366. 日本での儒教(11) 幕末の激動①改革と陽明学の教え | 論語ブログ

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日本での儒教(11


幕末の激動①改革と陽明学の教え


「論語」に学んだ幕末の思想家や志士たちの原動力とは何なのでしょうか。

 朱子学がもてはやされる中、江戸後期になると異なる儒学の一派が社会を動かしはじめます。反乱や尊王攘夷運動といった幕末の大きなうねりを起こしたのは陽明学や水戸学でした。

  

 至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり。

 誠をもって尽くせば動かすことができないものはない。

 孟子離婁上篇(もうしりろうじょうへん)


 この言葉は「論語」ではなく、孔子に次ぐ儒教の大家・孟子の言行録「孟子」の一節です。幕末の思想家・吉田松陰は「論語」「孟子」をともに学び、この言葉を座右の銘にしていたといいます。

 江戸時代を通じて、儒学の主流はつねに朱子学でした。しかし、朱子学以外の学派が日本に入ってこなかったというわけではありません。

中国の明の時代に生まれた王陽明の哲学もまた、江戸初期には中江藤樹によって陽明学として知られていました。

しかし、陽明学は観念的な朱子学を批判することもあったため、長い間、幕府から弾圧の憂き目にあっていたのです。

中江藤樹の弟子の熊沢蕃山は、岡山藩に取り立てられて民衆のための農政改革などを進めていましたが、陽明学者の活躍を快く思わない幕府によって追放されています。

 陽明学は観念よりも実践を重んじる学派でした。いくら優れた哲学や理論をもっていても、それを実現すべく行動に移さなければなんの意味もありません。

幕藩体制に行き詰まりが見え始めは幕末になると、「知行合一」のその思想はやがて、現行の社会制度を批判し、社会を変えようとするエネルギーを孕(はら)むようになっていきました。

 そんな中、天保八年(1837)に大阪で起きたのが「大塩平八郎の乱」です。

大塩平八郎は陽明学を独学で学んだ学者で、かつては大阪東町奉行の与力でした。彼は天保の大飢饉が起きたとき、飢えに苦しむ庶民のために奉行所に援助を要請しましたが聞き入れられず、また、役人の汚職や商人の米の買占めなどを見て蜂起を決意します。

大塩は大砲を買い入れ、自宅で開いていた私塾「洗心洞」の門弟たちに軍事訓練をさせ、農民たちにも参加を呼びかける檄文をまき、「救民」の旗を掲げた三百人ほどの集団となって、船場の豪商街を襲いました。

 反乱自体は半日で制圧されてしまいましたが、この事件は日本の歴史の大きな転換期となりました。もともと日本人には反乱を起こすというような気質は強くありません。それが、一向一揆のような宗教的な反乱でもなく、同じ学問を学ぶ子弟や仲間が集まって支配層に対して武装蜂起したというのは、まさに日本史上初めての事件でした。

いわば、イデオロギーが国を動かす時代となってきたのです。

朱子学の思想によって秩序を保ち続けてきた幕府は、この反乱に恐れをなしました。そのため、陽明学は反権力思想としてこれまで以上に警戒されるようになっていくのです。

 しかし、いったん一方向に流れはじめた世の流れを押し戻すことは困難です。

吉田松陰は、ペリーの黒船に潜んで海外渡航を企てたり、老中暗殺計画を立てたりしては投獄されることを繰り返しました。この松蔭もまた、自らの思想と行動を一致させようとしたその生涯を通じて、陽明学の影響を大きく受けた人物だったといえるでしょう。

最期は「安政の大獄」によって処刑されてしまいますが、彼の主催した松下村熟からは高杉晋作や伊藤博文をはじめ、維新を推し進め、のちに明治政府の指導者となった多くの人材を輩出しています。


つづく

                       宮 武 清 寛