孔子以降の儒教(10)
諸子百家 ③道家
儒家とほぼ同時期に成立したと見られるのが道家です。これは老子を祖として生まれて、荘子に受け継がれて発展した学派です。
老子や荘子の思想は、道徳や儀礼で国を治めるとする儒家の人為性に批判的で、自然界の法則に素直にしたがう「無為自然」を理想としました。為(な)すこと無ければ、自(おの)ずから然(しか)り。無理をしなければ、なるようになる、という意味です。
道家は儒家と墨家との両方を批判します。儒家の「礼」も墨家の「兼愛」も自然ではない、頭の中で作り上げたものだ、という批判です。共に人間の感情を型にはめようとしている。ほっとけばいいんだ。あるがままでいいんだ。そういうことなのです。
道の道とすべきは、恒(つね)の道に非ず。
名の名とすべきは、恒(つね)の名に非ず。
無名は万物の始めなり。有名は万物の母なり。
老子 第一章
これが「道」だと説明できるような「道」はほんものの「道」ではない。
これが「名」だと説明できるような「名」はほんものの「名」ではない。
「道」すなわち「無」こそ万物の根源であり、そこから「有」すなわち天地が生まれ、万物が生まれた。
老荘思想が最上の物とするのは「道」です。道は天と同義で使われる場合もあり、また天よりも上位にある物として使われる場合もあります。
「道」には様々な解釈があり、道家の名は「道」に基づきます。
老荘思想は老子から始まったと言われていますが、老子はその生涯があまり良く解っていません。実在しなかったという説もあります。老荘の名以前に黄老(こうろう)があり、戦国時代から漢初に流行しました。
老子と荘子がまとめてあつかわれるようになったのは、前漢の紀元前139年に成書された「淮南子(えなんじ)」に初めて見え、魏晋南北朝時代のころの玄学において「易経」「老子」「荘子」があわせて学ばれるようになってからと言われています。老荘思想は道家思想とほぼ同義に用いられていますが、これは前漢のころには信頼できる道家の書物が、老子と荘子くらいしか残っていなかったからのようです。
儒教が国教となってからも、老荘思想は中国の人々の精神の影に潜み、儒教のモラルに疲れた時、人々は老荘を思い出したのです。特に魏晋南北朝時代においては政争が激しくなり、高級官僚が身を保つのは非常に困難であったようです。このため、積極的に政治に関わる事を基本とする儒教よりも、世俗から身を引く事で保身を図る老荘思想が広く高級官僚(貴族)層に受け入れられたのです。
とくに荘子の思想は脱俗性が顕著で、のちに仏教の禅にも影響を与えたといわれています。
加えて、老荘思想に基づいて哲学的問答を交わす清談が南朝の貴族の間で流行しました。清談は魏の正始の音に始まり、西晋から東晋の竹林の七賢が有名です。ただし、竹林の七賢が集団として活動した記録はありません。
ちなみに、日本の研究者の間では、哲学としての老荘思想と道教はあまり関係がないという説が一般的です。
つづく
宮 武 清 寛