

 

 

そのまま私は、

真っ逆さまで落ちて

いくのですが。

 

不思議なことに

地面に激突する前に、

 

フワッという感じがして、

一瞬で空を飛んでいました。

 

 

そして

次の瞬間にはもう。

 

その時、

自分が会いたかった人の隣に

浮かんでいました。

 

 

私はその時、

透明人間だったので。

 

その人に私の姿が

見えるわけがないのですが。

 

 

その人は、

すごい怪訝な顔をして、

 

睨むようにジーッと

こっちを見ているので。

 

 

「あれ?

もしや見えてるの?」

 

 

・・・と思ったところで、

そのヴィジョンは

終わりました。

 

 

瞑想中に観たヴィジョンに

関しては。

 

それは「夢」と

同じ感覚で。

 

普段はそこまで、

気に留めていませんでした。

 

 

けれども。

 

なぜこのヴィジョンだけは

よく覚えているのかというと。

 

 

あの時の瞑想後。

 

なんだか指がチクッとするな。

と思って、自分の指先を見たら。

 

なんと、

血まめが出来ていたからですポーン

 

 

それはたった今、

ヴィジョンの中で。

 

禿のおじさんに

踏みつけられていたところと

同じだったので、

 

 

「・・・・・・・・真顔

 

 

・・・となりました。

 

 

そしてその後。

 

この話を占い師の彼に

話してみると。

 

 

「私、それ知ってます。

そのLyricaさんを見てたのは、

多分、私です」

 

・・・と、

彼が言ったからですポーン

 

 

正直に言えば。

 

私は彼のこの言葉は、

半信半疑でしたけれどもにやり

 

 

けれどもあの時。

 

人って、

死ぬ瞬間って。

 

あんな感じだったり

するのかもしれないな。

 

・・・なんて

思ったりしました。

 

 

*******

 

 

こうした、

ヴィジョン系だけではなく。

 

他にもいろいろ、

体験しました。

 

 

ある時は、

自分の身体が。

 

どんどん膨張していくのを

感じたりしました。

 

身体はどんどん

大きくなっていくように感じ。

 

それはとうとう、

家の外まで広がっていき。

 

 

面白いことに。

 

その広がった自分の身体の中に

入っているものは、

 

全部、「自分」だと

感じていました。

 

 

また、ある時は、

 

これは今思うと、

ハート・チャクラが

開いたのだと思いますが。

 

突然、光に包まれ。

 

とんでもない至福感に

包まれて。

 

 

あぁ。

すべてが繋がっている。

 

すべてがひとつなんだ。

 

・・・と。

 

そう感じたことも

ありました。

 

 

「自分以外のもの」が消え去り、

全部が自分だと感じ。

 

それはもう、

自然と涙が溢れてくるほどの、

 

「愛」の体験でした。

 

 

けれども。

 

この「愛の体験」は。

 

19歳の時に体験したものとは、

全然、別物の体験です。

 

 

それが、

完全に別物であることは、

 

体験した私には、

その違いがものすごくよく

解るのですが。

 

この「違い」を、

言葉で説明することもまた。

 

少し、

難しいです真顔

 

 

何をもってして

「違う」のかと言えば。

 

 

この愛の体験の時には、

 

まだそこに、

「人間Lyrica」の意識が

あった。

 

・・・ということです。

 

 

「すべてはひとつだ」

 

 

・・・と、そう感じてたのは、

「人間Lyrica」でした。

 

 

19歳の体験の時には、

 

「人間Lyrica」は、

どこにもいませんでした。

 

 

そこには、

 

「すべてである私」

・・・という私以外、

 

誰もいませんでしたし。

 

それどころかそこには、

 

何もなかったのです。

 

 

なかったけど、

すべてがあった。

 

・・・という

状態でした。

 

 

・・・ということで。

 

このふたつの体験は、

言葉にしてしまうと

とても似ているし、

 

なんとなく、

「同じ体験」に聞こえて

しまうのですが。

 

でも。

 

全然違うのです。

 

 

*******

 

 

そうやって。

 

お風呂瞑想では、

様々な体験をしましたが。

 

 

19歳のあの時に

起こったものと同じものは、

 

一度も起こったことは

ありませんでした。

 

 

あのリンポチェの

お話会の時に。

 

少し、

「ヴィパサナ瞑想」を

体験しました。

 

 

それは、

ブッダが悟りを開いた

瞑想です。

 

 

あの時のヴィパサナ瞑想は、

ほんの練習程度でしたが。

 

リンポチェは、

こう言っていました。

 

 

「瞑想は、

きちんとした形で

行うほうがいい」

 

・・・と。

 

 

私のお風呂瞑想は。

 

ほとんど自己流の、

適当にやっていたもの

でしたので。

 

 

「正しい瞑想の方法」

 

・・・というものを、

私はよく知らずにいました。

 

 

なので、もし。

 

「正しい方法」で

瞑想をしたとしたら。

 

あの時のあの体験が

起こったりするのだろうか?うーん

 

・・・と。

 

 

「悟り装置」以外の方法って、

本当に存在するのだろうか?

 

・・・と。

 

 

私はそれを、

自分で確かめたくなりました。

 

 

なので。

 

その「正しい瞑想法」を

教えてくれる、

 

「瞑想の先生」というものを、

探してみたい。

 

・・・という気持ちが、

起こり始めました。

 

 

つづく

 

 

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