『フラジオレットを吹く天使』

エドワード・バーン=ジョーンズ

(1878年)

 

 

 

***2019年8月31日の日記***

 

 

 相変わらず、

ケルト熱冷めやらずの頃。

 

「全てである私」について、

思いつく限りの

キーワードを入れて、

 

あれこれ

検索し続けていたら。

 

 

ある日とうとう、

 

「これって、もしや?」

 

・・・と思うものを

見つけました。

 

 

それは。

 

「アカシック・レコード」

 

・・・というものでした。

 

 

その時のことも

昔のブログに詳しかったので、

 

また、そちらから

抜粋します。

 

 

********

 

 

 

 

 

 

「アカシックレコード」とは

全宇宙の過去から未来までの

全てのことが書かれた

記録のことだそうです。

 

宇宙にある意識の

ネットワークとも

言われています。

 

いわば、宇宙の図書館。。

 

今風に言えば、

全てが記録されている

コンピューターみたいな

ものでしょうか。。

 

予言などで有名な

エドガー・ケイシーも、

 

このアカシックにアクセスして

情報を得ていたそうで、

 

彼は、いつの日か、

この記録を受信できる

テクノロジーが開発されるだろう。。

と語っていたそうです。

 

アカシックレコードのことを

調べているうちに、

 

以前の体験は、

もしかするとアカシックに

意識が同調したのか?

という思いが強くなり、

 

それでどんどん深みにはまり、

神智学方面にのめりこんだ事も

ありました。

 

でも、なんとなく

腑に落ちないというか、

 

もっと違うものだった

ようにも感じて、

 

釈然としない気持ちが

残りました。

 

私は一体、

何が知りたいのか。。
 

でも、実はなんとなく、

既に知っているような

気もして。。

 

 

********

 

 

アカシック・レコード。

 

当時はよく、

 

「アカーシャ(アーカーシャ)の記録」

 

・・・とも言われていました。

 

 

当時の私は

「アカーシャ」と聞いた時、

 

即座にまた、

あの映画を思い出しました。

 

 

『クイーン・オブ・ザ・ヴァンパイア』

 

 

あのお話の中に

「全てのヴァンパイアの母」

と言われる、

 

ヴァンパイアの女王が

出てくるのですが。

 

その女王の名前が、

「アカーシャ」だったのです。

 

 

ここでまた、

あの映画が出てきた。

 

・・・と。

 

 

あの時も。

 

これまでに自分に

起こってきた出来事のすべてが、

 

どこかで繋がっているような。

 

そんな感じがしたのです。

 

 

アカシックの情報に

最初にぶつかった時。

 

私が最初に反応したのは、

 

「アカーシャ」という

言葉の響きでした。

 

そこに引き寄せられて、

 

アカシック・レコードって

何だろう?うーん

 

・・・と調べ始めると、

 

何かのサイトの中に、

 

「全ての記憶が保管されている場所」

 

・・・という情報を見つけ。

 

 

あの時は、

 

もしかしてこれは。

 

あの体験で

観たもののことを、

 

語っていたりするもの

だったりして?驚き

 

・・・と。

 

心が、

色めき立ったのを

覚えています。

 

 

更に詳しく調べていくと、

 

「アカーシャの記録」という話の

言い出しっぺが、

 

ブラヴァツキー夫人という

人だったことを知りました。

 

 

そしてそれをキッカケに、

 

次は神智学方面へと、

興味が繋がっていったのです。

 

 

アインシュタインの愛読書

だったと言われている、

 

『シークレット・ドクトリン』や、

 

シュタイナー、

アリス・ベイリーなどの本も

読みました。

 

神智学大要とかもほんわか

 

 

けれども、

今はもう。

 

「それを読んだ」

 

・・・という記憶しか

残っていません。

 

 

本の細かい内容などは、

すっかり忘れてしまいましたニコニコ

 

 

神智学系の世界に

あたっていた時は。

 

私の中の何かを、

大きく揺さぶるられるような

感覚、反応。

 

・・・というようなものは、

 

たしか。

 

あまり起こりませんでした。

 

 

好奇心は、

刺激されましたけれどもにっこり

 

 

そうやって、

 

神智学系の本を読んでいた

時期からはまた、

随分と月日が経ち。

 

より様々なことを

知ってからのことでしたが。

 

なんとなく、

見えたことがありました。

 

 

神智学も結局は。

 

インド哲学とか

チベット仏教とか。

 

そういった古くからある

伝統的なところに、

 

その源泉がありそうだ。

 

・・・と。

 

 

神智学に限らず、

 

「その時代の新しいもの」

 

・・・というものは

そのほとんどが、

 

古いものの焼き直し。

 

・・・のように、

私には映りましたおやすみ

 

 

なので、

思ったのです。

 

 

まだ保っておく

必要のある知識や智恵。

 

それがどんなに古いもので

あったとしても、

 

人類にとって、

それがまだ必要とされて

いるのであれば、

 

それはきっと。

 

時代にあわせて

アップデートされながら、

 

手を変え品を変え、

纏う衣装を変えて。

 

受け継がれていくもの

なのかもしれない。

 

・・・と。

 

 

そして、

こういったものはおそらく。

 

人間の頭では計り知れない、

もっともっと大きなところで。

 

「何か」が動いているのだな。

 

・・・と。

 

 

そういう風に、

感じたのでした。

 

 

********

 

 

私は。

 

読んだ本の細かな内容は、

しばらくすると

すっかり忘れてしまうことが

多いですにやり

 

 

けれども。

 

その知識と向かい合った時に、

 

自分が何を感じたのか。とか、

自分が何を考えたり

思ったりしたのか。

 

・・・というようなことは、

 

結構はっきりと

覚えていたりします。

 

 

こうしてあとになって

思い返してみた時に、

 

自分の記憶の中に

色濃く残っているのは

いつも。

 

「知識」よりも、

「体験」のほうなのです。

 

 

知識欲が旺盛だった

あの頃。

 

知らないことを

知ることに、

 

すごくワクワクしていた

あの頃は。

 

本やネットの情報を

読み漁ることに

ものすごくエネルギーを

費やすようになり、

 

当初の目的を見失う。

 

・・・ということが、

よくありました。

 

 

けれども。

 

今の私から見ると、

遠回りだったと感じるような

その脇道も。

 

あの頃の私にとっては、

必要な道だったのだろう。

 

・・・とも思いますおやすみ

 

 

********

 

 

例のアカシックについては。

 

いろいろと

調べていくうちに、

 

「あぁ、なんだか。

これは違うな」

 

・・・と。

 

そういう結論に

至りました。

 

 

ある時。

 

アカシックに

アクセスしたという人が、

 

その詳細を詳しく

描写しているものを見ました。

 

その体験者の人は、

こんな感じのことを

言っていました。

 

 

アカシックには、

「図書館」のようなものがあって、

 

そこには、

宇宙の始まりから終わりまでの

全ての歴史が記録された、

膨大な数の本がある。

 

そしてそこには、

案内人のような存在もいて、

図書館の中を案内してくれて。

 

・・・云々。。。と。

 

 

 

私が19歳の時に

体験したものは。

 

「Nothing but Everything」

 

・・・でした。

 

 

そこにはすべてが

ありましたが。

 

同時に、

何もありませんでした。

 

 

そしてあの意識の中では、

「一瞬」で。

 

全てのことが

解りました。

 

なぜなら。

 

すべてが。

 

自分だったからです。

 

 

なのであれは、

 

アカシックのような

「記録」というよりも、

 

「私」といったほうが、

近い気がするのです。

 

 

アカシックの概念も

ただ言葉にしただけですと、

 

「すべてである私」

 

・・・に近い感じに

聞こえたのですが。

 

それについて

詳しく知れば知るほど、

 

アカシックは。

 

私が体験したものとは

別物だ。

 

・・・ということが

解ってきました。

 

 

そこに「何か」が、

「存在している」という時点で。

 

それは、

「あれ」ではないのです。

 

 

図書館云々に

関しては。

 

本来は単にエネルギーである

アカシックという「場」を。

 

その体験者が自身の

フィルターを通してみた時に、

 

そういう「形」に見えた。

 

・・・ということは

あるとは思いますが。

 

 

けれどもそれ以前に。

 

そこに、

 

「アカシックという場を

体験している私」

 

・・・という、

「個」の意識がまだ

存在しているという時点で。

 

 

もうそれは、

全然、違うものだと

解るのです。

 

 

なぜなら。

 

「全てである私」の

意識の中では、

 

私は、

「人間Lyrica」では

なかったからです。

 

「人間Lyrica」

としての私は。

 

すっかり、

消え去ってしまって

いたからです。

 

 

*******

 

 

アカーシャの記録。

 

アカシック・レコード。

 

 

この言葉を世に広めた

ブラヴァツキー夫人。

 

彼女には見えない師。

 

・・・がいたとも

聞きましたが。

 

その師が彼女に、

本当に伝えたかったことは

なんだったのか。

 

彼女はその師の言葉を

どこまで正確に理解していたのか。

 

それともすべてが、

彼女のでっちあげなのかにやり

 

 

そういうことはよく

解りませんけれども。

 

 

実際に起こった事実。

 

・・・というのは。

 

ブラヴァツキー夫人が、

その概念を多くの人に伝えた。

 

・・・ということであり。

 

 

多くの人が、

彼女から影響を受けた。

 

・・・ということです。

 

 

彼女の話を聞いた人たちが、

それを語り継ぐうちに、

 

アカシックを実際に

体験する人も。

 

きっと、

増えていったことだろうと

思います。

 

 

なぜなら。

 

この世は、

ほとんどがそういう、

 

「思い込み」

 

・・・で創られていくからです。

 

 

いつしか「この世界」に

存在するようになった、

 

「アカシック・レコード」

という「概念」。

 

 

その概念が、

人類の歴史のどのあたりで

最初に出現したのかは

分かりませんが。

 

 

そういう「概念」が

広まっていき、

 

より多くの人がそれを

「認識」することで。

 

 

それは今、

この宇宙のどこかの、

 

目に見える領域ではなく、

目に見えない領域に。

 

強固に「存在」するように

なっていることでしょう。

 

 

でも私には。

 

その「アカシック・レコード」

ですら。

 

「すべてである私」の

一部であり。

 

幻想である。

 

・・・という風に

映るのです。

 

 

だから私が本当に

探していたものは。

 

それではなかったのです。

 

 

そういうこともきっと。

 

初めてアカシックの

情報に出会った時点で、

 

本能的には理解して

いたのでしょうけれども。

 

 

あの頃はまだ、

経験が足りなくて。

 

そのことを自分の頭に、

ちゃんとのぼらせてあげることが

出来ませんでしたおやすみ

 

 

だから昔の日記には、

こう書いてあるのです。

 

 

「私は一体、

何を知りたいのか。。。

 

でも、実はなんとなく、

もう既に知っているような

気がして」

 

 

・・・と。

 

 

アカシックの概念に

辿り着いた頃の

「人間Lyrica」は。

 

その結論を出すには、

未熟すぎました。

 

 

だから私は。

 

それから先もまだまだ、

探し続けていかなければ

なりませでした。

 

 

つづく

 

 

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