命(13)天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る
孔子曰わく、君子に三畏有り。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。
小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎(な)れ、聖人の言を侮(あなど)る。
季氏第十六 仮名論語254頁3行目です。
伊與田覺先生の解釈です。
先師が言われた。「君子に三つの畏れがある。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人のことばを畏れる。
小人はこれに反し、天命を知らないのでそれを畏れない。大人になれなれしくし、聖人のことばをあなどる」
この章では、君子に三つの畏れがあり、その一つが天命を畏れることだと出てきます。
「孔子曰わく、君子に三畏有り。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る」・・・君子は三つの対象に対して畏敬の念をもって接すべきである。天命に対して、目上の人に対して、そして聖人の教えに対して。これと反対に、「小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎(な)れ、聖人の言を侮(あなど)る」・・・小人は天命を知らないので畏れず、大人になれなれしくし、聖人のことばをあなどる。
何も畏れず、何も敬わず、というのもひとつの生き方なのでしょうが、それでは心がカサカサになってしまうのではないでしょうか。
どんな人でも何らかの畏敬する対象はあるはずですよね。その対象として神をあげる人、先輩の名をあげる人もあるでしょう。あるいは配偶者だという人もあるかもしれません。
孔子は、天命・目上の人・聖人の三つを上げているのです。もちろんこれが絶対ではありません。これを手がかりにして、自分自身に問いかけてみてください。自分には、畏敬する対象があるかどうか、あれば、何だろうか、と。それによって自分の心の状態が自己診断できるのではないでしょうか。
* 畏:畏怖(いふ)する。本当に恐れる。畏敬する。畏れるとともに相手を敬う。
畏服(いふく)は畏れながら服する。屈服と違って、相手を尊敬して、心から服すること。
君子の畏敬するもの三つ。「天命」と「大人」と「聖人」です。
「天命」について、「孟子」にはこう書いています。
「之を為すこと莫(な)くして為る者は、天なり。之を致すこと莫(な)くして至る者は、命なり。」 [巻第九万章章句上] 百二十八節
こうしようと思わないのに、そうなっていくのは、天の働きである。招き寄せようと思わないのに、やってくるのは、命の働きである。つまり、「天命」は、人知人為を超えた存在の作用であり、絶対的な存在とも言えるし、俗に運命と言う事もできるのです。この節では天子になるのは天意と天への推薦という二条件を示している。これにより孔子のようにいかに高徳の人物でも、それだけでは天子になれないことを明確にしています。孟子の天命思想を知るうえで大切な節です。
「論語」に天命として出てくるのは、仮名論語、為政第二12頁5行目の章とこの章の二章だけです。
子曰わく、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順い、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。」
為政第二 仮名論語12頁5行目です。
伊與田覺先生の解釈です。
先師が言われた。「私は、十五の年に聖賢の学に志し、三十になって一つの信念を以って世に立った。
しかし、世の中は意のままに動かず、迷いに迷ったが、四十になって物の道理が分かるにつれ迷わなくなった。
五十になるに及び、自分が天の働きのよって生まれ、又何者にもかえられない尊い使命を授(さず)けられていることを悟った。
六十になって、人の言葉や天の声が素直に聞けるようになった。そうして七十を過ぎる頃から自分の思いのままに行動しても、決して道理を踏み外すことがなくなった」
「五十にして天命を知る」、孔子の一生を、自分自身が晩年になって振り返って、短い文章で的確にまとめられた章です。
次は「大人」です。大人(だいじん)は「論語」の中でこの章にしか出てきません。
大人については、伊與田先生は、「論語の対話」の中でこう言っています。読んでみましょう。
「理念と経営」平成21年1月号の86頁の二段目です。
〔「大人」といっても、外見だけではわかりにくいかもしれませんが、しかし、大して偉そうな恰好をしていなくても、その人物の前に行けば、威儀を正して言葉遣いも気をつけざるをえないという優れた人物がおります。
実業家の中でも、単に金儲けだけで大きくなっている人と、そうではなしに、何か深みのある人柄をもった人がおります。こういう方はどこで商売しているかというような、どこにも欲望が外に表れていない。超然としているように見えるけれども、やるべきことはやっているのでしょう。そのような「大人」がおります。〕
私の「論語ブログ」の人間学の三学のところで「大学」というのは、大人の学ですと、説明したと思います。
そこで、大人とは他に良い影響を及ぼすような人物を言います。自分が良く修まっているだけではなく、他の人のために良い影響を及ぼす人を言うのです。・・・と。
大人(だいじん)は「論語」の中でこの章にしか出てきません。大人は種々の意味にとれますが、次の「聖人」が最も優れた人格者であることから見て、天子や諸侯、あるいは広く目上の人を指すとしておきましょう。
宮 武 清 寛
論語普及会
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