それは思いがけぬ出来事だった。まさかこの場所にフランソワーズが姿を現す事など、誰も予想だにしなかったのだ。
想定外のその出来事に、ジョーはもちろん、ジェットもグレートも、そして誰より冷静なアルベルトさえも、驚きを隠せなかった。
突然現れたフランソワーズの方をジョー達は皆一斉に振り向くと、彼女を見つめるばかりだった。
「 フランソワーズ…。どうしてここに…」
真っ先にフランソワーズに尋ねたのはそう…
ジョーだった。
こんな形でのフランソワーズとの再会…。そして仲間たちとの確執…。
その全てが今のジョーにとっては不本意な事だったのだ。けれどもどうしても、ジョーはジェットの自分に向けられた言葉が許せなかった。
そしてフランソワーズとの再会さえも、ジョーには許せることではなかったのだ。
ジョーのその問いに、フランソワーズは寂しげな笑みを浮かべる。
「 どうしてって…?ジョー、あなたには分かるでしょう?あたしには…聞きたくもない音や会話までも聞こえてしまう能力があるのよ…!
あなた達の姿を、大階段で見た時、本当に驚いた…。グレート、ジェット、そしてアルベルトはともかく、ジョーまでも…。今の今まで、このパリに…あたしに逢いに来なかったあなたが、何の前触れもなく突然現れるなんて…。
だからあたし、とても気になったのよ。一体何を思って来たのか…。
それを確かめる事さえ、あたしには怖かった…。
本当は嫌だった…。出来れば、見て見ぬふりをしたかった…。
けれども、逃げたくない気持ちもあったのよ。
はっきりさせたかったの。あたしの気持ちの整理も付けたかったから。
だからあたしは、あなた達の居る場所を探してた。」
「 そうしたらこの場所を探り当てたって訳だ…。フランソワーズには隠し事は出来ないな…」
ジェットが皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「 そうよ、ジェット。
この客席の所まで来たら…あなた達の声がきこえたのよ。嫌でも言い争う声が…。
それを聞いた時、胸が傷んだわ。あたしの事で仲間同士であるあなた達が傷付け合うのが絶えられなかったのよ…」
次第に涙声になるフランソワーズは、今にも泣き崩れそうになるのを必死で堪えていた。
パリ・オペラ座を後にしたジョーとフランソワーズはセーヌ川に掛かるアレクサンドル3世橋の所までやって来た。
もちろん二人の事を案じたジェット、グレート、そしてアルベルトは二人から少し離れて歩き、同じ場所まで着いて来ていた。そして彼等は少し離れた場所からジョーとフランソワーズを見守った。
既に夜の帷が降り、アレクサンダー三世橋の美しい外灯には明かりが灯されていた。
その美しい光景も、ジョーには虚しく思えた。
橋の欄干に佇むジョーとフランソワーズ。
二人は少し離れて立っていた。
暫く、フランソワーズは黙ったままでセーヌの流れを眺めていた。
この川の流れのように、過ぎ去って行った日々を、フランソワーズは思い起こしていたのだ。二度とあの日に帰れないのだと、そう彼女は思わずには居られなかった。
思いかげぬジョーとの再会は、フランソワーズにとって辛いものでしかなかった。
夢にまで見ていた筈だった。どれほど、ジョーに逢いたかったことだろう。
心の何処かで、この瞬間を待ち続けてきたのだ。
けれども、今のフランソワーズには虚しく思えた。既にジョーへの想いを断ち切ろうと、そう心に決めていたからだ。
「 ジョー…。どうしてこのパリに来たの…?
突然…あたしの前に姿を現したの…?」
最初に口火を切ったのはフランソワーズだった。
今まで抑えて来たジョーへの想いが、まるで堰を切ったように、フランソワーズの口から溢れ出したのだ。
フランソワーズは尚も言葉を続けた。
「 ジョー…。どうして…もっと早く逢いに来てくれなかったの…?」
今にも泣き崩れそうになるのを必死でフランソワーズは堪えていた。
ジョーは複雑な思いで耳を傾けていた。
フランソワーズの口からその言葉を聞いた時、ジョーは心が大きく揺れ動くのを覚え、言葉を失いそうになった。
「 本当はずっと 君に…逢いたかった、フランソワーズ…」
それだけ言うのがやっとだった…。
「 あたしに…?嘘よ、そんなこと、信じられないわ。だって…そうでしょう?
あなたはこの数年間…一度も逢いに来てくれなかったのよ。
そんなあなたが逢いたかっただなんて…」
「 僕が君に逢いに来なかったは、何よりフランソワーズ…君の幸せを願っていたからだ。
君にとって本当の幸せは、バレエだと…。舞台の上で踊ることだと、そう思っていた。
風の噂で、君がパリ・オペラ座バレエのエトワールの座に就き、エトワールとして活躍している事を知った時、僕は躊躇った。君の前に姿を現す事を…。もしそうすることで、昔の辛い過去を思い出させてしまったら…。
僕にはそんな事が出来ないと、そう思った。君の前に不幸を運ぶ事など出来る筈がない…。
だから逢いに来なかったんだよ。」
ジョーは今まで胸に抱えて来たフランソワーズへの気持ちを全て話したのだ。
彼の気持ちを今知ったフランソワーズは、目に涙を溜めていた。
ジョーの気持ちは嬉しいと、そう思った。彼の気持ちはフランソワーズにとっては望んで居ることではなかったのだ。
「 ジョー…。あたしがそれを望んで居たと思う?
あなたがあたしに不幸を運ぶ…?
勝手な思い込みよ…!
戦いの日々の中でも…あなたはあたしの心の支えだった。どんなに辛い事でも、あなたと一緒だったから、乗り越えて来る事が出来たのよ!
あたしにとって…本当の幸せは、ジョー、あなただったのよ。
戦いの日が終わり、平和な日が訪れても、出来る事ならば、あなたの傍に居たかったよ。そのまま日本に留まりたいと、そう思ったわ。
けれどもそれは叶わないと、そう気づいた。
あなたがあたしを大切に思ってくれている事は分かっていたわ。けれどもただの一度も口にはしてくれなかった。それでも良かったの。ただ傍に居るだけで十分だったの。
けれども、日増しにあなたへの想いが大きくなるに連れ、自分の気持ちが辛くなっていくことに気付かされたの。そして決してあたし達の気持ちは交わらないと思った。このまま平行線を辿るのではないかって…。
あなたの傍に居ることさえ辛くなるのでは…と。
そう思い、あたしは決めたのよ。故郷のパリに帰って、再びバレエの道を歩んで行こうって。
あなたへの想いを忘れよう、そう自分に言い聞かせて来た。けれどもあなたの事をどうしても思い出してしまうこともあったわ。あたしの方から、ジョー…あなたに逢いに行こう…。そう思った事もあった。けれどもどうしてもパリを離れる事は出来なかったのよ。毎日、バレエの稽古を欠かす事を出来なかった事もある。けれども一番は、あなたに逢うのが辛かったからよ。」
切々とフランソワーズは自分の気持ちを吐露した。その想いはずっと彼女の胸の中にしまい込んでいた物だったのだ。
ジョーには何も言い返す事が出来なかった。言葉さえ見つからなかったのだ。
「 僕には君を責める権利はないよ。それに、君の為としてきた事は全て、勝手な思い込みだった…。」
自嘲気味笑いながら、呟く様にジョーは言う。今までフランソワーズの為にして来た事が勝手な思い込みだと言うことに気付かされ、何もかも虚しく思えたのだ。
結果的に自分がして来た事が、結局フランソワーズに寂しい想いにさせてしまったのだから…。
「 ジョー…もう遅いのよ。もう少し早く逢いに来てくれたら…こんなことにはならなかった。
あたしがジェロームを選ぶ事もなかったかも知れない。」
フランソワーズはそう言いながら、ジョーの方を振り向いた。
目にいっぱい涙を溜めながら…。
ジョーはそんなフランソワーズの顔を見た時、胸が締め付けられる思いでいっぱいになった…。
自分の不甲斐なさでこれほどまでにフランソワーズを傷付けていたことが悔やまれてならなかった。
「 フランソワーズ…」
思わずジョーはフランソワーズの腕を掴み、自分の方に抱き寄せようとした。
その瞬間、フランソワーズは反射的にジョーの手を払い除けた。
「 フランソワーズ…?」
ジョーはその彼女の態度が信じられず、驚いた顔でフランソワーズを見つめた。
しかしフランソワーズはジョーと目を合わせようとはせず、それどころか彼に背中を見せたのだ。
そしてジョーにこう懇願した。
「 お願い…ジョー!もうこれ以上、あたしの心を掻き乱さないで…」
「 フランソワーズ…!待つんだ!」
いたたまれなくなったフランソワーズはジョーの傍から突然走り出した。
ジョーが呼び止めようとしたが、彼女は止まろうとはしなかった。
二人の様子をずっと見守っていたグレート、ジェットそしてアルベルトは、この突然の出来事に慌ててジョーの元に走り寄って来た。
けれども、彼等にもどうする事も出来なかった。
ただ、走り去って行くフランソワーズの後ろ姿を
見つめるだけで、為す術もなかったのだ。
「 俺は最初からこうなるって思っていたぜ…。」
大きなため息を吐きながらジェットは呟く様に言った。ジェットは苛立ちを抑えられない様子だ。
そんなジェットとは違って、アルベルトは冷静だった。
走り去って行くフランソワーズを見つめその場に立ち尽くすジョーの肩を、アルベルトはポンと叩きながら声を掛けた。
「 ジョー…。これからどうするつもりだ…?」
アルベルトがそう尋ねるも、ジョーは暫く答えようとはしなかった。
するとグレートもジョーに声を掛けた。
「 そう簡単にはフランソワーズの心を動かす事は出来るとは思えないな、ジョー。」
仲間たちに声を掛けられても尚、ジョーは答えようとはしない。
彼自身もどうして良いのか分からなかったのだ。
「 このまま…尻尾を巻いて逃げるつもりか?」
痺れを切らし、ジェットはジョーに詰め寄った。
口ではキツい事を言っていたジェットだった。だが心の中ではジョーとフランソワーズの気持ちがひとつになることを望んでいたのだ。
「 暫く…放っておいてくれないか…。」
口を開いたかと思うと、ジョーはそうグレート達にそう言い残し、その場を去って行く…。
今のジョーの胸の中は言い知れぬ虚しさでいっぱいだった。
グレート達はただ黙ってジョーの後ろ姿を見守る事しか出来なかった。
続く…