宮澤崇史オフィシャルブログ「BRAVO」Powered by Ameba
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2019-01-20 10:54:09

自分の武器を見つける ー 我が道を振り返る・その6

テーマ:伝えたいこと

 

初めてイタリアへ渡った時。

日本でも活躍できなかった自分が、ヨーロッパに行って果たしてやっていけるのか?

ということは勿論考えた。

 

実際、現地に行ってみるとあまりにも実力の差がありすぎて、トレーニングについていくだけでもやっとだった。

 

それでも、何をするべきかは見えていた。

何をするかは

 

何ができるか?

 

だけでしかない。

なぜなら、人はできることしかできないから。

 

位置取りは、強い選手でなくてもできること。

完走はコースによってできる時とできない時があるけれど、位置取りは必ずできるし、反対にできていないとレースで何が起きているかわからない。

だからレースを勉強するには先ず位置取りから、と直感した。

 

それは誰かから教わったわけでもないし、そのことが正解かどうかを評価してくれる人もいない。

自分一人で暗中模索する他なかった。

 

でも次第に、

「お前はレースにちゃんと参加しているからそれでいい」

とチームメイトから言われるようになり、レース中に集団の前にいようとしないチームメイトに対してはエースが自ら

「タカシの真似をしろ!」

と言ってくれるようになったり。

次第に自分がチームに貢献できている場面が増えていく。

レースで良い働きができた時に投げかけられた言葉が

 

「ブラボータカシ!」

 

だった。

 

BRAVO.

 

ヨーロッパで生きるため、この言葉を一回でも多く自分に使ってもらえるように、僕はレースを走り始めたのだ。

 

僕が所属するチームは、プロになるか、それとも自転車を辞めるかという選択を目前に迫られたエリート23〜25才の選手達が所属するチームだった。

アンダーの選手は2名のみ、もう一人はアンダー4年目でエリートでも走れる選手だったので、走るレースは殆どがエリートレース。

そんな中で自分を立たせる方法はそれしかなかった。

逃げに乗ったらスプリントポイントだけは死ぬ気で取りに行き、レースがダメでもトレーニングに明け暮れた。

ま、それ以外やることがなかったというのが本音だけど。

 

インターネットがない時代は本当にすることがなかったから、トレーニングとレースのことしか頭に浮かばなかった。

 

そして、自分が食べているものへの疑問も大きくなり、それが料理を学ぶきっかけとなった。

 

10月になり、日本に帰ってきて一番驚いたことは、高校生の時には全く手も足も出なかった選手達 ー 彼らは大学生になっていたのだけど ー あれ?っと思うくらい走れていなくて、逆に年上の選手たちをどう抜かそうか考えるくらいに、いつの間にか力の差が逆転していた。

 

そして、自分がレースで勝つために何を学べきかを真剣に考えたら、日本にいる意味がないことに気がついた。

 

日本で走るくらいなら、いっそ選手を辞めよう。

と、その時初めて思った。

 

日本に帰ってくる理由なんて、百個上げようと思えば千個は上げられた。

その理由を考えるくらいならヨーロッパで一つでも活躍できることを考えた方が、シンプルに僕自身の人生が前に進むと感じた。

そして、その理由は結局は片手でお釣りがくるくらいの数しかないことに気がついた。

 

なぜヨーロッパへ行くことをいまだに薦めるかというと、僕はそれしか知らないから。

日本にいる理由を説明できる人は山のようにいるし、多分その殆どは世界の頂点を一度でも自らの目で見たことがない人だと思う。

 

大海を知るには、必ず沖に出なければならない。

世界を知るには、その世界で必死で生きようと努力しなければならないし、そこで何かを掴んだ選手にしか世界はわからないと思う。

 

なので、僕は大学へ進学する選手にアドバイスはできないし、していない。

自分の知らない世界をさも知ったかのように言うことは失礼だと思っているからだ。

 

初めはみんな悶え苦しみ、絶望なんて感じている暇がないほど無我夢中で生きようとする。

 

トレーニングをしていても、苦しいとか、無理、とか言っていられるうちは、まだまだ行ける。

 

本当にやってやってやり尽くして、考え尽くしている選手は、絶望だなんて言っていられない。

 

そんなことをその後18年も僕は続けることになるのだけれど、それをヨーロッパに行くことで一年目から感じることができたのだ。

2018-12-30 08:29:45

はじめてのイタリア生活 ー 我が道を振り返る・その5

テーマ:伝えたいこと

 

海外へ行くには、今のようにEチケットではなく紙のチケットを旅行会社に郵送してもらうのが当たり前だった時代。

9ヶ月も滞在するのに僅か25kgの荷物、初めてのビザを携えてイタリアに到着しました。

しかし到着ロビーには、迎えに来てくれるはずの大門監督の姿がありません。

まあ待ってればそのうち来るだろう、と悠長に考えながらベンチに腰かけて待っていました。

今のようにメールもなければ、国際電話もないから連絡の取りようがありません。

国際テレフォンカードで日本に電話して、そこからイタリアに電話して、なんてことは思いもつかない旅の始まりでした。

2時間が過ぎ、トイレに行きたくなりました。

ヨーロッパは治安が良くないと聞かされていたので、警戒してギリギリまで我慢に我慢を続けたけれど、流石に限界に達しトイレへ行くことを決意。

半地下1階に降りるには、荷物が多過ぎて運ぶことなど到底できません。

周りに人が少なくなった時を見計らって、階段上に荷物を置いて貴重品だけ持ってトイレへ走る。

ありったけの腹筋を使って20秒ほどで用を済ませ階段を上がると、荷物は無事そのままでした。ふ〜。

そもそも9ヶ月分の25kgの荷物って全部が貴重品なのだけど、とりあえず問題は解決。

 

最終的に迎えに来たのはイタリア人のジョルジョ。

でも僕はジョルジョの顔は知らないし、どうしたってその辺の怪しいイタリア人にしか見えない。

僕が警戒するのでジョルジョが大門監督に電話をしてくれて、

「そいつについて行って。大丈夫だから」の一言を聞いてようやく一件落着。

 

翌朝ようやくホテルの外に大門監督が現れ、チームへと合流。

チーム監督と一時間ほど話をした後、大門監督は

「また来るから。困った事があれば連絡くれればいいから、頑張って!」

 と言い残し、その後五ヶ月間も顔を見せませんでした。

そしてその五ヶ月間、ただの一度も大門監督に連絡することはありませんでした。

なぜなら、一度も困らなかったからです。

 

イタリアのチームにマフィア社会のようなイメージを勝手に持っていた僕は、先ずチームの中心人物を見つけて仲良くなりました。

すると何か困った時には、彼が周りの選手を使って助けてくれるのです。

 

最も肝心なイタリア語の習得は、学校には通っていたけれども成績は一番下のクラスで最下位。

エリートカテゴリーの選手がひしめき合うチーム「FOR3ベルガマスカ」は、今年で選手を引退するかプロになるかの瀬戸際の強い選手達ばかり。

そんな選手たちと6時間トレーニングした後の授業は非常によく眠れました…

 

「イタリア語を学ぶ日本の若者」として地元の新聞に取り上げられた時の記事

 

その頃のイタリアのアマチュアチームといえば、トレーニングと日々の散歩以外はベッドの上で過ごせ!という軍隊のような生活が当たり前でした。

一日のスケジュールと食事内容はすぐに書けます。

朝起きたらラスクにリコッタと蜂蜜&ミューズリー(美味しくない鳥の餌みたいな)。

トレーニングに行っても食べる量は決まっています(バー&ラスク)。

帰るとシャワーを浴びて、塩とオリーブオイルだけのサラダと素パスタ。

昼寝を30分したら1時間の散歩。

夜は昼食に鶏か豚の塩焼きグリルがつくだけ。

一日が終了。

という、まるで家畜のような生活が9ヶ月も続くのです。

 

”家畜の餌”のような食事が自転車選手の取るべき食事とされた時代。チームメイト達と。

 

そんな生活の中で、レースが僕にとって一番の非日常でした。

エリートは殆どのレースが120km〜150kmという距離。

平坦アベレージ46km/hなら「今日は遅かったな」と感じる。

そんなレベルのレース。

チームからのオーダーは特になかったけれど、その中でできる事を必死に探しました。

 

僕がすべきことは、「完走する」ことではなく、「集団の前にいる」ことでした。

 

すなわち、レースをよく見て、ヨーロッパのレースを学ぶこと。

 

集団の後ろについて前に上がることを諦め、なるべくゴールに近いところまで集団で食らいついていく、そんなことには何の価値もない。

と、もうその時からわかっていた。

 

その後、これが僕にとって最大の武器になっていくことは、この頃知る由もありませんでした。

 

続く

2018-12-18 13:34:00

自由を手に入れること ー 我が道を振り返る・その4

テーマ:伝えたいこと

 

世界選手権の結果は22位、思った以上の成績を出すことができました。

それは、たまたま奇跡が起こったから。

スタートして最初のコーナーを抜け、土と芝の下り坂を下っていると、前方で大落車が起こりました。

ほとんどの選手がフルブレーキする中、僕の目の前だけ道ができていたのです。

落車した選手を縫うように進むと前が開き、スタート1分後には15番手。

結果的にも満足のいく順位でゴールができました。

このレースで学んだのは、

 

どんなにラッキーでも決して自分のペースを崩してはならない

 

ということ。

あそこで浮かれて前の選手についていこうとしたら、もっともっと順位は下だったでしょう。

一生懸命になりすぎて自分を見誤ってはならない。と、このとき心に刻みました。

 

 

高校を卒業する前に東京へ引っ越し、実業団選手として走っていたある日のこと。

ラバネロの高村監督からイタリア行きたいか?と聞かれ、二つ返事で行くことを決めました。

それは、大門監督が初めて高校生をヨーロッパへ合宿体験させる企画をした時のことでした。

 

初めてのイタリアでは小高い山の上のホテルに泊まり、モイッツァという名の美人な給仕さんが食事を運んできてくれて、美味しくて美味しくて次から次へと平らげたことを覚えています。

前菜が終わる頃にはすでにお腹いっぱいで、続くパスタと肉をはち切れそうなお腹へ詰め込むことに。

イタリアでは、次の料理へ移る際に今食べているものを少し残してお皿を代える習慣がありますが、そんな事とは知らず出されるがままに食べ過ぎてしまった思い出。

これが僕が初めてイタリアの食文化に接した瞬間でした。

 

この合宿では、その後ずっと僕の心に残る言葉を頂きました。

体調が悪かったある日、それでも練習に行かなきゃならないと思ってチームメイト達と一緒に出発しました。

案の定、途中でさらに具合が悪くなってホテルへと帰ろうとしたのですが、日本チャンピオンでもある清野氏に

「中途半端にトレーニングするなら最初からついてくんじゃねぇ。お前一人のために車を使ってホテルまで送り届けなきゃならんのだぞ」

と叱られました。

当時は携帯もなかったし、未成年の選手を一人で帰すにはリスクが大きすぎたのでした。

 

「やると決めたら、最後までやり通す。しかし、中途半端にやめるくらいなら最初からしない。」

 

この言葉は、僕の選手人生で最後の最後まで心に響く言葉でした。

 

この年、チューリッヒ選手権で13位でゴールし、生まれて初めて賞金をもらいました。

このお金が嬉しくて嬉しくて、今でも大切に保管しています。

自分が自転車の世界水準でどこ(順位)にいるかを初めて自分自身で掴めた瞬間でした。

このレースに一緒に出た小嶋選手は高校2年生でインターハイを制している選手でしたが、なぜか僕の方がいい順位でゴールできて、とてもビックリした思い出があります。

 

その時、清野氏に言われた言葉は

「お前、将来どうしたいんだ。」

「ヨーロッパで活躍できる選手になりたいです。」

「なら、来年イタリアに絶対に来なきゃダメだ」

 

清野氏のこのひと言で、僕はイタリア行きを決意しました。

 

全てが大きく、方向転換する瞬間でした。

日本では同じ年の選手と戦ってもせいぜい30位くらいでしか走れず、実業団でも殆どのレースを完走すら出来ずリタイアしていた僕が、世界へと挑戦する暴挙に出たのです。

2018-12-16 15:00:50

自由を手に入れること ー 我が道を振り返る・その3

テーマ:伝えたいこと

高校生活は、とにかく自転車三昧の日々でした。

高校時代の思い出は、いくつか強烈に覚えていることがあります。

 

叔父さんに初めて買ってもらった自転車はパナソニックのクロモリ。

15万円くらいのロードレーサーでした。

 

僕が育った長野市は、山々に囲まれた盆地。

夏は平日60kmほど、休日は100km近くを走っていました。

TTTやチームパシュートのような人数が足りない競技もあるので、レースに間に合わせるためになんとか部員を4名まで増やして形にした即席チームは、チームタイムトライアルで見事バラバラに。

それでもレースに出られることが何より楽しかった。

勝ちへのこだわりよりも、自転車に乗れる幸せで溢れ返った時期でした。

 

ある日、部の顧問の先生が心拍計を買ってきてくれました。

これは本当にラッキーで、トライアスロンをやっていた先生が顧問でなかったら、こんなにいち早く効率を考えたトレーニングは始められなかったでしょう。

当時発売されたばかりで雑誌でも取り上げられていた心拍計は、トレーニングの質を一気に上げてくれ、LT前後でのトレーニングが増えていくことで急激に強くなっていきました。

 

そんなある日、乗鞍で開催されるヒルクライムレースの情報を入手。

そのヒルクライムの初レースで、まさか優勝することになるとは。

前の晩は母と車の中に泊まって、ジュニアカテゴリーに出場しました。

先頭集団は6名ほど。何人もの選手を抜きながらゴールを目指し、山頂が近づく頃には2名に絞られて残り2kmほどはひとり旅に。

すでに誰かが前に行ってしまっていた可能性もあったので、ゴールした時には順位よりとにかく最後まで必死に上りきった!という達成感以外はありませんでした。

下山途中、後ろの選手と話をしたら「多分僕らが第一集団だったと思う」の言葉に初めて「優勝」の文字が頭に閃き、人生の中で今まで経験したことのないワクワク感を味わいました。

学校という小さな枠ではなく、全国から集まるこの大会でもしかしたら?という経験したことのない高揚感。

結果は1時間11分で優勝。

この時初めて、自分はクライマーなんだ!!と勘違いをするのでした。

 

 

トラック競技はあまり得意ではなかったことと、バンクまで80kmもあるのでなかなか練習にいけないことから、あまり積極的にトレーニングに取り入れていませんでした。

しかし、将来のことを考え始めた時、高校を卒業した先で自転車に乗り続けるには当時実業団チームに入るしか選択肢はありませんでした。

実業団の採用基準は、「大学卒業」。

自転車を続けるには高校生の間に良い成績を残して大学に進学する、という道しか当時は思いつかず、必死で勝つことを意識してトレーニングに打ち込みます。

しかし結果は振るわず、全国大会でも30位くらいが精一杯でした。

 

諦めかけていたそんな時、高校一年の時から続けていたシクロクロスの世界選手権を走ることになります。

当時シクロクロスに積極的に参加していた東京のクラブチーム「ラバネロ」の高村さんが、卒業後にチームで走らせてくれるというチャンスを与えてくれます。

 

世界選手権前といったら普通はトレーニングに明け暮れるようなイメージですが、僕は違いました。

勉強に明け暮れる毎日。。。。。

え?なんで?

えっと。。。全く勉強しなかったので成績が良くなくて赤点ばかりで、世界選手権が最後の試験と重なって受けられないという状態。

それでも、なんとか毎日1時間くらいの練習時間を作って世界選手権へと旅立ちました。

 

世界に飛び出すこと。

 

これが自分の道を切り拓く唯一の手段だと、その時の僕はすでに確信していました。

何故なら、世界基準のレースを見て自転車に憧れたのならば、世界基準のレースを走るのは当然であり、実際に自分が今どういう順位にいるかを世界基準で知ることができるからです。

そんなレースは、日本には一つもありませんでした。

 

続く

2018-12-12 01:02:33

自由を手に入れること ー 我が道を振り返る・その2

テーマ:ブログ

 

小学生の頃の僕は走ることが大好きで、低学年なのに高学年のマラソン大会に紛れ込んで走ったりしていました。

優勝してはまずいので先頭集団の後ろで走ってゴール前のコーナーで道を外れ、みんなに見られないようにこっそり校庭の陰から戻ったこともありました。

 

ある時、先生が「アイアンマンというトライアスロンをやろう!」と言い出した時には、ワクワクが止まりませんでした。

毎日朝・昼・夕方、累計が42.195kmになるまで学校の周りを走ります。

休みの日には、学校のプールで3.8kmになるまで泳ぎ続けます。

自転車の180kmは流石に走れないので、校庭にコースを作り、休日に一度だけ朝から晩までみんなで走りました。

 

小学校であまりにも勉強しなかったおかげで、中学では練習時間が長いサッカーはさせてもらえず、テニス部に入部。

球技は得意なつもりが、テニスは本当に自分に合わないことがよくわかった。

部活が終わってから自転車で市営のテニスコートへ行き、知らない人とテニスをするほど打ち込んでみたけれど、何ひとつ上が見える結果を残すことができなかった。

 

友達が長野から軽井沢まで自転車で走った話を母にしたことがありました。

しばらくしたある日、マウンテンバイクのレースを探してきてくれた母がいた。

 

「へえ、こんなのあるんだ。出てみたい!」

なんとなくそう思った。

でもマウンテンバイクは持ってないから参加できない。

欲しいけど、その当時お年玉を貯めても1万円行かないくらいの自分にとって10万円もするような高価なマウンテンバイクは雲の上の乗り物だった。

そんなある日、母がどこからか自転車を借りてきてくれて、レースにも申し込んでくれていた。

 

え?まさか!

 

凄いサスペンションがついてる自転車。

 

まるで高級車に乗ったような気分になった。

 

レース会場へ行くと、レーサーパンツやジャージ、かっこいいヘルメットをかぶ

った選手ばかりで、自分は学校のジャージでサイズの合ってないヘルメット。

走っているとヘルメットが落ちてきて前が見えないおまけ付き。

 

それでもなんとか27位でゴール。

 

母は今まで見たことがないくらい喜んで、僕を褒めちぎってくれた。

友達の親に嫌味を言われたり、体育を頑張っても進学校でそれが評価されることなど殆どない中、母は本当に本当に心から僕を褒めてくれたのだった。

 

 

ある日、ツール・ド・フランスをTVで見て

 

あ、俺がやることってこれだ。

 

瞬間にそう思った。

疑う余地なんてこれっぽっちもなかった。

 

自転車部を調べると、長野県では岡谷工業高校が強く、バレーボールでも強かったためスポーツで寮に入る選手が多いことがわかった。

手紙も書いてすっかり岡谷工業高校へ行く気でいたが、ふと自転車部のある地元の長野工業高校に進学することを選んだ。

(滑り止めで受けた私立高校の面接で

「自転車選手になりたいから片道20kmの学校に毎日通い続けます!」

と言って合格できなかったことは、今でも忘れたいことの一つである…)

 

長野工業高校に入ってびっくりしたことがある。

それは…

 

部員が二人しかいなかった上に「自転車部」ではなく、なんと「サイクリング同好会」だったのだ!

 

なんだそれ~!!!!

 

そんな高校生活をどう過ごしたかは、次回へ続く。。。。。。

2018-12-02 10:32:19

自由を手に入れること ー 我が道を振り返る・その1

テーマ:ブログ

ツイッターやこのブログをいつも読んでくださっている皆さんはよくご存知でしょうが、僕は書くことがあまり得意ではありません。

しかしこの頃、人に伝えることがいかに大切であるかを感じることが多く、きちんと書いて伝えなければならないなと思うようになりました。

 

たとえば、自分がこれまで生きてきたことの意味。

 

自転車に人生を賭けてきたことの意味。

 

その自転車を降りて、こうして今生きていることの意味。

 

僕という人間は一体、何のために生かされているのだろう?

 

誰しもこの世に生まれてくる時、その時点ですでに多くのものを受け取って生まれてきます。

さらには生を受けた後に受け取る膨大な親の愛情、周囲の支援、無数の出会い、無数の経験。成功と失敗、幸運と不運。

受け取ったものは、何かの形で返さなくてはいけない。

しかし、どのように?

 

そんなことを考えているうちに、まずは過去を遡って自分のことを書いてみようと思いつきました。

 

なぜ過去に遡ってみようかと思ったか。

 

それは、自分を再確認してみたかったからです。

 

皆さんの人生と重なる部分もあれば、そうでない部分も多いかもしれません。

 

・・・

 

僕の自転車選手としての歴史を遡るとすれば、三歳まで遡る必要があります。

 

三歳というのは、普通だったら自転車に触るか触らないかの年齢。

 

そんな歳に補助輪を外すことに独力で挑戦した瞬間から、僕の自転車選手としての人生は始まります。

 

というのも、僕が選手として世界に挑戦する最後の最後までこの

 

「独力で挑戦する」

 

精神は続いたからです。

 

皆さんもご存知だろうけれど、補助輪の弊害は沢山ある。

第一にスピードが出ない。

狭い歩道では決められた場所でしか走ることができない。

子どもを守るための装置である反面、自由を制限する装置でもある。

そんな「不自由」に不満を持ったのが、三歳の時でした。

僕が何を求めていたか。

ただただ自由に、自分が走りたい場所を走りたいスピードで、自分で全てを選んで走りたかっただけ。

もっとつきつめた言い方をすれば自転車の話だけじゃなく、

 

あらゆるものから自由になりたかった。

 

それだけのことでしかないけれど、誰もがそれを自分自身の意思で決められるかはわからない。
自由になりたいだなんて、一生考えない人もいるだろう。

何をもって不自由と感じるかは人それぞれ。

 

僕にとって至極当たり前なはずのこの「自由」、それでいて手に入れられないこの自由を手にするための挑戦が、その瞬間に始まりました。

 

一日中、というのは自分の思い込みかもしれないけれど、それくらい夢中にただただ二輪をまっすぐ走らせる事ができるようにその日は集中して乗りました。

転んだ回数は数知れず。

しかし転んだことはすぐに忘れる。

自分が走れるイメージだけを追い続け、そうなれるように努力し続けた。

おかげでたった一日で補助輪は外れ、自分が思い描いていた自由を手に入れる事ができたのです。

これが僕の人生初の成功体験でした。

 

 

それからというもの、毎日のように自転車に乗り、祖父の畑へ、田んぼへ自転車で行くようになりました。

 

どこで止まっても、どこで加速しても何もかも自分自身で決め、自分の思い通りに走れる自由を手に入れたのです。

 

 

・・・

 

 

私の父は四十二歳でこの世を去りました。僕は六歳でした。

 

今でも覚えているのは、ディズニーランドで体調が悪そうにベンチに座っている父の姿でした。

そして今でもその姿以外の父を思い出すことはできません。

小さいながらにショックが大きく、無意識に記憶から抹消したのかもしれません。

父の記憶が戻るとしたら、いわゆる死の前のフラッシュバックくらいの時なのかもしれません。

が、そんなことは大して大切なことではありません。

 

専業農家だった父の家では父がいなくなった今、私の母は必要な存在ではありませんでした。

父が亡くなった後、母は私と姉を連れて父の家を出ることとなります。

 

国家公務員だった母は、二人の子どもを育てるために女手一つで必死に働きました。

 

 

父の実家を去った後に移り住んだ家には電話がありませんでした。

1980年代、電話以外の手段は足で声を届けること以外にありませんでした。

 

それでも、そんな生活を不幸だと思った事は一回としてありませんでした。

 

なぜなら、僕たち家族は常に助け合い、僕が自由に生きていける土壌を母がしっかり作ってくれたからです。

 

その次に住んだ家は、夜になると天井の上でネズミが運動会をするようなボロボロの古家でした。

 

僕は学校へ行っても勉強に集中する事は皆無の子どもでした。

いつも休み時間が楽しみで、食後の昼休みにサッカーをすること、休日に野球をすることが大好きでした。

クラスメイトが集まらない休日は、学校の校庭で母にノックをしてもらう事が大の楽しみでした。

フライをあげて欲しいのに上手くあげられない母に文句を言うようなひどい息子でしたが、それをずっとずっと続けてくれた母には今思い返しても頭が下がります。

 

勉強ができない反面、運動はとにかく群を抜いて得意でした。

 

小学校五年生の参観日に、クラスメートの親から

「ようやく崇史くんは机の上を走らなくなったのね」

と感心されるほど、全く制御不可能な、手のつけられない暴れん坊でした。

そんなわけで当時の僕は周囲の大人達から、子どもというより「イヌ」と認識されていたようです。

 

続く。

 

2018-11-19 20:54:32

ヨーロッパへの切符はチャンス

テーマ:自転車の未来について考える

これは僕が以前から言ってることだけど、親に大学まで面倒を見てもらったとして、

「卒業後は相変わらず無収入だけれどヨーロッパへ行って挑戦したい」

と言ったら、おそらく普通の親ならNOと言う確率の方が高い。

実際に僕がそうだった。

YESと言わせるためには、高校を卒業する時に「大学に行く代わりにヨーロッパへ自転車選手として留学したい」と思いきって言ってみるのも、方法の一つだと思っている。

なぜなら、まだその年齢なら親も子どもに夢を追いかけさせてあげたい、とギリギリ思えるから。

また、結果が納得を生むこともある。

大学を卒業するくらいの歳に、プロコンチ以上のカテゴリーで一度でもトレーニーとして参加させてもらえるチャンスがあったら、再来年にはプロになれるはず!そう思えるだろう。

 

例えば、日本でトップレベルになり、運良く海外チームで走れるチャンスを得たとして、相手は一体どのくらいこちらの実力を知っているだろう。

これは自分の選手時代と重ねて思うこと。

 

海外のチームで走るということは、即ちチームが自分の生活の面倒ををみてくれるということだ。

例え年収が200万円だったとしても、自分にかかるコストが300万円/年だったら500万円の年収を得たと同じことだ。 

プロチームの選手として生きていくなら、誰の助けも得ず自力で生活しなければならない。

ということも踏まえた上で、海外で走れるチャンスを得たとしても、そのチームで、その土地で、自分の走りを認めてもらえなかったら、次のステップは永遠に手に入れることができない。

 

日本でお金をもらいながら走っていて、いきなりヨーロッパへ行けるというのは、ものすごく大きなチャンスかもしれない。

また、お金がもらえると言われて行ったのに、もらえないことも中にはあるかもしれない。

それは、最初に書いたように「相手はどれだけ自分の事を知っているか」という問題があるからだろう。

しかし、チャンスはどんなものであれ、次につながるチャンスでもある。 

成長には時間がかかるし、一朝一夕には強くなっていかない。

経験の中で結果を出し、周りに認められていく時間は必要だ。

 

海外へ行けば、理不尽な目に遭うことも多い。 それも自転車に乗る上の事でないことが、本当に多い。

けれども、そんな理不尽さえも乗り越えて、日本人の若い選手たちが海外で生きていくための力をしっかりと身につけて活躍する事を祈っている。

 

2018-10-28 19:10:22

母と子のロードレース

テーマ:生きるということ

平成31年度版・中学三年生の道徳の教科書(出版元:廣済堂あかつき)に、母と私の物語が掲載されることになりました。

以下に全文を転載させて頂きます。

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「母と子のロードレース」

「すごい!この人たちはみんな自転車のプロなんだ!」

 

 その日、テレビ放送されていた世界最大の自転車レース「ツール・ド・フランス」を偶然目にした十四歳の宮澤崇史少年は、雄大な自然の中を颯爽と走り抜けるロードレーサーたちの勇ましい姿に興奮を抑えきれなかった。
 三歳の頃から毎日のように自転車に乗り、野山を駆け巡った。
六歳のときに父を病気で失い、移り住んだ家には当初、電話がなかったが、頼りの祖母の家へは、往復五キロメートルの道のりを自転車で行き来し、伝言を届けた。

「遠いのに、よう来たねえ。」と目を細める祖母の言葉がうれしくて、用事を見つけては往復した。

中学生になると、サッカー部の応援の帰りに電車で帰途につく友人たちに「自転車で先に着いてみせる。」と宣言し、笑って取り合わなかった彼らを終着駅で出迎えて驚かせたこともある。

 宮澤さんにとって自転車は、自分自身の代名詞であり、切っても切れない体の一部のようなものだった。

「プロになれば、大好きな自転車を仕事にできるぞ!」

そのときから「プロのロードレーサーになる」という宮澤さんの大きな夢への挑戦が始まった。

 

 自転車に「レース」というものがあることを知ったこの頃、宮澤さんは近所の山でマウンテンバイクの大会が行われることを聞いた。

「この大会に出てみたい。」と思ったが、なかなか言い出せなかった。なぜなら、大会に出るためには、普通の自転車とは異なる競技用の自転車が必要だったからだ。

 一つ年上の姉と崇史、幼い子供二人を抱え、宮澤家の家計は母の純子さんが一人で支えていた。

暮らし向きは決して楽ではなく、高価な競技用自転車が買えないことくらい、中学生の宮澤さんにもわかっていた。

 すると、母は、

「崇史、大会に出てみなさい。自転車は母さんがなんとかするから。」

と言って、数日後、マウンテンバイクを用意してくれた。

 純子さんは知人に息子の夢を語り、必死に事情を説明して、人づてに競技用自転車を借りてきてくれたのだった。  こうして宮澤さんは、人生初の自転車競技に出場した。結果は二十七位。しかし、そこには、 大人に混じって力走する宮澤さんに大きな声援を送り、手をたたいて喜んでくれる母の顔があった。

 この大会をきっかけに、宮澤さんは自転車競技にのめり込み、競技者としてめきめきと頭角を現すようになった。

 

 高校を卒業した十八歳のとき、宮澤さんはプロロードレーサーを目指して自転車レースの本場ヨーロッパへと旅立った。家計を考え、留学を躊躇していた宮澤さんの、その背中を押してくれたのも、やはり母純子さんだった。純子さんは限られた給料の中から生活費を切り詰め、息子の留学費用を工面した。息子の夢は、母純子さんの夢でもあった。

 そんな母の思いに応えるかのように懸命な努力を続けた宮澤さんは、やがてさまざまな競技会で 好成績を残すようになる。しかし、これからがまさに競技者としての正念場というときに、思いも寄らぬ出来事が親子を襲った。

 母純子さんが、重い肝臓病で倒れたのだ。

 

「生体肝移植をする以外に、治療法はありません。」 医師から告げられた言葉は、残酷なものだった。

 生体肝移植は、健康な提供者(ドナー)から肝臓の一部を切り取り、患者(レシピエント)に移植する大手術である。提供者は、肝臓の三十パーセントから七十パーセントを切り取られることになり、手術前後の検査を含め、長期の入院、通院を余儀なくされる。そして、移植を受けた患者は、術後、合併症の恐れがあり、命を落とす場合もあった。

 生体肝移植は、提供者と患者の双方に多くの危険を伴う手術だったが、以前から患っていた肝臓病がさらに悪化してしまった純子さんには、これ以外に生きる道はなかった。

 宮澤さんは、ためらうことなく言った。

「僕の肝臓を移植してください。」

 しかし、そんな息子の申し出を、母純子さんは断固拒絶した。宮澤さんが何度も説得を試みたが、決して首を縦には振らなかった。

 母は知っていたのだ。この申し出を受けるということは、息子のロードレーサーとしての選手生命を奪うことになる、ということを。

 肝臓は、体内で最も大きな臓器であり、再生可能な臓器でもある。しかし、切り取られる提供者の体への負担は小さくない。ましてや、生体肝移植後、第一線で活躍したプロアスリートは、 世界に例がなかった。これからいっそうの飛躍が期待される二十三歳という年齢で、息子の夢が絶たれることを、母はどうしても容認できなかったのだ。

 母を思う息子と息子を思う母ー。

 互いの思いがぶつかり合い、時間だけが過ぎていく。とはいえ、純子さんの病状は、それほどの猶予を許さなかった。

 覚悟を決めた宮澤さんは、きっぱりと言った。 「母さん、僕のために移植をしてほしいんだ。」

 母の目から涙がこぼれた。

 

 移植手術は無事成功した。必要な安静期間をおいて、宮澤さんはトレーニングを再開し、母は生きるためのリハビリを始めた。 しかし、宮澤さんの肉体的ダメージは、想像以上に大きなものだった。みぞおちの上部からおへそ、おへそから横腹へと大きくメスが入った腹筋は、力を失っている。体を支えることさえできず、自転車にまたがって立っているのがやっとだった。 一日の練習で、およそ150キロメートルを走るという過酷なスポーツである。立っているのがやっとの自分が、以前のような走りに戻るのは、生半可なことではないと実感した。宮澤さんは、腹筋を鍛え直すことから始め、毎日三時間もの腹筋運動を自分に課した。

 けれども、宮澤さんの戦場は、たった一日練習を休んだだけでも肉体が変化し、それがすぐに競技結果に表れるアスリートの世界である。どんなにハードなトレーニングをしようとも、一度筋肉が切られ、長期休養を強いられた体は、そう簡単に元には戻らなかった。

 思うような走りができない日々が続く。成績は振るわず、ついに、当時の所属チームから戦力外通告を受けた。

 予測できた結果だったのかもしれない。もともと小柄で恵まれた体格ではないうえに、移植手術というハンディキャップを背負ってしまったのだ。当然といえば当然の結果だった。

 宮澤さんは、失意の中で思い出していた。昼夜を問わず、働き詰めに働いていた母。どんなに疲れていても、必ず応援に駆けつけてくれた母。そして今、ぼろぼろになってしまった体を奮起させ、生きようと懸命にリハビリを続けている母…。

 宮澤さんの中で、手術を決めたときの強い決意がよみがえってくるのを感じた。

移植を理由に、引退はしない ー。

宮澤さんは、顔を上げた。 「そうだ、こんなところでロードレーサーとしての人生を諦められない。諦めてたまるものか。」 自分自身のためだけではなかった。母のためにも、どうしても諦めたくなかったのだ。

 

それからの宮澤さんの執念は、すさまじいものがあった。復活を誓い、いっそう過酷なトレーニングを行った。自分自身が誰よりも練習をしたという確信がもてるまで練習に練習を重ねた。不遇の年月は長く険しいものだったが、気持ちは一度も後ろ向きになることはなかった。自転車への思い、そして母への思いが、宮澤さん自身を支えていたのだった。

 

2008(平成20)年、宮澤さんは、北京オリンピック日本代表の切符をつかんだ。そして迎えた2010(平成22)年6月。ついに日本最高峰のレース「全日本選手権」に勝利し、宮澤さんは、日本一のロードレーサーとなった。それは、移植手術前にも手にすることはできなかった、最高の栄誉だった。

 最後の直線、渾身のラストスパートで大接戦を制したゴールには、涙にむせぶ母の顔があった。息子を信じ、いつも夢を後押ししてくれた、あの頃と同じ母の顔が。 

 手術から九年。

 息子は母のために走り、母は息子のために生きた。 

 母と子の長いロードレースが大きな実を結んだ瞬間、二人は抱き合い、人目をはばかることなく泣いた。

 

2018-10-18 10:19:03

動画が公開されました「アルファロメオ・STELVIO」

テーマ:メディア掲載

先月イタリア・ステルヴィオ峠を走った時の模様が、ナショナルグラフィック取材班の撮影による動画となって公開されました。

 

https://www.alfaromeo-jp.com/models/stelvio/content/turningpoint/?utm_source=natgeo_facebook&utm_medium=banner&utm_content=type2&utm_campaign=stelvio_bianchi_1001

 

雄大な景色と、そこを上るサイクリストで溢れるステルヴィオ峠。

山頂へと向かうサイクリスト達の目に苦しさと楽しさが同時に浮かぶ、とても長い長い時間。

遠くから見上げていた景色から、徐々に眼下の景色へと目を向け始めるのはラスト4km。

山頂は時おり目に入ってくるものの、それよりもここまで上ってきたという過去を振り返りながら、あと少し、もう少しと自分に言い聞かせて上っていく。

 

E-BIKEで走る人、マウンテンバイクで走る人、ロードで走る僕ら。

そこを走る人全員の共通意識は、山頂から眺める景色の感動と、今まさに上っている自分自身との戦いなんだな。

 

サイクリストを苦しませ、車でも大変なステルヴィオ峠をアルファロメオ STELVIOはスイスイと優雅に上り、子どもの時に味わったようなワクワク感がどこまでも続く。

スイッチバックを繰り返しながら上っていくうち次第に空気は薄くなり、人にも車にも過酷な条件の中で山頂を迎えた瞬間の気持ちはとても清々しく、また上ろう!と心の中で思う。

そんな魅力がここ、ステルヴィオにはある。

 

今回はモータージャーナリストの河口まなぶ氏とご一緒し、車の操作性、加速感、いろいろと勉強になるお話を聞きながら、STELVIOの魅力を伝えています。

もちろん、BIANCHIのロードバイクで一緒に走ってきましたよ!

 

2018-10-01 10:41:00

ロード世界選手権2018

テーマ:レース解説

昨夜は、八日間にわたり開催されたロード世界選手権・インスブルック大会の最終日を飾った男子ロードレースの解説をさせて頂きました。

距離258km、獲得標高差4,681m、6時間46分41秒にも及んだ死闘のレースでした。

 

スタート後、アタック合戦は思ったよりも続かず、230kmを残して前に逃げたのは以下の通り:

 

Robert Britton (Canada)

Tobias Ludvigsson (Sweden)

Kasper Asgreen (Denmark)

Ryan Mullen (Ireland)

Daniil Fominykh (Kazakhstan)

Vegard Stake Laengen (Norway)

Ryan Mullen (Ireland)

Karel Hnik (Czech Republic)

Jacques Janse Van Rensburg (South Africa)

Ilia Koshevoy (Belarus)

Laurent Didier (Luxembourg)

 

集団はアラフィリップ率いるフランスが牽く中、地元のジャック・ヘイグ率いるオーストリアが前を固め、ログリッチ、モホリッチ率いるスロベニアが続く。

優勝候補は、アラフィリップ、バルデ、バルベルデ、ニーバリ、デュムラン、モレマが有力どころ。

先頭集団は着実にメイン集団との差を広げ、インスブルックの街へと進む。

 

今回、日本からは中根選手が単独で参加。

直前の9月19日に行われたGiro della Toscana では18位と健闘し、今回のレースも山岳の力を発揮できれば良い順位でゴールができるはずだ。

監督の浅田氏も30位を目標にレースをスタートする。

集団内では一人で位置取りをしなければならない事が心配されるが、前半の周回では集団前方を走り、体調の良さを見せてくれていた。

120kmを過ぎて集団後方を走っていた有力選手たちが前に上がる動きの中で、前に上がれず逆に集団後方に位置を落としてしまったのが良くなかった。

イーグルスの上りから下り、街中を通る狭い路地で後ろに下がってしまったことで、コーナーを過ぎた立ち上がりでは最後尾で苦しい展開になり、そのままイーグルスの上りへと入っていく。

1回目のふるい落としで最後尾になってしまった中根選手はなんとか集団後方で粘りの走りをするが、さらに集団から遅れてしまった。

 

レースは大きな動きを見せないまま、残り2周あたりからイタリア、スペイン、オランダが集団のペースをあげようとアタックを繰り返すが、最終周回で飛び出したバルグレン以外は集団に吸収されて最後の上り、地獄の峠で知られるグラマートボーデンに入っていく。

ここで集団前方を固めたイタリア、スペイン、フランス、がペースを上げていく。優勝候補のアラフィリップもバルベルデもこの位置に、誰が頭1つ抜け出すか!という展開の中前に残ったのはバルベルデ・ウッズ・バルデ・モスコンだった。

デュムラン、アラフィリップが遅れる中、モスコンも遅れ、アラフィリップも完全にこの上りでストップ。

デュムランのみ自分のペースを守り、モスコンをかわして唯一戦闘集団に追いついた。

 

こうなると、バルベルデのスプリント勝利はほぼ確実なものと思われるが、ほかの選手がアタックを仕掛けたい4対1の展開はバルベルデにとって良いものとは言えない。

バルベルデにとって追い風があるとすれば、下り切った後はほぼゴールまで距離がないことだった。

ライバルにアタックを仕掛けさせないよう、残り1.3kmからは決して先頭を譲らなかった。

自らが先頭を牽き、後ろを牽制しながら、アタックがあればすぐに反応できるように作戦を変更。

こうなると他の選手は蛇に睨まれたカエル状態だ。

それでもゴールラインを切るまでは油断できない。

後ろから追いついてくる選手もいるかもしれない。

ペースを一気に落とすことはできない中、スプリントできる最低限のペースを保ちながらゴール前を迎える。

 

スプリントを仕掛けた場所は意外にも遠かった。

普通にスプリントをしたら圧勝できるライバル勢に最後は横に並ばれそうになりながらも、最終的にスプリントとしては圧勝でのゴールとなった。

 

ゴール後、これまで数多くの難レースを制してきたバルベルデが泣き崩れた。

まるで初勝利をものにした新人選手のように。

選手にとって喜びとは、若手/ベテランという枠を超えた何にも変えがたい気持ちの高まりこそが、この難しい競技における全てのゴールなのだろう。

 

心からおめでとう!の声を送りたいと共に、2019年の活躍にも期待したいところだ。

 

 

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