愛する娘のデビューと成功を見ることもなく、真一郎氏は静かに旅立って逝った。1976年1月のことである。
 「ポピュラーソングコンテストで賞を貰うことができたら、間もなくやって来る北海道の厳しい冬に向けて、その賞金で父にはオーバーを買ってあげよう」 

 そのように考えていた賞金は全て、父の葬儀代へと変わってしまった。

 …しかし、みゆきはいつまでも父との別れを悲しんではいられなかった。

 一家の大黒柱を失った家族の生活が、一気に彼女の肩にかかってきたのである。


 彼女には3歳年下の弟が一人いる。その弟は医大生になっていた。その学費も払わなければならない。

 父の志を引き継ぎ医者を目指していた彼の夢を叶えるために、彼女はプロとしてやっていく決意をしたのだと思う。


 彼女は仲間たちに 

 「弟が医者になるまで頑張る」 

 と告げ、北海道と東京を往復しながらプロとして活動を開始した。


 彼女は対談などで一度も「残された家族のためにプロになった」とは話したことはない。

 父の死後、家族の生活を守るのは自分しかいない。それは当然のことだと思っていたのだと思う。

 以前、某テレビ局で、熱烈なみゆきファンの著名人を集めてそれぞれがみゆきについての思いを熱く語るという企画の深夜番組をやっていた。
 その一人、登山家で医師でもある今井通子女史が 

 「私は医師である中島さんの弟さんを知っているのですが、彼は今でもお姉さんのみゆきさんのことを尊敬してますねぇ」

 と話していた。
 
 時代 で第6回世界歌謡祭グランプリ受賞直後のインタビューでは次のように応えている。
 「あの頃って、アマチュアでやるのにもイヤ気がさしていたし、それにもう歌う場所がなくなりかかっていて、本当に悲しかったわ。

 まだ他にも私と同じように自分を殺しかかっている人もたくさんいるでしょうに…。私は幸運だったんですね。」
 
 どうしてアマチュアでやっていくことにイヤ気がさしていたのか、ある対談で次のように話している。


 「機材を持っているアマチュアっていないからね。

 それにアマチュアだけのコンサートなんてやってくれないし、アマチュアが出れて機材もあるっていったら、とりあえずコンテストぐらいしかないんだよね。学生やアマチュアが集まるのもやっていたけど、機材が全然問題にならなかったしね。

 PAも専門家だし、スタッフもいてくれるし、コンテストはね。」

 丁度その頃は、反戦フォークを歌う若者達が新宿西口にあふれ、それを機動隊に排除されてしまう 「新宿西口の騒ぎ」 があった頃である。
 ギターを持って歌うことが不良行為として認められなくなっていった時代である。
 
 自分の心の中の叫びを歌にして伝えたい。

 その残された場所が 「プロでやっていく」 ということだったのかもしれない。

 彼女はプロになりたくて歌ったのではなく、歌を歌う場所を求めて、そして家族の生活を守るために 「プロ」 という道を選んだのであろう。




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中島みゆきの父・中島真一郎氏は産婦人科の開業医である。彼女は常に生命の誕生を肌身に感じていたのではないだろうか。


 真一郎氏はどうやら 「赤ヒゲ」 的な開業医だったらしく 

「医者にもピンからキリまでありまして、ウチの場合はキリでした。家には10万円のお金もなかったのよ」 

 と彼女はある雑誌の対談の中で話している。


 その中で父親のことを次のように語っている。
 「人間としてやっちゃいけないことは、殴ってでも許さなかったですネ。私が音楽やること、やれとは言わなかったけれど、反対はしませんでした。世間に対しては、まるで不器用な処し方しかできない人でしたネ。そう、生きること自体が下手だったんです。」 

 「頑固で融通が利かなかったンですねぇ。私と同じで愛想も悪くて」

 そんな父に対して世間が何と言おうと、彼女は自分自身を「ファザコン」と自称するほど父を尊敬している。
 一人静かに焼き鳥屋で酒を飲む父親の相手をしてあげていたようである。

 1975年9月。彼女の元にデビュー曲 アザミ嬢のララバイ のサンプルレコードが届く。


 しかし、彼女はそのレコードを直ぐには父に見せなかったようである。正式にデビュー曲が発売される9月25日に見せようと考えていた。
 そしてもう一つ考えていることがあった。それは、翌月に行われる第10回ポピュラーソングコンテストで賞を貰うことができたら、その賞金で父にはオーバーを買ってあげようということであった。間もなくやって来る北海道の厳しい冬に向けて最高のプレゼントになる筈だった。

 そんな矢先のことである。
 「九月だった。寒い朝に父が倒れたの…。脳溢血。家は小さな病院だけど、その日の診察料で食べるような生活だったの」


 救急車で運び込まれた病院で 

 「3日待っても目が覚めなかったら諦めてほしい」 

 と宣告され、着の身着のまま徹夜で3日待った。が、真一郎氏の目は覚めなかった…。

 そんな中、中島みゆきはレコードデビューをし、そして翌月10月12日に第10回ポピュラーソングコンテストを迎える。
 本選会では、予選の時の歌を歌うのが通常であるが、彼女は予選の時に歌った歌とは違う 時代 に急遽変更し本選会に臨んだ。
 彼女は父が目を覚ますことを願って 時代 を歌い上げたかったのだろう。

 時代 は見事グランプリに輝き、翌月の第6回世界歌謡祭でもグランプリを獲得した。
 彼女は、このことを誰よりも父に報告したかったに違いない。

 しかし、真一郎氏の目は、倒れてから一度も覚めることはなかった。

 愛する娘のデビューと成功を見ることもなく、翌年の1月、真一郎氏は静かに旅立って逝った。享年51歳。




時 代    詞・曲:中島みゆき


  今はこんなに悲しくて

  涙も 枯れ果てて

  もう二度と 笑顔には

  なれそうも ないけど


そんな時代も あったねと

いつか話せる 日が来るわ

あんな時代も あったねと

きっと笑って 話せるわ

だから今日は くよくよしないで

今日の風に 吹かれましょう


  まわるまわるよ 時代は回る

  喜び悲しみ くり返し

  今日は別れた 恋人たちも

  生まれ変わって めぐり逢うよ


旅を続ける 人々は
いつか故郷に 出逢う日を

たとえ今夜は 倒れても
きっと信じて ドアを出る
たとえ今日は 果てしもなく
冷たい雨が 降っていても
 
  めぐるめぐるよ 時代は巡る
  別れと出逢いを くり返し
  今日は倒れた 旅人たちも
  生まれ変わって 歩き出すよ


  まわるまわるよ 時代は回る

  別れと出逢いを くり返し
  今日は倒れた 旅人たちも
  生まれ変わって 歩き出すよ


  今日は倒れた 旅人たちも
  生まれ変わって 歩き出すよ




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 中島みゆきは、大学の国文科の卒論に 「谷川俊太郎論」 を書き、その理由を次のように述べている。

 

 「本当は、好きな人のことは書きたくなかったのね。

 でも、好きでない人のことは書いても面白くないし、そうこうしているうちに、卒論の締め切り間近になってしまってね、やっぱり好きな人にしようということで谷川俊太郎さんのことを書いたの」

 

 また、みゆきは、

 「あそこまで言われちゃうと、私、ナンにもやることなくなっちゃう」

 と敬服している谷川俊太郎の詩がある。それは 「うそとほんと」 という詩である。





谷川俊太郎 (たにかわ しゅんたろう)


1931年東京生まれ。

52年、「文学界」 に詩を発表して注目を集め、処女詩集「二十億光年の孤独」を刊行、みずみずしい感性が高い評価を得る。

以降文筆業を生業として今日に至る。

主な詩集には、読売文学賞を受賞した 「日々の地図」 をはじめ 「ことばあそびうた」 「定義」 「みみをすます」 「よしなしうた」 「世間知ラズ」 「モーツァルトを聴く人」 などがある。

また、絵本 「けんはへっちゃら」 「こっぷ」 「わたし」 や、日本翻訳文化賞を受賞した訳詩集 「マザーグースのうた」 やスヌーピーでおなじみの 「ピーナッツ」 などの翻訳、脚本、写真、ビデオなどさまざまな分野で活躍している。現代を代表する詩人のひとり。