今日の京都6月17日(月) | 都のかほり日記

都のかほり日記

京都、奈良、滋賀、神戸、東京。私のテリトリーです。
そこでのさまざまな出会いを綴っています。
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おはようございます。

先日、神楽のことについてご紹介しました。
この神楽が地名になったところがあります。有名なところでは、東京の神楽坂です。東京神楽坂の名前の由来は、『江戸名所図会 巻之四』(天保7年)によれば、この坂の右側に高田穴八幡の旅所があり祭礼で神輿が通るときに神楽を奏したとか、「若宮八幡の社」の神楽の音がこの坂まで聞こえたからともいわれています。また、「改撰江戸志」津久戸明神が元和の頃に牛込の地に移転した時、神輿が重くてこの坂を上ることができなくて、神楽を奏すると、容易に上ることが出来たため、この時より「神楽坂」の名が付いた言われています。

京都にも神楽とつく地名があるのをご存知でしょうか。パッと思い浮かべられなくても、吉田山とか「茂庵」のあるところと言うとおわかりいただけるかと思います。
左京区の京都大学の裏にある吉田山は標高102.6mの小山で、別名は神楽岡(かぐらおか)や神楽ケ岡(かぐらがおか)で、歴史的には吉田山ではなく神楽岡と呼ばれていました。




吉田神社の社伝では、「天照大神が岩戸にお隠れになり、諸神が神楽を奏した場所が如意ヶ嶽となった。その後、事勝神と賀茂御祖神が神代の楽を奏した場所が神楽岡となった」と言い伝えられています。

清和天皇の代の貞観元年(859年)には、藤原山陰によって吉田神社が創建されましたが、『延喜式神名帳』の式内社には吉田神社は含まれず、朝廷の幣も存在していませんでした。後白河法皇の編による『梁塵秘抄』には「吉田野の きのねをわれか やまはやす とて舞ふ見つる 神楽岡かな」「振りたてて 鳴らし顔にぞ 聞こゆなる 神楽の岡の 鈴虫の声」の2首が詠まれています。鎌倉期頃には公家の山荘地となり、西園寺公経の吉田泉殿などが知られています。

室町時代の神楽岡は斎場所でもありました。吉田兼倶が吉田神道を大成し、その拠点となった吉田神社は明治時代まで神道界で大きな権威を振るっていました。この時期には山地の大半が吉田神社の神苑でした。

明治時代には吉田山における吉田神社の社地は縮小されました。1889年(明治22年)には愛宕郡吉田村が京都市に編入され、1922年(大正11年)に都市計画区域指定がなされると、京都市の市街地化は吉田山以東に及びました。大文字の火床を眺めることができる東側斜面は高級住宅街となりました。明治時代には山麓に旧制第三高等学校(現・京都大学)が設置され、付近は学生の街となったのです。その頃、運輸業で財をなした谷川茂次郎は吉田山北東部を購入し、昭和初期に茂庵庭園を建設して大規模な茶会などを催しました。谷川は吉田山の東麓に、銅板葺きの上質な借家群(谷川住宅)を建設しています。同時期には南東部に吉田山荘(料理旅館、旧東伏見宮別邸)が建設され、しばしばコンサートや展覧会などが催されていました。

【谷川住宅】





この神楽岡に谷川住宅という心そそる借家群があります。岡崎と北白川を結ぶ神楽岡通から、「茂庵」という吉田山にある人気のカフェへ至る石段の山道の途中に、銅板葺きの住宅群が整然と区画されて並んで いる家並みが現れます。この家並みを初めて見た時に、時間が止まったように感じられました。ここに流れる空気が違っているのです。大正時代から昭和初期の建物です。この一画だけが、ある意味奇跡的に残ったともいえるこの住宅街は豪商・谷川茂次郎が大正末期から昭和初期にかけて建設した借家住宅群なのです。京都大学に近い立地でもあることから京大の教官を主な対象とした上質な借家住宅でした。

この谷川住宅、吉田山の東麓の傾斜地に石垣を築き、数段からなる段地を形成し、そして家々は石段や石畳のある道で結ばれています。各段地にそれぞれ2~5棟ずつ同形式の住宅を建築しています。その家屋は真壁造、一部南京下見板張り、銅板葺きで、作られています。

東側に東山の山並みを展望する傾斜地に立地することから、採光・通風・ 見晴らしなどに優れ、2階東面に主座敷を設け、どの家々からも東山、とくに如意ヶ岳大文字が一望できるように設計されています。まるで別荘地のようなたたずまいの最高の立地です。
ここは、現在も借家ですが、人気があり、入居も難しいと聞いています。

【谷川茂次郎とは】



谷川茂次郎
出典http://kindaikenchiku.seesaa.net/article/418777723.html

谷川茂次郎は1864年八瀬大原の生まれです。谷川茂次郎は、若いころから独立心に溢れ、幾つかの事業を経験したのち、大阪にて新聞用紙を中心に扱う運輸業を興します。(現:谷川運輸倉庫株式会社) 明治、大正の激動の時代を映す新聞業界の進歩発展と共に彼の事業は順調に成長していきました。新聞社と製紙会社の間に立つ茂次郎は両者から絶大な信頼を得、「円転滑脱の才の持ち主」と評されたといいます。
事業に成功した茂次郎はのちに 取引先の製紙会社の社長のすすめで茶道を始めます。裏千家に入門し本格的に茶道に親しみ、また裏千家を強力に後援、流儀の発展に貢献したことから今日庵の老分(長老)として遇されました。このように数奇者としても造詣を深めていった茂次郎は、神楽岡(吉田山)の山頂に茶室8席、月見台、楼閣など広大な森の茶苑を築きあげたのです。たびたびお茶会を催しては茶人としても多くの人と交流を深めました。
茂次郎の没後、数十年封鎖されたこの地に現存するのは当時の食堂棟(現、カフェ)と茶席二棟。
「茂庵」というネーミングを茂次郎の雅号から採り、今の茂庵のスタイルが生まれたのです。
出典

http://www.mo-an.com/tea/index.html

【茂庵】



谷川住宅から茂庵への道

「茂庵」(もあん)は京都・吉田山の頂上にあるカフェです。谷川茂次郎が大正時代に造った茶室・静閑亭、田舎席、待合、そして現在カフェとなっている旧点心席が「茂庵(旧谷川茂次郎茶苑)」として国の登録有形文化財として指定されています。
この茂庵、非常にわかりにくく、行きづらいところにあります。
アクセスもよくありません。車で行くことができず、山道を登って行くことになります。
それでも、この茂庵は古民家カフェ、ロケーションの良さで人気があります。
土日やゴールデンウィーク、お盆、また、春・秋の観光シーズンは、開店前から行列ができています。
アクセス
最寄りバス停は、「浄土寺」下車、その後徒歩約10~15分です。



山の下から登るコースは4つあります。下記のホームページに詳しい地図がありますので、ご参考にしてください。
①北参道コース
今出川通りからの一番険しい山登りコース 公式サイトでおすすめしないと記載があります。
②吉田神社コース
京大正門前経由、吉田神社境内を越えるコース こちらもわりとわかりやすいとのことです。
③真如堂コース
真如堂からのコース
④神楽岡コース
看板がありわかりやすい。雰囲気もいいおすすめのコースです。

茂庵
http://www.mo-an.com/event/index.html

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新しい1週間の始まりです。今週あたり、そろそろ梅雨入りになるでしょうか。
どうぞ、今日もお元気で笑顔で楽しい1日でありますように!
行ってらっしゃい!

【今日の京都令和6年6月17日(月)】(No.3500)


※掲載の情報等が変更になる場合があります。お出かけ前にご確認ください。

中止になっている行事もあります。
お出かけの際にはご確認の上、お出かけください。

https://ja.kyoto.travel/news/format.php?id=143


○竈社例祭(竈社)/北野天満宮 北野天満宮の末社



竃社(かまどしゃ)祭神は、庭津彦神。庭津姫神。火産霊神(ほむすびのかみ)です。 神徳は台所の守り神です。 庭津彦神・庭津姫神の「庭」は家庭の意味で、この二神は、家庭の守護神、また火産霊神は、火をつかさどる神です。古来この三柱の神は、かまど・台所の守り神としてわたしたちの日常生活を密接に結びつき、各家庭で大切に守られて来ました。この神々はもともと天満宮の御供所(ごくしょ:神さまへのお供えを調理する台所)のかまどに祭られていたもので、昔から使われてきた大釜が社殿の床下に納められており、垣間見ることができます。 なお、かまどの神については中国にも同様の信仰があり、この神を台所に祭ると福を招くとして守り継がれています。 
日程 6月17日 時間 10時 
アクセス 市バス北野天満宮前下車 

○ 春の特別公開(〜6/30)/宝厳院
 
○ 御土居の青もみじ(〜6/30)/北野天満宮

○ 貴船の川床(〜9/30)

○ 鴨川納涼床(〜9/30)

○あじさい苑開園(〜7/7)/三室戸寺

○ 紫陽花苑の公開(〜6/30)/藤森神社

○ 初夏の庭園特別公開(〜7/10)/建仁寺両足院

○ あじさいウイーク(〜6/30)/柳谷観音

○茅の輪くぐり(〜6/30)/車折神社

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