おはようございます。
今日から、宝蔵寺で寺宝展が行われます。
【宝蔵寺】
弘法大師空海の創立と伝えられる。その後、文永6年(1269)如輪上人により元西壬生郷に開基される。 弘安2年(1279)に如輪上人が遷化、天正9年(1581)玉阿律師が中興再興された。 玉阿律師は天正18年(1590)に遷化、天正19年(1591)に現在地に移転した。 本尊阿弥陀如来像は、元禄13年(1700)と刻まれている。
天正年間(1573~1591)秀吉の寺町整備により寺町の裏側に当たる裏寺町に移転した。 元治元年(1864)禁門の変・通称「蛤御門の変」により全焼。 現在の本堂は昭和7年(1932)建立された。
宝蔵寺ホームページより
【宝蔵寺と伊藤若冲】
伊藤若冲は江戸時代中期、正徳6年(1716)2月8日京都高倉錦小路南東の角にあった青物問屋(あおものといや)「桝屋」(ますや)・通称「桝源」(ますげん)主人・三代目伊藤源左衛門の長男として出生しました。元文3年(1738)若冲23歳の頃、父源左衛門が42歳で亡くなり、若冲は四代目源左衛門となりました。三十代の頃より絵画を志し、宝暦5年(1755)次弟・宗厳(そうごん)(白歳)に家督を譲り茂右衛門と改名し画事に専念しました。若冲は、寛延4年(1751)9月29日に父母の墓石、明和2年(1765)11月11日に末弟・宗寂の墓石を宝蔵寺に建立しました。
宝蔵寺には、若冲の「髑髏図」「竹に雄鶏図」が所蔵されています。また、若冲が家督を譲った弟、伊藤白歳(宗厳)をはじめとして若演、処冲、若啓、若拙、大光、環冲の作品を所蔵されています。
【改めて伊藤若冲とは】
明日、2月8日は伊藤若冲のお誕生日です。
伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう、1716年3月1日(正徳6年2月8日) - 1800年10月27日(寛政12年9月10日))は、江戸時代の画家。名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。初めは春教(しゅんきょう)と号したという記事がありますが、その使用例は見出されていません。斗米庵(とべいあん)、米斗翁(べいとおう)、心遠館(しんえんかん)、錦街居士とも号します。
伊藤若冲といえば、今から7年前2016年の春に東京都美術館で開催された「生誕300年記念 若冲展」が、320分待ち(5時間20分)となり話題となりました。
昨年、東京出光美術館で開催されている「江戸絵画の華〈第1部〉若冲と江戸絵画」も人気でした。
このように、大人気の伊藤若冲ですが、ずっと脚光を浴びていたわけではありませんでした。
生前の若冲は、『平安人物志』の上位に掲載されるほどの評価を受けていましたが、いつしか歴史の中に埋もれることなりました。
大正15年(昭和元年、1926年)、秋山光夫によって本格的な研究が着手され、昭和45年(1970年)に辻惟雄『奇想の系譜』が出版され、時代の変遷とともに江戸絵画の傍流扱いされるようになってしまっていた若冲が、岩佐又兵衛や曽我蕭白らとともに「奇想の画家」として再評価されることになりました。
そして、人々が注目し始めたのは、アメリカの若冲のコレクターであるジョー・プライス氏のコレクションの展覧会が2006年に「プライスコレクション『若冲と江戸絵画』展」として東京国立博物館で開催されたことからと言われています。
ジョー・プライス氏はまだ日本人も若冲に注目をしていなかった時から、その素晴らしい作品の魅力を見いだし、コレクションを始めたそうです。
そのコレクションは、若冲の素晴らしい作品ばかりです。
この600点にわたるプライスコレクションは1980年以前の蒐集品約200点はロサンゼルス郡立美術館に寄贈され、それ以降のもののうち約200点は自宅心遠館の所蔵、190点は出光美術館に売却されています。
【伊藤若冲は絵だけではない】
京都錦市場の西側の入り口、高倉錦に伊藤若冲の生家という看板が出ています。
そして、錦市場の店舗のシャッターには若冲の絵が描かれています。これは伊藤若冲生誕300年記念「錦市場ナイトミュージアム」として、2016年描かれました。
ここ錦市場が若冲の生まれたところです。
1716年(正徳6年)、京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」(家名と併せて通称「枡源(ますげん)」)の長男として生を受けました。問屋の仕事は小売ではなく、生産者や仲買・小売の商人に場所を提供して販売させ、彼らの関係を調整しつつ売場の使用料を徴収する流通業者だったそうです。そのため、商人たちから場所代を取れば十分な利益を上げることが出来たそうです。
23歳のとき、父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名しました。ただ、若冲は絵を描くこと以外、世間の雑事には全く興味を示さかったとか。商売には熱心でなく、芸事もせず、酒も嗜まず、生涯、妻も娶りませんでした。
そして、40歳で家督を弟に譲り、隠居生活に入ります。
そして、若冲の代表作ともいえる、「動植綵絵」や鹿苑寺(金閣寺)の「大書院障壁画」などを描きます。
その生活が一変したのが、
錦小路で起こった営業をめぐる争議でした。
若冲は隠居していたとはいえ、年寄りとして、錦市場に深く関わっていました。明和8年(1771)から安永3年(1774)までの錦市場の動向を伝える「京都錦小路青物市場記録」によると、じつは若冲が錦市場の存続に関して積極的な活動をおこなっていたと記載があります。そのころ錦市場の営業をめぐる争議が起こり、町年寄として解決に尽力し、その結果、錦市場は窮状を脱することになりました。
その時期に描かれたことがわかる作品はほとんどないことから、若冲は錦市場の存続に心血を注いだことがわかります。
現在、錦市場が繁栄しているのも、若冲の尽力があってのことだといえるのではないでしょうか?
【伊藤若冲の足跡を辿る京都】
○錦市場
ここは若冲が生まれたところです。
市場の店舗が営業している時には眺められませんが、早朝や夜、店舗のシャッターに若冲の絵が描かれています。ちょっとした、若冲美術館です。
○相国寺
「若冲」という画号を命名したのは相国寺の第113世住持(住職のこと)だった梅荘顕常(ばいそうけんじょう、大典禅師ともいわれる)でした。
若冲は「動植綵絵」(全30幅のうちの)24幅と「釈迦三尊図」3幅を相国寺に寄進します。このとき若冲は死後のことを考えて、屋敷一箇所を高倉四条上ル問屋町に譲渡し、その代わり、問屋町が若冲の命日に供養料として青銅3貫文を相国寺に納めるよう契約しています。
しかし、1788年(天明8年)の天明の大火で、自宅を焼失した後、困窮したのが、相国寺との永代供養の契約を解除しています。
相国寺には若冲の生前墓の寿蔵があります。ただ、埋葬されたのは伏見の石峯寺です。
現在、皇居三の丸収蔵館にある若冲の「動植綵絵」は
明治22年当時の一万円で売却され、当時困窮していた相国寺を救ったと言われています。
○信行寺
信行寺(しんぎょうじ)には伊藤若冲が最晩年に描いた天井画・花卉図(かきず)があります。花卉図は牡丹・菊・梅・紫陽花・菖蒲・朝顔など167図です。(若冲の落款と印を含めると168図です。)花卉図はかつて石峰寺の観音堂にありましたが、明治維新後の廃仏毀釈によって破却されました。その破却された花卉図は19世紀後半に信行寺の檀家総代の方が散逸したものを購入し、寄進されたそうです。
京都市左京区北門前町472
アクセス市バス東山仁王門(徒歩すぐ)
通常非公開です。
若冲生誕300年の折に拝見しました。
○宝蔵寺
明日、2/8の伊藤若冲生誕会は 14時~からです。
京都市中京区裏寺町通蛸薬師上る裏寺町587
アクセス
市バス「四条河原町」下車
ホームページ
http://www.houzou-ji.jp/
○石峰寺
石峰寺(せきほうじ)には1800年(寛政12年)に石峰寺門前の自宅で亡くなった伊藤若冲の墓があり、例年9月10日に若冲忌が行われています。また若冲が下絵を描き、石峰寺の住職が協力した五百羅漢もあります。
京都府伏見区深草石峰寺山町26
アクセス市バス稲荷駅(徒歩約8分)
京阪電鉄本線龍谷大前深草駅(徒歩約5分)
拝観時間9:00~17:00(3/1~9/30)
9:00~16:00(10/1~2/末日)
拝観料金・料金
個人大人・大学生・高校生300円、中学生・小人200円
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どうぞ、今日もお元気でいい1日でありますように!
行ってらっしゃい!
【今日の京都令和6年2月7日(水)】(No.3369)
※掲載の情報等が変更になる場合があります。お出かけ前にご確認ください。
中止になっている行事もあります。
お出かけの際にはご確認の上、お出かけください。
https://ja.kyoto.travel/news/format.php?id=143
○寺宝展/宝蔵寺
若冲四十代の作である「竹に雄鶏図」、五十代の拓版の技法を用いた「髑髏図」をはじめ、弟である白歳の「雪中雄鶏(ゆうけい)図」や若冲派の若演筆「大黒天図」など3点は初めて公開されます。
日程2月7日(水)~12日(月)
時間受付:10時~15時30分
日程備考2/8の伊藤若冲生誕会は 11時~
料金
参拝料 700円
アクセス
市バス「四条河原町」下車
ホームページ
http://www.houzou-ji.jp/
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