◆金スマ「大黒摩季・波瀾万丈、知られざる歌姫たちの物語」 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

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いつしか食べ歩きがライフワークになってしまった今日この頃。
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2023年12月に外食記事 4000号を達成しました。
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▼写真AC:これこれさん提供のフリー素材


大黒摩季が音楽と出会ったのは3歳の時。
母が買ってくれたピアノがきっかけ。
幼い頃からピアノに触れ育ったことで手に入れたのは、後のアーティスト人生で武器となる絶対音感。
中学ではバンドを組み、音楽に没頭。
大黒のもう一つの武器が発揮されました、後に日本中を魅力する、力強い「歌声」
高校生になる頃には、歌声を買われボーカルを担当し地元札幌では、その名を知られた存在になっていました。
16歳の頃にはエンペラーというグランドキャバレーで歌ったりして、プロ意識も高まっていました。

1988年高校卒業後、18歳で上京し音楽制作会社との運命的な出会い。
日本の音楽シーンで頭角を表し始めていたBeing。
まだ当時デビューしたばかりのB'zを始め、「夏のバンド」というイメージを定着させたTUBE、T-ボラン、WANDS、フィールドオブビューなど、1990年代の音楽業界を席巻していました。
多くの人気アーティストが所属するレコード会社でした。
大黒は20歳の時にそんなビーイング主催オーディションに参加すべくデモテープを送りました。
数日後、Beingからの連絡がありました。
しかし話は思いもよらぬ方向へ転がっていきました。
即デビューのつもりでいましたが、プロデューサーから耳を疑う言葉。
「コーラスでもやりながら、勉強したら。今の君みたいのはいっぱいいる。才能なんてないと思うよ」 
実はこの時、実力と歌声に目をつけられ、複数の音楽事務所からオファーをかけられ始めていた大黒。
にもかかわらず「才能がない」などの屈辱的な言葉。
「ただ、君に可能性は感じているよ。だから、バックコーラスしながら、勉強してみたら?」
他の会社に行った方がデビューは近いかもしれない、だが大黒はバックコーラスの道を選びました。
そこには、ある思いがありました。
東京に集まって来る実力者たちを見て「悔しいけどかっこいい」「私よりスゴイ人たちっているかもね」みたいのは気づき始めていたようです。
東京のレベルを目の当たりにし、まだまだ成長しなければならない、心の内を見透かされたような言葉でした。
育ててもらいたかった、という思いもあり、このプロデューサーに賭けてみようと感じていました。
こうして、バックコーラスとして活動スタート。
しかし、その道のりは想像以上に険しかった。
すごくしごかれました「声を出せるって言うのを、歌えるとは言わないんだよ」
その度に「チッ」と思いながら、「こいつら絶対ギャフンと言わせてやる」と思っていたようです。
ギャラ返して帰ったこともあったようです。
時代はバブル絶頂期、地道な下積み生活を続けていた大黒。
けれど、大黒の心が折れることはなかったです。
バックコーラスは最高のカルチャースクール、お金もらえて勉強できるんだから、1000円でも5000円でも、もらえて習えるなら良いと前向きに考えて、数多くこなしました。
するといつしか、名だたるアーティストたちから指名され、数々の名曲にコーラスとして参加するようになりました。
バックコーラスとして参加した名曲
 B'z『愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない』
 T-ボラン『じれったい愛』
 WANDS『世界が終わるまでは』
 中山美穂&WANDS『世界中の誰よりきっと』
 DEEN『翼を広げて』
 酒井法子『碧いうさぎ』
2年間の下積みを経験をして、1992年に22歳の時『STOP MOTION』で待望のデビュー。
周囲の期待とはうらはらに、売り上げは伸びませんでした。
「またバックコーラスやりながら、良いタイアップ来たら回すから」と言われバックコーラスに逆戻り。
3ヶ月後、2ndシングルはミリオンヒットを生み出すことに。
そのきっかけは思いがけない偶然でした。
面識のあったCMプロデューサーとバッタリ再会。
無茶な注文「明日大事なプレゼンなのに、ここ(beingの事務所)には使う曲がないって言われて。明日までに書いてくれない?」
起死回生のチャンスだと思い、引き受けることにしました。
持てる全ての力を注ぎ込み、一晩で作り上げたその曲が『DA・KA・RA』。カップラーメンのCMも大きな話題になり、105万枚を売り上げる大ヒット曲。
当時女性歌手はバラードな曲、そして爽やかな曲が多かった。
Beingには、ロック歌手が多かったから、被らないものにしたかったようです。
1993年は年間シングルランキング10曲のうち6曲がBeingの曲。

デビュー当時、ほとんどメディアを顔を出さなかった大黒は、1992年から5年テレビ出演なし。
さらに「大黒摩季は歌手担当、写真で顔を出すモデル担当、作詞・作曲担当とそれぞれ3人いる」「大黒摩季はコンピューターで作られたもので実在しない」という都市伝説まで存在しました。
女性ソロアーティストのシングル&アルバム 総売り上げは2273万枚で歴代8位。

大黒摩季・売り上げ上位5曲 トップ3はすべてミリオンヒット。
 1位 誰もがカラオケで大合唱
 『ら・ら・ら』133万枚
 2位 大人気アニメのエンディング
 『あなただけ見つめてる』123万枚
 3位 自身初のミリオンヒット
 『DA・KA・RA』105万枚
 4位 夏ソングの定番
 『夏が来る』
 5位情熱的な歌詞が人気
 『いちばん近くにいてね』86万枚

1995年2月20日にリリースされた10枚目のシングル『ら・ら・ら』。
ドラマ『味いちもんめ』の主題歌の依頼が来て、フォークっぽい温かめのバンドサウンドに決めました。
当時、「都会っぽさ」を前面に出した楽曲を作ってきたから、ちょっとノスタルジックな雰囲気をと。
ボブディランが「Wood Stock1994」で演奏したセッションを見て、イメージが浮びました。

大黒は坂井泉水のバックコーラスもやっていて、坂井を姉のように慕っていました。
1990年まだ下積みのコーラスの時代、2歳年上の坂井泉水を紹介されました。
(当時の坂井さんは)品が良くてキラキラしていたようです。
大黒が仮歌を担当していたのは、ZARDのデビュー曲『Goodbye My Lonelyness』で、ドラマのタイアップで20万枚のヒット。
坂井はいちやく人気アーティストの仲間入り。
坂井も大黒の歌声をとても気に入っていました。
坂井たっての希望もあり「字ハモは摩季ちゃんにお願い」
大黒はブレイク後もZARDのコーラスを担当していました。
『負けないで』も大黒はコーラスとして担当していたのだった。

スタジオ周辺には、メディアの記者が張り付いていました。
「ヘアゴムを買いに行きたい」との希望から内緒で近くのコンビニに。
後でスタッフから「坂井を連れ出すなんで言語道断」大目玉。
別の日「オープンカフェに行きたい」断ったけど、行くことにしました。
カフェで一緒に曲をコラボしたいと持ちかけられた。
帰ってやはり、スタッフから叱られた。
坂井を家に泊めたこともあるようです。
Beingは坂井を謎めいたままにしたく、メディアに出したくなったようです。

姉妹のような2人に残酷な現実が忍び寄ってきました。
大黒は26歳から闘病生活。
当時は子宮の周りにできる腫瘍を一切合切 “子宮内膜症” と呼んでいました。
大黒の場合は子宮内膜にも細胞が出来てしまって、子宮腺筋症、子宮内膜症、子宮筋腫、卵巣嚢腫、チョコレート嚢腫もあり、これらを併発していました。

大黒はダブルミリオン達成したシンデレラストーリーの先には、想像を絶する過酷な闘病生活が待っていました。
大黒の抱えていた病が見つかったきっかけはデビュー6年目での念願の初ライブが決定していた時でした。
ファンにとっては待望のライブでした。
初ライブを半年後に控えたころ、ある異変が彼女を襲いました。

たびたび下腹部を襲う痛みで歌うことができなくなっていました。
病院で検査を行ったところ、告げられた病気は「子宮内膜症」
坂井泉水や松浦亜弥もかかった病気で、症状が重い場合は、日常生活に支障をきたすと言います。
子宮筋腫や子宮内膜症を併発して深刻な状態にあったと言います。
10代の頃からひどい生理痛に襲われていた大黒。
生理中腰痛がひどくて、まっすぐ立てないこともあったそうです。
早いうちに治療に専念しないと、妊娠や出産に影響が出てしまいます。
さらに薬の副作用や治療の影響で、歌声に支障が出るかもしれません。
選択肢は、歌手を続けるか、病気を治すかの2つでした。
別に当時交際相手がいるわけではなかったが、家族は欲しかったから、すごく悩んだといいます。
どちらを選択するべきなのか、大黒には悩む時間も残っていませんでした。
売り出された4万7000枚のチケットは、わずか10分で完売していました。
そのステージのために、バンドはもちろん、1000人以上のスタッフが準備に追われていました。
突如襲う激しい痛みが走りましたが、周りには悟られないよう振る舞っていました。
病気のことは誰にも打ち明けていませんでした。
悩み抜いた末に、大黒が考えたのは「日本の医学をバカにしちゃいけない」未来に賭けてみることにし、治療を先送りにしました。
1997年(当時27歳)レインボースクエア有明特設ステージ。
謎のベールに包まれていた大黒のお披露目にファンは大興奮。
これを皮切りに全国ツアーもスタート。
病気を隠しながら歌う大黒に運命の転機が訪れました。
知人の紹介で出会った男性と恋におち、やがて2人の間には結婚の話も出ていました。
全てを伝える必要があった。
「98%子どもが生まれない」と告げると、交際相手は「2%あるじゃない」
2003年、33歳で結婚。
歌手活動を続けながら、不妊治療も開始することになりました。
だが、それには耐え難いほどの痛みが伴いました。

不妊治療で病気が悪化してしまいました。
妊娠を望めば病気が悪化。
不妊治療と投薬治療を繰り返した。
治療の結果、この頃のライブでは声も少し低くお腹に力が入らないため歌い方に変化。
ついに身体は悲鳴を上げました。
これまでにない激痛に襲われた大黒。
腹腔内炎症という病で、骨盤の中の全臓器が40度近い熱になっていた。
2010年に無期限活動停止。
その先に待っていたのは、さらなる過酷な闘病生活の6年でした。
大黒が女子たちにどうしても伝えたいのは、迷わず病院に行くこと。
病気の伏線を見逃さないことが大事だと。

大黒と同じく子宮の病で悩んでいたのが、坂井泉水。
2001年活動休止。
2006年子宮頸がんで入院。
40歳と言う若さでこの世を去るまで、闘病を続けていた。
大黒にとっても、喪失感が強かったようです。
奇しくも大黒のデビュー記念日で15周年のライブ中に亡くなった。
「私にとって太陽みたいな人。彼女は天才だと思う。学んで頑張れば天才に近づけると思って頑張ってきた。先に死なれると困るんです」

2人で約束した夢は果たせぬままでしたが、2022年2月10日にZARDのフィルムコンサートでゲストとして大黒摩季が出演。
坂井の歌に大黒がコーラスで合わせるという約20年ぶりのコラボが実現。

大黒は不妊治療に専念。
1回目の手術は、子宮温存で他を掃除。
妊娠を望む大黒は、子宮を残しながら悪い部分を取り除く手術を決断。
下腹部の腹筋は、大黒摩季の生命線である。
歌うための大切な腹筋にメスを入れた。
当時はこう覚悟していたと言う。「もう2度と大黒摩季に戻れないかもしれない・・・」
それほどまでに望んだ妊娠だったが、流産してしまった。
45歳の時、受精卵を凍結しアメリカでの代理母出産を選択。
自らの身体で産むことを諦めて、子宮の全摘出を決断したのでした。
「周りに言われたのではなくて、自分であるケリをつけたのが良かった」
自分が自分の子宮を見切ったこと。子供を守るために」

手術は成功し、12個の受精卵はアメリカへ。
20年以上付き合っていた痛みから解放されました。
命の縦の腹筋を横に切ってしまったから、強い声がもうでないから、作家で生きていこうと覚悟していました。
体力があり、結構復活してきて「いけるかもね」って話になったようです。
2016年8月、ライジングサン・ロックフェスティバル。
大黒は6年ぶりにライブで復活しました。
歌を届けられるほどに回復し、ファンを魅了。
しかし皮肉にも歌手活動を再会したツアー中、最も望んでいなかった知らせが届きました。
「代理出産、最後の受精卵も失敗」
その後、子どもを望んでいた夫と話し合いを重ね、それぞれ、別の道を進むことになりました。
自分で決めたから、悔いはない。
こうして再び歌手の道を歩み出した大黒摩季。
そんな彼女も2023年、歌手活動30周年を迎えました。
ずっと抱えていた気持ちにも整理がつきました。
それは、敬愛したあの人への想い、大黒のデビュー記念日の5月27日。
自身のホームページに「ファンの皆さんに尽くす日にしました」
たくさんの思いを力に変え、5月27日をファンともにむかえます。大好きな歌を歌い続けながら。
ライブは2時間半にも及ぶエネルギッシュなものだそうです。



前回の「ロック御三家」の記事はこちら(2019年8月2日)
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
http://ameblo.jp/miyacar/entry-12500046624.html

では、明日。