楽(21)武城に之きて絃歌の聲を聞く
子、武城(ぶじょう)に之(ゆ)きて絃歌(げんか)の聲(こえ)を聞く。
夫子(ふうし)莞爾(かんじ)として笑いて曰わく、鶏(にわとり)を割(さ)くに焉(いずく)んぞ牛刀(ぎゅうとう)を用いん。
子游對(こた)えて曰わく、昔者(むかし)、偃(えん)や、諸(これ)を夫子に聞けり、曰わく、君子道を学べば則ち人を愛し、小人道を学べば則ち使い易(やす)しと。
子曰わく、二三子(にさんし)、偃(えん)の言是(げんぜ)なり。前言は之に戯(たわむ)れしのみ。
陽貨第十七 仮名論語263頁1行目です。
伊與田覺先生の解釈です。
先師が武城(魯の小さな町)に行って高尚な音楽の流れるのを聞かれた。
先師は、微笑みながら言われた。「鶏を料理するのにどうして牛を料理する包丁を使う必要があるのかな」
子游(姓は言、名は偃(えん)、字は子遊)は、これに対して「先生はかつて私に『君子が道を学べば、人を愛し、小人が道を学べば、使い易し』と言われましたね」と言った。
先師は笑いながら言われた。「偃(えん)の言うことは正しい。さっき私が言ったのは冗談だよ」
今回のシリーズは「楽」ですが、「絃歌(げんか)の聲(こえ)を聞く」とでてきます。「絃歌」というのは琵琶・箏(こと)・三味線などの弦楽器を弾きながらうたう歌の事で、特に三味線声曲をさすことが多いようです。
この章は、孔子が弟子の子游が市長をしていた武城を訪れた時の話です。
武城は地名です。魯の国の地方都市で、今の費県に近い土地。魯国の首府曲阜の東南百キロばかりのところです。
言偃は呉の人です。「文学には子游・子夏」言偃は文学に優れた人です。
名は偃(えん)と言い、子游は字です。「論語」には子游・言偃といった形で8回出てきます。孔子からは45歳の年下です。彼は子夏と共に孔門十哲の中では文学に優れていると評されています
「史記」では、子游、既(すで)に已(すで)に業を受け、武城の宰と為る。と言偃を紹介していますが、「論語」の記述も「史記」とほぼ同じです。
弟子の子游すなわち言偃が、そこの市長であったことは、雍也第六、仮名論語72頁3行目です。「子游、武城の宰たり、・・・」と出ています。
「子、武城に之きて絃歌の聲を聞く」・・・孔子が武城の町に行った時、町の中のあちこちから、琴など弦楽器を伴奏して歌う、コーラスの声が聞こえてきました。この町の長官である子游は、孔子の教えを忠実に守って、礼楽による政治を実行していたのです。孔子は嬉しかったでしょうね。子游はこの小さな町においても、文化的な社会教育に熱心だったのです。「夫子莞爾(かんじ)として笑いて曰わく」・・・孔子はにっこり笑って言いました。莞爾は少し笑うという形容です。
「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん」・・・小さな鶏を割くのに、屠牛(とぎゅう)用の刀を使うとは、どうしたことだ。と。つまりこの小さな町に、正式の礼楽の教育を施すとは、大袈裟なことだね。と言ったのです。
「子游對(こた)えて曰わく、昔者、偃(えん)や、諸(これ)を夫子に聞けり、曰わく、君子道を学べば則ち人を愛し、小人道を学べば則ち使い易(やす)しと」・・・それに対し子游は、真正面から返答しました。いつか私が先生から教わりました事に、君子は道を学べば人間を大切にし、小人は道を学べば使い易い、と。だとすれば、道、すなわちこの場合は礼楽を学ぶことは、万人にとって必要です、だからこうしているのです。と反論したのです。
「子曰わく、二三子(にさんし)、偃(えん)の言是(げんぜ)なり。前言は之に戯(たわむ)れしのみ」・・・すると孔子は、そばにいる二三の弟子たちをかえり見て言いました。諸君、子游の言うとおりだ。さっきのは冗談だよ。と前言を取り消したのです。
鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん。現代では、小さな事を処理する際、無駄に大げさな方法を用いる事を表すたとえとされていますが、元々は孔子の冗談から出たものなのです。
当時、雅楽は人を教化するため、国の政治になくてはならぬものだったのです。
孔子が、弟子の子游が市長をしている町を訪ねた時、田舎町らしくない雅楽の音が聞こえてきたのです。孔子は子游が町政に雅楽を用いているのを大げさと感じたのです。
「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん」それに子游はキッとなって言い返しました。「以前、先生は、どんな人間だろうと教化しなければならないとおっしゃったではありませんか」孔子はあわてて言いました。「さっきのは冗談だ、冗談だよ」これは孔子の負けですね。
つづく
宮 武 清 寛
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