JR貨物フェスティバル2023 番外編 / JR貨物の被爆遺産 | 安芸もみじ / Photos, Historys, Trains - Hiroshima JAPAN

JR貨物フェスティバル2023 番外編 / JR貨物の被爆遺産

ー鉄道から見る郷土史シリーズー
ー世界史•平和教育•教養シリーズ-

日本貨物鉄道 = JR貨物の広島車両所には、広島市に登録される被爆建物が3件あります。

一般的に被爆建築物は第二次世界大戦において空爆を受け、現存する建築物全般を指しますが、広島そして長崎においては少し異なります。

核攻撃を受けて倒壊せず現存する建物のリストに登録された建築物群で、建築物としては橋梁なども含みます。

広島市の被爆建物リストは、1993(平成5)年に策定されて爆心地から半径5km以内に現存する被爆物を、それぞれ「被爆建物」「被爆樹木」「被爆橋梁」として区分し、リストへ登録しています。




戦後は消失した都市の復興に向けて邁進し、一定の復興がなされた後は、近代化を推し進めた広島市ですが、被爆した建物を早く解体したがっていた市民から、このまま核の傷跡を消し去っても良いのか?との声が大きくなり始めていました。

そこで広島市は、現存する被爆建物のリストを作成することになりました。

策定当初は103件の登録件数がありましたが、老朽化や災害などにより失われ、現在は公共所有22件・民間所有64件の86件となっています。

リストに登録されている民間所有の被爆建物は、鉄筋やれんが造りの建物の保存工事をする場合、費用の全額を8千万円を上限に補助しています。




全ての被爆建物をここに掲載する訳にはいきませんが、代表的なものの中から6件を貼ってみました。

原爆ドームは被爆建物の筆頭としてよりは、核兵器廃絶や世界恒久平和のシンボルとして存在している、世界文化遺産の旧 産業奨励館。

続いては平和公園内にあるレストハウスの旧 燃料会館、旧 日本銀行広島支店、本通り アンデルセンの旧 帝国銀行広島支店、広島赤十字病院 被爆遺跡、広島郷土資料館の旧 広島陸軍糧秣支廠建物の順です。

アンデルセンは老朽化のために一部壁を切り出して建て替え、被爆壁に連なり戦前のデザインへ復元してあり、赤十字病院も病院という施設から近代化を実施するにあたり、一部をモニュメントとして保存、郷土資料館は建物全部が被爆建物ですが、糧秣支廠工場全体から見ると建物群の中の1つとなっている現状です。




被爆建物は一番若い建物でも築100年を超えており、現存させることが難しい状態でありながら、老朽化と耐震基準の更新がネックになり、いつまで保存が可能なのか先が見えないまま、毎年 月日は経って行きます。

白黒の航空写真は1947(昭和22)年10月に撮影された、芸備線 矢賀駅と国鉄広島工場(現 広島車両所)ですが、1975(昭和50)年に山陽新幹線の博多延伸の際に、広島へ新幹線基地ができたため、区画整理が行われました。

芸備線と広島車両所の間に新幹線の引き込み線が建設されており、道路や踏切の位置などが現在とは異なっているのも面白い写真です。

トタンの波板は、広島車両所の第1主棟の外壁の一部で、原爆による熱線と衝撃波による焼け跡が今も残る部分があります。




被爆建物は、普通でさえ経年劣化が進む前時代の建築基準の建物である上に、核攻撃に耐えた建物であるため、普通の建物以上に老朽化が深刻です。

それ故に、民間所有のものは維持にかかる費用の問題のため取り壊しや、部分保存という形を取らざるを得ないのも現実で、国や県・市としては財産権が所有者にあるため、強制的な存続要望は不可能となっています。

戦後も間もなく80年を迎える今、戦争や被爆と言った歴史の語りべである被爆者が年々少なくなってきていることもあり、被爆の物証を取り壊すことに否定的な意見が大半を占めていることも事実。

リストアップと補助金制度は行政側ができる最大限の法的処置ですが、まだ民間所有全ての被爆建物が把握されている訳でもなく、調査は継続されている中で、旧 国鉄広島工場はリスト化初期の追加登録物件でした。




当初は第一主棟のみ登録されていましたが、1996(平成8)年に原爆ドームが世界遺産に登録されると、周辺の土地開発や被爆建物存続に多大な影響を与えるようになり、市民の理解もより深く浸透し、リストアップ件数は微数ではあるものの増えている傾向にあります。

これにより、平和記念公園レストハウス、旧日本銀行広島支店、本川小学校平和資料館、袋町小学校平和資料館、中国軍管区司令部跡、多聞院鐘楼が、広島原爆遺跡として国史跡に指定するよう答申されています。

また、広島陸軍被服支廠や広島大学旧理学部1号館などの、保存に関する協議が続けられていますが、JR貨物 広島車両所構内へ第一主棟以外にも被爆建物があることが発見されます。

それが油槽庫と動力室で、広島市が把握していなか った被爆建物が、新たにリスト入りしたのは2015(平和27)年度でした。




広島車両所は爆心地から4.25kmの位置で、軍需物資の輸送力を強化する ため、1943(昭和18)年3月に広島鉄道局 広島工機部として開業しましたが、原爆投下による爆風と衝撃波で、第 1主棟の外壁や窓ガラスなどが飛散し、職員約30人が負傷しました。

動力室は1943(昭和18)年6月 に建てられた鉄骨の平屋で、広さは約670㎡あり電気設備や機関車に載せる空気圧縮機を整備している建物です。

油槽庫は1944(昭和19)年12月に完成した、原爆ドームと同じれんが造りモルタル仕上げの平屋で、広さ約70㎡の密室は当初、貨物列車の燃料や潤滑油の保存庫として建設されました。

広島市はかつて広島車両所を調査し、1996(平成8)年度に第1主棟を被爆建物として登録しましたが、動力室と油槽庫については情報をつ かめていませんでした。




この2棟は被爆から5日後にアメリカ軍が撮影した航空写真にも写っており、 市国際平和推進部は 「被爆建物の登録への協力を求めたい」と語り、JR貨物が公式の依頼に対して応じたものです。

被爆建物でありながら今尚操業している工場関係はマツダの宇品工場の中に、当時のままの外壁を残している建物があります。

戦前は紡績工場だった建物で、被爆時は陸軍船舶練習部として使われていました。

爆心地から4kmで、被災後に残った希少な建物の1つとなり、被爆後は約6000人の被災者を受け入れる臨時の病院にもなりましたが、マツダがフォード傘下となった時代、フォード側の意向で取り壊すという話も出たものの、マツダの経営陣も従業員も一丸となって解体に反対し、今も倉庫として使われてます。




一般公開はされない建物ではありますが、学校など平和教育の一環として申し込めば、応じられることもあるそうです。

また、被爆建物ではありませんが呉市のジャパンマリンユナイテッドの大和ドックも、中に入っての一般公開は行われていませんが、こちらはあの建屋の中のドックは埋め立てられていて、実は現存していません。

港の見える丘公園には、大和建造ドックの石垣を使ったモニュメントが建てられており、海上自衛隊の艦船を見ながら当時を偲ぶことができるようになっています。

そんな中、耐震・免震機能の付加など新基準の建築基準法に対応しながら、工場設備も最新の設備を投入しながら、現役で操業し続けているJR貨物 広島車両所は、本当に凄い存在だと感じます。




被爆建物である上に、戦前の工場の建屋でありながら、コロナ禍は別として年に1回一般公開される、日本史ファンや建物マニアに工場マニアをも魅了し、感謝してもしきれないほどありがたい存在です。

今回UPしている写真は今年の撮影分だけでなく、ちょくちょく目についた個所を毎年撮っていて、それを一気にUPしたものです。

広島車両所の被爆建物としての記事は、ずっと以前から「いつかやりたい」と思いつつ、ネタ的に先送りにしてしまっていました。

今年は広島車両所開設80周年と言うことで、今年こそはちゃんと記事にしようと、国連本部で第2回 核兵器禁止条約の締約国会議がされている中で、今日の公開となりました。


2007~2009年ではEF200やEF210に加え交直流のJR機関車と、まだそれなりに現役数がいた国鉄型機関車も、重要検査(重検 = 車検)を受けていました。

広島車両所が誕生した頃にはまだ蒸気機関車全盛の時代で、山陽本線を始め宇品線・芸備線・可部線・呉線を走る雑多な形式に加えて、海軍所有の蒸気機関車もこの広島車両所で重検を実施していました。

呉線・芸備線・宇品線へディーゼルカーが導入されると、それら気動車も整備や検査を実施し、山陽本線の電化時には戦前型国電や80系電車の整備や検査を行いました。

広島車両所が受け入れた最後の新車は、115系3000番台でしたが、国鉄分割民営化によってJR貨物の所属設備となり、しばらくはJR西日本からの請負という形で電車や気動車の整備と検査を行っていました。




と言うことで、最後に広島車両所を中心に関連事項を併記し、簡易年表を記します。

1892(明治25)年7月20日、山陽鉄道の三原延伸開業に伴い、三原機関庫(後の糸崎機関区)開設。

1894(明治27)年6月10日、山陽鉄道が広島延伸に併せ広島機関庫と瀬野機関車駐泊所(後の瀬野機関区)を創設し、8月21日には宇品線開業。

1903(明治36)年12月27日、呉線 海田市~呉間が開業。

1906(明治39)年3月31日、鉄道国有法発効。

1909(明治42)年12月19日、大日本軌道 広島支社線として可部線 横川~祇園間が開業。




1915(大正4)年4月28日、芸備鉄道の東広島~志和地間が開業。

1935(昭和10)年11月24日、呉線全通。

1936(昭和11)年8月20日頃、キリンビール広島工場の専用線開業。

1943(昭和18)年3月23日、鉄道省 広島鉄道管理局 広島工機部(現 広島車両所)として操業開始。

1945(昭和20)年8月6日に被爆するも、直後から臨時救護所として解放し、市内から避難してきた被爆者を収容し職員が救護にあたりつつ、翌7日から復旧に向けて業務を再開。

1949(昭和24)年6月1日、日本国有鉄道に移管され、1955(昭和30)年)広島工場に改称。




1960(昭和35)年2月からディーゼル機関車の検修を開始、1962(昭和37)年4月から気動車の検修を開始、5月より電車の検修、10月より電気機関車の検修を開始。

1964(昭和39)年10月からは貨車の検修もを開始し、車種の多様性はピークにたっするものの、1973(昭和48)年9月17日にD51-214号機の中間検査B完了を以て、蒸気機関車の検修を終了。

1972(昭和47)年3月、糸崎機関区廃止。

1984(昭和59)年5月から客車の検修を開始。

1985(昭和60)年3月1日、国鉄組織改正に伴い広島車両所に改称。

1986(昭和61)年10月1日、宇品線廃止。




1986(昭和61)年10月31日、キリンビール専用線に最終列車が通過し、翌日の11月1日付けで廃止とし、同年12月に線路の撤去が実施された。

1987(昭和62)年3月15日、瀬野機関区廃止。

1987(昭和62)年4月1日、国鉄分割民営化によりJR貨物に継承。

1991(平成3)年、JR西日本所属の電車検修の受託を終了。

1996(平成8)年4月1、広島機関区の検修部門を統合し、機関区は乗務員業務のみとなる。

2000(平成12)年4月1日、鷹取工場閉鎖に伴い、梅田貨車区の業務を担当開発。




2023(令和5)年3月23日、広島車両所 開設80周年。

と、簡易年表を記しましたが、山陽本線の広島以西の記録と芸備線の全通まで、可部線の全通と廃線そして復活は、広島車両所と関連が薄いため、省略しました。

呉線に関しては、海田市~呉間の開業時代は広島駅までの直通列車よりも、海田市駅止めの旅客列車の本数が多く、貨物列車も海田市駅止まりがあったようです。

海軍所有の蒸気機関車は基本的に海田市駅操車場と海軍専用線の運行が殆どでしたが、広島車両所で検修が行われる際には、単機回送もしくは貨物列車併結で移動したようです。




EF67-1号機のステレオグラフ(交差法)以降の車両は、始めてブログへUPしました油槽庫です。

油槽庫は地下に油槽があるためそう呼ばれますが、被爆建物としては油庫とリストに記されています。

動力室と言うのは、以前まで元 お召し機 EF59-16号機が置いてあった横の建物ですが、ラスト2枚が該当写真です。

今年はエリアが立入禁止になっていたので、過去の写真をいろいろ漁ったのですが、動力室として写したものがなくて、来年あたり差し替えるかも知れません(笑)

と言うことで、駆け足ではありましたが、JR貨物フェスティバル 広島車両所公開2023 の番外編として、被爆建物3棟の紹介と80周年記念で略年表を記した今日の記事でした。

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今日のような記事は、普段なら「鉄道から見る郷土史」へリンクをまとめるのですが。


今回の記事は平和教育である「平和記念日と世界史関連」にも入れました。


地方都市の郷土史、そして反戦・反核といった平和教育に興味をお持ちの方、ぜひ覗いてみて下さい。


特に「平和記念日と世界史関連」の方は、私のアイデンティティーでもあるので、結構 本気で力を入れています。



May the world be filled with peace and happiness.
(世界が平和と幸福で満たされますように)





特急さくら号100周年,さくら100年



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