osho
ミラレパ(質問者の名前)。
トータルな受け入れという言葉自体、
その裏に、「非-受け入れ」が潜んでいる。
なぜ、トータルな受け入れが教えられてきたのか。
それは、人々がトータルな拒絶の中に生きてきたからだ。
自分に何が起ころうとも、人々はそこに必ず何か悪いものを見つける。
これは非常に大切なことだが、私たちのいわゆる宗教的な資質というのは、すべて反動だ。
人々が暴力的だと、私たちは反動を起こして、非暴力の哲学が生まれる。
暴力的な人間が、「それは良くない」と頭で理解し、努めて非暴力的になったとしても、その非暴力の中には同じ暴力的な姿勢がある。
そしてこれは普通の人々だけの話ではない。
非暴力の権化のようになったマハトマガンディーのような人でも、深く根ざした暴力性は一生涯つきまとった。
たとえばこんな話がある…
マハトマ・ガンディーは科学技術の産物にはすべて反対していた。
糸紡ぎ機以降はだ。
彼にとっては、糸紡ぎ機で歴史は止まっている。
いったいそれがどうして非暴力的なのか。
もし人類が糸紡ぎ機でストップしたら、世界の人口のほとんど一割は死ぬだろう。
もちろんガンディーは人類の一割が死ぬことを提唱しているわけではないが、結果的にはそうなる。
そして残った人々も飢餓と栄養失調になり、満足に住む場所もない。
そしてこうしたすべてが、非暴力という美名のもとに覆い隠されるのだ。
実際の生活上でもマハトマ・ガンディーは、どこにでもいるような暴力的な人間だった。
長男のハリダスは教育を受けたいと望んだが、ガンディーは西洋から来たものすべてに反対していた。
こうした姿勢はそれ自身が矛盾している。
慈しみのある人間の姿勢ではない。
慈しみのある人間、愛にあふれる人間にとっては、世界はひとつだ。
そして彼はハリダスに対して、こう語った。
「もし教育を受けたいなら、もう二度と私の前に顔を出すな」。
これが非暴力というものだろうか。
彼はハリダスに対して扉を閉ざした。
インドの伝統では、父親が死んだ時、その火葬の薪に火をつけるのは長男だ。
ハリダスにはそれが許されなかった。
それがガンディーの遺志だったからだ、
「生きていようが死んでいようが、ハリダスには何も許さない」。
いったいハリダスのどこが悪かったのか。
教育を受けたいと望んだだけだ!
ガンディーには狂信的な思想があった。
そして狂信的思想というのは、非暴力とは相容れないものだ。
たとえば、トイレ掃除はみんなの義務になっていた。
トイレ掃除といっても、西洋のトイレではない。
インドのトイレほど醜悪で汚いものはない。
彼は自分の妻に対しても、アシュラムのトイレ掃除に参加させようとした。
彼女はそれが嫌だった。
それで拒否した。
するとガンディーは言った、
「もし拒否するなら、
ここはあなたの家ではないし、私はあなたの夫ではない」。
このような姿勢は独裁的で、愛がなく、暴力的なものだ。
愛のある姿勢だとは言えない。
あるとき、ハリダスが駅の群衆に混じっていた。
ガンディーが汽車で通ることになっており、ハリダスは遠くから父や母の顔を見たいと思ったのだ。
近づくことができないからだ。
ハリダスが次の駅で待っていることを、ガンディーは取り巻きの人々から聞いた。
それでコンパートメントの窓やドアが全部閉じられた。
すすり泣く妻に向かってガンディーは言った、
「泣くのはやめなさい。泣くということは、私ではなくてハリダスのことを思っているということだ」
ハリダスがどんな罪を犯したというのか。
近代的な教育を受けたいと思っただけだ。
ガンディーの生涯をたどると、暴力的なことがたくさんある。
ところが非暴力の傘がすべてを覆ってしまう。
ミラレパは、「トータルな受け入れとは何か」と尋ねる。
覚えておくべき第一点。
受け入れとはトータルなものであり、
そうでなかったら受け入れではない。
「トータルな受け入れ」というのは、自分の無意識の中深くに何かを抑圧していて、それを抑圧するために力を尽くすということだ。
受け入れとは単純なものであり、自然なものであって、 決して何らかの主義主張から生じるものであってはいけない。
自分の理解から生じるべきものだ。
そうすれば受け入れにトータルも非トータルもなくなる。
よく見れば、受け入れか「非-受け入れ」かはわかるだろう。
しかし、「トータルな受け入れ」というのは、今まで深く追究されることがなかった。
なぜ「トータル」が強調されるのか。
それはつまり抑圧があるということだ。
あなたにはそれがわかっていない。
それで同じことがいろんなところで起こる。
トータルな節制とか、トータルな禁欲とか、トータルな明け渡しとか。
私はこのトータルという言葉が嫌いだ!
自分の普段の生活を見つめてごらん。
女性に対してこう言うだろうか、
「私はあなたをトータルに愛しています」と。
愛しているだけで十分だ。
トータル以上だ。
「私はあなたをトータルに愛しています」
と言い張るやいなや、疑惑が生じる。
トータルという偉大な言葉の裏に何かを隠そうとしている。
受け入れは美しい。
しかし「トータルな受け入れ」は違う。
受け入れというのは、自分自身の覚醒から現れるものであって、教えとか、経典とか、世界を徘徊するいわゆるマスターたちから現れるものではない。
それは自分自身の理解だ。
実際、それが自分自身の理解であるとき、受け入れという言葉でさえ無益になる。
今この瞬間、この静寂、木々の小鳥、陽光があなたに降り注ぐ…
そこに受け入れの問題があるだろうか。
それはただ起こっている。
決して理論的なマインドの訓練ではない。
あなたは別に強制的な訓練によってここに坐っているわけではない。
この途方もない静寂の中、あなたは何の努力もなく坐っている。
それはあまりに美しいため、ほんの少しの努力によっても破壊されてしまう。
別の言い方をするとこうだ。
あなたは努力して愛するだろうか。
努力して慈しむだろうか。
努力して生き、努力して呼吸するだろうか。
心臓の鼓動に努力はいるだろうか。
ちょうどこのように、生の全体が自然発生的な流れとなる。
あなたの感性、あなたの明晰さが、進むべき方向を決める。
しかしそこに努力はない。
なぜなら努力とは、自分が分割されているということだからだ。
自分の一部分はこちらの方向に向かい、別の部分は別の方向に向かう。
すると努力が現れる。
努力とともに生きるのは、分裂症的な人だ。
私の生活には何の努力もない。
そして、努力の人は決して存在と同調できない。
いったい誰と戦うのか。
努力とは戦いだ。
私はあなたに何の訓練も与えない。
何の戒律も与えない。
あなたがあなた自身になりさえすれば、私は満足だ。
あなたは今あるままで、完璧に美しい。
あなたがそれを理解さえすれば…。
木々は努力なぞしない。
小さな灌木は、小さいことであくまで満足している。
大きなレバノン杉は、自分の大きなことにあくまで満足している。
そこに比較はない。
灌木を見下ろして軽蔑したりしない。
それは灌木の自然な姿だ。
そのリラックスの中に、
影として、静かに、足音すらもなく、受け入れがやってくる。
貫井投稿