孝(25) 孟荘子の孝
曽子曰わく、吾(われ)諸(これ)を夫子に聞けり。
孟莊子(もうそうし)の孝や、其の他は能くすべきなり。
其の父の臣と父の政とを改めざるは、是れ能くし難きなり。
子張第十九 仮名論語299頁2行目です。
伊與田覺先生の解釈です。
曽先生が言われた。「私が、先から親しくお聞きしたことがある。
それは「孟莊子(魯の太夫)の孝行は、他のことはまねることができても、父が亡くなってから、父に事えた家臣と父が行ってきた家政とを、変えなかったのは、甚だまねのできないことだ」と」
今日の章で「孝」のシリーズは最後になります。
ここでは、孟莊子の孝行ぶりが書かれています。
全章と始まりが同じです。「曽子曰わく、吾(われ)諸(これ)を夫子に聞けり」・・・私は孔先生からこんな事を聞いたことがあるなあ。「人未だ自ら致す者有らざるなり。必ずや親の喪か」・・・人は中々自分の力を出し尽くすことがない。もしあるとすれば、親の葬式だろうか。親が死んだ時ほど、人がその内心から湧き起こる悲しみで、自分の全身全霊を打ち込んでことに当たる時はありません。それ以外では、どこかに手抜きができるということなのでしょうか。
そして今日の章です。「曽子曰わく、吾(われ)諸(これ)を夫子に聞けり」・・・私は孔先生からこんな事を聞いたことがあるなあ。
「孟莊子の孝や」・・・孟莊子の事を書いておきます。魯の国には、孟孫(もうそん・初めは仲孫氏といった)、叔孫(しゅくそん)、季孫(きそん)という、三つの家老の家がありました。三桓といいますが、いずれも魯の君主の同族です。
孟荘子は魯の大夫。名は速(そく)で荘子は諡です。仲孫氏の五世、第六代目です。孟懿子の伯父にあたります。賢大夫で知られた父の孟献子の後を継いでいます(前554年)が、わずか五年後、40歳で亡くなります。
「左伝」襄公15年にはこんな話が出てきます。孟献子の邸は非常に大きかったので、宋の向戌(しょうじゅつ)という大臣がとがめて、「あなたは今、名のある人なのに、このようにお屋敷を立派にされているとは」と言ったところ、彼は「私が晋の国へ行って留守の間に、私の兄がこの屋敷を作ったのです。これを壊すと二重に人の力を労することになり、その上兄の陰口と叩くことになりますので、このままにしています」と答えました。豪勢な邸宅を作り、孟氏の力が強かったことを示す一つのエピソードですね。
「孟莊子の孝や、其の他は能くすべきなり。其の父の臣と父の政とを改めざるは、是れ能くし難きなり」・・・孟莊子の孝行ぶりは有名だが、他のたいていのことは真似ができる。ただ父の使ってきた臣下と父親の政治方針を変えなかったのは、これは真似のできにくいことだよ。
孟荘子は、魯国の大夫です。名は速といい、荘子は諡です。三桓のひとつ仲孫氏の第五世。第六代目で為政第二仮名論語13頁3行目の「孟懿子、孝を問う」と出てくる孟懿子の伯父であり賢大夫で知られた父の孟献子の後を継いでいますが、わずか五年後の四十余歳で亡くなっています。孟荘子は父の政と父の臣を三年間改めなかったことで、孔子から非常に感心されたのですが、父の孟献子は少なくとも文公十五(前612)年から、襄公十五(前558)年まで約70年間活躍していたようですから、ずいぶんと長命でした。その分孟荘子の時代は短かったのです。
その時孔子は6歳でしたが後に孟荘子のその孝行ぶりを褒めています。
子曰わく、父在せば其の志を観(み)、父没すれば其の行いを観る。
三年父の道を改むる無くんば孝と謂うべし。
学而第一 仮名論語6頁6行目です。
伊與田先生の解釈です。
先師が言われた。「父が生きている時には、その気持ちを察して、それに添うように努め、父が亡くなられてからは、その行われた跡を見て、これを継承するのがよい。そうして三年の間、父のしきたりを改めず、ひたすら喪に服する人なら、真の孝子と言えるであろう」
もう一つ、里仁第四仮名論語45頁2行目です。
子曰わく、三年父の道を改むる無きは、孝と謂う可し。
伊與田先生の解釈です。
先師が言われた。「父が亡くなられて三年(喪中)間、父のやり方を変えないようにすれば、孝行な子といえるだろう」
「父没すれば其の行を観る。三年父の道を改たむるなくんば、孝と謂うべし」・・・父が亡くなられてからはその行われた跡を見て、これを継承するのがよい。そうして三年の間、父のしきたりを改めず、ひたすら喪に服する人なら、真の孝子と言えるであろう。という言葉があります。孟莊子はまさにその実践者であったのでしょう。
親孝行の曽子には、二つとも特に印象に残った孔子の言葉だったのではないでしょうか。
つづく
宮 武 清 寛
論語普及会
論語は、生きるヒントの宝箱です。
rongo-fukyukai.jp
会員募集中です。
今日の一言はインスタグラムで配信しています。