日本での儒教(10)
江戸時代と「論語」④徳川綱吉
過てば則ち改むるに憚ること勿れ。
学而第一 仮名論語5頁3行目です。
伊與田覺先生の解釈です。
過ちに気がついたら改めるのに誰にも遠慮はいらない。
「過ちては則ち改めるに憚(はばか)ること勿れ・・・過ちがあったとき、それを改めることをためらってはいけない。
これは、五代将軍・綱吉が柳沢吉保(やなぎさわよしやす)に贈ったという書に書かれた言葉です。
悪法として名高い「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」の発布によって、あまりありがたくない君主のイメージで語られる綱吉は、実は歴代将軍の中で最も儒学を好んだ将軍でした。
文治政治を目指した綱吉は、朱子学を奨励するため林羅山の屋敷にあった孔子廟を湯島に移し、湯島聖堂として幕府の管理下に置いたり、私塾を運営していた林羅山の子孫・林鳳岡(ほうこう)を「大学頭(だいがくのかみ)に任命したりしました。
この江戸中期には、新井白石ら朱子学の権威のほかにも、古学派の伊藤仁斎(いとうじんさい)や荻生徂徠(おぎゅうそらい)など、多くの儒学者が世に出てきます。
しかしその後、八代将軍・吉宗は実学や蘭学に肩入れするようになり、また、大飢饉などにより幕府の権威が下がり始めると、朱子学の影響力はしだいに低下していきます。
このような状況に対して、十一代将軍・家斉(いえなり)の老中・松平定信(さだのぶ)は「寛政異学(かんせいいがく)の禁」を発令し、朱子学のみを正当な学問と規定する措置をとりました。
そして、この朱子学奨励の一環として、林家の私塾は幕府直轄の教育機関とされることになったのです。湯島聖堂の近く、孔子生誕地・昌平郷(しょうへいきょう)にちなんで昌平坂と名付けられた場所で、その昌平坂学問所は開校します。
「論語」はすでに綱吉の時代から教育の素材となっていましたが、昌平坂学問所では大名や旗本の子弟が競って朱子学を学ぶようになり、さらに水戸の弘道館のような藩校(地方武士の子弟のための学校)も作られるようになったのです。
こうして「論語」を中心とした儒学教育は全国に広まっていきましたが、興味深いのは、学問の普及が武士階級の子弟に止まらなかったことです。
江戸後期には、江戸や大阪などの都市部を始めとした全国に、町民や農民の子供のための学校、すなわち寺子屋ができ始めました。これらはいわば小学校のようなもので、教えるのはひらがなの読み書きや算盤程度のものでしたが、時には「論語」の素読も取り入れられたといいます。
さすがに「論語」の深い内容まで教えることはしなかったようですが、たとえば前掲の綱吉が書いた言葉などは、子供でもすぐに内容が理解できたのではないでしょうか。
また、「礼」に基づく儒教の教えが躾として寺子屋でも教えられ、これらによって、このころのほとんどすべての日本人が、多かれ少なかれ儒教的な素養を持つこととなったのです。
また、このころの歌舞伎や浄瑠璃に儒教の思想が入っていたり、八つの徳目が書かれた玉を持つ八犬士が活躍する滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」のように、物語などにも儒教的道徳が表現されました。
明治維新のころには日本人の識字率は世界最高レベルだったと言いますが、それは学問を支配者層で独占しないという日本独特の平等観や、学問も娯楽として楽しむような人々の柔軟性のおかげでもあったのでしょう。
つづく
宮 武 清 寛