3005.仁(8)仁に志せば、悪むこと無きなり | 論語ブログ

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仁(8仁に志せば、悪むこと無きなり

 

子曰わく、苟(いや)しくも仁に志せば、悪むこと無きなり。

   里仁第四   仮名論語382行目です。

   伊與田覺先生の解釈です。

先師が言われた。「かりそめにも、仁に志したならば、徒(いたずら)に人を退けたり、拒んだりすることはない」

 

「苟しくも仁に志せば、悪むこと無きなり」・・・本当に仁を目指しているなら、人を憎む事は無いだろうと言っているのです。

本当の意味で愛すべき人を愛し、憎むべき人を憎むことが出来るのは、ただ仁の人だけなのでしょう。

つまりは、仁徳によってこそ私情にとらわれない正しい道徳的判断が可能になるという事です。

やはりこの言葉も、仁者は真心のままに、真っ直ぐな行動の取れることを意味しています。

仁、すなわち人間に対する愛を、目標として心に持てば、すべての悪は排除され消滅します。この章の前の章「子曰わく、唯仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む」里仁第四、仮名論語37頁6行目と共に、大変強い言葉です。

ただ始めの「苟」という字の読み方については、やや説が分かれます。

それは仮定の助字であるのに違いありませんが、「もしも確実に仁に志ざすならば」と読むのが朱子であり、その系統の訓読みでは「苟」の字をマコトと読みます。「もし少しでも仁に志しさえすれば」と読むのが荻生徂徠です。

また、「無悪也」悪しきこと無き也の三字は、悪の字を悪(あく)と読み、悪事は無くなる、とするのが普通の説ですが、悪の字を悪(お)と読み、人から悪まれない、憎悪されないと読む説が、伊藤仁斎の「論語古義」及び劉宝楠(りゅうほうなん)の「論語正義」にあります。そうして伊藤仁斎は、世論というものは、はなはだ公平なものであり、人の心というものは、はなはだ直なものであるから、人から悪まれるような人間は、要するに欠点のある人物である。という説を述べています。常識こそ、常に真理であるとする、伊藤仁斎の哲学の現われです。

人間関係で悩んだり喜んだりする場合、自分の事は棚にあげて、相手のせいにしている事が多いとは思いませんか。でも、愛する事も憎しむ事も、その元は自分自身の心に根ざしています。

愛するにしても憎しむにしても、我が心が濁っていないかどうかをジックリ振り返ってみてください。

「唯仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む」・・・私心の無い、仁の心を持った者だけが、純粋に人を愛することが出来、純粋に人を憎むことが出来ると孔子は説いているのです。

「苟しくも仁に志せば、悪むこと無きなり」・・・そして、この章には、本当に仁を目指しているなら、人に憎まれる事は無いだろうと言っているのです。

本当の意味で愛すべき人を愛し、憎むべき人を憎むことが出来るのは、ただ仁の人だけなのでしょう。

つまりは、仁徳によってこそ私情にとらわれない正しい道徳的判断が可能になるという。

やはりこの言葉も、仁者は真心のままに、真っ直ぐな行動の取れることを意味しています。

 

つづく

                                                                                              宮 武 清 寛

                                                                                                 論語普及会 

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