2683.登場人物に対する孔子の評価(171)子服景伯、以て告げて曰わく | 論語ブログ

論語ブログ

ブログの説明を入力します。

登場人物に対する孔子の評価(171)子服景伯、以て告げて曰わく

 

公伯寮(こうはくりょう)、子路を季孫に愬(うった)う。

子服景伯(しふくけいはく)、以て告げて曰わく、夫子固(まこと)に公伯寮に惑(まど)へる志(こころざし)有り。

吾が力猶(な)ほ能(よ)く諸(これ)市朝(しちょう)に肆(さら)さん。

孔子曰く、道の将に行はれんとするや命なり。道の将に廢(すた)れんとするや命なり。公伯繚、其れ命を如何せん。

 憲問第十四  仮名論語2204行目です。

 伊與田覺先生の解釈です。

公伯寮(魯人といわれるが不明)が、子路を季孫(魯の権臣)に讒言した。

子服景伯(魯の大夫)が先師にそのことを話して言った。「あの方(季孫)はまことに公伯寮の言う言葉に惑わされています。私の力でも子路の潔白を証明し、公伯寮を死刑にして町の広場にさらすことができます。

先師が言われた。「道が行われようとするのも天命ですし、道がすたれようとするのも天命です。公伯寮ごときが一体天命をどうすることもできないでしょう」

 

今日は子服景伯(しふくけいはく)です。魯の大夫で、姓は子服、名は何(か)。伯は字(あざな)、景は諡です。三桓氏の一族で、孟献子の玄孫です。孔子やその門人たちに好意を持っていた人格者のようです。

孟荘子の弟が立てた家で子服景伯は孔子より少し年下で、孟之反と同じくらいの年齢だったようです。

「左伝」によれば、魯の哀公8(前487)年にあたりますが呉王夫差が魯の領内に入り込み、魯と呉の間に戦争が勃発しました。呉軍は優勢で、前進を続けます。その時魯では夜襲を計画しました。そこで700人の兵を集め、三度跳躍して高く飛んだ者300人を選んで決死隊を編制しましたが、この戦いで景伯は孟懿子の参謀として参戦しています。結局、呉がこの計画を知って恐れ、和議を申し出たようです。因みに孔子の弟子、有若も選抜されていた記録が残っています。

「論語」に出てくる子服景伯は、孔子に同情的な立場に立っていました。「論語」の中には二度出てきます。

「公伯寮(こうはくりょう)、子路を季孫に愬(うった)う。子服景伯(しふくけいはく)、以て告げて曰わく」・・・公伯寮は子路の事を、子路の仕えている季孫氏に告げ口をしました。ところがそのことを今度は子服景伯が孔子に言いつけに来ました。何ともややこしい話です。

「夫子固(まこと)に公伯寮に惑(まど)へる志(こころざし)有り。吾が力猶(な)ほ能(よ)く諸(これ)市朝(しちょう)に肆(さら)さん」・・・季孫氏殿は公伯寮の言ったことで気持ちをぐらつかせております。ほっておいては子路の身に危険があるかもしれません。しかし私の力で、公伯寮を死刑にして、広場でさらし者にするくらいのことはできます。

子服景伯は三桓の一つ孟孫氏の孟荘子の弟が立てた家柄です。子服景伯はそれほどの実力者でもあったのですが、それにしても死刑にしてさらしものにするとは、ちょっとおだやかではありません。それに、孔子はどう答えたんでしょうか。

孔子は言います。「道の将に行はれんとするや命なり。道の将に廢(すた)れんとするや命なり。公伯繚、其れ命を如何せん」・・・子路が季氏に用いられ、道が魯の国で行われるようになるのも運命だし、子路が追い出されて、道が行われなくなるようになるのも運命だ。公伯寮のごときものに、どうすることもできまいよ」と。

公伯寮が子路を愬(うった)えたについては、当時の魯の国の中での複雑な政治情勢があったのでしょうが、孔子は公伯寮のごとき者に、もっと大きな歴史の流れをどうすることができるかと、考えたのです。

公伯寮の事は、このように子路を讒言した人としてしかでてきませんから、そんな人物は孔子の弟子の中から外してしまえという事になり、明代に孔子の弟子に数えられなくなったとも言われているようです。

そして、もう一章です。

 

叔孫武叔(しゅくそんぶしゅく)、大夫に朝(ちょう)に語りて曰わく、

子貢は仲尼より賢(まさ)れり。

子服景伯(しふくけいはく)以て子貢に告ぐ。

子貢曰わく、諸を宮牆(きゅうしょう)に譬(たと)うれば、賜(し)の牆(かき)や肩に及べり、室家(しっか)の好(よ)きをうかがい見ん。夫子の牆(かき)や数仞(すうじん)、其の門を得て入らざれば、宗廟の美、百官の富を見ず。其の門を得る者或いは寡(すく)なし。夫子の云うこと、亦宜(うべ)ならずや。

   子張第十九  仮名論語3023行目です。 

   伊與田覺先生の解釈です。

叔孫武叔(魯の大夫)が、役所に於いて他の大夫に「子貢は甚だ有能で仲尼(孔子)よりすぐれているなあ」と話した。子服景伯(魯の孟孫氏の一族)が、これを子貢に知らせた」

これに対して子貢が言った。「これを役所の垣にたとえると、私の垣は肩位の高さですから家の中の良さがのぞけましょう。先生の垣は数尋(すうひろ)ですので、その門を見つけて入ってみないと御霊屋(みたまや)の美しさや文武百官の盛んなよそおいを見る事が出来ません。然しその門を見つけて入ることも甚だ少ないので、あの方がそういわれるのも、もっともだと思われますね」

 

「叔孫武叔(しゅくそんぶしゅく)、大夫に朝(ちょう)に語りて曰わく」・・・叔孫武叔が政庁において同僚の大夫に向かってこう言いました。「子貢は仲尼より賢れり。子服景伯以て子貢に告ぐ」・・・子貢は仲尼よりも賢っているなあと。その話を聞いて子服景伯は子貢に告げました。「子貢曰わく、諸を宮牆に譬うれば、賜の牆や肩に及べり、室家の好きをうかがい見ん」・・・子貢は言いました。垣根にたとえるのならば、私の垣根は、せいぜい肩の高さくらいのものです。それ越しに家の造りの良さくらいは総て見えるでしょう。「夫子の牆や数仞、其の門を得て入らざれば、宗廟の美、百官の富を見ず」・・・しかし、孔先生の垣根は数仞(4m前後)の高さです。その門を入る事が出来ませんと、中の宗廟のような壮麗さや百官が居並ぶような盛大さは見えません。「其の門を得る者或いは寡なし」・・・しかし、先生の門に入り得る者は、少ないのです。ましてその価値の分かる人はいません。「夫子の云うこと、亦宜ならずや」・・・とすれば、あの人叔孫武叔の言っていることもまた今の世ではもっともです。と言ったのです。

つまり、叔孫武叔が政府の事務室で、皆は孔子を褒め称えるけど弟子の子貢の方が孔子より偉い。と言ったのを子服景伯が聞き、それを子貢に話しました。子貢は塀構えにたとえで私は塀が低いから中の様子が見えるが孔先生は立派な塀構え(高い)なので中が見えないだけだよ。と言っているのです。

「夫子の牆や数仞、其の門を得て入らざれば、宗廟の美、百官の富を見ず」大人物のことをたとえるのに引用される言葉です。このたとえは私たち日本人には必ずしもピンときませんが、中国の宮廷建築を念頭に置くと、よく分かります。高くどっしりとした塀に囲まれた雰囲気は、雄大でしかも内側は見えず、神秘感をたたえています。

この言葉は、単に謙遜しただけの言葉ではありません。子貢が孔子の偉大な人だということを言ったものです。魯国の有力者が、子貢を褒めて、孔子より上だと言いました。それを伝え聞いた子貢が、「私などは塀が低く、家の中の様子がのぞけるが、先生は違います。先生は奥が深く、建物で言えば、王宮のようなものです。周囲の塀は見上げるほどの高さがあり、その門を見つけて入っていかなければ、美しい霊廟があり、百官が居並んでいる様子など、うかがい知ることはできません。」あなたは実際の孔先生を知らないだけなのです。と言ったのです。

ところで、中が空き地なのに、塀ばかり高くするのを「大物ぶる」というそうです。皆さんはどうですか、自分の本当の弱みを見せずに、強いふりをしたり、外見だけ大きく見せようとしたりする事はありませんか、なにか本当は不安なことがあったりするのに、強がってしまい、つい虚勢を張っていませんか。以外と中身は見えているものですよ。

中国の山東省曲譜の孔子廟は、孔子が亡くなった一年後、紀元前478年、魯の哀公が孔子の三軒の旧居を改築し、内部に孔子の衣服・礼器などを設け、毎年のように祀つる行事が催されました。後漢ののち、歴代の皇帝は数十回にわたって拡大し、改築したので、規模の大きな古代建築群となってきました。

今日の孔子廟は明・清の時代に完成されたものです。前後合わせて九つの庭園があり、南北に走る中心線に沿って左右対称の形で並んでいます。建築物全体の配置が合理的で、色が美しく、雄大な気勢を誇っています。主な建築物は、3殿、1閣、1壇、すなわち大成殿、寝殿、聖跡殿、奎文閣(けいぶんかく)、杏壇(きょうだん)です。

大成殿の前にある杏壇は、かつて孔子が講義をしたところで、中国の一番早い時代の演壇といっていいでしょう。

明・清時代の時、孔廟の衛門・外大門は曲阜県城の正南門でもありました。明の正徳8年(紀元1513年)に城衛廟が造られ、万歴の時、城衛廟の前に城門が開かれ、仰聖門(ぎょうせいもん)と名付けられました。

その門の額に「萬仞宮牆」と書かれています。その字は元々明の嘉靖年代の山東省長官である胡纉宗(こさんしゅう)が書いたものでしたが、清の時代に乾隆皇帝(けんりゅうこうてい)の親筆に変えられたようです。その門はアーチ型で、数重もあります。門中に丸い形の城があり、上に城楼があります。1989年、一度修築されたそうです。

その門の額に「萬仞宮牆」と書かれているのは、孔子の弟子の子貢が「夫子の塀は数仞もある」と言ったことから、後人は「萬仞」で孔子に対する尊敬と賞賛の意を表しています。(中国古代では1仞は8尺、1尺は22.5㎝)

 

つづく

                                                                                            宮 武 清 寛

                                                                                              論語普及会

 

論語普及会 TOPこんにちは、論語普及会です。

論語は、生きるヒントの宝箱です。

rongo-fukyukai.jp

会員募集中です。