「間」は扱い方によっては深刻な問題を引き起こす可能性があり、だからこそ「間」というものを知り、それにどう向き合うかは、人が生きていくうえで、とても大切なことなのです。
きたやまおさむ
「間」を埋める、「間」から生まれる
私のことを振り返ってみると、私は「間」を比較的うまく使ってきたように思います。
歌が生まれるのは、たいてい旅の途中だったりします。
夜行列車に乗って、朝、目的の駅に着くまでの間や、何もすることがない。電車の移動中。
飛行機の出航が遅れて、飛行場でひたすら待たされているとき。
あるいは、台風で飛行機が欠航となり、もう1日、ホテルに泊まらなければならなくなったとき。
そうしたときに、歌が多く生まれてきました。
私に限らず、芸術にしろ、あるいは何らかの発明にしろ、クリエイティブなものが、こうした「間」から生まれてきたという例はたくさんあるように思います。
英語に「kill time(キル・タイム)」という表現があります。
「暇をつぶす」という意味ですが、そこには、本来、価値を生むはずの「時間(タイム)」を無駄に「殺す(キル)」という意味が含まれています。
つまり、「time is money(タイム・イズ・マネー)」という慣用句があるように、時間は生産的な価値を生むものとして使うべきという考え方がうかがえます。
しかし、私はけっして歌で時間の穴埋めをしているだけではなく、嬉しいことに歌づくりで、自分が最も自分らしくなれるのです。
そういうふうに「間」からクリエイティブな体験が生まれる場合、何か目的をもって、その「間」を過ごしているわけではありません。
私は目的もなく、「間」から生まれてきたものが、実は大きな価値をもっているかもしれないと思っています。
もちろん良い歌が売れるわけでもなく、今の私は売れる歌をつくるために歌づくりをしているわけでもないのです。
しかも、作品の価値がわかるのにも、すごく時間がかかるかもしれない。
不遜な比較ですが、ゴッホなどのように、生きている間に自分の作品が評価されることなく、死後、高い評価を受けることになった。芸術家はたくさんいます。
むしろ、多くのクリエイターが生前に高い評価を受けるようになったのは、現在になってからともいえます。
でも、「間」をあってはいけないものとして、次々と埋めていくような現代社会の中では、「間」から自分らしくてクリエイティブなものが生み出されたり、それが評価されるまでの長い間に耐えるという機会も、どんどん失われていっています。
私が行っている精神分析的臨床の場でも、「間」に苦しんでいる患者さんは少なくありません。
「間」が生じて、ふと自分のことを見つめ直す瞬間が訪れ、そこに悩みが生じる。
暇になると、過去の苦しい経験が次々と心に浮かび、自分が価値のない人間に思えてしまう。
自分の人生が、とてつもなくむなしいと感じられてしまい、そこに吸い込まれる漠然とした不安や異常な考えで心を病んでしまう。
だから「間」が生じるのをとても恐れている。
「間」は、クリエイティブなものなどを生み出す可能性を秘めている一方、容易に「魔(ま)」にも転換してしまう危険性があります。
ふとしたきっかけで悪事に手を染めてしまうことを「魔が差す」といいます。その「魔」です。
こうした患者さんに限らず、「間(魔)」を恐れ、それを埋めるために過度にアルコールを摂取したり、危険なドラッグに手を出してしまったり、という例も少なくありません。
「間」を消そうとするために、逆に、自分の人生そのものをつぶしてしまっているともいえます。
つまり「間」は扱い方によっては深刻な問題を引き起こす可能性があり、だからこそ「間」というものを知り、それにどう向き合うかは、人が生きていくうえで、とても大切なことなのです。
特に、あらかじめ「間」を存在してはいけないものとして、「間」に向き合う機会を失っている現代においては、これについて語り考えることは重要でしょう。
突然、訪れた「間」にどう対処してよいかわからず、大きな「むなしさ」が訪れ、立ち直れなくなってしまう。
そうならないためには、どうすればよいのか。
私が、本書を書こうと思った要因は、そんなところにもあります。
きたやまおさむ『「むなしさ」の味わい方』より一部引用
貫井投稿