2876.徳(5)徳は孤ならず | 論語ブログ

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徳(5)徳は孤ならず

 

子曰わく、徳は孤ならず、必ず隣有り。

   里仁第四  仮名論語465行目です。

 伊與田覺先生の解釈です。

先師が言われた。「報いを求めず、陰徳を積んでいる者は、決して一人ぽっちではない。必ず思わぬところにこれを知る者がいるものだ。」

 

「徳は孤ならず、必ず鄰有り」・・・徳行を貫き通している人は決して孤立しない。きっといつかは理解者や仲間が現われるであろう。という意味ですが、現実は必ずしもこの言葉通りにはいきません。現実は冷たく厳しいのです。

立派な人物なのにさっぱり「うだつ」が上がらなかったり、逆に世間の非難を浴びながら栄華を極めていたり、こんな例は私達の周りにいくらでもあります。それは今も昔も変わりません。

「史記」の著者、司馬遷は善人が逆境におかれている歴史上の例をあげて、「天道、是か非か」公平とされるこの世の道理は、果たして正しい者に味方しているといえるのか疑わしい限りだ、と慨嘆しているほどです。

孔子も、正義が通るとはかぎらない現実を、身をもって体験しています。それにもかかわらず、いや、それだからこそ、孔子は「徳は孤ならず」と言ったのでしょう。

現実の矛盾に安住してたまるものか!わが道を行こう!志を同じくする人たちよ、共に進んで行こう!そうした励ましの言葉だったのです。

有徳者という者は決して孤立するものではなく、人には必ず隣人がいるように、その人に共鳴する人が出てくるものだ。

何とも良い言葉ですね。人から悪く言われても、自分の正しいと信じる道をいつかは必ず認められるものだと信じてやり続けていく。そういう励ましの言葉なのです。

私たちとは比べるべきものではありませんが、伝説上の聖天子舜(しゅん)の居る所は一年で集落ができ、三年で都になったと言われています。

皇侃(おうがん)という学者は、有徳者といっても一人で徳を身につけたのではなく、必ず近隣の人々のよい理解、環境があってこそ徳を養うことができたのだ。とこの章を解釈しています。

「徳」には、人知れずしてそっと積む「陰徳」と、人にわかるようにあらわに積む「陽徳」(明徳)とがあります。「徳は孤ならず」の徳は陰徳の方を指して言っているのです。陰徳を積んでいる者は、天知る、地知る、人が知るもので、独りポッチではありません。この章では、「必ず鄰有り」の「必ず」がよく効いています。

笑顔と思いやりを持って、勇気と誠実さをしっかり抱いて、歩いていけばいい。

時々不安になって、孤立しているように感じるかもしれません。

しかし、人を思いやる気持ちのあるあなたは、一人ではありません。

見守ってくれる応援者がいるのです。

あなたは一人じゃない。

と、孔子は言っているのです。

人知れずしてそっと実行し続ける。それが周囲の人達には奇行に見えるのかも知れません。そして、「徳」ある人だからこそ周囲から浮いてしまう。誰も近づかない。そうであってもいつか必ず理解者が現れるということです。徳ある人が孤立することはなく、必ず理解者が現れるのです。今は独りでもやり続ける事ですね。

近江聖人と称せられる中江藤樹先生は、母に孝養を尽くすべく小川村(現在の滋賀県高島市安曇川町)の片田舎へ帰りましたが、図らずも自分の心を本当に理解する大英才熊沢蕃山を得ましたが、蕃山先生はしばらくして親や弟のため桐原(きりはら)へ帰ることになります。その頃、蕃山へしたため手紙の中に「吾れ徳有らざれども鄰有る楽しみあり」と蕃山と逢い得た喜びを伝えています。

伊與田先生はこの事について、なんと行き届いた表現だろう。とおっしゃっています。藤樹先生が、わずか四十そこそこでなくなりながら聖人と呼ばれるゆえんもこんなところにあるのではないでしょうか。

 

 つづく

                                                                                           宮 武 清 寛

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