祈りとは神に何かを言うことではなく、  神から何かを受け取ることだ。 | 覚醒のひかり

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縄文時代にゆるゆる瞑想をしていた、シャンタンこと宮井陸郎(1940.3.13-2022.3.17)のブログ
【地球は国境のない、一つのうつくしい平和な星です】
【いまここをトータルに生きる】
いろんな人の言の葉を、分かち合いたいと思いまあああああああす!
(貫井笑店)



 

 

 

osho 


それが喉のセンターにきたとき、それは祈りになる。 

人々は祈りを行っているが、彼らはなにが祈りなのかを知らない…… 

なぜなら、祈りは最も霊妙で、洗練された愛のかたちだからだ。 

もしあなたがハートのセンターを通って進まなかったら、 

祈りに達することはできない。 

道はない。 

人はハートを経由してゆかねばならない。 

というのも、喉のセンターのせいで、それが喉のセンターに存在し、 

喉のセンターで起こるために、人々は儀式をやりはじめたからだ。 

人々は祈りをつくった。彼らは主張する、彼らは何かを言う。 

しかし、ただ喉のセンターを使って神に何かを言うだけでは、 

祈っていることにはならない。 

祈りは喉のセンターに関係がある。 

しかし、それは言葉に表すこととしてではない。 

それはそのセンターにおける一つの体験だ。 

しかも、その体験は、子供が初めて母親の乳房を吸うときと、 

まったくよく似ている。 

あなたは、何かを言うのではなく、あなたは何かを受け取るのだ。 

祈りとは神に何かを言うことではなく、 
神から何かを受け取ることだ。 

神が母親に、母親の乳房になる。 
祈りは滋養だ。 
そう、それは喉のセンターに存在し、そこで起こる。 
というのも、喉のセンターは、受け取るセンターだからだ。 

子供は空気を吸わなければならないし、 
それは喉のセンターを通して起こるから、 
喉のセンターが機能を始める最初のセンターになる。 

そして、彼はミルクを吸わなければならない。 
それは喉のセンターを通して起こる。 

祈りとは、まさに空気を、活力を吸うようなものか、 
あるいは母親の乳房でミルクを吸うようなものだ。 

イエスが、こう言うのはそのためだ…… 
「幼子のようにならない限り、私の神の王国に入ることはできない」 
彼は喉のセンターについて言っている。 

しかし、キリスト教徒は完全にそれを見失ってしまった。 
彼は、再び幼子になって喉のセンターから生というエネルギーを 
再び吸い始めるようにと、象徴的に言っている。 

今度は、もちろんその乳房は眼に見えないし、ミルクも眼に見えない。 

あなたは祈っている人を見守ったことがあるだろう?  
……どんなに彼が恩恵に浴しているように見えることか。 

どんなに平和に満ちていることか、 
どんなに家庭的で、どんなにくつろいで見えることか。 

ミルクを吸っている幼子を見守るといい。 
その口に乳首をくわえたまま眠り込み、 
母親の乳房の上で安らいで、寝入っている……。 

その子供の顔を見守ると、 
それこそ喉のセンターに達し、 
祈りが生じたときの聖者の顔だ。 

祈りとは、あなたが神をどうにかすることではない。 
祈りとは、神があなたをどうにかするのをあなたが許すことだ。 

祈りは受容的なものだ。 

それはあなたの側の行為ではなく、 
受け身となって歓び迎え入れることだ。 

祈りは神に何かを言うことではない。 
逆に、神を聴き取ることだ。 

それは〈神〉の贈り物を受け取る用意ができていることだ。 

あなたには自分自身の考えがあり、自分自身の計画があるから、 
〈彼〉の贈り物を受け取るのはひじょうにむづかしい。 
あなたは〈彼〉に「これをやってください、そうしたら、 
わたしは幸福になるでしょう」と言い続け、正しい道を示し続ける。 

「人が提案し、神が棄却する」という格言がある。 
これはただただ愚かで、まったくもって馬鹿げている。 

実情はまさにその逆だ。 
「神が提案し、人間が棄却しつづけている」 

……なぜなら、あなたは自分自身の計画を持っているからだ。 
あなたは決して〈彼〉を聴き入れない。 

〈彼〉より自分の方が賢明だと考えている。 
あなたは〈彼〉に 
「これをやって、あれはやらないでください」と助言しつづける 

……それこそあなたが、祈りのなかでやっていることだ。 
本当の祈りは、深い謝恩と感謝以外にどんな助言もしない。 

それは神が注いでいるものならなんであろうとただ受け容れる。 
祈りとは、贈り物を受け取ることだ。 

しかし、それは喉のセンターで起こる、 

愛の最も高いかたちだ。 

そしてあなたがなおいっそう高くゆくと、 

そのときには第七のセンター、“サハスラーラ”で、 

サマーディが、究極のエクスタシーが起こる。 

そこでは探求者が探求のなかに失われ、 


そこではあなたがもう自分自身ではなく、 

そこでは神とあなたが境界を失って、一つになる。 


 



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