ムー音 | 覚醒のひかり

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縄文時代にゆるゆる瞑想をしていた、シャンタンこと宮井陸郎(1940.3.13-2022.3.17)のブログ
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もんじゅ まさき







『無字から隻手音声へ その 10 : 白隠の工夫』

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 白隠禅師が、無字を隻手音声に変えた理由 

 ここまで9回にわたって『無字から隻手音声へ』というタイトルで書き進めてきました。冒頭では、伝統的な臨済禅における公案拈提のプロセスや、とりわけ無字の公案が「ムー」という音と一つに成り、さらにその「ムー」音を超え、かたちなきものへと入ってゆくプロセスであることを、抱石庵久松真一師のことばを引用しながら紹介してみました。 

 続いてOSHOの身体論にフォーカスして、とりわけ第四身体の特性とマントラの関係に光を当て……特に「オーム」という聖なる響きと第四身体との関連に注目し、音を用いる瞑想法の盲点について注意をうながしてきました。 

 また『無字から隻手音声へ その 6:第四身体に共鳴するオームの響き』で触れたように、オーム音のうち最初のAとUが脱落して、M音が残って響き渡る傾向があるというOSHOの指摘にここで再度注目してみたいと思います……。 

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 『「a」と「u」が、とても微妙で捉えにくいためだ。言葉の最初の部分は私たちの注意から抜け落ち、最後の部分だけが聞きとられる。このため、オームの音が内側で響き始めると、その内の「m」は簡単に捉えられる。閉め切った部屋に坐ってオームを唱えると、始まりの音は「m」にとって代わられる。そして「a」と「u」はまったく聞こえなくなり、あたり一面に響き渡るのは「m」だ』 
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 ……もしかすると禅の公案の代表とされる無字の公案は、このオームの断片であるムー音との関連があるのかもしれません。もちろん同じ音を用いる技法でも、インド的な瞑想と禅の拈提では取り組み方、発声の仕方、エネルギーの投入の仕方に違いがあるのですが、深い禅定のなかで研ぎ澄まされてゆく「ムー」音の発語は、限りなくオームの尾部に近いと言えるように思うのです。 
  
 ということは、無字の公案は、オームの詠唱に伴う眠りの危険性を幾分かは共有しているということになりそうです。もしも「ムー」音を機械的に反復するだけで、それを唱えている者の根底をどこまでも問い続ける姿勢が欠落していたら、オームの詠唱と同じ結果を招来する可能性が高いといえるかもしれません。 

 「ムー」音とひとつになった境地から、「ムー」音を突破して、ほんとうにかたちなきものへと超出することができるのかどうか、個々三昧から王三昧へと超出することができるのかどうか、そのきわどい分かれ目は、オームの詠唱と同様に、やはり無字の公案を拈提する場合にもつきまとっている……そう理解するのが順当なのではないかと思えます。 

 シリーズの冒頭でも触れたように、「隻手音声」という公案は、白隠禅師の創案工夫によるものであって、白隠以前にはなかったものです。60歳を超えたころ、すでに多くの弟子達を育てた白隠は、無字の公案を止め、初関の公案として「隻手音声」を与えるようになるのですが、その理由をこのように語っています。 

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 わたしは15の歳に出家しました。22,3の頃は、大憤志をおこして、夜も昼も、ひたすら無字の公案を拈提しました。24歳の春、越後高田の英岩寺の摂心のとき、ある夜、遠くに響く鐘の音を聞いて、忽然として悟るところがありました。それ以来45年間、縁のあったすべての人々に、何とぞ1回、見性の体験をして大事秀脱の力を得て下さるようお勧めし、あるいは自己心性の根源について疑わしめ、あるいは趙州無字の公案によって工夫させるなど、いろいろな方法で指導して来たのですが、この間に、それぞれ見性した人は、老若男女、僧俗あわせて数十人もあったと思います。 

 そして、この5,6年以来は、考えるところがあって、「隻手の声を聞き届けよ」ということを教えているのですが、これまでとは異なって、どなたも格別に疑団が起こりやすく、工夫を進めやすいようで、従前の公案とくらべ、その効果には雲泥の差があるように感じております。それで今では、もっぱら隻手音声の工夫をお勧めしているのです。 

『白隠禅師法語全集 第12冊 隻手音聲(一名、薮柑子)』 

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 疑団というのは、禅のキーワードのひとつですが、トータルな疑いとも言えるし、疑いが結晶化して、一種の透脱とした意識の状態に入ることを指しています。 
  

 下に当シリーズのバックナンバーをアップしておきますので、関心のある方は、もういちど辿り直してみてくださると嬉しいです。 

無字から隻手音声へ その1(臨済禅での公案拈提のプロセス) 
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947247121&owner_id=64170 

無字から隻手音声へ その2(個々三昧と王三昧) 
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947281488&owner_id=64170 

OSHO、無字の拈提について語る 
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947333990&owner_id=64170 

無字から隻手音声へ その3(OSHOのサトルボディ論の概要) 
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947307342&owner_id=64170 

無字から隻手音声へ その4(第四身体は、心の本源であり最後の住処) 
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947361137&owner_id=64170 

無字から隻手音声へ その5(マントラを用いる瞑想の危険性) 
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947414121&owner_id=64170 

無字から隻手音声へ その6(第四身体に共鳴するオームの響き) 
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947444837&owner_id=64170 

無字から隻手音声へ その7(第四身体は夢見と眠りに弱い) 
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947483898&owner_id=64170 

無字から隻手音声へ その8(第四身体における問いかけの必要性) 
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947506808&owner_id=64170 

無字から隻手音声へ その9(第四身体の静寂は究極のものではない) 
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947537883&owner_id=64170





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