ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ないどうにも対処しようのない事態に耐える能力 | 覚醒のひかり

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縄文時代にゆるゆる瞑想をしていた、シャンタンこと宮井陸郎(1940.3.13-2022.3.17)のブログ
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ネガティブ・ケイパビリティとの出会い

 

 

ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability 負の能力、もしくは陰性能力)とは、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」を指します。

 

 

あるいは、「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」を意味します。

 

 

この言葉に出会ったときの衝撃は、今日でも鮮明に覚えています。

 

 

 

箒木蓬生(ははきぎほうせい)

 





 

 

精神科医になって五年過ぎ、六年目にはいった頃でした。

 

 

この時期は、精神科医として多少の自信をつける反面、自分の未熟さにまだ道遠しと思う、相反する気持ちに揺れ動く頃です。

 

 

要するに、精神科医の仕事そのものと、その根底にある精神医学の限界に気づき始めた時期だったのです。

 

 

例えば、研修医の頃、うまく治ってくれたと思った患者さんが、何年か大学外の病院をローテーションして大学に戻ってみると、また再入院していたりします。

 

 

しかも前よりも重症になっているのです。

 

 

かと思うと、大学の外に出る前に入院していた患者さんが、そのまま入院生活を続けていたりするのです。

 

 

いったい精神科医は医師としてどれほどのことができるのだろう。

 

 

いやそもそも医学の大きな分野のひとつである精神医学そのものに、どれだけの力があるのだろう。

 

 

そんな不安感にさいなまれ、自信をなくしかけるのが臨床五、六年目の精神科医と言っていいかもしれません。

 

 

そんな折、眼に飛び込んできたのが、「共感に向けて。不思議さの活用」という表題を持つ論文でした。

 

 

何だこれは、と思いました。

 

 

〈共感〉(empathy)は分かります。

 

 

精神科医になりたての頃から、これは嫌と言うほど教えられ、実際に患者さんと接する中での重要性も痛感させられます。

 

 

簡単に言えば「相手を思いやる心」です。

 

 

とはいえ、これが漠然としていて、かつ奥が深く、体得するにも一筋縄ではいかないのです。

 

 

その「共感」と「不思議さ」を結びつけた論文ですから、驚きつつ立ったまま頁をめくり本文を読み始めました。

 

 

著者など、どうせ知らない名前なので、眼中にありません。

 

 

医学論文には、まず冒頭に要約があります。

 

 

それはこうなっていました。

 


 

人はどのようにして、他の人の内なる体験に接近し始められるだろうか。

 

 

共感を持った探索をするには、探求者が結論を棚上げする創造的な能力を持っていなければならない。

 

 

現象学や精神分析学の創始者たちは、問題を締めくくらない手順、つまり、新しい可能性に対して心を開き続けるやり方を、容易にする方法を発展させた。

 

 

加えて、フッサールの現象学的還元と、フロイトの自由連想という基本公式は、芸術的な観察の本質を明示したキーツの記述と、際立った類似性を有している。

 

 

体験の核心に迫ろうとするキーツの探求は、想像を通じて共感に至る道を照らしてくれる。

 


 

フッサールとフロイトなら、共感について考える際、当然引用されるかもしれない。

 

 

しかし、詩人のキーツがどうしてここに出てくるのか。

 

 

不思議に思って読み進めていく先に、「ネガティブ・ケイパビリティ」の記述があったのです。

 

 

今では有名になった兄弟宛の手紙の中で、キーツはシェイクスピアが「ネガティブ・ケイパビリティ」を有していたと書いている。

 

 

「それは事実や理由をせっかちに求めず、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいられる能力」である。

 

 

能力と言えば、通常は何かを成し遂げる能力を意味しています。

 

 

しかしここでは、何かを処理して、問題解決をする能力ではなく、そういうことをしない能力が推奨されているのです。

 

 

しかもその能力を、かのシェイクスピアが持っていたというのですから、聞き捨てなりません。

 

 

さらに読んでいくと、キーツが詩人について語った部分も引用されていました。

 

 

詩人はあらゆる存在の中で、最も非詩的である。

 

 

というのも詩人はアイデンティティを持たないからだ。

 

 

詩人は常にアイデンティティを求めながらも至らず、代わりに何か他の物体を満たす。

 

 

神の衝動の産物である太陽や月、海、男と女などは詩的であり、変えられない属性を持っている。

 

 

ところが、詩人は何も持たない。

 

 

アイデンティティがない。

 

 

確かに、神のあらゆる創造物の中で最も詩的でない。

 

 

自己というものがないのだ。

 

 

ここに至って、キーツの真意がようやく読み取れた気がしました。

 

 

アイデンティティを持たない詩人は、それを必死に模索する中で、物事の本質に到達するのです。

 

 

その宙吊り状態を支える力こそが、ネガティブ・ケイパビリティのようなのです。

 

 

キーツはネガティブ・ケイパビリティの権化として、シェイクスピアを引き合いに出しています。

 

 

しかし本当は、詩人こそネガティブ・ケイパビリティを身につけるべきだと説いているのです。

 

 

不確かさの中で事態や状況を持ちこたえ、不思議さや疑いの中にいる能力ー。

 

 

しかも、これが、対象の本質に深く迫る方法であり、相手が人間なら、相手を本当に思いやる共感に至る手立てだと、論文の著者は結論していました。

 

 



箒木蓬生(ははきぎほうせい)『ネガティブ・ケイパビリティ答えの出ない事態に耐える力』はじめにより抜粋引用

 

 

 


 

 

 

 

 

貫井投稿