2893.徳(22) 民徳として稱する無し | 論語ブログ

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徳(22) 民徳として稱する無し

 

孔子曰わく、誠に富を以てせず、亦祇(まさ)に異(こと)なれるを以てす。

    斉の景公、馬千駟(せんし)有り。死するの日、民徳として稱(しょう)する無し。

    伯夷・叔齊は首陽の下に饑う。民今に到るまで之を稱(しょう)す。

   其(そ)れ斯(これ)を之(こ)れ謂(い)うか。

   季氏第十六   仮名論語2571行目です。  

   伊與田覺先生の解釈です。

先師が言われた。「詩経(小雅、我行其野篇)には「まことに富によらず、ただ(富とは)異なるものによる」とある。

    斉の景公は、馬四千頭を所有する程裕福であったが、死んだとき、民は有徳の人としてほめたたえる者はなかった。

ところが、伯夷と叔齊の兄弟は、周をのがれて首陽山のふもとにおり、わらびわを食べ餓えて遂に死んだが、民は今にいたるまでこの兄弟をほめたたえている。この詩はこのことをいったのであろうか」

 

「民徳として稱する無し」・・・民は有徳の人としてほめたたえる者はなかった。この章では斉の景公は不徳の人であった事を言っています。

実はこの章句は、どの「論語」にも「子曰、誠不以富、亦祇以異」が無く、いきなり「齊景公有馬千駆、死之日、・・・」で始まり「・・・其斯之謂與」で終っています。伊與田先生の仮名論語だけを読んでいて今まで気づきませんでした。

何故、「孔子曰わく、誠に富を以てせず、亦祇に異なれるを以てす」を先生は書かれたのか。確かに無ければ、最後の句「其れ斯を之れ謂うか」の「其れ」が何を指すのか分かりません。

その疑問を吉川幸次郎先生が解き明かしてくれました。

本文に脱落があるという事です。他の本による「齊景公有馬千駆、死之日、・・・」で始まるのであれば、他の章にある「孔子曰」が抜けています。では孔子は何を言ったのか、それは何かの諺です。「詩経」のうたの文句「誠不以富、亦祇以異」これは、富は標準ではない、人にすぐれた特別な行為こそ標準という文句です。その文句にぴったりあてはまるのが景公と、伯夷・叔斉との二種類の人物の対比なのでしょう。

「孔子曰わく、誠に富を以てせず、亦祇に異なれるを以てす」・・・孔子がおっしゃいました。「詩経」には「人を評価するには本当に富にはよらず、ただ富とは異なるものによる。」とあるが。「斉の景公、馬千駟有り。死するの日、民徳として稱する無し」・・・斉の景公は、馬四千頭を所有する程裕福であったが、死んだとき、民は景公のお蔭を被った。有徳の人としてほめたたえる者はありませんでした。人民には過酷で、自分は淫乱な政治を行い、その死後は内乱が起こっています。公位を陳氏に奪われました、景公が死んでもほめたたえられるはずはありません。

景公は、春秋時代の斉の第26代君主です。兄の荘公光が横死した後、崔杼(さいちょ)に擁立されて斉公となりました。崔杼の死後は晏嬰を宰相として据え、軍事面では晏嬰の推薦により司馬穰苴(じょうしょ)を抜擢しました。斉は景公のもとで覇者桓公の時代に次ぐ第二の繁栄期を迎え、孔子も斉での仕官を望んだほどです。しかし、これらの斉の繁栄は晏嬰の手腕によるもので、景公自身は子供っぽいところがあり、好悪で物事を判断し、贅沢好きで遊んでばかりおり、酒に酔っては礼を失するといったありさまのどうしようもない人物です。

景公は後世の歴史家たちに度々暗君として描かれる事が多いのです。しかし、この当時斉の国には、晏嬰という名宰相がおり、この晏嬰という人物は、自分の意見をあまりオブラートに包まずズバズバ言うタイプで、景公が何か間違いを犯すと、その度にこれを強諌しました。それでも激怒して晏嬰を遠ざけるどころか、その意見を重んじました。ただ、景公という人は、その場で反省してもそれをすぐ忘れてしまう性質のようで、何度も晏嬰に同じような注意をされてしまうところも、後世暗君として批判される所以なのかもしれません。

そして、こうして晏嬰の補佐を受けて景公が治めた斉の国は、安定した栄華期を迎えることになりました。暗君といえ、時に諫言も行う晏嬰を遠ざけることなく重用したことは功績と言えます。しかし、その晏嬰も景公四十八年(BC500)亡くなります。ちなみに魯の定公と夾谷で会合した年です。景公五十八年秋その景公も亡くなりますが誰も葬らなかったようです。

民はこれを歌って囃ました。「景公死乎弗與埋,三軍事乎弗與謀,師乎師乎,胡黨之乎?」・・・♪景公死んで、誰も埋めない。国軍の指揮も、誰も取らない。なのにあれに見えるは軍隊じゃないか。いやそうじゃない逃亡公子だ。兵隊さん兵隊さん、いったいどこに落ち延びるんですか?

それに対し、「伯夷・叔齊は首陽の下に饑う。民今に到るまで之を稱す」・・・・伯夷と叔齊の兄弟は、周をのがれて首陽山のふもとにおり、わらびわを食べ餓えて遂に死んだが、民は今日にいたるまでこの兄弟をほめたたえている。

「其れ斯を之れ謂うか」・・・詩経はこのことをいったのであろうか。と痛烈に批判しています。

 

 つづく

                                                                                             宮 武 清 寛

                                                                                               論語普及会 

景公と晏嬰

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