論語ブログ拾遺章(27)
公冶長第五 ③微生高を直なりと謂うや
子曰わく、孰(たれ)か微生高(びせいこう)を直(ちょく)なりと謂うや。
或ひと醯(す)を乞う。諸を其の鄰(となり)に乞(こ)うて之を與(あた)う。
公冶長第五 61頁5行目
伊與田覺先生の解釈です。
先師が言われた。「誰が微生高を正直者というのだ。彼はある人に酢を無心され、それを隣から貰って与えたというではないか」(これを虚栄の為と見られたからであろう)
「子曰わく、孰か微生高を直なりと謂うや」・・・孔子が言いました。誰が微生高を真っすぐな人と言ったのであろうか。と、批判しました。「或ひと醯(す)を乞う。諸を其の鄰に乞うて之を與う」・・・ある人が微生高に酢をかりに来た事がありました。その時、無いなら無いと素直に言えばいいものを、わざわざ自分の隣の家から酢を借りてきて、その人に与えましたそこまでして、それが真っすぐな人なのか。と言ったのです。
微生高は魯の人だと言われていますが、その事績は分かりませんが、当時、正直者として評判が高かったようです。しかし孔子は言っています。微生高が正直だと誰が言うのか。と。
朱子はこの章を、隣からもらった酢を与えて恩を売る微生高の曲がった行為を孔子が謗ったのだとしています。
人間は善意をもって生きるべきです。しかしその善意を遂行できない場合がないではありません。人からものを頼まれても、できない場合は、素直に断る方がいいのです。善意を無理に遂行しようとすれば、そこには虚偽が生まれます。この章はそういう重要な教訓を含んでいるのです。
こういう事は人間関係の上でよくありますよね。
動機は善意であるにしても、無理や作為は長続きしません。やはり、あるがままに振る舞うのがいいようです。
中国の古典「荘子(そうじ)」に尾生高(微生高)の逸話が載っています。ある時、正直者の尾生高が彼女と橋の下でデートの約束をしました。ところが彼女が来ないうちに、急に川の水嵩が増してきました。しかし、尾生高はそこを動かずじっと待っていた為、溺れてしまった。というものです。罪作りな女と言うべきでしょうか、やっぱり逃げなかった尾生高が馬鹿だったんでしょうね。
つづく
宮 武 清 寛
論語普及会
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