今日の京都5月20日(月) | 都のかほり日記

都のかほり日記

京都、奈良、滋賀、神戸、東京。私のテリトリーです。
そこでのさまざまな出会いを綴っています。
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おはようございます。

今日から二十四節気と七十二候が移ります。

二十四節気が「小満(しょうまん)」になりますが、この「小満」は二十四ある節気の中で、一番なじみの薄い節気と言われています。

ずいぶん前になりますが、朝日新聞2014年3月1日の”be”に、『なじみの薄い「二十四節気」は?』という記事がありました。それによると、今日からの小満が一番なじみが薄く、続いて芒種(ぼうしゅ 6月6日頃)、清明(せいめい 4月5日頃)、雨水(うすい 2月19日頃)などの知名度が低く、冬至(とうじ12月22日頃)、立春(りっしゅん2月4日頃)、夏至(げし 6月21日頃)、春分(りっしゅん3月21日頃)などが高いとありました。

 この「二十四節気」とは、太陽の位置を基準に1年を24等分した季節の分け方です。中国伝来なのでもともと季節にズレがあります。国立天文台のHPによれば、明治時代、太陽の動きを基準に採用された「新暦」(太陽暦)の直前に使われていた天保暦を一般に「旧暦」(太陰太陽暦)といいます。月の満ち欠けを基準にする「太陰暦」はひと月平均29.5日で年約354日となり、季節がずれていくため、二十四節気を加味し、閏月をもうけて調整したのが「旧暦」でした。

「二十四節気とは正しい季節を知る指標」でした。旧暦時代の人にとって、「立春」というのは現代人の「2月4日」と同じ、「啓蟄」というのは「3月6日」と同じ意味なのです。実際、現在の新暦(『グレゴリオ暦』という太陽暦の一種)ではほぼこのとおりになりますが、新暦がなかった時代には、二十四節気によらなければこの正しい季節がわからなかったのです。
何年か前に、日本気象協会がこの二十四節気が現代にそぐわないと、新しい二十四節気を作ろうとして頓挫したことがありました。
 なんとなく、そぐわないと思ったり、認知度が低かったりしますが、暦の上ではと思い、季節を感じられて大切にしたいと思っています。

⚫二十四節気

【小満】( しょうまん)
陽気がよくなり草木が成長して茂るという意味です。農家では田植えの準備を始める頃。動物や植物にも活気があふれます。また、秋にまいた麦の穂が付くころで安心する(少し満足する)という意味もあります。 

⚫七十二候

【蚕起食桑】
(かいこおきてくわをはむ)
蚕が桑の葉を盛んに食べだす頃。蚕がつむいだ繭が美しい絹糸になります。 

季節はどんどん進んでいます。季節に置いてきぼりにならぬよう、過ごしていきたいものです。

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さて、今日は 1467年
応仁の乱で山名持豊、畠山義就らが挙兵をした日です。

よく語られることですが、
 「京都人にとっては先の戦争といえば、第一次でも第二次でもなく、応仁の乱のことを指す」という「応仁の乱」 です。
でも、わかっているようでわかっていない応仁の乱。

何故この乱が起こったのか、当時の興福寺の僧侶・尋尊の書き記したところによれば「いくら頭をひねっても応仁・文明の大乱が起こった原因がわからない」 と、言わしめた応仁の乱。



歴史の教科書では、 室町時代末期,足利将軍家ならびに管領畠山,斯波両氏の継嗣問題から起こった乱とありました。
そこに、細川,山名両有力守護大名の勢力争いがからみあって,東西両軍に分れ,応仁1 (1467) 年から文明9 (77) 年までの 11年間にわたって京都を中心として争われ、京都の町をほとんど焼き付くした大乱でした。

このときの足利将軍は8代の足利義政。あの銀閣を建立した方です。この方の夫人が女傑とも日本三大悪女とも言われる日野富子。当初、世継ぎがいなかったため、義政の弟を世継ぎにしたものの、その後、日野富子にのちの義尚が生まれ、跡継ぎ争いが勃発したのです。

その他、畠山氏に政長,義就兄弟の継嗣争いがあったこと。 斯波氏に子がなく,跡継ぎ争いが起こったこと。
内紛の当事者たちは幕府の二大実力者である細川勝元と山名宗全をそれぞれ頼っていき、自然と二つの大派閥が形成され、調停機関であるはずの幕府が機能不全を起こしていたことが原因といえます。その後、様々な思惑で乱は長期化し、室町幕府の統治体制は崩壊へと向かっていったのです。

その長きに渡る応仁の乱も終息を迎えます。細川勝元、山名宗全の相次ぐ病死によって終息の兆しを見せ始め、勝元の息子・細川政元、宗全の孫・山名政豊によって和議が結ばれ、9代将軍に足利義尚が就任することで一応の終わりを見たのです。

このよくわからないと言われる応仁の乱を書いた本があります。
 
『応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱』 
呉座 勇一著(中公新書) 
よろしければよくわからない大乱をひもとかれててください。



【陰のキーパーソン日野富子】

今日は図らずも、日野富子の忌日です。

[生]永享12(1440).京都
[没]明応5(1496).5.20. 京都
室町幕府8代将軍足利義政の室。日野重政の娘。 16歳で義政に嫁し、初め男子がなかったため、義政の弟浄土寺義尋 (義視) を還俗させて後嗣とした。しかし寛正6 (1465) 年義尚が生れたので、義尚を将軍の後継者とするため山名宗全と結び、義視を推す執事細川勝元と争い、ついには応仁の乱を引起した。そのため幕府の実権は失われ、社会は混乱し、政治は腐敗の極にあったが、富子は兄の左大臣日野勝光と結んで賄賂をとり、内裏修理を口実に関を設けて関税を課し (→七口の関 ) 、高利貸をして私腹を肥やした。義尚を将軍にすることには成功したが、彼は延徳1 (89) 年近江で陣没し、さらに翌年義政も没したので、その権勢も衰え、義視の子の義稙が将軍となると所領は没収され失意のうちに没した。
出典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

○日本三大悪女
日野富子は日本三大悪女のひとりに数えられています。
他の二人は、北条政子と淀殿です。
それを聞いて、納得か疑問がです。三人とも女傑と言われますが、あまりに周りが不甲斐ないからそうなったとも言えるかと思います。このあたりは、また、別の機会に。

○日野富子のエピソード
⚫︎京都七口の関を作ったこと。
税を徴収するため。
京都七口の7という数字は五畿七道からきていると考えられていますが、七道には対応していません。 また七口は固定されたものではなく、時期によって関の数も異なっています。

⚫︎日野富子の木像
宝鏡寺に日野富子の木像が安置されています。


⚫︎日野富子の墓所
* 京都市上京区の華開院に富子のものと伝わる墓が存在しています。
* 岡山県赤磐市沢原120 小川山常念寺自性院にも日野富子の墓があると伝えられています。日野富子がなぜ岡山にという疑問は残ります。
⚫︎辞世の句
「偽りのある世ならずは ひとかたにたのみやせまし 人の言の葉」
偽りの全くない世の中であれば人の言葉を頼みにしなくてもよいかもしれませんが、こういう乱世だからこそ人の言葉を信じたい、という意味です。


【京都の応仁の乱ゆかりの地】

⚫︎上御霊神社



応仁の乱勃発の地を示す碑が建っています。文正2年(1467)正月17日に畠山政長がここに布陣し、翌朝には足利義就が攻め込んで、終日戦闘が続きました。

⚫︎百々橋





応仁の乱の戦地として歴史に名をとどめる百々橋。その百々橋があった地を示す礎石。南北に流れる小(こ)川にかかる橋を挟んで東西両軍がにらみ合い、激しい戦闘が行われました。この百々橋は、長さ7.4メートル、幅4メートルほどの小さな橋だったようです。古来板橋でありましたが、近世になって石橋に架け替えられ、昭和38年(1963)に小川が埋め立てられた際、橋も解体されましたが、地域の方々の御尽力により、橋材は一時、室町小学校で保管されました。
その後、橋材の大部分は洛西ニュータウンに移され、竹林公園内に復元されましたが、橋脚を支える四基の礎石のうち一基は室町小学校の校庭に、一基は百々橋をしのび貴重な遺構として現地に残されました。

⚫︎東陣



西陣は有名ですが、東陣はほとんど聞いたことはありません。東陣はどのあたりにあったのでしょうか。
これは、細川勝元の屋敷があった場所だろうと言われています。京都市上京区木挽町(小川通りあたり)です。

⚫︎西陣





山名宗全の邸宅に置かれていました。
山名町という町名にその名を留めています。山名宗全邸、ここが西陣の中心地です。
京都市考古資料館に西陣の石碑があります。



簡単な応仁の乱の史跡案内でした。

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新しい1週間の始まりです。
早いもので、もう、5月の下旬です。あっという間に6月になってしまいそうです。
どうぞ、今日もお元気で笑顔で楽しい1日でありますように!
行ってらっしゃい!

【今日の京都令和6年5月20日(月)】(No.3472)


※掲載の情報等が変更になる場合があります。お出かけ前にご確認ください。

中止になっている行事もあります。
お出かけの際にはご確認の上、お出かけください。

https://ja.kyoto.travel/news/format.php?id=143


○ 親鸞聖人降誕会/西本願寺





毎年5月20日・21日に、親鸞聖人のご誕生を祝って催される法要です。聖人は承安3年(1173)、京都の日野でお生まれになりました。両日は、祝賀能や抹茶接待など華やかな催しが行われ、ご誕生を祝います。
法要の様子はYouTubeチャンネルでライブ配信されます。
日程 5月20日~5月21日
スケジュールはこちらをご覧になってください。

https://www.hongwanji.kyoto/info/001752.html

【茶席】両日行われる茶席は、藪内流(やぶのうちりゅう)による抹茶接待です。普段は非公開の国宝 飛雲閣内で、上品な抹茶を和菓子とともに味わうことができます。
 5月20日(月)12時30分~16時
 5月21日(火) 9時30分~15時30分
 於:国宝 飛雲閣
【祝賀能】本願寺と能の関係は歴史が長く、第8代宗主(しゅうしゅ)蓮如上人(れんにょしょうにん)の頃に始まり、降誕会での祝賀能は明治20年代半ば頃から恒例となりました。
会場である重要文化財「南能舞台」は、日本最大の屋外能舞台です。ぜひとも歴史ある建造物と能がかもしだす優美なひと時をご堪能ください。
 5月21日(火)12時30分~16時頃(12時開場)
 ※祝賀能は5月21日(火)のみ行います。
 於:重要文化財 南能舞台
5月20日(月)12時から御影堂前 白洲受付テントにて、お1人あたり5,000円以上の懇志をご進納賜り、お扱いとして茶券・観能券をお渡しいたします。
アクセス
市バス西本願寺前
京都駅から徒歩1.2キロ
ホームページ
https://www.hongwanji.kyoto/

○ 春の特別公開(〜6/30)/宝厳院

○春の特別公開(〜5/25)/東寺

○ 伏見名水スタンプラリー(〜5/31)

○ 春の特別拝観(〜6/2)/相国寺
 

○ 御土居の青もみじ(〜6/30)/北野天満宮

○ 霊宝館春季特別公開(〜5/31)/清涼寺

○春の特別拝観(〜6/16)/瑠璃光院 

○ 鴨川をどり(〜5/24)

○ 新緑特別拝観(〜5/31)/妙覚寺

○ 貴船の川床(〜9/30)

○ 鴨川納涼床(〜9/30)

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