論語ブログ拾遺章(24)
公冶長第五 ②未だ知らず、焉ぞ仁なるを得んⅰ
子張問うて曰わく、令尹子文(れいいんしぶん)三たび仕えて令尹(れいいん)と為(な)れども喜ぶ色無し。
三たび之を已(や)めらるれども慍(うら)む色無し。
舊令尹(きゅうれいいん)の政(まつりごと)、必ず以て新令尹(しんれいいん)に告ぐ。何如(いかん)。
子曰わく、忠なり。曰(い)わく、仁なりや。
曰(のたま)わく、未(いま)だ知らず、焉(いずく)んぞ仁なるを得ん。
崔子(さいし)、齊の君を弑(しい)す。陳文子(ちんぶんし)、馬十乗(うまじゅうじょう)有り、棄(す)てて之を遺(さ)る。
他邦(たほう)に至りて則ち曰わく、猶(なお)吾が大夫崔子(さいし)がごときなりと。
之を遺(さ)る。一邦(いっぽう)に至りて則ち又曰わく、猶(なお)吾が大夫崔子(さいし)がごときなりと。之を遺(さ)る。何如(いかん)。
子曰わく、清(せい)なり。曰わく、仁なりや。
曰(のたま)わく、未(いま)だ知らず、焉(いずく)んぞ仁なるを得ん。
公冶長第五 仮名論語57頁7行目
伊與田覺先生の解釈です。
子張が先師に尋ねた。「令尹(楚の宰相名)の子文は、三度仕えて令尹となったが喜ぶ様子がありませんでした。又三度やめさされても、怨む様子はなく、必ず政務の引き継ぎを丁寧にしましたが、人物としてはどうでしたか」
先師が答えられた。「職務に忠実で私心のない人だ」子張が「それでは仁者でしょうか」と重ねて尋ねた。
先師が答えられた。「まだよく分からないが、どうしてそれだけで仁者ということができようか」
「崔子(斉の大夫)が斉の君を殺した時、陳文子(斉の大夫)は、馬車十乗(一乗は馬四匹)を持つ財産家でありましたが、これを棄てて、他国へ行きました。他国へ行ってみても矢張り崔子のような大夫がいたので、去って別の国へ行きました。そこでも崔子みたいな大夫がいましたので去りました。こんな人物はどうでしょうか」と尋ねた。
先師が言われた。「心の清い人だ」子張は「それでは仁者でしょうか」と尋ねた。
先師が答えられた。「それは分からないが、それだけでは、どうして仁者ということができようか」
「子張問うて曰わく、令尹子文、三度仕えて令尹と為れども喜ぶ色無し。三度、之を已めらるれども慍む色無し」・・・。孔子の弟子の子張が「楚の令尹・宰相であった子文は、三度令尹に任ぜられましたが、特に喜ぶ様子も ありませんでした。逆に、三度令尹を罷免されましたが、何ら不平の色も見せませんでした。と質問をしました。そして、「舊令尹の政、必ず以て新令尹に告ぐ。何如」・・・退任する時は新任の令尹にこれまでの政務を詳細に申し送りしました。これはいかがですか?とさらに質問しました。「子曰わく、忠なり。曰わく、仁なり」・・・孔子は「忠実な人だな」と言いました。子張は「仁者とは云えませんか?」と尋ね返しました。「曰わく、未だ知らず、焉んぞ仁なるを得ん」・・孔子は 「さあどうかな?忠実なだけでは仁者とは云えまい」と答えた、ということです。
この章も有名人に対して批判したものです。
前半で論じられている令尹子文というのは、南方の大国、楚の国の宰相であって、子文というのは字(あだな)です。令尹というのは宰相を意味する楚の国の方言です。
春秋時代の初期、晋の文公を中心とする時代の人物です。実名は闘穀於菟(とうどうおと)といい、正当ならぬ結婚によって生まれた子であったため、母はこれを野に棄てましたが、虎がやってきて育てました。楚の国の方言では、乳(そだ)てることを穀(どう)といい、虎のことを於菟(おと)というので、こうした名がついたと「左伝」の宣公(せんこう)四年に書いてあります。長じてのちは、楚の国の重臣となりました。やはり「左伝」の荘公三十年に、「闘穀於菟(とうどうおと)、令尹となり、自ら其の家を毀(こぼ)ちて、以て楚国の難を紓(ゆる)うす」と書かれています。それは、紀元前663年、孔子の生まれるのに先立つこと113年です。
これが最初の組閣でしょうが、そののちも度々宰相となり、前後三度宰相となりました。しかし、いつ宰相になっても嬉しそうな顔をせず、また宰相をやめさされても、いつも怨みがましい顔色を見せませんでした。そうして辞職の時には、事務の引き継ぎを精密に行い、前宰相である自らの政策を、詳しく新宰相に引き継いだのです。
こういう行為はどうお考えになりますか。と、子張が質問したのです。それに対する孔子の答えは、「忠実である」。では「仁と言えましょうか」と、子張は問い返します。それに対し、「充分な知性をもった人物とは言えないから、仁とはなし得ない」と答えました。
実はこんな背景がありました。僖公二十三年の「左伝」を見ると、この年、子文は、三度の辞職の一つとして、令尹の位を新進の子玉(しぎょく)に譲っていますが、譲られた子玉は、有能すぎる人物であった為に、やがて楚が晋と城濮(じょうぼく)で戦って、大敗を喫する原因となっています。
というわけで、人を見る目・先見の明がなかった点が、孔子から、「未だ知らず」と言わせる原因だったのでしょうか。
しかし、楚の国では偉人としてながく言い伝えられ、のちその子孫が、反乱をおこし、家が取り潰しになろうとした時にも、楚の荘王は、子文のかつての功績をしのび、「子文にして後(よつぎ)無ければ、何を以て善をすすめん」と、その直系の子孫を保護したと、「左伝」の宣公四年の章に書いてあります。
つづく
宮 武 清 寛
論語普及会
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