◆レジェンドの目撃者・野村克也 | ザ・外食記録 ~今日も閲覧ありがとう~

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2023年12月に外食記事 4000号を達成しました。
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▼写真AC:AGE-STUDIOさん提供のフリー素材


弱小チームであったヤクルトの監督に就任して、9年間
リーグ優勝4回、日本一に3回も導いた。
野村克也はどのようにして常勝軍団を作り上げたのか。

それまでのヤクルトは、投打が噛み合わず、Bクラスが定位置。
川崎憲次郎「和気あいあいとしてBクラスが当たり前。ファンを楽しませる魅せるプレーが中心。野手はホームランを狙っていたくらい」

1989年10月、野村がヤクルトの監督に就任。
毎晩ミーティングすると宣言。
高津「まるで講演会でした。選手はメモするのが大変でした」
選手たちに、人としての生き方を説いていた。
代名詞とも言えるID野球の基礎を叩き込んだ。
野村が求めたのは確率の高いプレーだった。

古田「根拠という言葉を良く使われた。笘篠選手は、バットを短く持てと言われたが、彼は頑固なため、反抗してスタメンを外された。僕は球場に行くのも嫌だった。また怒られるんじゃないかと思い、指イップスになってしまい、サインが出せない時期もありました」

1年目は5位と結果を残せなかった。
松井優典マネージャー(野村の右腕とまで言われ、野村の信頼が厚かった)「辞意を球団に伝えていたが、慰留されて、次の年にかけた。ID野球は一つの手段でしかなかった」
野村が目指したのは、人間力野球。
試合を行うのは選手であり、監督の一番の仕事は選手をどう教育するか。
試合が始まったら、監督は居眠りしていていいんだ。試合が終わって「監督終わりましたよ」で目を覚ます、これが野村さんの理想の野球。
自ら考えてプレーできる選手を育てようとしていた。
その教えは選手に浸透した。
主砲の池山は、野村就任後に三振が激減。
ショートして球界初のホームラン30本・3割打者として覚醒した。
2年目には、考える野球を叩き込まれた古田が、打率を1割アップし1991年首位打者を獲得。
この年ヤクルトは11年ぶりとなるAクラス入りを果たした。

さらに野村の講じた策は「適材適所」
野村は選手の適性を見抜き、驚くべきコンバートを行なっていた。
古田のスタメンで、前年まで正捕手だった秦真司を外野手にした。
捕手で入団した飯田哲也は走塁や肩が目立ったため
「代打に行くぞ」と言われ、ホームラン打った。
次の日から1番セカンドでスタメン。
ぶっつけ本番で、守ったこともないところを守ることになった。
1991年にセンターにコンバート。
すると飯田は、7年連続ゴールドグラブ賞を受賞。
球界を代表する名センターとなった。

監督就任3年目、選手たちは着実に成長し、1992年10月10日、14年ぶりとなるリーグ優勝を果たした。
野村は「1年目で種をまいて、2年目で水をまいて、3年目で花を咲かす」との宣言通りとなった。
翌年はセリーグ連覇。
その年の西武との日本シリーズでは、考える野球を象徴するシーンがあった。
第4戦の4回裏に、池山が得意な引っ張りではなく、ライトへフライを犠牲フライをあげて先制点をもたらした。
考える野球が浸透したこの年、15年ぶりに日本一に輝いた。
弱小チームを常勝軍団に変えたのだ。

古田「監督の熱い指導は今の時代には必要」
高津「キャンプでのミーティングでは、まず人間力・組織力の話。後半になり野球の話。ノートは今でも読み返して勉強になってます。古田捕手は投手に代わって怒られて、壁となってくれていました」
真中「若手やルーキーは無視、賞賛されているうちはまだまだ、非難されて一人前だと思え、と言われてました」
高津「マスコミに語ることは監督の作戦。発信の一部」

野村は、深いところの確率まで探っていった。
カウントの性質を説き、バッターとしてはどういう球を待てばいいか、バッテリーとしては、どういう球で攻めたらいいのかを考えていた。

真中「“ヤクルトはデータを取っているな” と先ず他チームは警戒する。しかし試合になったら自分の感覚・感性で進めて、困った時にデータを活用するスタイルなんです。私が監督になって、あまりにも全て野村さんから学んだことばかりだと、なんだあいつはと言われるだろうから、意識して自分の色を出すようにしていたんです」
高津「監督になった時にも、“頭を使え” とよく言われました。また、“最下位のチームなんだから頭を使えばなんとかなる” と良く言われました」

2. 現役時代が野村の原点
考える野球は選手時代に培われていた

広瀬淑功「22年間、南海で野村と苦楽を共にした。野村さんは考えて野球をやっていました」
江本孟紀はバッテリーを組んだ後輩「まず言われたのは、考えろと」

1954年、入団4年目ホームラン王。
三冠王にも輝き、39歳にしてパリーグ初の歴代2位となる657本塁打。
捕手でありながら金字塔を打ち立てた華々しい野球人生。

入団のいきさつはテスト生で契約金ゼロ。
ほとんど期待されていなかった。
1年目11打数ノーヒット、2年目1軍出場なし。
なぜ球界を代表する選手になれたのか、それは研究熱心だったから。
ミーティングにも分厚いノートを持ってきていた。
スコアブックに目をつけた。
投手の特徴、配球をデータとして分析して試合に臨み、相手を攻略していた。

鈴木啓示は12歳年下で、野村と15年間対戦した。
「オールスターでバッテリーを組んだ時に、“カーブはこれ、シンガーはこれ” とサインを示されたが、“野村さん、僕は直球した投げれませんよ” と言ってしまった。裸にされたようなもので、シーズン再開後は打たれてしまった」

福本豊は野村から何度も盗塁を成功していたが、ある時から状況が一変した。
野村さんから「いつも盗塁されるのは、俺の肩が悪いからか?」
福本「投手ですよ。モーションを盗まれたら、捕手がなんぼいい球げてもセーフですわ」
福本から情報を盗んだ野村は「小さいモーションでホームへ早く練習をせぇ」それをやっているうちに、クイックモーションと名前がついた。
世界の盗塁王の足を封じるために野村が生み出した。
ディレイドスチールやギャンブルスタートなど、新たな戦術を取り入れた。

さらに野村の戦略はこれだけにとどまらなかった。
ささやき戦術のおかげで、福本も調子良くても南海戦になったら打てなくなった。
「あまりにうるさいから、耳栓をしている選手もいましたわ」

1969年、34際の若さで監督就任
ドン・ブレイザー内野手をヘッドコーチとして招聘した。
市原稔通訳「メジャー最先端の技術である、シンキングベースボールを取り入れたかったから」
1塁にランナーがいる時、ショート、セカンドのどちらかが2塁にカバーする。その方向に打ったらヒットの確率が高くなる。
日本では馴染みのなかったシンキングベースボールを吸収し、選手たちに考える野球を徹底して教え込んだ。
キャンプでは「野村野球学校」があり、練習後にみっちり3時間。
ミーティングでテストも行われた。
今ではその教え子も次々と監督になり、幾度となく宙を舞った。
真中「キャンプ中は多くサインがあったものの、実際にゲーム中はサインはシンプルだった」

また、野村が与えた影響はプロ野球界にとどまらなかった。
社会人野球のシダックスで、3年間監督を務めた野村。
元シダックスの黒坂洋介「負けず嫌いの監督でした」
現在は母校の埼玉県昌平高校で監督を務めている。
「よく高校生には、野村さんの言葉にあった “知識で勝とう”、“豊富な知識はピンチを救う” 、 “自分自身のアイテムを増やせ” と、チャンスでもピンチでも冷静でいられるように雑学や知識を多く学ばせています」
野村の“考える野球” は、今やアマチュア野球界にも浸透しているのだ。

江本は「日本球界の長い歴史の中で、野球を変えた1人だ」
福本「本当に神様ですよね。近づけなった」
広瀬「野球界の中では最高の仲間やね」
鈴木啓示「ピッチャーにとって、ホームラン打たれるのは屈辱ですよ。野村さんの場合、ゆっくり走るからマウンドでの屈辱の時間が長い。攻略したくて、アウトコース低めに投げられるようになりました。打たれて勉強になりました」

高津「日本のプロ野球界を変え、後輩をたくさん育ててきた」

野村の愛弟子たちが、アマチュアを含む野球界で良き指導者となっている。

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長い現役生活でしたが、どのテレビ局にもパ・リーグの映像はあまり残ってないと聞いたことがあります。
南海とのケンカ別れなどもあり、残念な面もありました。
本当のことはわかりませんが、沙知代夫人が介入したという説もあります。
今回の番組も、江夏豊さんが出てくれなかったのも残念。
野村さんが、阪神からトレードで入ってくる江夏さんに「これから抑えが重要になる。革命を起こしてみないか」と言って江夏さんをリリーフ転向に成功したというエピソードもあるようです。


前回の「レジェンドの目撃者:山田久志」の記事はこちら(2021年11月22日)
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http://ameblo.jp/miyacar/entry-12710843756.html

では、明日。