1740.論語ブログ拾遺章(25)公冶長第五 ②未だ知らず、焉ぞ仁なるを得んⅱ | 論語ブログ

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論語ブログ拾遺章(25

 

公冶長第五 ②未だ知らず、焉ぞ仁なるを得んⅱ

 

昨日の続きです。

 

子張問うて曰わく、令尹子文(れいいんしぶん)三たび仕えて令尹(れいいん)と為(な)れども喜ぶ色無し。

   三たび之を已(や)めらるれども慍(うら)む色無し。

   舊令尹(きゅうれいいん)の政(まつりごと)、必ず以て新令尹(しんれいいん)に告ぐ。何如(いかん)。

子曰わく、忠なり。曰(い)わく、仁なりや。

曰(のたま)わく、未(いま)だ知らず、焉(いずく)んぞ仁なるを得ん。

崔子(さいし)、齊の君を弑(しい)す。陳文子(ちんぶんし)、馬十乗(うまじゅうじょう)有り、棄(す)てて之を遺(さ)る。

   他邦(たほう)に至りて則ち曰わく、猶(なお)吾が大夫崔子(さいし)がごときなりと。

   之を遺(さ)る。一邦(いっぽう)に至りて則ち又曰わく、猶(なお)吾が大夫崔子(さいし)がごときなりと。之を遺(さ)る。何如(いかん)。

子曰わく、清(せい)なり。曰わく、仁なりや。

曰(のたま)わく、未(いま)だ知らず、焉(いずく)んぞ仁なるを得ん。

公冶長第五 仮名論語577行目

伊與田覺先生の解釈です。

子張が先師に尋ねた。「令尹(楚の宰相名)の子文は、三度仕えて令尹となったが喜ぶ様子がありませんでした。又三度やめさされても、怨む様子はなく、必ず政務の引き継ぎを丁寧にしましたが、人物としてはどうでしたか」

先師が答えられた。「職務に忠実で私心のない人だ」子張が「それでは仁者でしょうか」と重ねて尋ねた。

先師が答えられた。「まだよく分からないが、どうしてそれだけで仁者ということができようか」

「崔子(斉の大夫)が斉の君を殺した時、陳文子(斉の大夫)は、馬車十乗(一乗は馬四匹)を持つ財産家でありましたが、これを棄てて、他国へ行きました。他国へ行ってみても矢張り崔子のような大夫がいたので、去って別の国へ行きました。そこでも崔子みたいな大夫がいましたので去りました。こんな人物はどうでしょうか」と尋ねた。

先師が言われた。「心の清い人だ」子張は「それでは仁者でしょうか」と尋ねた。

先師が答えられた。「それは分からないが、それだけでは、どうして仁者ということができようか」

 

 昨日は前半部分を解説しました。今日はその続き、後半です。

更に子張は言います。「崔子、齊の君を弑す。陳文子、馬十乗有り、棄てて之を遺る」・・・斉の大夫崔子が斉の荘公を殺害した時、同じ斉の大夫であった陳文子は、 馬四十頭もの財産を捨てて斉を去りました。続けて、「他邦に至りて則ち曰わく、猶吾が大夫崔子がごときなりと。之を遺る。一邦に至りて則ち又曰わく、猶吾が大夫崔子がごときなりと。之を遺る。何如」・・・そして他の国へ行きましたが、ここにも吾が国の崔子のような悪家老がいる。と云って立ち去り、又別の国へ行っても、ここにも崔子のような 奴がいる。と云って立ち去りました。これはいかがですか?」と問いました。

「子曰わく、清なり。曰わく、仁なりや」・・・孔子は、潔白な人だなぁと言いましたが、子張は「仁者とは云えませんか?」と再び尋ねました。「曰わく、未だ知らず、焉んぞ仁なるを得ん」・・・。孔子は 、さあどうかな?潔白なだけでは仁者とは云えまい。と答えました。

 陳文子は、より近い時代の人物です。「左伝」の襄公二十二年、紀元前五百五十一年、すなわち孔子一歳の年から、襄公二十八年、孔子七歳の時まで、ほとんど毎年、陳文子についての記事が書かれています。文子は諡(おくりな)であり、実名は陳須無(ちんしゅぶ)といいます。

 「崔子、斉君を弑す」とは、紀元前五百四十八年の五月、乙亥(きのとい)の日、斉の家老の崔杼(さいちょ)が、その君主の荘公を殺した事件です。「弑」の字の意味は、長上・目上の者を殺すことです。

 その時、陳文子は、同じく斉の国の家老として、十乗すなわち四十頭の馬を持つ身分でした。当時は財産を数えるのに、所有する馬の数を以てする習慣がありました。

陳文子はそうした地位にありながら、こうした不潔な国に居るのは耐えられないとし、地位や財産をなげうって、故国を去り、他の国に亡命しました。

しかし、他の国に行っても、斉も国の家老の崔子のやっている事と同じだと言って、そこを立ち去り、さらに又別の国に移りましたが、そこでも同じ事を言って立ち去りました。

 これはどうお考えになりますかと、子張が質問をしたのに対し、「清潔である」と答えました。「では、仁といえますか」という、重ねての子張の質問に対しては、「知性にかける、仁とは言えないな」というのが答えでした。

 前後ふたつの問答に共通してあらわれるのは、「未知焉得仁」の五字であって、それがこの章の眼目であるに違いありません。しかし、五字の読み方は一定しません。伊與田先生は、「未だ知らず、焉んぞ仁なるを得ん」。忠実、清潔ということは確かでも、それだけでどうして仁であるかは分からないと解釈しています。朱子の新注の説でしょうか。

 実は「左伝」によりますと、陳文子は、崔杼が斉の君を弑逆して後も、斉の国の政治に預かっているようです。この章とはやや矛盾する記載です。真実は私には分かりません。

 

つづく

宮 武 清 寛

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